「もしかして、レイ?」
「もしかしてってなに? どうしたの海莉」

 おかしげに笑ったレイは、またも海莉の口元をめがけて近づいてきた。
 何度もされるわけにはいかない。これ以上は勘弁して欲しいとの力をかけて、無理やりレイの胸を押し返した。

「なんでこんなことするんだよ?」
「なんでって、愛してるからだよ」
「あ……」

 電話でよく耳にしていたその言葉を聞いて、海莉は火がついたかのように全身が熱くなった。ハーフでイギリス育ちのレイにとって、キスや愛の言葉など臆面もないことだ。それはわかっていても、ここは日本だし、日本人の海莉にとっては違う。やすやすと受け入れられることではない。

「大好きだよ、海莉」

 胸元を押さえつけているのに、レイはじゃれつくかのごとく頬ずりしてくる。がっちりとした体格のレイに抱き寄せられ、体格差のある海莉はすっぽりと埋もれてしまった。
 あれこれと問いただしたいところだが、この状況では無理だ。とにかくレイを落ち着かせなければならない。
 
「……それより、なんでここにいるの? 待ち合わせる約束だったじゃん」
「待ってられないよ。今の時間ならランチタイムだと思って来てみたんだけど、なかなか見つからないから学校間違えたかもって焦ったよお」

 あっけらかんとした反応が返ってきて、海莉は脱力しそうになる。
 
「……てか、どうやって入ったんだよ」
「ママから転入届のコピーをもらってあったから、それを見せたら見学ってことでオッケーもらえた」

 紙ペラ一枚で入れるなんて緩すぎやしないか?
 ますます脱力した海莉は、ツッコミを入れられるくらい落ち着きを取り戻してきた。そこでようやく周りの様子に意識を向けることができたのだが、カフェテリアはいまだ静まり返ったまま、何十という耳目が海莉たちの成り行きを見守っていた。
 こんな状況だったのかと、熱くなっていた身体は急激に冷え、途端に生きた心地が消え失せた。

「あのさ……」
「午後の授業が終わるまで、のんびりカフェでも飲んで待ってるよ。ホテルのチェックインは三時過ぎだし」
「それよりも、とりあえず一旦出よう」
「えっ? どうしたの?」

 レイは周りの様子がまったく見えていないらしい。普段はクラスメイトから何それを言われたなどと愚痴ってくるくせに、こんなにも注目を浴びている実感がないとは驚きだ。
 
「ここじゃ何だからさ」
「まさか海莉……二人きりになりたいの?」

 ふふ、と嬉しげな笑い声を耳にして、これまでに電話で何度となく聞いた記憶が蘇る。本当の本当にこの男がレイなのだ。実感はすれど、いまだ事実を受け入れるには動揺が冷めやらない。
 混乱した頭を引きずりながらも、海莉はレイの手を引いてなんとかカフェテリアを出た。
 
「誰もいないところはないのかよ」

 校舎を出て中庭へ行くも、生徒たちの好奇の目はどこまでも続いている。背が高く私服を着たレイは、その美貌を抜きにしても目立って仕方がない。

「あそこは? 海莉」

 レイが差し示したのは来賓用の駐車場だった。義父のような普段学校にいない賓客が来たときのために空けられているスペースだ。生徒たちが来ないよう校舎の陰になっているそこは、確かに今も人のいる気配はない。
 レイと二人でたどり着き、きょろきょろと人の目がないことを確認した海莉は、何よりも気になっていたことをまず問いただすことにした。

「レイ……」
「どうしたの? そんな怖い顔しないでよ。ムードが台なしじゃん」
「ムードって何?」
「二人きりになったのはキスをするためじゃないの?」
「違うって……レイに聞きたいことがあるんだ」
「なに? ホテルの場所?」
「そうじゃなくて、レイは性転換したのかってことだよ」

 何よりもまず確認すべきは性別だ。この見た目にしてレイの声は中性的と言えるくらいに甲高い。小学校の頃は間違いなく女の子だったことも記憶に残っている。
 ならば答えは一つしかないと、海莉は考えた。

「セイテンカン……って、どういう意味だっけ?」
「トランスジェンダーなのかってことだよ」

 レイは女性の身体で男の心を持っているはず……いや、男の身体で女の心を……あれ?
 
