「……宿題終わった?」
神室はぽつりと訊ね、海莉から離れた。聞き慣れたいつもの声に戻っている。
「……あと少し」
「花火やる前には終わらせたほうがよくないか?」
「うん。神室は?」
「俺もあと少し残ってる」
ほんのり頬を赤く染めながらも、顔つきもいつもどおり落ち着いた表情だった。「持ってくるわ」と言って出ていき、神室が頼んでくれたのか、姫宮がトレーにアイスティーを二つ乗せて現れた。ローテーブルに置いて姫宮が去ったタイミングで、宿題を持った神室がやってきて、気恥ずかしい空気をほんのり残ししつつも二人で取りかかった。
神室とは、夏休みを通じて一緒に勉強をするようになっていた。
神室といるとリラックスできるからか、ゲームは何時間でもできるし、勉強も一人でやるよりはかどる。神室のほうが成績はいいが、大きく差があるわけでもないため、教え合ったり、二人で悩んだりして、ともに進めることができる。
神室もそう思ってくれているのか、神室のほうから誘ってくれるようになり、宿題も二人でやっていた。
「やっぱ新潟にも持っていけばよかったな」
先に終わった神室は、ノート類を片付けて、夕食のサンドイッチをつまみ始めた。宿題をやりながら夕食も済ませられるようにと、簡単に食べられる形で姫宮が用意してくれていたものだ。
「うん、でも持っていってもやる暇はなかっただろうし、荷物にならなくてよかったんじゃない?」
「まあ、ぎりぎりでも終わったからよかったけど……おまえはまだ終わんねえの?」
海莉のほうはまだ少し残っていた。
集中しようとすることが集中していないといういつものあれで、神室よりも進みが遅い。
これからレイと会える。
そのことが時が進むごとにじわじわと頭の中を支配していき、冷静さを奪っていったからだ。
レイとはこの二週間会えずじまいだった。神室や母たちと楽しい日々を過ごして、距離を置けたことにほっとしていた。
そのはずが、会えるとなった途端にレイのことばかりを考えるようになった。
本当は会いたくてたまらなかった。
電話ではまだ平静でいられたが、会えるとなったら期待で頭がいっぱいになり、会いたい気持ちが一気に噴き出してしまったのだ。
レイとは神室のように過ごすことはできない。
近くにいるとずっと緊張し続けてしまう。動悸が激しくなり、身体が熱くなって、強烈に意識して落ち着かなくなる。
距離を置いていたのは、近くにいると怖くなるからだ。意識していることを気づかれたくないからでもあり、同性を相手に恋心を育ててしまう自分が怖くもあった。
神室といてほっとするのは、そういった感情を感じることなく、純粋に楽しめるからだ。
「ごめん。もう終わるから」
「まあ、二人だから時間は何時でもいいけど」
神室はサンドイッチを口に放りこみ、指をぺろりと舐めた。そう言えばと、神室にレイが来ると伝えていないことを思い出し、時計を見た。
約束の時間を三十分も過ぎている。
早く終わらせねばという焦燥感で、時計を見るのをすっかり忘れていた。
やば、と海莉が青ざめたそのとき、ドアがノックされた。
「海莉おぼっちゃま、各務さんがいらっしゃっております」
まさかとますます血の気が引いて、海莉は床に投げ出していたスマホを慌てて手に取った。
サイレントモードにしていたその画面に、レイからの何十という着信履歴と、メールが山のように着ている。
「なんで各務が……」
神室の顔つきが、みるみる不快な形に歪んでいく。
先に伝えておくべきだったのに忘れていた。そればかりか、自宅へ来るのを断固として拒否していたレイが、辛抱たまらず来てしまっては、神室が怒るのも当然だ。
「ごめん。レイから帰ってきたって電話があって……」
「海莉?」
神室に説明しようとした途中で、ドアのほうからレイの声が聞こえてきた。
姫宮が中へ招き入れてしまったらしい。プールへ一緒に行ったことを知っているし、花火をする約束をしていた聞けば不思議ではない。だとしても許可を得てからにして欲しかった。
「レイ、ちょっと待って。……神室、ごめん。言い忘れてて」
