「リンゴも、速く皮を剥きすぎると反応が遅れるんじゃな。カッカッカ!」

 老人は楽しそうに笑った。

「え? じゃあ、あの一瞬で……皮を剥いた……ってこと?」

 青年は震える声で言った。

「そういうことじゃ」

 老人はナイフを置いた。刃には、リンゴの汁が一滴も付いていない。

「あのお嬢ちゃんだったら見切っておったはずじゃ。お主じゃ無理ということじゃな。ワシが参加してこよう」

「ちぇっ……」

 青年は悔しそうに唇を噛んだ。

「でも、師匠の本気、早く見てみたいな!」

「お主に見えるかな? カッカッカ!」

 老人は愉快そうに笑った。

 久しぶりの本物の戦い。

 老剣豪の血が、五十年ぶりに沸き立っていた。

(小娘よ、覚悟しておけ)

 窓の外を見つめながら、老人はリンゴをパリッとかじった。

(剣の道が、どれほど厳しいものか……この剣聖【幻影の剣閃(ファントム・ブレイド)リゲル】が身をもって教えてやる!)


        ◇


 ポンポンポン!

 教国の郊外、月骸の(ムーンレス)聖壇(レクイエム)の上空に、花火が打ち上がる。

 普段は忘れ去られたような寂れたダンジョンが、今日ばかりは大陸最大の祭典会場と化していた。

「すげぇ人だ……」「うわぁ、どんだけ集まってんだ……?」

 誰もがその様子に圧倒される。

 入り口から見渡す限り、人、人、人。冒険者、商人、観光客、そして各国から派遣された密偵たち。その数、数万人。

 ゲートには巨大な横断幕が風にはためく――『美少女剣士マオ討伐特別企画 賞金百万ゴールド!』

 金色の文字が、朝日を受けてギラギラと輝いている。

「百万だぜ、百万!」

 若い冒険者が興奮気味に叫ぶ。

「俺の村なら、全員が一生遊んで暮らせる金額だ!」

 屋台が所狭しと並び、肉を焼く煙と、酒の匂いが充満している。『マオちゃん焼き』という名の謎の串焼き、『魔王の血』と称する真っ赤なカクテル。商魂たくましい商人たちが、声を張り上げて客を呼び込んでいた。

 奥には巨大な魔導スクリーンが設置され、パブリックビューイングの準備が整っている。すでに良い席を確保しようと、朝から場所取りの争いが始まっていた。

「見ろよ、あれ」

 誰かが指差す先には、銀の鎧に身を包んだ一団がいた。

「『白銀の牙(シルバーファング)』だ……Aランクパーティが来てるぞ!」

 ざわめきが広がる。

「あっちは『紅蓮の翼(クリムゾンウィング)』じゃないか?」

「マジかよ、大陸トップクラスが集結してる」

 冒険者たちは、最後のブリーフィングに余念がない。剣の切れ味を確認し、鎧を締め直し、魔法の詠唱を確認する。その表情は、まるで戦争に赴く兵士のように真剣だった。

 何しろ、百万ゴールド――――。

 一攫千金を夢見る新人から、引退資金を狙うベテランまで。今日という日に、人生の全てを賭けている者も少なくなかった。

「おい、見ろ」

 誰かが小声で囁く。

「王国騎士団の紋章だ……」

 確かに、物陰で正規軍の鎧を着た者たちが何かを相談している。腕試しか、それとも国家としての情報収集か。その真意は分からないが、会場の空気は一層緊張感を増していた。

 そんな中、一人の老人が人込みに圧倒されながら青年とともに受付を目指す――――。

「いやぁ、たまげたわい。凄い人じゃ……」

「でも、一番強いのは師匠ですからね! 百万ゴールド、何に使おうかなぁ……」

「バカモン! 金の話はするな、意地汚いぞ!」

「でも、もらうんでしょ?」

「そりゃ、くれるものは何でも貰うわい! カッカッカ!」

 老人は楽しそうに笑った。


  ◇


 控室――――。

 マオは優雅にお茶を啜っていた。外の熱狂とは対照的に、静かな時間が流れている。

「そろそろ、時間ですよ? 行きましょう!」

 リリィが元気よく声をかける。

「……はぁ」

 マオは深いため息をついて、面倒くさそうに腰を上げた。まるで、町内会の草むしりに行くような疲れ切った顔だ。

「あなた、頑張ってきてね?」

 聖女エリザベータが、パチリとウインクをする。先日の夜の出来事をどこまで覚えているのか分からないが、上機嫌だ。

「うむ……」

 マオは渋い顔で頷いた。

(世界の半分を支配する余が、なぜこんな茶番を……)

 内心で毒づく。百人だろうが千人だろうが、冒険者どもなど指一本で全員消し飛ばせるというのに――――。

「まぁ、負けることは……ないと思いますケド? ふふっ」

 聖女が含み笑いを浮かべる。その瞳には、共犯者のような輝きが宿っていた。

「こちらで凱旋をお待ちしてますわ。くふふふ」

 楽しそうに笑う聖女。

 マオはチラッとそんな聖女に目をやり。またため息をついた。

 あの夜以来、彼女はやたらとマオに絡んでくる。

 魔王城での出来事は、お互いに口外できない究極の秘密。それが二人を、奇妙な共犯関係で結びつけていた。

「じゃあ、いってらっしゃい♪」

 聖女が手をひらひらと振る。まるで、夫を送り出す妻のような仕草だった。

 はぁぁぁ……。

 マオは大きくため息をつくと背を向け、重い足取りで歩き始めた。