東京へ帰るまでの三日間は、海莉が意図せずとも、レイとはほとんど会う機会がなかった。
 それというのも、海莉が神室に地元を知って欲しいと願ったように、母も生まれた街を父に案内したかったらしく、祖父の車を借りて、家族四人で連日あちこちへと出かけたからだ。
 めぼしい観光地を冷やかしたり、地元民しか知らないような隠れた名店へと案内したり、自宅で休んでいる暇がないほどで、しかも和気あいあいとした雰囲気は、ゴールデンウィークの旅行からさらに家族としての仲が深まっているように感じられて、海莉は思ってもみなかった楽しい時間を過ごした。
 
 東京へ帰ってきてからも、レイと会うことができない日々だったが、寂しさを感じるような暇はなかった。
 神室とともに宿題をして、ゲームを進め、稀に買い物へ出たりなどしていたら、あっという間に時が過ぎ去り、いつの間にやらという早さで夏休みの最終日となっていた。

「明日から学校か」

 神室が珍しくも陰鬱げにため息をついた。徒歩五分ちょっとのコンビニへと行ってきた帰り道である。一人一つずつビニール袋をガサガサと揺らしながら、まだ天高くぎらつく太陽の下を並んで歩いていた。

「神室って学校好きなんだと思ってた」
「好きってわけじゃねえよ。嫌いでもないけど」
「でも、学校だと天下じゃん。あんだけ慕われてたら気持ちいいっていうか、楽しくて仕方ないと思ってた」
「なんだよそれ。嫌味かよ」
「嫌味じゃないって。神室はかっこいいし、憧れるのもわかるっていうか……家での神室とは別人みたいだけど……」

 話しながら神室が横にいないことに気がついて、海莉は足を止めた。振り返ると、数歩ほど離れた場所で立ち止まっていた。目が合った途端に神室ははっと身体を震わせ、隣にあったなにか看板のようなものを指でさした。

「公園内で手持ち花火解禁するらしいぞ」
「え? 花火?」

 どうしたのだろうと思ったら、看板を読んでいたらしい。
 海莉も神室のところへ戻って読んでみると、煙や火事の危険からこれまでは禁止されていた公園内での花火を、今年の八月から試験的に許可していくと書かれてあった。
 自宅から歩いてすぐのこの公園は、滑り台やブランコ、シーソーなどの遊具があり、ちょっとした広場もある。シンプルでこじんまりとしているが、都内の住宅地にあるものとしては割合大きいと言える規模の公園だ。

「ホントにいいのかな? ……新潟でも浜辺とかでしかできなかったのに」 
「逆に東京だとどこもできないから、考えを変えたんだろ。夕食のあとにやってみる?」
「えっ?」
「夏休みのフィナーレに花火をするのも、悪くないだろ」

 思ってもみなかった提案に、海莉の頭の中は喜び一色となった。

「悪くないどころか最高だよ。どうする? いつ買いに行く? てか、どこに売ってるんだろ」
「コンビニにもありそうだけど、帰ってから決めよう。アイスが溶ける」
「そういやこの間Xで、都内のどこかに花火の専門店があるっての見かけてさ。行ってみたかったんだよね」
「じゃあ、姫宮さんに頼んで連れて行ってもらうか?」
「いいね。だったらアイスも花火のときに食べない? 夜の公園でなんて美味さも倍増するかも」

 帰宅してさっそく姫宮に事情を話すと、すぐに店へ連れて行ってくれたばかりか、バケツやライターなどの用意もしてくれて、日が暮れる前に万端の準備を整えることができた。
 あとは宿題を終わらせるのみである。夕食までには終わらせてやると気合いを入れ、海莉はペンを持った。そのとき、出鼻をくじくかのようにスマホが着信を告げた。

『海莉〜! 今駅についた。もう限界。海莉に会いたくて死にそう』 
「おかえりー! ホントにぎりぎりまでいたんだね」
『そうだよ。今から会いに行ってもいい?』
「あー、ごめん。会う時間はないかも。今から宿題を終わらせて、その後花火するから」
『ハナビ? ……ってなんだっけ?』

 ぴんとこないらしいレイに説明するとすぐに納得したが、神室と二人でやるつもりであることを伝えると、「僕も行く」と電話を叩き切られてしまった。
 レイはいまだに神室をよく思っていないらしい。どれほど神室のよさを説明しても、当の本人がレイに対して冷たい態度を取るせいか、のれんに腕押しだ。
 また喧嘩になるかもしれないが、多少なり仲を深める機会にはなるだろう。期待に不安が混じりつつも、とりあえず宿題を終わらせねば話にならない。海莉が再びペンを持ったとき、ノックの音でまたも手を止められてしまった。

「あれ貸してくんない?」

 神室が顔を覗かせ、部屋の中へ入ってきた。

「あれって何?」
「古い数学の参考書だ」
「え……どれのこと?」
「中間テストんとき、それで勉強したって話してただろ。あの途中組に」

 ああ、と海莉は思い出した。教室で颯と話題にしていたのを、神室はこっそり聞いていたらしい。

「これかな?」
「……ちょっと見せてみろ」

 つかつかとデスクまできた神室は、まだ開いていないその参考書を手に取り、ページをめくり始めた。
 そう言えば、颯に渡したとき、七年前に発行されたものだと言っていた。そのことから、もしかしたら義兄のものだったかもしれないと考えていたものだ。

