海莉は、神室の支えで観覧車を降りたあと、その後なにをして、どうやって帰ったのかをほとんど覚えていなかった。
熱中症だったのかもしれない。とにかく眠くてたまらず、翌日いつもの時間にレイから着信がきて目覚めるまで、頭がまともに働いていなかった。
『起きたの? 大丈夫?』
「おはよー」
『病院は行った?』
「え……行ってないよ。でもかなりすっきりした。寝不足だったのかも」
『寝不足であんなに寝るかな? 車に乗せても眠ったままで、もしかしたら死んじゃうんじゃないかって思ったくらいだったよ。神室は寝かせておけばいいって、それしか言わないし、僕はどうしたらいいかわかんなくて……』
涙声になってきたレイは、海莉が帰りの車中で寝続けていたことが気がかりで、一晩中様子を見に行こうか迷い続けていたのだと話し始めた。
レイたち一行が颯と合流したあと、神室が海莉を連れて現れ、海莉が自動販売機のところで倒れていたことを聞いたのだという。レイは救急車を呼ぼうとしたのだが、意識はあるし、体温も平熱だからとなだめられ、心配ながらも神室家の車で帰ることになったのだそうだ。
海莉は颯を待っていた時間に一人で水を買いに行き、戻ってこないことを心配した神室が様子を見に追いかけて発見した、ということになっていた。
神室は、海莉と二人きりで観覧車に乗ったことは隠すことにしたらしい。
だとすれば口裏を合わせたほうがいいだろう。決めた海莉は、そのときの話はもういいとして、話題を変えることにした。
「今日は何時頃に行っても大丈夫そう?」
『えっ? 動いて大丈夫なの?』
「大丈夫だって。すぐ近くだし、もし体調が悪くなっても、レイがそばにいれば安心じゃん」
『うん……うん。そうだね。離れているより近くにいたほうが安心かも』
噛みしめるように答えたレイは、少しずつ声に張りが出てきたように感じられた。よほど心配をかけていたらしい。レイが元気を取り戻してきたことに、海莉は胸を撫で下ろした。
熱中症が理由で眠り続けていたら確かに心配になる。水分不足だったのは確かだったから、間違ってはいない。しかし、熱中症というのは事実の半分くらいだ。
一番の理由は緊張と疲労だったのだと思う。そして、神室からキスをされたことがとどめとなった。
「そうだよ。ここにいても部屋に一人でいるだけだし、もし何かあったら夕方まで気づかれないから、レイといたほうがいい」
『え、でも神室は?』
「神室とは夕食まで顔を合わせないから」
これからは、という言葉をつけずに答えた。
神室とは朝食のときも顔を合わせるし、レイのところへ行かないときは昼食も一緒にとる。場合によっては、午後から寝るまで一緒に過ごす日もある。
普段はだが、今日の海莉にそのつもりはなかった。
昨日の今日で、どんな顔をして会えばいいというのか。目覚めたばかりの海莉は整理なんてできていないし、今の今まで考える余裕すらなかった。
夕方まで考える時間が欲しい。
だから、神室が起きてくる前に、姫宮に朝食は自室でとりたいと告げ、顔を合わせないようにしなければ。
海莉はレイとの通話を終えてすぐに、忍び足でダイニングへと下りた。
「なんだその寝癖。いくら家の中でも家族がいるんだから、普通は直してから来ないか?」
しかし、神室はすでにダイニングで朝食をとっていた。こんな早い時間に起きている神室を見たのは初めてだ。
「……おはよ」
「洗面済ませてから来いよ」
「か、顔は洗ったよ」
「へえ。もしかして、水で?」
「えっ……水で洗う以外に何で洗うの?」
「……やっぱりな。おまえには嗜みってもんがないわけ? 整髪料はまだ早いにしても、スキンケアくらいしておけよ」
「スキンケアって……どんなことをすればいいかわかんないし」
「まじかよ……」
舌打ちをした神室は、「仕方ねえな」と声を荒らげ、洗面所のほうへ向けて親指を立てた。
「何種類か持ってるから、洗面台の俺んとこのスペースにあるやつを使ってみればいい。どれでも勝手に使え」
神室の態度は拍子抜けするほどにいつもどおりだ。顔を見れば嫌味や冗談を言わねば気が済まないといった、いつもの神室。いや、こんな提案をするくらいだから、むしろ普段以上に機嫌がいいと言える。
「ほんとに使ってみてもいいの?」
「いいって言ってんだろ。これもファンサだ」