「なんであいつが来るんだよ」
神室は表情だけでなく、声にも怒りが滲んでいる。
「ごめんって。花火をするから会えないって話したら、レイはやったことがないからって」
「二人でやる約束だったじゃねえか」
声を荒らげた神室は、おろおろとしていた海莉の手を掴み、強引に引き寄せた。
「なんで公園に来ないの? 電話にも出てくれないし。もしかして体調が悪くなったとか?」
レイの声に反応を返せない。神室に引っ張られた海莉は、バランスを崩してその胸にどんとぶつかり、「入ってもいい?」と続けて聞こえてきた声に青ざめた。
いま開けられたら困る。レイになんて説明すればいいのかわからない。
焦った海莉は神室の胸を押し返した。しかし神室はやけになったとばかりに無理やりうなじのあたりを掴んで、身を寄せてきた。
「……やめて」
「おまえは、俺のことが好きなんだろ?」
「えっ?」
「あいつとはただの友達で、俺は違うはずだ」
レイとはただの友達で、神室は違う。
それは事実だが、神室とは、今神室がしようとしていることをするような仲ではない。海莉にとって、神室はそういうことをしたい相手ではない。
「海莉? 大丈夫?」
がちゃりとドアノブの回る音がして、部屋の気圧が変化したのを感じた。
振り向けない。
見られてしまった。神室と部屋に二人きりでいて、抱き合っているところを。
レイの目から見れば、キスをした直後に見えたかもしれない。触れるほどの距離にまで近づいた神室を、海莉はなんとか押さえつけた。しかし、神室はそんな海莉の手首を掴んで、はずそうとしていた。海莉の手は待ったをかけたのではなく、愛おしげに神室の頬に触れていたように見えたかもしれない。
息遣いを感じるほどの距離だ。
神室の目がドアのほうへ移動し、細くすがめられた。まるで睨みつけたかのように見え、おそらくそうしたのだろうとわかっても、海莉は振り返ることができなかった。
レイはなにも言わない。
息を呑むような音も聞こえず、数秒ほどして、静かにかちゃりとドアの閉まる音がした。
神室はぽつりと訊ね、海莉から離れた。聞き慣れたいつもの声に戻っている。
「……あと少し」
「花火やる前には終わらせたほうがよくないか?」
「うん。神室は?」
「俺もあと少し残ってる」
ほんのり頬を赤く染めながらも、顔つきもいつもどおり落ち着いた表情だった。「持ってくるわ」と言って出ていき、神室が頼んでくれたのか、姫宮がトレーにアイスティーを二つ乗せて現れた。ローテーブルに置いて姫宮が去ったタイミングで、宿題を持った神室がやってきて、気恥ずかしい空気をほんのり残ししつつも二人で取りかかった。
神室とは、夏休みを通じて一緒に勉強をするようになっていた。
神室といるとリラックスできるからか、ゲームは何時間でもできるし、勉強も一人でやるよりはかどる。神室のほうが成績はいいが、大きく差があるわけでもないため、教え合ったり、二人で悩んだりして、ともに進めることができる。
神室もそう思ってくれているのか、神室のほうから誘ってくれるようになり、宿題も二人でやっていた。
「やっぱ新潟にも持っていけばよかったな」
先に終わった神室は、ノート類を片付けて、夕食のサンドイッチをつまみ始めた。宿題をやりながら夕食も済ませられるようにと、簡単に食べられる形で姫宮が用意してくれていたものだ。
「うん、でも持っていってもやる暇はなかっただろうし、荷物にならなくてよかったんじゃない?」
「まあ、ぎりぎりでも終わったからよかったけど……おまえはまだ終わんねえの?」
海莉のほうはまだ少し残っていた。
集中しようとすることが集中していないといういつものあれで、神室よりも進みが遅い。
これからレイと会える。
そのことが時が進むごとにじわじわと頭の中を支配していき、冷静さを奪っていったからだ。
レイとはこの二週間会えずじまいだった。神室や母たちと楽しい日々を過ごして、距離を置けたことにほっとしていた。
そのはずが、会えるとなった途端にレイのことばかりを考えるようになった。
本当は会いたくてたまらなかった。