「もしかしてそれ、お義兄さんのだった?」
「みたいだな。ほら」

 神室が開いたページを見せてきた。ノンブルのところに赤鉛筆で丸がつけられている。

「それ、なに?」
「兄さんは、教科書や参考書に名前を書かずに、誕生日んとこに丸をつけるんだ」

 百二十二ページのところということは、義兄は一月二十二日生まれなのだろうか。

「てことは、お義兄さんのを勝手に使っちゃってたんだね。ごめん……」

 神室の手の中にある参考書は、折り目がつき、マーカーで線が引かれ、表紙には擦れた痕がついている。元の状態には二度と戻らない使い古されっぷりだ。
 
「おまえは悪くないだろ。知らなかったんだし。兄さんのものだけど、一度読めば頭に入る人だから、書籍のほうはむしろここまで使ってくれたほうが嬉しいってもんだろ」
「そうかな……」

 慰めてくれるかのような物言をされて海莉は驚いた。神室が義兄のことを話題にするのも珍しいことで、こんなふうに海莉を気遣うのも滅多にない。
 
「つーか、この部屋もだ」
「部屋?」
「ここ、兄さんの部屋だったんだ。おまえは有効活用してくれてるんだよ」
「え、待って……この机とかベッドは……」
「机やベッドも兄さんのだ。寝具は違うし、カーテンやカーペットも違うけど、ソファやテーブルも兄さんの」

 まるで新品に見えていたため、海莉が越してくるときに用意されたものだと思いこんでいた。
 考えてみれば、数学の参考書だけでなく、見た目には使われた形跡のない問題集などもクローゼットの中に何冊か入っていた。まだ海莉には早いものだったため使用していなかったが、それらも義兄のものだったようだ。

「でも、お義兄さんの部屋を使っちゃってて、帰ってきたときはどうするんだろ」
「……兄さんはアメリカに行くときすべて処分しようとしてた。向こうでまた揃えるからって言って。父さんが捨てずに取っておいただけで、兄さんは帰ってきたときに使うつもりはなかったんだろ」

 もしかして、出会った当初にあたりが強かったのは、その理由もあったのだろうか。海莉のせいではないといえ、面白くない気持ちになるのは理解できる。

「……なんか、ごめん」
「だからおまえのせいじゃないって。つーか……たぶん、もう戻ってこないんだと思う」 
「えっ? お義兄さんはアメリカに行ったままってこと?」
「ああ」
「そんなことないでしょ」
「いや。向こうに行って以来一度も帰ってきたことがないんだ。一度もだぞ? 兄さんにとって俺らはそんな程度なんだって……思わないか?」

 思わないかと聞かれても、兄弟のいない海莉にはわからない。
 しかし、祖父母だったらと例えてみれば、寂しく感じるように思えた。母ですら、一年以上顔を見ないと寂しく感じていたのだ。
 義兄は、もう四年も帰ってきていないと聞く。 

「……兄さんにとって、ここにいても得られるものなんてないんだろ」
「そんなこと……」

 そんなことないなんて、軽々しく言っていいものかと迷い、海莉は途中で言葉を止めた。

「兄さんは天才って言われてるけど、ガチの本物なんだよ。見たもの聞いたものなんでも一度で覚えることができる人で……授業なんて聞かなくても教科書読めば済むから、無駄な時間だっていつも愚痴ってた」

 凄い人だとは思っていたが、それほどのレベルだとは思わなかった。虚構の世界のキャラクターみたいなそんな人が実在しているなんて信じられない。信じられないが、神室にとっては一緒に育った兄なのだ。
 神室が勉強ばかりしていたのは、そんな義兄に近づきたかったからだろうか。海莉とは違って友人や慕ってくれる人がたくさんいる神室が、なぜ海莉と同じように自宅にこもっていたのか不思議だった。もしかしたらだが、それが理由だったのかもしれない。

「兄さんを失ったってことが受け入れられなかったんだ。ずっと……」

 神室の手が頬に触れた。突然のことで身体を震わせた海莉だが、驚くよりもいつもとは様子の違う神室が心配になった。神室の表情は悲痛に歪み、今にも泣き出しそうに見える。

「……でも、今はおまえがいる。この部屋に来たのがおまえでよかった」

 神室は消え入りそうな声で言って、海莉から離れていった。しかし海莉は咄嗟に行かせまいとして、神室を抱きしめた。

「俺は神室のそばにいる。お義兄さんの代わりにはならないけど、俺がずっとそばにいるから」

 言わなければならないと思った。恥ずかしいことだったけど、本当の気持ちを神室に伝えたかった。

「……うん」

 揶揄されたり、ネタにされるかもと思ったが、神室は応えてくれた。海莉の背中に手を回して、二人で抱き合う格好になった。
 恥ずかしいどころではなったが、泣きたいのなら泣かせてやりたかった。
 神室が涙を流すとき、その涙を受け止めてやりたい。神室の支えとなれる存在になりたいと思った。