思い描いていた未来が突然手の届かないものへと変わってしまった。沈んだ気分を晴らせないまま家を出た海莉は、登校してすぐ友人たちに事情を伝えた。ショックだと言って嘆き悲しんでくれた友人たちは、自分のことのように憤慨し、海莉を必死に励ましてくれた。

「まだ二ヶ月近くあるだろ? その間はたくさん遊ぼうぜ」
「そうだよ。東京なんて新幹線ですぐじゃん。三年も経てば成人するし、いつでも会える距離だよ」
 
 そのとおりだと海莉も納得し、放課後になるころには落ち着きを取り戻していた。しかし、後は卒業を待つだけという友人たちとは違って、海莉は再び試験勉強に取り掛からねばならない。昨日まではあの輪の中にいたのにと妬みの目を向けながら、友人たちがカラオケやら映画へ行くと盛り上がるのを尻目に、海莉は自宅へ帰った。
 一人になるとやはり気が重くなってしまう。ため息をつきながら御役御免となりまとめておいた参考書類を引っ張り出し、なんでこんなことをしなければならないんだと恨み言をつぶやきながら、二時間ほど勉強した。
 集中力が切れてきた頃、気分転換と報告がてらレイにメールをすると、向こうは朝の九時だというのに、電話がかかってきた。

『東京に行くなんて冗談だよね?』
「……本当だよ。まじでめんどい。最悪」
『NOOOOOO』

 絶叫しているが、この時間レイは授業中のはずだと、他人事ながら心配になる。

「今どこにいるの?」
『……ランチコート』
「授業中じゃないの?」
『こんなときに授業なんて受けてられるわけないじゃん』
「こんなときって、レイのことじゃないんだから、サボっちゃだめだろ」
『僕のことじゃないなんて言わないでよ。海莉が悲しかったら僕も同じくらい悲しいんだよ。ばあちゃんたちと離れて暮らすことになって、タカシたちとも別の高校へ行くことになるんでしょ?』

 海莉は胸がじんと熱くなった。友人たちの励ましも嬉しかったが、やはりレイが寄り添ってくれるのは格別だ。

「母さんなんて、親ってよりも親戚みたいなのに、ばあちゃんたちから離れるのは正直不安だよ」
『そうだよね。再婚なんて、知らないオジサンと暮らすんでしょ? 考えるだけでぞっとする』

 延々と続くレイの嘆きは海莉本人が引くほど攻撃的で、さすがに目に余るとして擁護の側に回っていたら、徐々に冷静な視点で考えられるようになってきた。ぐちぐち嘆いていても仕方がないと気がついて、十分程度会話しただけなのにすっかり気分が晴れた。

「かなり元気が出てきたよ。ありがとう。でもレイはそろそろ授業に戻ったほうがいい」
『あー、通信制限かかったら困るしね。……了解』

 絶望に沈ませた声を聞いて、海莉は吹き出すほどの余裕すら出てきた。
 憂鬱なのは変わりないが、大切な人たちの嘆きっぷりを聞いていたら、ここまで大切に思ってくれる彼らのためにもと頑張れる気がしてきた。
 何よりも、生活が変わったところでレイとの関係は変わらない。それどころか、母と暮らすようになればWi-Fiが使えるようになるのではないだろうか。通信制限を気にせずレイと電話できるようになるなら、むしろ環境は良くなると言っていい。
 光明というか、なんにせよ抗えないことなのだから、レイとの時間が増えることを喜び、気持ちを切り替えるべきだと前を向くことにした。
 
 翌週行われた試験は、入学することになる東京の有明高校で行われた。特例という事情どおり、海莉の他に受験する生徒はおらず、丸一日の孤独な時間を耐え抜いた。
 難易度としては共通テストよりも高かったが、海莉にとってはそこまで頭を悩ませるものではなかった。
 海莉は、幼い頃から勉強は得意なほうだった。何不自由なく育てられたとはいえ、ゲームやパソコンといった高価なものは与えてもらえなかったため、友人と遊ぶ以外の時間は、祖父母の見るテレビに付き合うくらいしかなく、常に時間を持て余していた。勉強をすることで暇をつぶしてきた成果が、合格という結果に結びついてくれたようだ。

 テストのために上京したとき、義父となる人とは会えずじまいだった。海莉は帰って数日したのちに、顔すら知らないまま、一ノ瀬から神室へと名字が変わり、春休みに入って一週間ほどした頃、あっという間に引っ越す日がやってきた。

「……ばあちゃん、じいちゃん、本当にありがとう」
「最初はほんの数年って話だったのに、ここまでかいちゃんの成長を見ることができて嬉しかったよ」
「ばあちゃん……」

 生まれたときに六十代だった祖父母は、いま八十手前の年齢になっている。これから海莉が二人を支えようと意気込んでいたはずが、恩返しをする前に出ていかなければならないとは、悔やむ想いに目頭が熱くなる。

「……卒業したら帰って来るから、部屋は元のままにしておいてね」
「なにさね。せっかく都会へ出るんだから、いい仕事を探してあっちで嫁をもらいなさい」
「じいちゃんの働いてた工場に就職するからさ……」
「あんげんとこ何年もしたら廃業しとるから、しっかりとしたところを探しなせ。盆や正月も無理せんでええから」

 祖父母はお金がかかるから、頻繁に帰る必要はないという。そんなわけにはいかない。なにより海莉のほうが二人を恋しく思うだろう。盆や正月だけでなく、機会があれば頻繁に帰ってこようと密かに決意をして、祖父母と別れた。
 駅では友人たちが何人も見送りに来てくれていた。涙ぐむ友もいて、もらい泣きしそうになりながらも、たかが数年だけだからと、湿っぽくならないよう別れを告げた。

