海莉はレイや神室のことを意識しないように気を引き締めた。
 レイと夕方まで過ごしたあと、神室と夕食をとってゲームや宿題をする。あの日以前と同様の一日を送りながら、心のほうも同様に平静を保つつもりだった。
 しかし、どうやっても無理だった。
 意識しないようにすることそのものが、意識していることと同じである、そう突きつけられるばかりだった。
 レイの匂いが漂うときや、体温を感じるほど近づいたときに、抱きしめられた感触が蘇る。笑みを見てどきどきとする心臓の鼓動は、以前にも増して大きく、この日々だけで力尽きてしまうのではと怖くなるほどだった。
 神室とも同様に、普段どおりに接してくれている態度の中から、違いを見つけようとしてしまう。ほんの些細な変化に、別の意味があるのではと勘違いしたくなる。
 
 もう限界だというときに、ようやくお盆がやってきた。海莉は新潟に住む祖父母の家へと帰省する。
 日常の変化は、気持ちにも影響を与えるだろう。どう転ぶかは天のみぞ知る話だが、日増しに思い悩んでいた海莉にとっては、変化ならなんでも歓迎したい気分だった。
 レイは一日遅れでやってくる予定だ。両親も来るため、イギリスから帰国するのを待って、翌日一緒に向かうのだそうだ。海莉たちと同じ日に向かうとダダをこねていたが、お盆の時期に新幹線の指定席を変更するなどできるはずもなく、神室家だけ先に出発した。

「よう見ん間にでっけなって」

 数ヶ月ぶりに会った祖父母は思っていたよりも元気そうだった。海莉は変わらない祖父母の様子に安堵しながらも、自身の変化には驚いていた。
 祖父母宅へ入ったときに感じたのは、帰ってきたという馴染みある感覚ではなく、訪れたという新しい感覚だった。
 ここはもう自宅ではない。そう無意識にも意識が変化していたようだ。
 
「ばあちゃんも元気そうでよかった」
「こんのべっぴんさんがあんにゃか?」
「俺より大きいから(あんにゃ)に見えるけど、隆司くんは同い年で、一応弟になるんだ」

 母が義父を紹介したあと、神室のほうは海莉が引き取った。神室は優等生モードで深々と頭を下げ、品行方正のお手本のような挨拶をしたために、祖父母は目を丸くしていた。
 
「でっけなあ。都会もんは食うもんが違うかららろっか。こんげ立派な孫ができて嬉しいわ」
「こちらこそ、父方の祖父母はすでに他界しておりますので、孝行ができる思いで嬉しいです」
「立派だわあ。こんげばあちゃんとじいちゃんだから、遠慮せんでいいからな」

 祖父母と義弟が対面している様子を、誇らしげな気持ちで見守る日が来るとは思わなかった。神室は褒められるべき優等生で、祖父母たちが鼻を高くするのは必然だ。しかし以前なら妬ましさを覚えていたかもしれない。今は神室のことを歓迎してくれたことが嬉しくてたまらず、新しい孫として、海莉と同じように愛して欲しいと願っていた。
 そう感じた自分に驚きながら、同時にいつの間にか大切な存在が増えていたのだと実感していた。

 久しぶりに茶の間へと入ると、ちゃぶ台にはご馳走レベルの昼食がすでに並べられていた。
 神室は見るも初めての料理を、「美味しいです」とぱくつき、それを見守っていた海莉は、「でしょう」とにやつく口元を抑えられなかった。
 優等生モードの神室からも、最近はある程度の本音が見破れるようになっていた。箸のスピードや表情は、口に出た言葉が本音であると告げているように見え、海莉は嬉しくてたまらなかった。
 午後は夕食用に予約してあった寿司の盛り合わせを取りに、祖父が鮮魚センターへ行くというので、海莉も行くと訴えた。

