扉の向こうに広がっていたのは、想像を絶する巨大な空間だった。

 天井は高く、石組みの壁が円形に広がっている。まるで古代の闘技場のような荘厳さ。その壁のあちこちに設置された魔法のランプが次々と灯っていく――――。

 やがて空間全体が幻想的な光に照らし出され、現れたのは漆黒の鱗に覆われた、巨大な影。

 ダーク・ワイバーンだった――――。

 大型バスより大きな巨躯。背中から生えた翼を広げれば、この広間の半分を覆い尽くすだろう。全身を覆う鱗は、まるで黒曜石のように鈍く光り、鋭い爪は岩をも容易く引き裂くであろう凶悪さを秘めている。

〔でかっ!〕
〔これでB級? ワイバーンとか普通A級じゃね?〕
〔角材で勝てるわけないwww〕
〔はい! 死んだ!〕

 視聴者たちが騒然とする中、ワイバーンがゆっくりと巨大な首をもたげた。黄金色の瞳が、侵入者を値踏みするように見下ろす。

 グイッと首を傾け、マオの姿をじっくりと観察し始めた――――。

 が、その瞳に、徐々に困惑の色が浮かび上がる。

「あ、あれ……」

 ワイバーンの口から、震える声が漏れた。

「へ、陛下……!?」

 その瞬間、空気が凍りついた。
 リリィの顔から血の気がサーッと引いていく。小さな手が慌ただしく動き、配信の音声を緊急遮断した。

〔あれ? 音が……?〕
〔今、「陛下」って言った?〕
〔聞き間違い?〕
〔何、マオちゃんの知り合い?〕
〔まさか元カレとか!?〕

 音声が途切れたことで、かえって視聴者たちの想像力に火がついた。コメント欄が爆発的な速度でスクロールしていく。

 マオは小さくため息をついた後、腕を組んで胸を張った。ピンクのフリルドレスを着た銀髪の少女が、精一杯威厳を出そうとしている。しかし、どう頑張っても可愛らしさが滲み出てしまうのだが。

「久しいな、ダークよ」

 低く響かせようとした声も、少女の声帯では限界がある。

「こんな仕事ばかりさせて、申し訳ない」

 ワイバーンは巨体を震わせながら、慌てて頭を下げた。その動作で、床が微かに振動する。

「ま、まさか、陛下自らがこの私と対戦を? いえ、その、なぜそのようなお姿に……?」

 困惑と畏怖が入り混じった声。五百年仕えた主君が、なぜ美少女の姿でここにいるのか、ワイバーンの頭では理解が追いつかない。

「ちょっとした魔王軍の財政難対策の極秘プロジェクトでな……」

 マオは角材を肩に担ぎ、苦笑を浮かべた。

「悪いが、倒させてもらうぞ」

「そ、そうでしたら降参いたします! 私も痛いのは嫌ですので……」

 ワイバーンは即座に翼を畳み、伏せの姿勢を取った。

「いや、それでは困るのだ」

 マオは首を横に振った。

「へ……?」

 ワイバーンはキョトンとした様子で小首をかしげる。

「戦闘シーンを配信せねばならんのだ」

「は、配信……ですか?」

 ワイバーンの黄金の瞳が、理解不能という様子で瞬いた。

「でも、私なんぞが陛下に瞬殺されて終わりじゃないですか……視聴者とやらも、つまらないでしょうに」

 その言葉に、マオの口元に不敵な笑みが浮かんだ。

「そこでだ、お前にハンデをやろう」

 マオは自分の姿を示すように両手を広げた。フリルのドレスがふわりと広がる。

「見ての通り、我は防具なし。武器もこの角材だけ」

 手の中の木の棒を掲げてみせる。

「拳も魔法も使わん。純粋に、この棒きれ一本での勝負だ。これなら多少は勝負になるだろう?」

「え? そ、そんなにハンデを!?」

 ワイバーンの瞳に、わずかな希望の光が宿った。もしかしたら、もしかしたら――――。

「どうだ、ダーク」

 マオの赤い瞳が、挑発的に細められた。

「余を倒してみろ。そうしたら……」

 一呼吸置いて、爆弾発言が投下された。

「次期魔王の座は、お主にやろう」

 ニヤリと笑うマオ――――。

 ワイバーンの巨体が、ピクリと震えた。

 瞬間、走馬灯のように記憶が蘇る。

 この数百年間――それはワイバーンにとって、屈辱と挫折の歴史だった。

 生まれた時から、彼は呪われていた。ワイバーン族の中で、彼の体躯はわずかに小さかった。たった数メートルの差。しかし、その「たった」が、彼の運命を決定づけた。

 一族の集会では、いつも端に追いやられる。戦闘訓練では、体格で勝る同胞たちに押し負けた。どんなに技術を磨いても、どんなに戦略を練っても、最後は必ず体格差で敗北する。まるで生まれながらに背負わされた枷のように、その差は彼を苦しめ続けた。

 だから、彼は誰よりも努力した。

 朝は誰よりも早く起き、夜は誰よりも遅くまで訓練を続けた。ブレスの威力を高めるため、灼熱の溶岩を飲み込み、喉が焼け爛れるまで炎を吐き続けた。鱗を硬くするため、自ら岩壁に体を打ちつけ、血が滲むまで鍛錬を重ねた。

 それでも――。

 他のワイバーンたちは、苦もなくA級ダンジョンのボスに任命されていった。彼らは訓練もそこそこに、生まれ持った体格だけで栄光を手にしていく。一方で彼は、どんなに実力を示しても、どんなに成果を上げても、「体が小さい」という一点で、永遠にB級に留め置かれた――何百年も!

 同期が次々と出世していく中、彼だけが取り残された。後輩にさえ追い抜かれ、哀れみの視線を向けられる。「努力家だけどね」「頑張ってるけどね」――その後に続く無言の「でも」が、彼の心を切り刻んだ。

 しかし今、目の前に立つのは――魔王ゼノヴィアス。

 もし、もしもここで魔王を倒すことができたなら。

 体格など関係ない。血統など意味をなさない。A級もB級も、そんな階級は吹き飛ぶ。一族を飛び越え、幹部たちを飛び越え、全てを飛び越えて、魔王軍の頂点に君臨できる。

 数百年の屈辱を、たった一度の勝利で覆せるのだ。

 見下してきた同胞たちの顔が、驚愕に歪む様を想像する。哀れみの視線を向けてきた者たちが、恐怖と畏敬の念を持って跪く姿を思い描く――。

 それは、彼が夢にまで見た光景だった。

「次期……魔王……」

 震える声で呟く。その言葉を口にした瞬間、全身の血が沸騰するような感覚に襲われた。黄金の瞳の奥で、数百年間押し殺してきた野心の炎が、爆発的に燃え上がる。

「くっくっく……」

 抑えきれない笑いが、牙の隙間から漏れ出す。それは歓喜の笑いであり、狂気の笑いであり、そして解放の笑いだった。

「その言葉に、二言はございませんな?」

「余は嘘などつかん」

 マオは堂々と言い切った。たとえ少女の姿でも、その言葉には五百年の重みがあった。

「では……」

 ワイバーンが翼を大きく広げた。風圧で、マオの銀髪とドレスが激しくなびく。

「勝ちにいかせてもらいます!!」

 ギャオォォォォォ!

 咆哮が広間を震撼させた。石壁に反響し、まるで雷鳴のように轟く。野心に燃えるワイバーンの瞳は、もはや主君への遠慮など微塵も残っていなかった。