朝目覚めてすぐ洗面に立ったとき、ただ顔を洗うだけでは終わらず、髪まできちんとセットをするようになったのはいつ頃からだろう。
 最初の頃はまったく意識していなかった。

「おはよ」

 朝の挨拶をするときにわざと不機嫌を装ってしまうのは変わらない。以前は海莉をサンドバッグにして、日々のストレスをぶつけていたからだが、今は会えて嬉しいだなんて思われたら恥ずかしくて、単に照れ隠しから演技をしている。
 それなのに、海莉は最初からずっと、笑顔で挨拶を返してくれている。

「おはよー」

 にこりと微笑まれ、胸を射られた気分で顔を伏せた。席は左隣で、顔を見られる心配のないことが救いだ。
 朝食をさも美味そうに頬張る姿を見たい気持ちと、じろじろ見ている自分を見られたくない気持ちとが混ざり合う。

「この新しいジャム、美味しいよ」

 そう言って海莉は、手に持ったトーストにかぶりついた。あの色はブルーベリージャムだなと気づく。

「ふん、俺はシンプルにバターだけでいい」

 試してみればいいのに、と口を尖らせて、またもぱくついたあと、海莉は嬉しそうに微笑んだ。
 ──この笑顔だけでいい。
 神室隆司ともあろう俺が、初めて惚れた相手に求めたのがそんな程度で構わないとは、自分でも驚きだ。
 日本に五万人はいるであろう平凡な顔立ちで、出で立ちも態度も、雑踏にまぎれたら探し出すのが困難なほど凡庸だ。それなのに、何百万という人に紛れ込んでも見つけ出す自信があるし、そもそもそんなところへ行かせたくない。
 互いに向け合う気持ちが別種の感情でも、それでもずっとそばにいたい。この笑顔を毎日眺めていれたら、そんなふうに感じる唯一の相手だ。

「隆司は朝からちゃんとしていてさすがだね」
「ふん。俺の言ったように洗顔フォームを使ってんのか?」
「うん。その間見立ててもらったやつが結構いい感じ」

 ここのところずっと肌が荒れていたのは、各務と離れていたからだろう。顔色もわるく、笑顔を浮かべても力の無い、無理につくったようなものばかりだった。

「そういや昨日もあいつん家に泊まらないで帰ってきたのか?」
「えっ?」

 海莉はぼっと突然火がついたように顔を赤らめ、「と泊まらないよ!」と目を泳がせた。

 二日前に、海莉は各務といわゆる恋人同士になった。
 互いに想い合っているのに同時に誤解もし合っている様子で、口を挟むべきではないとやきもきした末に、俺が取り持ってやったのだ。
 惚れてる男が本命と結ばれるよう画策するなんて、バカな振る舞いだ。だけど、そうでもしなければならなかった。海莉が心からの笑みを浮かべるには、あいつじゃなければならなかったからだ。
 そんなふうに、自ら苦汁を飲むようなことをしてしまうのが、恋というやつなのだろう。
 喜びや悲しみ、嬉しさや怒りなど、瞬時に真逆に引っ張り回す厄介な感情だが、以前よりも日々の生活が楽しくなったのは事実だ。 

「ふん。いつまでそうやってられるか知らねえけど」
「近いし、絶対に帰って来るよ……」

 三人で花火をしたあと、海莉は各務とマンションへと連れ立っていった。想いを確認しあってさっそくかよと腸が煮えくり返ったが、驚いたことに朝帰りなんてことにはならなかった。今何をしているのか、どれくらい進んだのかを悶々と考えて苦しんでいたのは、あっけなくも一時間程度だった。
 昨日は三人でゲームをして過ごし、夜は各務のマンションで手料理を振る舞ってもらった。一緒に帰ると言った海莉を置いて俺が一人で帰ったのは、嫉妬しているなんて思われたくないという意地からだ。
 ただ、それでも海莉は一時間もしないうちに帰ってきてくれた。恋人になったばかりなのに、二人きりになるのはまだ恥ずかしいらしい。

「あ、そ。そういうことならあの野郎も車に乗っけてやってもいい」
「えっ? 車にって、登校するとき?」

 そうだと答えると、海莉は嬉しげに感謝の言葉を返し、さっそくスマホを取り出した。
 家へ来てもいいから朝の電話だけはやめろ。そう各務に訴えた結果、今のところ忠実に守ってくれている。そのうえ、健全な付き合いをしているようでもある。
 ならば、それくらいのことはしてやってもいい。
 なにより海莉が喜ぶのだから…………各務も喜ぶのは癪だけど。

「ありがとう、神室」

 まだ朝食途中だというのに、さっそくとばかりに各務が家へやってきた。すでに身だしなみは完璧で、ふわりと香水の匂いすら漂わせている。
 俳優並みのイケメンでスタイルも完璧なうえに身だしなみも手を抜かないとは、腹立たしいことこの上ない。

