「な、なんでそんなものがここに……」

 美しい顔が、まるで死神を見たかのように青ざめていく。

「くっ、あの糞野郎め……。あれほど『片付けろ』って言ったのに!」

 シアンが初めて見せる、本物の焦燥。美しい顔が、怒りと焦燥で歪む。

「この魔道具が、そんなに恐ろしいのか……?」

 マオの唇に、獰猛な笑みが浮かんだ。魔王の本性が、牙を剥く。

 初めて見たシアンの焦り。この黒い板に、逆転の鍵が隠されているに違いない。

「お、恐ろしくなんて無いよ! それはiPhoneというアーティファクトなの!」

 シアンの声が裏返った。

「うちのスタッフの物だから、今すぐこっちによこしなさい!」

 平静を装ってはいるものの、額に脂汗が浮かび、その碧眼には、今まで見たことのない動揺が宿っていた。

「嫌だと……言ったら?」

 マオは挑発的にニヤリと笑った。この切り札【iPhone】という神器を、まるで赤子のように胸に抱きしめる。

「なら……」

 シアンは大きく息を吸い込んだ。碧眼が、狂気の光を放つ。

「奪うまでよ!」

 目に見えぬ速さで手を伸ばすシアンだったが、間一髪身をかわすマオ。

「おっとぉ!」

 マオは瞬時に踵を返し、研究室の奥へと疾風のように駆け込んだ。

 タンタタン……タッ!

 限界を超えた速度で疾走するマオ。曲がり角では壁を蹴り、階段を飛ぶように駆け上がり、必死に――命懸けで逃げた。

 だが――。

 ドガッ! ガンッ! ドガンッ!

 背後で壁が次々と爆砕される轟音。シアンは最短距離を選び、壁を天井を貫通しながら追跡してくる。

「返せぇぇぇ!」

 今までの余裕は完全に消え失せた、必死の叫び。

 そして、ついに――。

 行き止まり。

 マオの前に巨大な石壁が立ちはだかる。

 くっ!?

 マオは辺りを見回したが、逃げ場は見つからない。

「はい! もう、おしまい!」

 追いついたシアンがゆっくりと近づいてくる。完璧な美貌に汗が光り、息も荒い。iPhoneの存在が、創造主たる彼女をここまで追い詰めたのだ。

「ダメよ? それはこの世界にあっていいような物じゃないのよ? いい子ね……」

 まるで駄々をこねる幼児をあやすような、しかし底知れぬ威圧を秘めた声で、腕を差し出してくる。

「それを、渡しなさい……」

 にこやかな表情だったが、碧眼は笑っていない。

 マオは冷たい石壁に背中を預けながら、iPhoneの画面を見下ろした。

【緊急退避用】

 赤いボタンが、運命を告げるように点滅している。

(これに賭けるしか……!)

 震える指が、ボタンへと伸びる。

「何すんの! 止めなさい!!」

 シアンの声が裏返った。

 目にも止まらぬ速度で、iPhoneへと手を伸ばすシアン。

 だが、マオの指が、一瞬早くアイコンに触れた――――。

 ヴゥゥゥゥンッ!

 世界が震えるような、不気味な電子音が空間を満たす。

 そして――。

 世界が――割れた。

 ビシィ! という音とともに空間に大きな亀裂が走る――――。

 うわぁぁぁ!

 マオはその未曽有の事態に慌てて逃げようとするが、次から次へと亀裂は広がっていくばかり。逃げ場などもうなかった。

「くわぁぁ! しまったぁぁ!」

 シアンの絶叫が、次元の狭間に響く。

 割れ目の向こうに、見たこともない世界が広がった。

 ガラスと鉄で築かれた、天を貫く巨大な塔の群れ。

 空を行き交う、巨大な鉄の鳥。

 地平線まで埋め尽くす、無数の光の河――。

 それは、神々の世界か、それとも地獄か。

 刹那、二人の身体が重力から解放され、その未知なる時空の裂け目へと呑み込まれていった。


        ◇


「ぐはっ!」

 マオの身体が、硬い地面に叩きつけられた。

 ゴロゴロゴロと、ピンクのドレスが黒い地面の上を無様に転がる。石畳とは違う、妙に滑らかで硬い感触。

 パッパァァァァァ!!

 耳をつんざくような音が響き渡った。

 へっ!?

 目の前に、白い金属の塊が迫ってくる。四つの車輪、ガラスの窓、そして眩しいほどの光を放つ二つの目――。

 キキィィィィッ!

 純白のBMWが、タイヤを軋ませながら急停車した。マオの鼻先、わずか数センチのところで。

「うわぁぁぁ! な、何だこれは!?」

 マオは反射的に横へ飛び退く。

 だが――。

 ブォォォォン!

 今度は黒いレクサスが、猛スピードで突っ込んでくる。

 パァァァァァ!!

 またもクラクションが怒りを表すように鳴り響く。運転手の罵声が、ガラス越しに聞こえた。

「ちっ!」

 マオは身を捻って避ける。五百年の戦闘経験も、この鉄の獣たちの動きを予測することはできなかった。

 そして――。

 カチッ。

 何かが変わった。

 歩行者信号が、赤から青へ。

 次の瞬間、津波のような人の群れが、四方八方から押し寄せてきた。