「所詮、アリが神に抗うようなものだ!」

 幼児はスッと腕を上げ、斜め上を見上げる――――。

「止めろ! 何をする気だ!」

 マオは幼児が視線を向けた方向へ、震えながら目を向ける。

 そこには、銀河の大河が悠然と流れていた。

 無数の星々が織りなす永遠の光の川。それは創世以来変わらぬ美しさで輝いていたはずなのに――。

 突然、その星々の像が、まるで水面に投げられた石のように、ゆらりと歪んだ。

「へ?」

 何かが、来る――――。

 何か、想像を絶するほど巨大なものが。

 そして――。

 いきなりそれは現れた。

 碧い燐光を纏った、神話すら超越した存在がゆったりと、しかし逃れようのない速さで近づいてくる。

 それは、雪の結晶のように美しい幾何学的構造を持つマンタのような生命体だった。

 透明な身体は内側から青白く、まるで冷たい炎のように輝いている。巨大な翼を優雅に、そして不気味にゆらめかせながら、虚空を泳いでくる。

 その大きさは――数十キロメートル? いや、もっと巨大だ。

 人間の理解を完全に超越した、宇宙的な規模の超常の存在。

「清算者……宙祇(アポストル)タイプXB」

 幼児が、まるで死刑執行人が罪人の名を読み上げるような、感情のない声で告げる。

「クリスタルマンタの系列だねぇ……美しいだろう?」

「えっ!?」

 マオの全身が原始的な恐怖で壊れた人形のようにがたがたと震えた。

 これが――世界を消す者。

 宇宙の清算者。

 逃れようのない、絶対的な死の使者――。

 宙祇(アポストル)は、巨大な翼を一度、まるで最後の審判を告げるかのように、ゆったりと羽ばたかせた。

 その一振りで、周囲の星々の光が歪む。

 そして――。

 流星を超える速度で、海王星へと墜ちていく。

 くっ!

 マオは本能に突き動かされるように、虚空を蹴って飛び出した。

「無駄だよ。キミには止められない」

 幼児の声は、墓石のように冷たい。

「黙ってろ!」

 マオは苦悶に顔を歪ませながら、宙祇(アポストル)の進路へと必死に急行すると、全身の魔力を限界まで圧縮し、振り絞った――。

紅蓮煉獄覇(ファイナル・デトネーション)!!」

 宇宙の闇を切り裂く、太陽のような炎の奔流。

 それは五百年の魔王人生で編み出した、最強の破壊魔法。

 しかし――。

 宙祇(アポストル)は、まるで春風を受けるかのように、その灼熱の業火を貫いて海王星へと落ちていく。

「ば、馬鹿な……」

 マオは愕然とした。全身から力が抜けていく。

 あの凄まじい火炎すら、宙祇(アポストル)には蚊が刺したほどの影響も与えなかったのだ。

「カッカッカ! 無駄だと言っただろう?」

 幼児は愉快そうに顔を高速で変えながら、マオの後ろで嗤う。

「お前の力など、宇宙にとっては塵以下だ」

 くっ!

 止めねばならない。

 止めなければ――忠誠を誓ってくれた部下たち。配信で応援してくれた人間たち。奇妙な友情を育んだ聖女。すべてが、すべてが消えてしまう。

 自分がふがいないために。自分が無力なために。

「止める……」

 マオはキュッと口を結ぶと、指先に覚悟の光を纏わせた。

 そして――。

 ズブッ!と、自分の胸を、容赦なく貫いた。

「ぐぉぉぉぉ!」

 激痛が全身を焼く。血が、ピンクのドレスを真紅に染めていく。

 苦悶の表情を浮かべながら、震える手で自分の肋骨を掴む。そして――。

 バキッ!

 骨が折れる、湿った音が虚空に響いた。

 白く輝く肋骨を、血にまみれた手で天に掲げる。魔王の五百年にわたる魔力を浴び続けたろっ骨はもはやアーティファクトと化している。まさに身を削る攻撃だった――――。

「ほう? これはまた……驚いた」

 幼児の目が、初めて真剣な光を宿した。

「ク……」

 マオは血を吐きながら、震える声で呪文を紡ぐ。

魔骸磔刑(クルシフィクション)!」

 折れた肋骨に、残された全ての魔力を注ぎ込む。骨が、まるで星のように白く輝き始めた。

「喰らえ!」

 宙祇(アポストル)へと投げられたろっ骨――一瞬、紫の稲妻が虚空を裂いた。

 次の瞬間、骨は漆黒の球体へと変化していく――。

 パリパリと漆黒の球体の周りにスパークが舞った直後だった。

 パウッ!

 闇よりも深い黒のエネルギー波が、鋭いビームとなって宙祇(アポストル)へと放たれた。

 ピシッ!

 クリスタルの体表を、黒い光が貫通する。

「おほっ!? これはこれは……」

 幼児が心底驚いたように目を見開く。

 クリスタルマンタは、穴を中心に亀裂が蜘蛛の巣のように全身に広がり――まるで悪夢が覚めるように、粉々に砕け散った。

 キラキラと、雪のように舞い散る結晶の破片。

 マオは苦しそうに、血が溢れ続ける胸の傷口を押さえながら、荒い息を漏らす。視界が、赤く霞んでいく。

「いやいや、なかなか」

 幼児は顔を高速に次々と変えながら拍手をし、楽しげに笑った。

「キミのことを過小評価していたようだ……では、次行ってみよう!」

 指をパチンと鳴らす。その音が、死刑宣告のように星々の輝く虚空に響きわたった。