「なんで俺も行くんだよ」
「一人で残っていても暇でしょ? じいちゃんはジェラート屋にも連れて行ってくれるんだって。行こうよ」
「……仕方ねえな」
「ばあちゃんたちの前で舌打ちなんてしないでよ」
「しねえよ」
「美味しかったでしょ? のっぺ」
「は?」
「ほら、二回もおかわりしてたやつ」
「……あれか」
「そう。……あ、そういやジェラート屋の近くにある神社でお祭りがやってる時期だから、ポッポ焼きも買って帰ろ」
「ぽっぽ……何?」

 義兄弟となった神室に、祖父母のいる新潟を実家だと感じてもらいたかった。海莉と同じように帰省する先として楽しみにしてもらえたら、そう願っていたから、少しでも馴染んでもらうために、神室を連れ出す機会は逃したくなかった。
 祖父とともに海辺のジェラート屋へ行き、チョコ好きの神室にもしぼりたて牛乳をつかったミルク味を堪能させ、「わるくない」との言葉をいただき、すぐそばにあった水族館へは今度行こうと言って「またあざらしと撮るのかよ」と呆れられ、神社の祭りでポッポ焼きを買って「見た目がキモい」と文句を言われながらも驚く顔を見たりと、楽しい時間を過ごした。
 そして目的地である鮮魚センターへと到着し、祖父から少し時間をもらえた海莉は、神室を案内することにした。中には特産物や土産物を売っているスペースがある。大したものはないが、地元の名物を知ってもらういい機会だ。

「こんなん帰りにも見るんだろ? 父さんが地酒とか買うだろうし」
「まあ、いいじゃん。ほらチョコ味の柿の種とかあるよ」
「げ。なんだそれ」
「チョコ好きじゃん」
「しょっぱいのと甘いのは交互に食べるのがいいんであって、同時に食いたくない」
「じゃあこれは?」

 柿の種を持った犬のぬいぐるみが目について、海莉は手に取ってみた。御当地キャラキーホルダーというのか、他の場所ではお目にかかれそうにないマスコットがたくさん並んでいる。

「なんだそれ」
「神室は新潟初めてでしょ? 記念になにか買ってあげるからさ」
「は? おまえが俺に?」
「どれがいい? これとかは? レルヒさん」
「なんだこれ。なんでおっさんのマスコットがあんだよ」
「スキーを教えた人なんだよ。これは?」
「おまえはどれがいいんだ?」
「えっ?」
「俺もおまえに買ってやるよ」
「俺にも? なんで?」
「いいじゃん。ほらこれ。でぶったにわとり」
「にわとりじゃなくて朱鷺だよ。あ、でもそれいいかも、トッキッキ」
「トッキッキ?」

 神室の目がうろんげに細められ、口元が不満げに歪んだ。まんまるの風船みたいなにわとりのどこが朱鷺なんだとばかりの反応だ。それがおかしくて、堪らず海莉は噴き出した。
 今度はじろりと睨まれ、やばいと焦った海莉は、取り繕うために話題を手繰り寄せる。
 
「いつか朱鷺を見てみたくってさ。近くからフェリーが出てるのに佐渡って行ったことないんだよね」

 ふうん、と興味なさげに呟いた神室は、そのキーホルダーを二つ手に取った。

「じゃ、俺もそれにする」
「えっ?」
「願掛けがてら」
「願掛けって?」
「今年は無理でも、来年とか、年末年始にでもまた新潟来るんだろ? タイミングなんていつでもある」
「え、それって……」
「たぶん毎年家族旅行に行くつもりなんだろうし……うぜえけど。船に乗るのも悪くない」

 神室とそれぞれレジを済ませて「ほら」と交換しあったキーホルダーは、交換する必要のない同じものだった。
 おそろいだ。
 神室にとってはこれも冗談半分なんだろう。今日だけのことで、明日になれば忘れて、東京に帰ったあとはクローゼットの奥に仕舞い込まれる。このキーホルダーは埃をかぶることになり、今日のことは記憶の彼方へと消えていく。
 
 神室にとっては何でもないことなのだから当然だ。
 ただ、海莉は死ぬまで大事にするだろうと思った。そして、神室も同じ気持ちでいてくれたらと願っている自分がいた。