枢機卿猊下(すうききょうげいか)! 一大事でございます!!」

 バン! と、重厚な扉が勢いよく開かれ、法衣を纏った若い情報局員が転がり込むように飛び込んできた。

「なんだ、騒々しい! ノックの作法も忘れたか!」

 枢機卿ガブリエルは、山のような書類から顔を上げ、眉をひそめた。

 七十を超える老体だが、鷹のような鋭い眼光は衰えていない。アークライト教国の実質的な最高権力者である。

「ゆ、勇者が……勇者レオンが戦っております!」

「なに!?」

 ガブリエルの顔が一瞬で青ざめた。

(まさか、魔王軍が動いたのか!? 五十年の平和が、ついに終わるというのか!?)

 震える手で杖を掴み、立ち上がる。

「敵は……敵は魔王ゼノヴィアスか!?」

「い、いえ、それが……」

 局員が困惑した表情を見せる。

「魔王などではなく、配信を始めて二日目の、新人冒険者の少女と……」

 ――――まぁ、ゼノヴィアスなのだが。

「は?」

 ガブリエルが呆けたような声を出した。

「何を馬鹿なことを……勇者が新人と戦う理由など……」

「と、とにかくこれをご覧ください!」

 局員は懐から水晶玉を取り出し、震える手でテーブルに置いた。

 パァァァ……。

 青白い光が立ち上がり、空中に映像が投影される。

『おーっと! マオ選手、勇者様の十六連撃を全て捌きました! まさか人類最強相手に、ここまでやれるとは……!』

 興奮したサキサカの実況が響く。

 画面には――。

 ピンクのフリルドレスを纏った銀髪の少女が、勇者の猛攻を軽やかに捌いている姿が映っていた。

『マオちゃんは勇者様に勝てそうですか?』

『うーん、どうでしょうね……単純な剣技なら互角のようにも見えますが……』

 サキサカは歯切れ悪く首をかしげる。

『勇者様には神の(ディヴァイン)恩寵(・グレイス)がありますからね』

神の(ディヴァイン)恩寵(・グレイス)……ですか?』

『はい! 神に選ばれし者だけが持つ、究極の力です! その詳細は我々一般人には知らされていませんが、まさに奇跡を起こす力だと聞きます!』

『なるほど、つまり一般人には決して勝てない……と』

『その通りです! だからこそ勇者様は人類の希望なんです!』

 ガブリエルは、食い入るように画面を見つめた。

 少女の動きは、明らかに人間の領域を超えていた。残像すら見えない速度で動き、聖剣の軌道を完璧に読み切っている。

「この娘……ただ者ではないな……」

 呟いた声は、震えていた。

「枢機卿猊下、彼女の武器をご覧ください」

「武器?」

 ガブリエルは目を凝らした。そして――。

「……は?」

 絶句した。

「こ、これは……ただの……棒?」

「ヒノキの棒です。市場で三ゴールドで売っている、最低ランクの武器です」

「馬鹿な!」

 ガブリエルが杖で床を叩いた。

「三ゴールドの棒で、伝説の聖剣と渡り合っているだと!?」

「はい。しかも、押し負けていません。いえ、むしろ余裕……にすら見えます」

 ガブリエルの瞳が、獲物を見つけた猛禽のように輝いた。

「彼女だ!」

 ドン!

 両手を机に叩きつける。

「彼女をスカウトせよ! 今すぐにだ!!」

「えっ!? ス、スカウト……でございますか?」

 局員が目を丸くする。

「そうだ! 金はいくらかけても構わん! 土地でも爵位でも、望むものは何でも与えよ!」

 ガブリエルの声が、興奮で上ずっていく。

「何としてでも、我が教国のシンボルになってもらうのだ!」

「し、しかし猊下、彼女の素性も調べずに……」

「愚か者!!」

 ガブリエルが咆哮した。

「そんな悠長なことをしている暇があるか! 王国に取られたらどうする!? 帝国に引き抜かれたらどうする!?」

 老体とは思えない勢いで、局員に詰め寄る。

「分かっているのか!? 我が国は瀕死なのだぞ! 国庫は空、民は疲弊し、若者は王国へ流出している!」

 その瞳には、狂気にも似た焦燥が宿っていた。

「この少女こそ、神が我らに与えた最後のチャンスかもしれん! 若い! 美しい! そして恐ろしく強い!」

 震える手で、空中の映像を指差す。

「見ろ! 視聴者数はもう七万を超えている! 世界中が彼女に注目しているのだ!」

「は、はい……」

「彼女を手に入れた国が、次の時代の覇権を握る。分かるか? 一刻を争うのだ!」

 ガブリエルは杖を振り上げた。

「特使団を編成せよ! 最高位の外交官を派遣し、聖女エリザベータ様の親書も用意しろ! 移動は最速の飛竜で! 今すぐだ!!」

「かっ、かしこまりました!!」

 局員は深々と頭を下げ、弾かれたように部屋を飛び出していった。

 ガブリエルは、なおも映像を見つめ続ける。

 画面の中で、少女が勇者の必殺技を紙一重でかわす。

 その姿は、まるで舞うようだった。

「美しい……」

 うっとりと呟く。

「彼女こそ、神が我らに遣わした天使に違いない……」

 そして、拳を握りしめた。

「なんとしてでも……なんとしてでも手に入れねば! アークライトの、いや、私の命運は彼女にかかっている!」

 老枢機卿は知らなかった。

 今、自分が「天使」と呼んだ少女が、実は真逆の魔族の頂点――魔王その人であることを。
 皮肉にも、神の国が最も忌避すべき存在に、国家の命運を託そうとしていたのだ。

 歴史の歯車が、音を立てて回り始めていた――。