その日、俺は一時間目が終わってすぐに早退した。
授業を受けていても集中出来るわけがなく腹も痛くなってきた。
それに、昼休みになればきっとまた天海が俺を昼飯に誘いに来てくれるだろう。そう思うと学校にいられなかった。
「ただいま」
この時間帰宅しても誰もいないけれど、玄関に入りいつもの癖でそう口に出ていた。
俺は自室で部屋着に着替えそのままベッドに横になった。
(また一人に戻るだけたし、そっちの方が楽だし、別になんてことないし……)
目を瞑り、そう自分に言い聞かせる。
友達と言ってくれた天海には申し訳ないけれど、やっぱりお前と友達にはなれないと言わなければならない。
「……そんなの、言えるわけないだろ」
そうひとり呟いて、俺は現実から逃げるように無理やりに眠った。
それからどのくらい経っただろう。
ポコンという通知音で俺は目を覚ました。
スマホを手に取り画面を見てどきりとする。天海からのメッセージだ。
アプリを開かなくてもわかる、表示されていた短いメッセージは俺を心配する内容だった。
『早退したって聞きました。大丈夫ですか?』
きゅうと胸が苦しくなる。
いつものように教室に俺を呼びに来て誰かから俺が早退したことを聞いたのだろう。
返信するか少しの間迷って、俺は結局既読にもしないままスマホを枕元に置き再び目を閉じた。
(ごめん、天海……)
返信したら、また彼の優しさに甘えることになってしまう気がした。
少し離れれば彼もきっとすぐに気付くだろう。
自分の居場所は、俺の隣なんかではなかったことに。
だから、こんなに苦しいのは今だけだ。
――その日から、俺は徹底的に彼を避けるようになった。
朝は一本早い電車にずらし、念の為車両も変えた。昼休みと放課後は彼が来る前に教室から離れた。
メッセージはあれからも何度か届いていたが全て無視していたし通知も切った。
ここまですれば天海だって俺が避けていることに気がつくはずだ。
心は痛むけれど、きっと3日もすれば俺の元にやって来ることもなくなるだろう。
あいつには元々友達がたくさんいるはずだし、その友達といた方が良いに決まっている。
全てが、元に戻るだけだ。
俺には今『月灯』の存在がある。
現実の『森光輝』は暗い闇の底にいても『月灯』は相変わらずキラキラと輝いていて、その存在に今、俺自身が助けられていた。
「ありがとな」
「え?」
美月の部屋で例のオリジナル曲について話し合っている最中、ふと感謝の言葉が零れていた。
「『月灯』を創ってくれて」
今の正直な気持ちを口にしただけなのに、美月は思いっきり怪訝な顔をした。
「いきなり何言ってんのお兄。キっショいんだけど」
「いや、キショいはないだろ」
俺は苦笑してからクリーム色のカーペットの上に正座し続ける。
「現実の俺は相変わらずダメダメだけどさ、『月灯』のお蔭で少し自信がついたというか、救われてるっていうか。とにかく、感謝してる」
すると、美月は流石に照れたのか俺から視線を逸らし『月灯』の動画が流れているPC画面を見た。
「ていうか、『月灯』はお兄でしょ」
「え?」
「自分の声なんだから。結局は自分に救われてるってことじゃないの?」
ぶっきらぼうに言われて、俺は目を大きくした。
(自分に救われてる、か……)
でも、やっぱり俺には美月のお陰に思えた。
俺ひとりだったら『月灯』は存在しなかったのだから。
と、話題を変えるように美月は言った。
「そういえばお兄、最近晴翔くんとはどう?」
「えっ」
ドキリとする。
「あ、えーと……」
視線を泳がせ言葉を濁していると怖い顔で美月が睨んできた。
「まさか、もう友達じゃないとか言わないよね?」
「や、その、まさかというか……」
「は!? なんで!? あんなに仲良かったのに!? じゃあ何、もう晴翔くんがウチに来ることは永遠にないってこと!?」
唾が飛んでくる勢いで問われて、俺は頷きそのまま俯いた。
「元々、あいつと俺が友達ってのがおかしかったんだ。お前だってそう思っただろ? ……天海は俺なんかと一緒にいたらダメなんだよ」
「……お兄、何かあったの?」
「え?」
顔を上げると、美月がまた怖い顔をしていた。怖いけれど、その目は頗る真剣で。
その目から俺は逃げられなかった。
「はぁ!? 何それ信じらんない! そんな誰が書いたのかもわからないもんにお兄は従っちゃうわけ!?」
「誰が書いたのかはわからないけど、誰かはそう思ってたってことだろ」
美月がデカい溜息を吐く。
「そんなの、たまに来るアンチコメと一緒じゃん。気にしたら負けだって」
「違う。全然……」
ネット上と現実とじゃ全然違う。
それに『月灯』はそれ以上の好意的なコメントのお陰でなんとか気にせずにいられる。
でも俺自身にはそれがない。なさ過ぎて、ただただ深く抉られていくだけだ。
