「なんであいつも誘ったんだ」
放心していた海莉の目に、神室の睨みが突き刺さった。海莉はその怒りを受け止めながら、しかし、反応を返すことができなかった。
レイが何も言わずに去っていった。そのことがショックで、頭の中が真っ白になっていた。
義兄弟でありながら、すべきではない行為をしていた。実際はしていなくても、しているように見えた。だからレイは去った。友人がまさかと、おぞましく感じたからだ。
頭のどこかで「なにやってるの?」などと言って怒られるものと考えていた。もし反応があったら、それにまた反応を返せたかもしれない。すぐに誤解を解けたかもしれない。「神室が一方的に」と答えて、自分にはそんな気持ちはなかったとすぐに伝えられたかもしれない。
そんな卑怯なことを考えて、しかしただ誤解され、去られてしまったことがショックだった。
「んっ……」
呆然としていた海莉の唇に、神室のものが触れた。はっとした海莉は、慌てて神室の肩を押し返す。
「なん……」
なんでこんなことを、と聞きたいのにまたも口を塞がれる。神室の力は強く、観覧車のときと同様に海莉の力では何の抵抗にもならない。
「やめてって……」
顔を振って逃れようとする、その頬を神室に掴まれた。
「おまえは、俺のことが好きなんだろ」
まっすぐに見据えている神室の瞳は、熱っぽく潤んでいる。情熱的とも言えるその眼差しは、観覧車のときとは違う。ファンサだなどと言ってふざけていた神室とは別人のようだ。
「……好きだよ」
好きかと聞かれたら答えはひとつしかない。
「じゃあ、二人で遊ぶときに各務なんて呼ぶなバカ」
神室の顔が真っ赤に染まっている。見惚れるほどの美貌が、ますます美しく見えた。
出会ったときに見惚れ、北海道旅行では絵になるその姿にうっとりとし、毎日見飽きるほど眺めるようになった。その神室の気恥ずかしげな顔を見て、海莉は涙が出そうだった。
そして、潤んだ目を隠そうとして目を閉じたとき、またも唇に柔らかいものが触れた。
海莉はされるがままにそれを受け、堪えきれなくなった涙が頬をつたっていくのを感じた。
神室のことは好きだ。
しかしそれは、義兄弟としてであって、それ以外の意味はない。
祖父母のもとを離れて、母しか頼れる相手のいない東京へ来るのは不安だらけだった。それが今や幸福な日々を送れている。ぎこちなくも似ていないながらに、四人家族としてなんとか形になってきている。
それは神室の存在があったからだ。
海莉にとって神室は、唯一無二の愛すべき兄弟であり、それ以外のなにものでもなかった。
こういった触れ合いをしたいと望む相手ではなかった。
「……なんだよ」
離れた神室が困惑の声でつぶやいた。
「ごめん」
「嬉し涙……じゃないよな」
神室の指が頬に触れる。神室の目が悲しげに揺れ、指は涙を拭うように頬をなぞった。
「ごめん……神室のことは好きだよ。でもそれは……」
海莉が言いかけた途中でストップをかけられた。今度は唇ではない。指だった。頬をなぞっていた神室の親指が、優しく海莉の唇を塞いでいる。
「……もう、終わり」
つぶやいた神室の口元が、悲しげに歪んだ。
「演技力がありすぎてキモい空気になっちまった」
神室は海莉から目を逸らし、テーブルのうえのグラスを手に取って、逆さまにする勢いでアイスティーを飲み干した。
演技?