電話ではまだ平静でいられたが、会えるとなったら期待で頭がいっぱいになり、会いたい気持ちが一気に噴き出してしまったのだ。
レイとは神室のように過ごすことはできない。
近くにいるとずっと緊張し続けてしまう。動悸が激しくなり、身体が熱くなって、強烈に意識して落ち着かなくなる。
距離を置いていたのは、近くにいると怖くなるからだ。意識していることを気づかれたくないからでもあり、同性を相手に恋心を育ててしまう自分が怖くもあった。
神室といてほっとするのは、そういった感情を感じることなく、純粋に楽しめるからだ。
「ごめん。もう終わるから」
「まあ、二人だから時間は何時でもいいけど」
神室はサンドイッチを口に放りこみ、指をぺろりと舐めた。そう言えばと、神室にレイが来ると伝えていないことを思い出し、時計を見た。
約束の時間を三十分も過ぎている。
早く終わらせねばという焦燥感で、時計を見るのをすっかり忘れていた。
やば、と海莉が青ざめたそのとき、ドアがノックされた。
「海莉おぼっちゃま、各務さんがいらっしゃっております」
まさかとますます血の気が引いて、海莉は床に投げ出していたスマホを慌てて手に取った。
サイレントモードにしていたその画面に、レイからの何十という着信履歴と、メールが山のように着ている。
「なんで各務が……」
神室の顔つきが、みるみる不快な形に歪んでいく。
先に伝えておくべきだったのに忘れていた。そればかりか、自宅へ来るのを断固として拒否していたレイが、辛抱たまらず来てしまっては、神室が怒るのも当然だ。
「ごめん。レイから帰ってきたって電話があって……」
「海莉?」
神室に説明しようとした途中で、ドアのほうからレイの声が聞こえてきた。
姫宮が中へ招き入れてしまったらしい。プールへ一緒に行ったことを知っているし、花火をする約束をしていた聞けば不思議ではない。だとしても許可を得てからにして欲しかった。
「レイ、ちょっと待って。……神室、ごめん。言い忘れてて」
「なんであいつが来るんだよ」
神室は表情だけでなく、声にも怒りが滲んでいる。
「ごめんって。花火をするから会えないって話したら、レイはやったことがないからって」
「二人でやる約束だったじゃねえか」
声を荒らげた神室は、おろおろとしていた海莉の手を掴み、強引に引き寄せた。
「なんで公園に来ないの? 電話にも出てくれないし。もしかして体調が悪くなったとか?」
レイの声に反応を返せない。神室に引っ張られた海莉は、バランスを崩してその胸にどんとぶつかり、「入ってもいい?」と続けて聞こえてきた声に青ざめた。
いま開けられたら困る。レイになんて説明すればいいのかわからない。
焦った海莉は神室の胸を押し返した。しかし神室はやけになったとばかりに無理やりうなじのあたりを掴んで、身を寄せてきた。
「……やめて」
「おまえは、俺のことが好きなんだろ?」
「えっ?」
「あいつとはただの友達で、俺は違うはずだ」
レイとはただの友達で、神室は違う。
それは事実だが、神室とは、今神室がしようとしていることをするような仲ではない。海莉にとって、神室はそういうことをしたい相手ではない。
「海莉? 大丈夫?」
がちゃりとドアノブの回る音がして、部屋の気圧が変化したのを感じた。
振り向けない。
見られてしまった。神室と部屋に二人きりでいて、抱き合っているところを。
レイの目から見れば、キスをした直後に見えたかもしれない。触れるほどの距離にまで近づいた神室を、海莉はなんとか押さえつけた。しかし、神室はそんな海莉の手首を掴んで、はずそうとしていた。海莉の手は待ったをかけたのではなく、愛おしげに神室の頬に触れていたように見えたかもしれない。
息遣いを感じるほどの距離だ。
神室の目がドアのほうへ移動し、細くすがめられた。まるで睨みつけたかのように見え、おそらくそうしたのだろうとわかっても、海莉は振り返ることができなかった。
レイはなにも言わない。
息を呑むような音も聞こえず、数秒ほどして、静かにかちゃりとドアの閉まる音がした。



