(あ、陛下、言い忘れてましたが)

 リリィが、まるで今思い出したかのような軽い調子で念話を送ってくる。

(ちゃんと負けてくださいね?)

 マオの足が、ピタリと止まった。

(はぁぁぁぁ!? 何を言っとるんだお主は!?)

 マオは振り返り、配信準備をしているリリィをにらむ。

(魔王は勇者になど絶対に負けんのだ! 死んでも負けん! 魔王の誇りにかけて!)

(陛下……落ち着いてください)

 リリィが呆れたようにため息をつく。

(よく考えてみてください。もし勇者に勝っちゃったらどうなると思います?)

(魔王軍の士気爆上がりだ!)

(違います! 世界のパワーバランスが崩壊するんです!)

 リリィの声が急に真剣になった。

(……は?)

(現在の国際秩序は、勇者を頂点とした安全保障体制で成り立っています。その勇者が、名もなき新人配信者に負けたら? 諸外国は現体制に疑問を持ち始め、軍拡競争が始まり、最悪の場合、人間同士で戦争が……)

(それは願ったり叶ったりではないか!)

 マオがふんっと鼻で嗤う。

(何言ってるんですか!!)

 リリィが叫んだ。

(戦争が起きたら経済が崩壊します! 経済が崩壊したら、人々は配信なんて観る余裕がなくなります! スパチャが激減します! いいんですか!? せっかく稼げるようになってきたのに、また魔界スライムの出がらしスープ生活に戻りたいんですか!?)

 マオの顔が青ざめた。

(な、なんと……! そ、そんな先のことまで考えておったのか、お主は……)

(これくらい国際政治の基礎の基礎です! 経済学の初歩です! 陛下こそ、もっと勉強してください!)

(ぐぬぬ……)

 反論できない自分が悔しかった。

 確かに安全保障上の頂点が、ぽっと出の小娘に負けたとあれば人間界は混乱に陥ることは想像に難くない。そうなれば景気も悪くなってスパチャも減る。ムカつくから倒してしまえというのは、自分の首を絞めることになるのだ。

(し、しかし……わざと負けるなど、余はやったことがないんだが……)

 五百年の魔王人生、常に全力で勝利のみを追求してきた。演技で負けるなど想像もつかない。

(そんなの適当でいいですよ。足を滑らせて転んで、『まいりました~』とでも言えば)

(お主……戦闘を舐めすぎだろ……)

 マオが呆れる。

(それに、そんな無様な負け方、プライドが許さん!)

(じゃあ……そうですね)

 リリィが少し考える素振りを見せた。

(『さっきのダンジョンで痛めた腕が……くっ』とか言って、腕をさすりながら膝をつくとか?)

(……まぁ、それなら……)

 不本意だが、ダンジョンを破壊した後なら、多少のケガがあっても不自然ではない。

(決まりですね! じゃあ、適当に盛り上げてから、綺麗に負けてください!)

(適当に盛り上げろだと?)

(盛り上げればスパチャは何倍にもなりますからねっ!)

(何倍も……)

 マオは深いため息をつく。

 『勇者に負ける』その言葉だけで、魔王としての本能が激しく抵抗しているというのに、それまで適当に盛り上げねばならないのだ。

(金のため……部下のため……。くぅぅぅ……)

 マオは首を振り、がっくりと肩を落とした。


         ◇


「緊急配信! 緊急配信でーーーす!!」

 リリィの甲高い声が、配信画面に響き渡った。

「美少女剣士マオちゃん、スペシャル配信! なんとなんと! あの伝説の勇者、レオン・ブライトソード様との模擬試合が、今ここで実現しまーーーす!!」

〔えっ!?〕
〔ちょっと待て、何が起きてる!?〕
〔勇者!? 本物の勇者!?〕
〔マジかよ……夢じゃないよな……〕
〔昨日スパチャ投げてたしな!〕

 配信開始わずか数秒で、視聴者数が爆発的に増加し始めた。

 千、二千、五千、一万……。

 まるで雪崩のように、人々が配信に殺到してくる。

「あくまでも模擬試合です! ガチの殺し合いじゃありませんからね! 勇者様の胸を借りるつもりで、マオちゃんには全力で頑張ってもらいましょう!」

 広場の中央――――。

 夕日が地平線に傾き始め、オレンジ色の光が二人の影を長く伸ばしていた。

 勇者レオンが、腰の鞘から聖剣を抜く。

 シャリィィィン……!

 澄んだ金属音と共に、青銀の刀身が姿を現した。

 レオンはそれを、ゆっくりと、まるで儀式のように空へと掲げた。

「我が相棒よ、目覚めよ!」

 瞬間――。

 ヴゥン! 聖剣が、生き物のように脈動した。

 刀身に刻まれた青竜(せいりゅう)の紋様が、まるで命を得たかのように青白く発光し、キィィィィィィンという高周波が大気を震わせる。

 その音は、まるで竜の咆哮のようだった。

「はっはっは! 聖剣もマオちゃんを前にして、興奮を抑えられないようだ!」

 レオンが愉快そうに笑う。

(ちっ……聖剣め、余の正体を見抜いておるな……)

 マオは内心で舌打ちした。

 神造兵器(ディヴァイン・ウェポン)である聖剣は、魔族の気配に敏感に反応する。今、激しく脈動しているのは、間違いなく魔王の存在を感知しているからだ。

(早く終わらせねば、正体がバレる……)