さっきのは全部、演技だったと言いたいのだろうか。
「あいつに嫌がらせをつもりが、なんか白けたな……花火はまた今度にしようぜ。別にいつでもいいだろ」
海莉に視線を戻した神室は、いつもの、なんてこともない普通の、見慣れた顔に戻っていた。
悲しげに揺れた瞳も、歪んだ口元も、キスも、全部レイに対する嫌がらせで、そこに気持ちがなかったと言いたいのだろうか。
まさか。そんなはずはない。
いまだ唖然としたままの海莉を、神室は鼻で笑った。
「まじに受け取ってんじゃねえよ。ファンサだよ、ファンサ。キモくなるからもうしねえよバカ」
しかし、神室は耳まで真っ赤だった。
顔はいつもどおりでも、目はいまだ悲しげな色を滲ませている。
演技であるはずがない。ファンサだなんて嘘だ。神室は冗談にしようとしているだけだ。
もしかしたら、観覧車の中でのキスも、冗談じゃなかったのかもしれない。神室はあのときから、海莉に対して友情や家族愛ではない気持ちを抱いていたのかもしれない。
まさかのことに胸が詰まる。
神室の気持ちは嬉しい。しかし、海莉には応えられない。
海莉は神室を義兄弟としてしか見ていない。これからもずっとそばにいたいと思っているが、それは義兄の代わりになれるよう、神室の支えになりたいから、ただそれだけの理由だ。
冗談にしようとしてくれているのなら、神室も同じなのかもしれない。家族としての関係は続けようとしてくれている。だとしたら、この空気をぶち壊してはいけない。
海莉は深呼吸をして、いつもの表情をつくって神室を見上げた。
「……ふざけすぎ。嫌じゃないけど、困るし、兄弟ですることじゃないよ」
「わかってるようるせーな。兄弟の契りだと思え」
兄弟の契り……冗談にするとしても、ファンサより嬉しい。
「……うん」
海莉が笑みを返すと、神室は再び鼻で笑い、そして立ち上がった。
「てことで、明日からは一緒に登校するからな」
「えっ?」
「おまえも俺と車で行くんだよ」
「俺も? ……なんで?」
「……おまえも神室だろうが」
「そうだけど。義兄弟だってことがバレちゃうかもしれないよ?」
「はっ! わかりきってることを聞くなって言ってんだろ」
神室はやれやれといった呆れた笑みを浮かべたが、海莉は不安に襲われた。
本気なら、神室のその気持ちは嬉しい。嘘をつく必要がなくなれば単純に気が楽だし、神室との関係を隠しているのは嫌だった。
しかし、表沙汰にするということは、以前は隠していたことも同時に明るみに出る。夏休みから名字が変わったならまだしも、入学当初からなのだから、嘘をついていたこともバレてしまう。
「神室は大丈夫なの?」
「俺?」
「だって、完璧な神室の汚点にならない?」
海莉が聞くと、神室は笑い出した。「バカじゃねえの?」と言って再び笑い、すたすたとドアのところまで行って振り返った。
「俺のことよりおまえだ。これからうぜえやつらが寄って集ってくることになる。おまえのことを知りもしないやつらが、俺の義兄弟だからって追従してくるはずだ。おまえのほうこそ覚悟しておけよ」
「そんなの大丈夫……だけど、神室は本当にいいの?」
「だから、俺のことなんて気にしてんじゃねえよ」
言いながら神室は部屋を出て、「寝坊すんなよ」と言い残して去っていった。
神室は本気で一緒に登校するつもりなのだろうか。だとすれば、レイと電車で向かうことはできなくなる。
二人で通学するのを楽しみにしていた。その約束が果たせなくなることを告げなければならない。しかし、レイとは以前から約束していた。反応によっては、朝食の席で神室に断るべきだ。
考えつつも、そもそもモーニングコールがかかってくるのだろうかとの不安が襲ってくる。
もし、スマホが振動しなかったら……思いついた途端に、考えるも恐ろしいそれが頭から離れなくなった。
自分から電話をしてみようか。しかし、電話やメールをしてスルーされたら?