「モーニングコールはしなくなったのに、早起きだな」
「早めに起きて勉強するようにしてるんだよ」
「……ふん。夜は海莉がいるからだろ」
「それもあるけど、ランニングもしてるんだ。朝だと人がいないから気持ちがいいよ」

 最初はなぜ海莉はあんなやつをと、憎くて仕方がなかった。
 Aレベルの試験を二年も早く受けようとするほどの頭脳を持ちながら、スポーツまで万能なうえ、人を寄せ付ける明るさと、優しさを併せ持つなんて現実から出ていけと言いたくなるほどパーフェクトなやつだ。
 ただ意外にも努力家で、見た目に現れる完璧さの陰には、余暇のほとんどを犠牲にした弛まぬ努力があったことを知った。
 しかもそのすべては海莉のためだという。
 そんな必要がないくらい最初から恵まれているというのに、少しでも海莉に惚れてもらおうと、ただそれだけの想いで何年も努力し続けていたらしい。
 その点に関しては、正直なところ尊敬の念すら抱いた。
 人外レベルの兄を持っていた俺は、尊敬と畏れから、弟として恥ずかしくないようにと努力をしていた。しかし、それはただストレスを溜めるだけで、出会った当初の海莉にぶつけるなんてことをしてしまっていた。
 各務は海莉と俺の仲を誤解したときも、努力が無駄になったなんてことはいっさい表に出さず、ただ耐えていた。そこまでされたら完敗だ。
 認めるしかないと、受け入れることに決めたのだ。

「レイ、こんなところでやめて」
「なんで?」
「なんでじゃないよ。ホントにやめて」

 姫宮の運転する車に三人で乗り込み、学校へ向けて出発した途端、各務は海莉の肩を抱いてキスをしようとした。
 公の場は控えると言っていたくせに、人の家の車の中も同様であるとは考えられないらしい。
 
「だって……もう十時間くらいしてないよ」

 だって、じゃねえよバカが。十時間前なんてさっきだろ。認めてやったと言っても、こういうところはいまだに腹立たしい。

「各務、俺の家の車でベタべタしようとすんなら、二度と乗せないから」
「えっ……明日も乗っていいの?」

 鋭く注意したつもりが、嬉しげな目を向けられてアホかと脱力しそうになる。

「不埒な真似をしないって言うならの話だ」
「わかった。我慢する。……あと五分くらいでしょ?」

 俺だけでなく、海莉も呆れたのがわかった。五分というのは、到着して降りたその場でキスを迫るということだ。はっきり言わなくても頭がおかしい。

「……学校でもするな。家や車の中よりだめだろ」
「えー。普通のことだよ。愛し合ってるんだから」
「おまえはもう少し日本の文化を真剣に学べ」

 知ってるよと各務は不貞腐れたようにしたが、この先の海莉の苦労が目に見える。
 各務に独占させるのは許せないからと、海莉のそばから離れるつもりはないと宣言してみせたが、まさか本当に付きっきりでいなければならないのだろうか。
 学校へ到着してキスはしなかったものの、各務は「手を繋ぐのはいいよね」と言って身体を寄せ合うようにして歩き出した。
 いきなりはまずいだろう。他人事とは言え注目を浴びてしまう海莉のことは心配だ。
 海莉は恥ずかしそうにうろたえるだけだったので、とりあえず初日だけはやめておけと、俺がまた気遣ってやらなければならなかった。

 やはりというか、昨日までとは打って変わった状況に、校内は戸惑った様子だった。
 天王寺と恋人だと見做されていたやつが、突然それまでまったく近づかなかった海莉とベタベタし始めたのだ。夏休み前にカフェテリアでの一件はまだ忘れられていなかったのもあるだろう。
 天王寺は当て馬のごとくの存在として揶揄の対象となり、プライドの高さがゆえか相当堪えたようだった。
 自分のことのように気持ちがわかるだけに同情心を抱いたが、まるでどころか現に俺も同じ立場で憐れみの目を向けられていたから、構ってられるどころじゃない。
 
 目を離せば、各務は海莉に抱きつき、休憩時間は膝のうえに乗せようとしたり、見ているこちらが赤面するようなことばかりしてくれる。喋るときは触れるほど近づき、唇にしないだけで、頬や額、首や耳などあちこちにキスの雨を降らせる。
 人目をはばからず、しかも男同士で、高校生という分際でだ。

「海莉。愛してるよ」
「嬉しいけど、恥ずかしいんだって」
「恥ずかしくないよ。キスは我慢してるでしょ?」

 何をほざいているんだ?あのバカは。こんなところであれ以上の真似をしたら、本気でぶん殴ってやる。
 
「……俺は恥ずかしいし、なにより暑い」
「暑いの? 冷感シートで身体を拭いてあげようか?」
「いいって!」
 
 ああ、もう無理だ。海莉の身体を拭くなんて不埒な真似をさせるわけにはいかない。

「海莉、手伝え」
「えっ? なに?」
「次の授業の準備だ。二分でできる」

 手を引いて、強引に各務という悪の手から救い出し、海莉を黒板のほうへと連れて行った。「待ってよ」と聞こえてくる声は無視だ。

「僕もやるよ」
「おまえは天王寺をなだめてやってこいよ」
「侑李? おはよーって挨拶したよ」
「挨拶だけじゃなくて、説明してこいよ」
「なんの? 海莉とラブになったってこと?」
「……そうだ。天王寺はおまえと付き合ってるつもりだったんだから、浮気してると思われてるぞ」
「浮気?」