ファンサと聞いて、海莉は顔が熱くなる。昨日の今日でさっそく倒れた主因を掘り返してくれるとは、意地悪もここまでくると名人芸だ。
「それ……やめてよ」
「いちいち照れてんじゃねえよ、バーカ。またしてやろうか?」
笑い声をあげながら立ち上がった神室は、うつむいた海莉の頭を軽く叩いてダイニングを出ていった。
なにを考えているのだろう。
立ち去るその背を見ながら、海莉は赤くなった頬を手の甲でこすった。
ゴールデンウィークを経て、神室との距離は徐々に縮んできていたはずだった。どんな人柄なのかわかってきたと思ったのに、途端にわからなくなった。
海莉にとってキスという行為は、特別な相手とするべきことであり、友人や家族とは違う感情がなければできないことだと思っていた。
そのはずが、神室にとってはいたずら半分でできることらしい。レイの言うように嫌なやつだとは思わないが、さすがに戸惑ってしまう。
考えても、もやもやとするだけで整理なんてできそうにない。海莉は一人でいてはだめだと判断し、早めにレイのマンションへ向かうことにした。
「海莉ー!」
マンションのドアを開けた瞬間にレイが抱きついてきた。大柄なレイから突進され、海莉はバランスを崩してあやうく後ろへ転ぶところだった。レイはそんな海莉をものともせずに支え、肩にぎゅうぎゅうと顔を押しつけてくる。
「心配かけてごめん」
「海莉が謝ることじゃないよ。僕がもっと早くドリンクを買ってきてあげればよかったんだ」
落ち着いてきたと思ったのに、また涙声だ。
「なんでそんな……高校生にもなって自己管理できてない俺が悪いんだよ」
「海莉を一人にさせた僕が悪い。もう絶対に離れないから」
マンションの玄関ドアはまだ開いたままで、廊下にレイの声が響いてしまっている。誰かが部屋から出てきたら男同士で抱き合っているこんな姿を見られてしまう。
「レイが悪いわけないじゃん。それより中に入ろうよ」
「僕が悪い。海莉を守るのは当然のことなのに……海莉は誰よりも大切な存在なんだから」
耳元で聞こえた言葉に、海莉は顔中が熱くなった。
「……また大げさなこと言って」
「本当のことだよ。海莉……愛してるよ」
顔中どころか全身が熱くなった。
電話では毎日のように聞いていたのに、再会したその日以降は一度も聞いていなかった。そのせいか、今の海莉の耳には別の意味で聞こえてしまった。
「レイ……」
海莉の中に、レイに対する別の感情が芽生え始めていたからかもしれない。
「海莉。うう……ごめんね。夏は必ず水筒を携帯するから」
レイのさらさらとした茶色の髪が、海莉の頬をくすぐる。レイの匂いに包まれ、力強く抱きしめるその腕に身体を預けたくなる。違う意味に聞こえてしまった言葉を、そのまま勘違いしてしまいそうだ。
いや、勘違いをしたくなっている。
「……じ、自分の分は自分で用意するからさ」
「海莉はただ僕のそばにいてくれるだけでいいんだよ」
レイの声が聞こえた直後、ちゅっという音とともに額に柔らかい何かが触れた。
「ごめんね、こんなところで。中に入ろ」
レイの身体が離れて、手を引かれた。
「朝ごはん食べた?」
足がふらつく。レイの支えがなければ転んでしまいそうだ。
「えっ? ……うん。食べた」
ふらふらと誘導された海莉は、リビングのソファに座らされた。
「じゃ、味噌汁はお昼にね。麦茶を持ってくる。塩を入れたのを飲むといいんだって」
キッチンへと消えていくレイを目で追いながら、海莉は額を指で撫でた。
レイからキスをされた。
額だったが、今の海莉には唇にしたのと同じくらいの衝撃があった。
レイのキスは挨拶代わりで、今のはボディタッチの延長だ。抱きしめたのはハグというやつだし、友人でも普通にすることのはずだ。
だから、勘違いしてはいけない。
勘違いをするかしないかは、海莉次第なのだ。
どきどきしたり、ぎくしゃくしたりするのは、海莉が別の意味に解釈してしまうからであって、レイの本意からすれば勘違いとなる。
海莉はそこまで考えて、神室のキスも同じであることに気がついた。
ふざけてキスをするなんて、というのは海莉の解釈であって、神室にとっては普通のことなのだ。
軽口や嫌味と同じで、いつものように受け流すべきことでしかない。
動揺して慌てている海莉を見て楽しんでいるだけだ。いい趣味とは言えないが、神室は海莉が本当に嫌だと思うことはしない。