無言で去るほど不快だったのだ。そのときの状況を思い出して、またも目頭がつんとなる。
海莉は唇に指で触れ、いまだ残るその感触を振り払うように手でこすった。
神室から、家族としてではない好意を向けられていたとは気づかなかった。
キスをされても、義兄のことを打ち明けられても、家族として信頼したがゆえに向けられたものだと思い込んでいた。レイからキスをされたときの経験から、本気にとってはいけないと感じたからだ。
神室の本意を知ったいま、例え家族であってもキスをするなんて行為はおかしなことだとわかる。
レイに指摘したように、神室にもするべきだった。挨拶代わりやふざけ半分ですることではないと、神室にもはっきり言うべきだった。
神室に言えなかったのは、レイとは違って、強く言えば関係が崩れてしまうと恐れていたからだ。
しかし、いまさらもう遅い。すべては手遅れだ。
神室を傷つけたことも、レイを不快に感じさせたのも、すでに起きたことだ。元に戻すことはできない。
すべて、海莉のせいだ。
悔やんでも、もう遅い。
放心していた海莉の目に、神室の睨みが突き刺さった。海莉はその怒りを受け止めながら、しかし、反応を返すことができなかった。
レイが何も言わずに去っていった。そのことがショックで、頭の中が真っ白になっていた。
義兄弟でありながら、すべきではない行為をしていた。実際はしていなくても、しているように見えた。だからレイは去った。友人がまさかと、おぞましく感じたからだ。
頭のどこかで「なにやってるの?」などと言って怒られるものと考えていた。もし反応があったら、それにまた反応を返せたかもしれない。すぐに誤解を解けたかもしれない。「神室が一方的に」と答えて、自分にはそんな気持ちはなかったとすぐに伝えられたかもしれない。
そんな卑怯なことを考えて、しかしただ誤解され、去られてしまったことがショックだった。
「んっ……」
呆然としていた海莉の唇に、神室のものが触れた。はっとした海莉は、慌てて神室の肩を押し返す。
「なん……」
なんでこんなことを、と聞きたいのにまたも口を塞がれる。神室の力は強く、観覧車のときと同様に海莉の力では何の抵抗にもならない。
「やめてって……」
顔を振って逃れようとする、その頬を神室に掴まれた。
「おまえは、俺のことが好きなんだろ」
まっすぐに見据えている神室の瞳は、熱っぽく潤んでいる。情熱的とも言えるその眼差しは、観覧車のときとは違う。ファンサだなどと言ってふざけていた神室とは別人のようだ。
「……好きだよ」
好きかと聞かれたら答えはひとつしかない。
「じゃあ、二人で遊ぶときに各務なんて呼ぶなバカ」
神室の顔が真っ赤に染まっている。見惚れるほどの美貌が、ますます美しく見えた。
出会ったときに見惚れ、北海道旅行では絵になるその姿にうっとりとし、毎日見飽きるほど眺めるようになった。その神室の気恥ずかしげな顔を見て、海莉は涙が出そうだった。
そして、潤んだ目を隠そうとして目を閉じたとき、またも唇に柔らかいものが触れた。
海莉はされるがままにそれを受け、堪えきれなくなった涙が頬をつたっていくのを感じた。
神室のことは好きだ。
しかしそれは、義兄弟としてであって、それ以外の意味はない。
祖父母のもとを離れて、母しか頼れる相手のいない東京へ来るのは不安だらけだった。それが今や幸福な日々を送れている。ぎこちなくも似ていないながらに、四人家族としてなんとか形になってきている。
それは神室の存在があったからだ。
海莉にとって神室は、唯一無二の愛すべき兄弟であり、それ以外のなにものでもなかった。
こういった触れ合いをしたいと望む相手ではなかった。
「……なんだよ」
離れた神室が困惑の声でつぶやいた。
「ごめん」
「嬉し涙……じゃないよな」
神室の指が頬に触れる。神室の目が悲しげに揺れ、指は涙を拭うように頬をなぞった。
「ごめん……神室のことは好きだよ。でもそれは……」
海莉が言いかけた途中でストップをかけられた。今度は唇ではない。指だった。頬をなぞっていた神室の親指が、優しく海莉の唇を塞いでいる。
「……もう、終わり」
つぶやいた神室の口元が、悲しげに歪んだ。
「演技力がありすぎてキモい空気になっちまった」
神室は海莉から目を逸らし、テーブルのうえのグラスを手に取って、逆さまにする勢いでアイスティーを飲み干した。
演技?