「でも、晴翔くんはお兄のこと友達だって言ってくれたんでしょ?」
小さく頷く。
「あいつは優しいから、俺なんかのことも友達って言ってくれてたんだと思う」
「そんな優しい晴翔くんを、お兄はそんな簡単に捨てちゃうの?」
ズキンっと胸が痛む。
「捨てちゃうって、言い方……」
「そういうことでしょ。たかが紙切れ一枚で、お兄は友達をぽいってひとり捨てるんだよ」
ぐっと膝の上で拳を握りしめる。
「……俺ひとりいなくなったところで、あいつは痛くも痒くもないだろ。もっとあいつに相応しい友達がたくさんいるに決まってる」
「相応しい友達って何? そんなこと言うならさ、お兄が変わればいいんじゃないの?」
「え?」
「お兄が、晴翔くんの隣にいても誰にも何も言われないように変わればいいんじゃないの?」
「そんなこと出来るわけ……」
美月が苛ついたようにもう一度溜息を漏らす。
「昔っから思ってたんだけど、お兄はさ、元はそんなに悪くないの。そんな分厚いメガネ外して、髪ちゃんと整えて、しっかり顔上げて笑えば、どこにでもいるフツメンだって」
かくんと肩が落ちる。
(そこは、もう少し上げるとこじゃないのかよ……)
そう心の中で突っ込んでから、いや、と俺は首を振る。
「ただのフツメンになったって、あいつの友達には相応しくないだろ」
「じゃあ、どんな人だったら晴翔くんの友達に相応しいわけ」
「それは……例えば、同じようなインフルエンサーとか……」
「じゃあさ、『月灯』とだったら?」
「え?」
「月灯と晴翔くんだったらどう? 相応しい関係だって思える?」
「それ、は……」
そんなこと、考えたこともなかった。
でも確かに俺よりはまだ有名な『月灯』の方が天海に相応しいかもしれない。
「俺よりは、相応しい、かも」
ぼそぼそと答えた途端、「ああ〜~!」 と美月が大きな声を上げてぎょっとする。
「もうダメ、イライラする。お兄、晴翔くんと仲直りするまで『月灯』の活動は休止ね」
「は?」
「お兄がそこまでバカだとは思わなかった。はっきり言って見損なった」
「美月?」
「もう出てって」
言うなり、美月は椅子から立ち上がり戸惑う俺の背中を強く押しやった。
廊下に追い出され、
「晴翔くんと仲直りするまで話しかけてこないで」
そしてバンっと目の前でドアが閉まった。
「なんだよ、それ……」
俺は廊下でひとり項垂れた。
――『月灯』までいなくなってしまったら、俺には何もなくなってしまうのに……。
***
あれから一週間ほどが過ぎた。
美月はこちらを見向きもしないし話しかけても完全に無視。
美月が何をそんなに怒っているのか俺にはわからなかった。
(今更、天海と仲直りなんて出来るわけないだろ……)
天海は俺の存在なんてもうとっくに忘れているだろう。
それでも前と同じ電車にはもう乗れなくなったし、昼休みになれば弁当を持ってすぐに教室を抜け出していた。
最近のお気に入りは体育館裏の外階段だ。そろそろ風が冷たい季節だが、その分人気がなくて落ち着く。
今日も階段の中ほどに腰を下ろし、ひとり弁当を広げようとした、そのときだった。
「やっと見つけた」
「!?」
階段下に突然、天海が現れた。
見たことのない形相をしているせいで一瞬誰だかわからなかった。
それほどに天海は怒っていた。
(なんで……っ)
本能的に俺は逃げなければと思った。
慌てて弁当を持って立ち上がり上に逃げようとして、しかし間に合わなかった。
ガンっと音を立てて長い腕に行く手を阻まれた。
(これ、壁ドンとかいうやつ……?)
尻餅を着くように再び階段に腰を下ろしながら妙に冷静な頭でそんなことを考えていた。
天海が手を着いているのは壁ではなく階段の鉄柵だけど。
よく壁ドンを胸キュンなシチュエーションなんて言うが、キュンなんか1ミリもしない。怖いという感想しかない。
ごくりと喉を鳴らし恐る恐る天海の方を見ると、彼は俯き別人のような低い声で言った。
「なんで避けるんですか」
「……さ、避けてなんて」
「メッセージは完無視、電車も変えて、昼も放課後もいない。これで避けてないって本気で言ってます?」
何も返せずにいると、天海は俯いたまま続けた。
「俺が、コクったからですか?」
「え?」
――コクった?
今そう聞こえた気がした。
「コクった」とは「告白した」という意味のはず。
何か天海から告白されただろうか?
特に思い当たらずに困惑していると、彼は続けた。
「でも、先輩も俺のこと好きって言ってくれましたよね?」
――好き?
そして、俺はあのときの会話を思い出した。
俺がどん底にまで突き落とされたあの日、あの直前の天海とのやりとりだ。
『コウ先輩は、俺のこと好きです?』
『そ、そりゃ、好きだけど』
『良かった。じゃあ俺たち両想いですね』
――え?
「あれは嘘だったんですか?」