 各務は能天気にも笑い出した。

「海莉以外を好きになったことなんて一度もないよ」

 そして、チョークの整理をしている海莉を背中から抱きしめ、髪やら耳にキスをし始めた。

「やめてよレイ、粉がつくよ」
「……あっ、ホントだ。海莉のここ、白くなってる」
「やめっ……だめだよ。チョークの粉って身体によくないし」

 海莉はさすがに頬を舐められるのは嫌だったのか、肘で各務の身体を押しのけた。

「……僕のことを気遣ってくれるの? 嬉しい」

 しかし、嫌がられているとは微塵も考えないらしい。
 各務はずっとこうだ。海莉が強く言わない理由を勘違いし続けている。
 恥ずかしがってかわいい、なんてお花畑なことを考えているのだろう。
 確かに顔を赤くして恥ずかしがっている海莉はかわいい。あれが俺に対するものならと悔しさが滲むくらい愛らしい。

「隆司の言うとおり、天王寺さんのところ行ったほうがいい。好きな人が突然離れたら悲しくなるだろ? いま天王寺さんは落ち込んでると思うよ」
「……でも、侑李とはただの友達だよ?」
「だから、この間言ったじゃん。レイにはそんなつもりがなくても、周りからは恋人同士に見えてたって。俺もそう思ってたし。本人も誤解してるようなら、ちゃんと説明してあげなきゃ」
「うーん……でもさ、僕は侑李に一度も好きとか言ってないよ?」
「言ってなくても、自分だけが特別に仲良くなると、もしかしてとか考えちゃうもんなんだよ」

 たまには海莉も言うなと感心しながら聞いていたら、突然被弾したように言葉が胸を貫いた。
 海莉はただ各務を説得しているだけだ。暗に俺へも伝えようなんて器用なことを考えるやつではない。
 ただ、俺にも当てはまる言葉だった。勝手に思い込んで勘違いしていたのは、俺も同じだ。

「あ、そっか。……僕が海莉と神室のこと思い込んでたみたいに」
「そうだよ。俺もだし、みんな思い込んだり勘違いしたりするんだって。だからもしそれに気づいたら、説明するなり謝ったりしてあげないと」
「うん……さすが海莉」
「俺じゃないよ。教えてくれたのは隆司だから」

 海莉がくるりと俺のほうを向いて、笑みを浮かべた。
 まるで各務に向けているのと同じ、愛のこもった笑顔を見てどきっとした。

「つーことだから、とっとと説明してこいよ」

 俺が追い払うように言うと、各務は「わかったよ」と答えて、おとなしく教室を出ていった。

「ありがとう、隆司」
「……説得したのはおまえだろ」
「そんなことないよ。色々、レイの暴走を止めてくれて助かってる。面倒かけちゃってごめんね」

 海莉が俺に向けてくれている気持ちは、俺のとまったく同じというわけではない。
 だけど、海莉も俺のことを大事に考えてくれている。各務とは違うけど、それとは別の意味で、家族としてなら同じくらい好きでいてくれている。
 
 優秀過ぎる兄に少しでも近づくため、振り向いてもらうために努力をし続けて、なのに兄は帰ってすらこなくなった。
 兄にとって自分はその他大勢の、一緒にいてもつまらない相手でしかなかった。
 数年経ってそれを悟っても、すんなり飲み込むなんて無理だった。そのために生活の時間を費やし、友人もつくらず、自分を偽り続けていたのだ。今さら品行方正な態度を変えることもできず、成績を落とすこともできない。気づいてもなお無理をし続けて、ただストレスを溜めるだけの日々を送っていた。
 海莉は、そんな苦しみから救い出してくれた。父との関係も、海莉母子が来てくれたことで、母が生きていたときのように戻り始めている。
 義兄となった海莉は、兄の代わりなんかじゃない。
 恋人になんてなれなくても、あいつは大切な兄弟で、これから先もずっと一緒にいれる、一緒にいたいと思える大事な存在だ。

「……ふん、別に……ウザいからってだけだし」

 口や態度が悪くても、海莉はぶはっと噴き出して「ありがと」と言ってくれる。最初から素の俺を受け入れ、知ろうとしてくれた。
 各務のことは気に食わないが、認めてやることで海莉が喜ぶなら、そんなくらいなんてこともない。
 戻ってきたら提案してやるか。
 三人で帰宅して、そのまま家へ招いて夕食をとり、ゲームもしていってもいい、と。
 小躍りするほど喜ぶ各務は癪だが、海莉の笑顔を見たいのだから、仕方がない。