さっきのは全部、演技だったと言いたいのだろうか。
「あいつに嫌がらせをつもりが、なんか白けたな……花火はまた今度にしようぜ。別にいつでもいいだろ」
海莉に視線を戻した神室は、いつもの、なんてこともない普通の、見慣れた顔に戻っていた。
悲しげに揺れた瞳も、歪んだ口元も、キスも、全部レイに対する嫌がらせで、そこに気持ちがなかったと言いたいのだろうか。
まさか。そんなはずはない。
いまだ唖然としたままの海莉を、神室は鼻で笑った。
「まじに受け取ってんじゃねえよ。ファンサだよ、ファンサ。キモくなるからもうしねえよバカ」
しかし、神室は耳まで真っ赤だった。
顔はいつもどおりでも、目はいまだ悲しげな色を滲ませている。
演技であるはずがない。ファンサだなんて嘘だ。神室は冗談にしようとしているだけだ。
もしかしたら、観覧車の中でのキスも、冗談じゃなかったのかもしれない。神室はあのときから、海莉に対して友情や家族愛ではない気持ちを抱いていたのかもしれない。
まさかのことに胸が詰まる。
神室の気持ちは嬉しい。しかし、海莉には応えられない。
海莉は神室を義兄弟としてしか見ていない。これからもずっとそばにいたいと思っているが、それは義兄の代わりになれるよう、神室の支えになりたいから、ただそれだけの理由だ。
冗談にしようとしてくれているのなら、神室も同じなのかもしれない。家族としての関係は続けようとしてくれている。だとしたら、この空気をぶち壊してはいけない。
海莉は深呼吸をして、いつもの表情をつくって神室を見上げた。
「……ふざけすぎ。嫌じゃないけど、困るし、兄弟ですることじゃないよ」
「わかってるようるせーな。兄弟の契りだと思え」
兄弟の契り……冗談にするとしても、ファンサより嬉しい。
「……うん」
海莉が笑みを返すと、神室は再び鼻で笑い、そして立ち上がった。
「てことで、明日からは一緒に登校するからな」
「えっ?」
「おまえも俺と車で行くんだよ」
「俺も? ……なんで?」
「……おまえも神室だろうが」
「そうだけど。義兄弟だってことがバレちゃうかもしれないよ?」
「はっ! わかりきってることを聞くなって言ってんだろ」
神室はやれやれといった呆れた笑みを浮かべたが、海莉は不安に襲われた。
本気なら、神室のその気持ちは嬉しい。嘘をつく必要がなくなれば単純に気が楽だし、神室との関係を隠しているのは嫌だった。
しかし、表沙汰にするということは、以前は隠していたことも同時に明るみに出る。夏休みから名字が変わったならまだしも、入学当初からなのだから、嘘をついていたこともバレてしまう。
「神室は大丈夫なの?」
「俺?」
「だって、完璧な神室の汚点にならない?」
海莉が聞くと、神室は笑い出した。「バカじゃねえの?」と言って再び笑い、すたすたとドアのところまで行って振り返った。
「俺のことよりおまえだ。これからうぜえやつらが寄って集ってくることになる。おまえのことを知りもしないやつらが、俺の義兄弟だからって追従してくるはずだ。おまえのほうこそ覚悟しておけよ」
「そんなの大丈夫……だけど、神室は本当にいいの?」
「だから、俺のことなんて気にしてんじゃねえよ」
言いながら神室は部屋を出て、「寝坊すんなよ」と言い残して去っていった。
神室は本気で一緒に登校するつもりなのだろうか。だとすれば、レイと電車で向かうことはできなくなる。
二人で通学するのを楽しみにしていた。その約束が果たせなくなることを告げなければならない。しかし、レイとは以前から約束していた。反応によっては、朝食の席で神室に断るべきだ。
考えつつも、そもそもモーニングコールがかかってくるのだろうかとの不安が襲ってくる。
もし、スマホが振動しなかったら……思いついた途端に、考えるも恐ろしいそれが頭から離れなくなった。
自分から電話をしてみようか。しかし、電話やメールをしてスルーされたら?
無言で去るほど不快だったのだ。そのときの状況を思い出して、またも目頭がつんとなる。
海莉は唇に指で触れ、いまだ残るその感触を振り払うように手でこすった。
神室から、家族としてではない好意を向けられていたとは気づかなかった。
キスをされても、義兄のことを打ち明けられても、家族として信頼したがゆえに向けられたものだと思い込んでいた。レイからキスをされたときの経験から、本気にとってはいけないと感じたからだ。
神室の本意を知ったいま、例え家族であってもキスをするなんて行為はおかしなことだとわかる。
レイに指摘したように、神室にもするべきだった。挨拶代わりやふざけ半分ですることではないと、神室にもはっきり言うべきだった。
神室に言えなかったのは、レイとは違って、強く言えば関係が崩れてしまうと恐れていたからだ。
しかし、いまさらもう遅い。すべては手遅れだ。
神室を傷つけたことも、レイを不快に感じさせたのも、すでに起きたことだ。元に戻すことはできない。
すべて、海莉のせいだ。
悔やんでも、もう遅い。