 東京駅まではレイとのメールで時間をつぶした。どうやら新しい義家族のことが気になるらしく、逐一実況メールを送れというのである。通信制限も、もはや関係なくなるともなればどれほど送っても構うまいとして、早起きしてくれたレイと、『東京寒い』『イギリスも寒い』など、とりとめのないことを送っていたら、しんみりとする暇もなく到着した。
 新幹線を降りて、母の待つ構内のカフェへと向かった。覗いてすぐに見つけた母は、パソコンを広げて何やら作業をしており、海莉が前の椅子に座ってようやく顔をあげた。

「時間ちょうどね」

 にこりと微笑んだ母のその表情は、やや強張っていた。すぐに視線はパソコン画面へと落ち、「十分くらいしたらロータリーに迎えの車が来るから、あなたも何か飲みなさい」と言われて、海莉はメニューを取った。
 母と外で何かを食べる機会なんて今までにあっただろうか。
 パフェが気になったが、高校生にもなるのに子どもっぽいと思われたら恥ずかしいと考えて、レモンスカッシュを注文した。

「ごめんなさいね。こんなときも仕事なんてして……」
「いいよ」

 母は祖父母宅に帰ってきても常にパソコンやタブレットを起動させ、スマホは肌身放さずだ。同じ空間にいても目が合うことはほどんどない。
 会話するときは人の目をしっかり見るのよ、との教えは祖父母のどちらからも共通して躾けられたものだが、一人娘である母には行き届かなかったらしい。
 これから先も母とはずっとこんなふうで、一緒に暮らすようになっても変わらないのかと思うと、気が重くなってくる。
 
[今何してるの? 実況してよ]

 通知の振動がきてスマホを見ると、レイからのメールだった。東京のごみごみした人の多さと母の態度に息が詰まっていた海莉は、ようやく酸素が送られてきたとばかりに、口元を緩ませた。

[今母さんとカフェで待機中。これ食べたかったんだけど、時間がないからジュースにした』

 メニューに載っていたパフェの写真を撮って添付した。なんでもない些細なことでも、レイに送ると喜んでくれる。意味のあることを送らねばと気を張るよりも、他愛のないこういったやり取りのほうが、身近に感じられて嬉しいのだそうだ。

[こんなの食べるの? 海莉ならチョコパフェかと思ったけど]
[チョコよりティラミスが好きなの。さらに好きなのがモカ味]
[モカ味? げえっ。コーヒーはコーヒーで飲みたい]
[あれ? イギリス人にこだわりがあるのは紅茶だけだと思ってたけど]
[偏見ってやつだよ。僕は紅茶よりコーヒー派なんだ]

 レイとのメールに夢中になっていたら、母はパソコンをバッグにしまい始めていた。画面の向こうに名残惜しさを覚えつつも、現実に戻らねばならない。

「もう時間よ」

 母はレモンスカッシュに目をやり、海莉はまるで口をつけていなさったそれを慌てて飲み干した。冷たさも甘さも、海莉の頭をきんと冷やしただけで、なんの力もくれなかった。
 
 店を出ると今度はイヤホンで母は通話をし始めた。地元より五倍は人の多い構内を母はすいすいと進んでいく。海莉は気を張らねばぶつかってしまいそうな都会の道を、たどたどしく追いかけた。
 こんな街が今日から地元になるのか。
 数時間前にいた地元とはガラリと変わった世界におののきながら、唯一の身内である母とも、ぎくしゃくとするばかりの現状に、不安は募る一方だ。
 頼れる相手は母しかいないというのに、その母は海莉に気を配ってくれない。
 海莉が何を考えているのか、再婚や引っ越しが不安なのかを問うこともない。わざわざ訊ねる必要を感じていないのかもしれないが、新しい学校のことや、義家族の人柄など、何も教えてくれないのはさすがに不親切ではないだろうか。
 気になるのなら自ら聞くべきかもしれない。しかし、母に声をかけることは、校長先生を呼び止めること以上に気が重くなることなのだ。
 
 ロータリーには如何にも高級そうな黒のセダンが停まっていた。近づくと運転手が下りてきて、恭しくも後部座席のドアを開けてくれた。まるでテレビドラマのワンシーンみたいなそれに、海莉は唖然とし、そして気がついた。
 義父は私立学校の理事という話だが、もしかしなくても裕福な人なのかもしれない。
 これまでは、祖父母たちと別れることと、母が教えてくれないことに不満を覚えるばかりで、自ら義家族のことについて考えようとしていなかった。
 ふかふかとした触り心地の革のシートに乗り込み、これからその義家族と会うのだということをようやく実感し始めた。

 今さらながらに緊張してきた海莉は、迫りくる不安を解消するべく、勇気を出して母に訊ねてみようかと考えた。
 スマホを操作する母を横目に見て、しかし、すぐ窓の外に視線を逸らした。
 なんて切り出したらいいかわからない。集中している母に話しかけられない。カフェで一瞬だけ目を合わせた母の、強張った笑みが海莉の勇気を消沈させていった。
 
 祖父母だったら、どんなタイミングでも、なんだって聞いてくれるのに。
 比較してはならないと自戒しようとしても、どうしてもこみ上げてくる。祖父母への思慕を拭い去るように目元をこすり、海莉は息を殺して窓の外を眺めていた。