キスも、海莉にとっては嫌なことではなかった。
熱中症だったのかもしれない。とにかく眠くてたまらず、翌日いつもの時間にレイから着信がきて目覚めるまで、頭がまともに働いていなかった。
『起きたの? 大丈夫?』
「おはよー」
『病院は行った?』
「え……行ってないよ。でもかなりすっきりした。寝不足だったのかも」
『寝不足であんなに寝るかな? 車に乗せても眠ったままで、もしかしたら死んじゃうんじゃないかって思ったくらいだったよ。神室は寝かせておけばいいって、それしか言わないし、僕はどうしたらいいかわかんなくて……』
涙声になってきたレイは、海莉が帰りの車中で寝続けていたことが気がかりで、一晩中様子を見に行こうか迷い続けていたのだと話し始めた。
レイたち一行が颯と合流したあと、神室が海莉を連れて現れ、海莉が自動販売機のところで倒れていたことを聞いたのだという。レイは救急車を呼ぼうとしたのだが、意識はあるし、体温も平熱だからとなだめられ、心配ながらも神室家の車で帰ることになったのだそうだ。
海莉は颯を待っていた時間に一人で水を買いに行き、戻ってこないことを心配した神室が様子を見に追いかけて発見した、ということになっていた。
神室は、海莉と二人きりで観覧車に乗ったことは隠すことにしたらしい。
だとすれば口裏を合わせたほうがいいだろう。決めた海莉は、そのときの話はもういいとして、話題を変えることにした。
「今日は何時頃に行っても大丈夫そう?」
『えっ? 動いて大丈夫なの?』
「大丈夫だって。すぐ近くだし、もし体調が悪くなっても、レイがそばにいれば安心じゃん」
『うん……うん。そうだね。離れているより近くにいたほうが安心かも』
噛みしめるように答えたレイは、少しずつ声に張りが出てきたように感じられた。よほど心配をかけていたらしい。レイが元気を取り戻してきたことに、海莉は胸を撫で下ろした。
熱中症が理由で眠り続けていたら確かに心配になる。水分不足だったのは確かだったから、間違ってはいない。しかし、熱中症というのは事実の半分くらいだ。
一番の理由は緊張と疲労だったのだと思う。そして、神室からキスをされたことがとどめとなった。
「そうだよ。ここにいても部屋に一人でいるだけだし、もし何かあったら夕方まで気づかれないから、レイといたほうがいい」
『え、でも神室は?』
「神室とは夕食まで顔を合わせないから」
これからは、という言葉をつけずに答えた。
神室とは朝食のときも顔を合わせるし、レイのところへ行かないときは昼食も一緒にとる。場合によっては、午後から寝るまで一緒に過ごす日もある。
普段はだが、今日の海莉にそのつもりはなかった。
昨日の今日で、どんな顔をして会えばいいというのか。目覚めたばかりの海莉は整理なんてできていないし、今の今まで考える余裕すらなかった。
夕方まで考える時間が欲しい。
だから、神室が起きてくる前に、姫宮に朝食は自室でとりたいと告げ、顔を合わせないようにしなければ。
海莉はレイとの通話を終えてすぐに、忍び足でダイニングへと下りた。
「なんだその寝癖。いくら家の中でも家族がいるんだから、普通は直してから来ないか?」
しかし、神室はすでにダイニングで朝食をとっていた。こんな早い時間に起きている神室を見たのは初めてだ。
「……おはよ」
「洗面済ませてから来いよ」
「か、顔は洗ったよ」
「へえ。もしかして、水で?」
「えっ……水で洗う以外に何で洗うの?」
「……やっぱりな。おまえには嗜みってもんがないわけ? 整髪料はまだ早いにしても、スキンケアくらいしておけよ」
「スキンケアって……どんなことをすればいいかわかんないし」
「まじかよ……」
舌打ちをした神室は、「仕方ねえな」と声を荒らげ、洗面所のほうへ向けて親指を立てた。
「何種類か持ってるから、洗面台の俺んとこのスペースにあるやつを使ってみればいい。どれでも勝手に使え」
神室の態度は拍子抜けするほどにいつもどおりだ。顔を見れば嫌味や冗談を言わねば気が済まないといった、いつもの神室。いや、こんな提案をするくらいだから、むしろ普段以上に機嫌がいいと言える。
「ほんとに使ってみてもいいの?」
「いいって言ってんだろ。これもファンサだ」
ファンサと聞いて、海莉は顔が熱くなる。昨日の今日でさっそく倒れた主因を掘り返してくれるとは、意地悪もここまでくると名人芸だ。
「それ……やめてよ」
「いちいち照れてんじゃねえよ、バーカ。またしてやろうか?」
笑い声をあげながら立ち上がった神室は、うつむいた海莉の頭を軽く叩いてダイニングを出ていった。
なにを考えているのだろう。
立ち去るその背を見ながら、海莉は赤くなった頬を手の甲でこすった。
ゴールデンウィークを経て、神室との距離は徐々に縮んできていたはずだった。どんな人柄なのかわかってきたと思ったのに、途端にわからなくなった。
海莉にとってキスという行為は、特別な相手とするべきことであり、友人や家族とは違う感情がなければできないことだと思っていた。
そのはずが、神室にとってはいたずら半分でできることらしい。レイの言うように嫌なやつだとは思わないが、さすがに戸惑ってしまう。
考えても、もやもやとするだけで整理なんてできそうにない。海莉は一人でいてはだめだと判断し、早めにレイのマンションへ向かうことにした。
「海莉ー!」
マンションのドアを開けた瞬間にレイが抱きついてきた。大柄なレイから突進され、海莉はバランスを崩してあやうく後ろへ転ぶところだった。レイはそんな海莉をものともせずに支え、肩にぎゅうぎゅうと顔を押しつけてくる。
「心配かけてごめん」
「海莉が謝ることじゃないよ。僕がもっと早くドリンクを買ってきてあげればよかったんだ」
落ち着いてきたと思ったのに、また涙声だ。
「なんでそんな……高校生にもなって自己管理できてない俺が悪いんだよ」
「海莉を一人にさせた僕が悪い。もう絶対に離れないから」
マンションの玄関ドアはまだ開いたままで、廊下にレイの声が響いてしまっている。誰かが部屋から出てきたら男同士で抱き合っているこんな姿を見られてしまう。
「レイが悪いわけないじゃん。それより中に入ろうよ」
「僕が悪い。海莉を守るのは当然のことなのに……海莉は誰よりも大切な存在なんだから」
耳元で聞こえた言葉に、海莉は顔中が熱くなった。
「……また大げさなこと言って」
「本当のことだよ。海莉……愛してるよ」
顔中どころか全身が熱くなった。
電話では毎日のように聞いていたのに、再会したその日以降は一度も聞いていなかった。そのせいか、今の海莉の耳には別の意味で聞こえてしまった。
「レイ……」
海莉の中に、レイに対する別の感情が芽生え始めていたからかもしれない。
「海莉。うう……ごめんね。夏は必ず水筒を携帯するから」
レイのさらさらとした茶色の髪が、海莉の頬をくすぐる。レイの匂いに包まれ、力強く抱きしめるその腕に身体を預けたくなる。違う意味に聞こえてしまった言葉を、そのまま勘違いしてしまいそうだ。
いや、勘違いをしたくなっている。
「……じ、自分の分は自分で用意するからさ」
「海莉はただ僕のそばにいてくれるだけでいいんだよ」
レイの声が聞こえた直後、ちゅっという音とともに額に柔らかい何かが触れた。
「ごめんね、こんなところで。中に入ろ」
レイの身体が離れて、手を引かれた。
「朝ごはん食べた?」
足がふらつく。レイの支えがなければ転んでしまいそうだ。
「えっ? ……うん。食べた」
ふらふらと誘導された海莉は、リビングのソファに座らされた。
「じゃ、味噌汁はお昼にね。麦茶を持ってくる。塩を入れたのを飲むといいんだって」
キッチンへと消えていくレイを目で追いながら、海莉は額を指で撫でた。
レイからキスをされた。
額だったが、今の海莉には唇にしたのと同じくらいの衝撃があった。
レイのキスは挨拶代わりで、今のはボディタッチの延長だ。抱きしめたのはハグというやつだし、友人でも普通にすることのはずだ。
だから、勘違いしてはいけない。
勘違いをするかしないかは、海莉次第なのだ。
どきどきしたり、ぎくしゃくしたりするのは、海莉が別の意味に解釈してしまうからであって、レイの本意からすれば勘違いとなる。
海莉はそこまで考えて、神室のキスも同じであることに気がついた。
ふざけてキスをするなんて、というのは海莉の解釈であって、神室にとっては普通のことなのだ。
軽口や嫌味と同じで、いつものように受け流すべきことでしかない。
動揺して慌てている海莉を見て楽しんでいるだけだ。いい趣味とは言えないが、神室は海莉が本当に嫌だと思うことはしない。
キスも、海莉にとっては嫌なことではなかった。