「トランスジェンダー? 僕が? なんで? 生まれたときから身体も心も男だよ」

 今はどこからどう見ても男に間違いないが、レイの言い分だと小学生の頃も男だったということになる。
 
「前は女子だった……だろ?」
「前っていつ? それって小学生の頃ってこと?」

 レイはまさかというように目をぱちくりとさせた。そして、冗談はやめてよと言って笑い出した。

 「確かにナナたちから女の子に見えるって言われてたけど……え、海莉は僕のことをずっと女だと思ってたってこと?」

 海莉が無言という肯定を示すと、レイは途端に笑うのをやめて、困惑の滲む目を向けてきた。

「六年間ずっとってこと?」
「……うん」
「体育の着替えのとき、一緒だったじゃん。プールも……あれ? 日本の学校でプールに入った覚えないかも」

 海莉の記憶にもレイと授業でプールに入った覚えはなかった。おそらくどちらかが休んでいたか、ちょうど天候が悪く、授業の機会自体が少なかったのだろう。
 レイは女子と思われるような行動は何一つとっていないと説明し始めた。遊ぶ相手は男子ばかりだったし、服装も男物を着て、髪型も短かったはずだという。海莉の記憶でもそれは間違いない。着替えや、男女に分かれる機会もあったはずだが、頭から女子と思い込んでいたせいか、そういった細かい点の記憶はあいまいだ。

「声変わりっていうんだっけ? 何年か前から低い声になっていたと思うけど。一人称も僕にしていたし」
「今どきは男だけが使う言葉じゃないんだよ……ていうかレイが写真を送ってくれていれば、勘違いせずに済んだと思う。なんで一枚も送ってくれなかったんだよ」
「言ったじゃん。ブスは写真撮るなって言われて、トラウマになってるんだって」
「どこがブスなんだよ……映画撮影中の俳優なんじゃないかって騒がれていたのに」
「映画俳優? 僕が?」

 またもおかしげに笑うレイは、それだけで絵になるくらいに輝いて見える。微笑みかけられたら失神するレベルの美貌だ。
 海莉の記憶にあるレイは今も女子としか思い返せないが、事実を曲げることはできない。
 レイは生まれたときからずっと男だった。いくら整理できないとしても受け止める以外にない。

「かわいい、海莉」

 レイにいきなり抱き寄せられ、うっとりとした目を向けられた。息を飲むほどの美貌が間近にまで迫り、頬どころか顔中が熱くなる。

「ここは日本なんだから、そういうのホントにやめて」

 うろたえてしまう自分が嫌でたまらない。レイは友人を相手に、好意を示すスキンシップくらいにしか考えていないのだ。それなのに海莉のほうは、特別な相手とするかのごとくに意識してしまう。
 同性同士だというのにおかしいことだが、仕方がない。
 長年恋心に近い感情を抱いていた相手だ。性別を勘違いしていだけで、レイであることには変わりない。見るほどに小学生の頃の面影があちこちに見えてくるし、声もまごうことなくレイだ。
 再会できたら告白するつもりで、キスなどの触れ合いもいつかはと妄想していた。それがまさに現実となったのだ。
 海莉の意思なくしてとは言え、いまだ感触は生々しく残っている。落ち着こうにも火照った頬は一向に冷めやらず、レイの言動ひとつにどきまぎして、心臓は壊れんばかりに踊り狂ったままだ。
 
「そういうのって、なに?」
「べたべたくっついたり……キスしたりするのだよ」
「日本に来て会えたからするんじゃん」
「会えたからって言っても、日本では通用しないんだよ……ていうか昼休みが終わっちゃうから、そろそろ行かなきゃ」
「いま何時? あー、ほんとだ。探すのに手間取ったせいだ」

 しぶしぶと言った様子で離れたレイは、スマホを取り出して見てから、大げさな身振りで天を仰いだ。よく耳にしていた反応がビジュアル付きで再現され、海莉はどきりとした。こういった気づきからレイが目の前にいることをまざまざと実感して、感激とショックがない交ぜに襲って来る。

「一時間くらいだよね? さっきのとこで待ってるね」
「あそこはだめだよ!」
「なんで? カフェテリアなんでしょ?」
「レイは目立つから……私服だし。近くに『オースティン』っていう喫茶店があるから、そこで待ってて」
「『オースティン』? それってジェイン・オースティンのこと?」
「……わかんないけど、学生のたまり場みたいなところがあるんだ。校門を右に出てしばらく歩くと見えてくるから」
「誰と行ったの? そんなところ」
「噂で聞いただけで、行ったことはない。授業が終わったらすぐ行くから」

 レイは「本当に?」と、突然苛立ったような声をあげた。なぜなのかわからない海莉は、しかしそれどころではないため「ソッコーで行くから」となだめながら校門へと続く道を進んだ。

「一ノ瀬」

 すると、駐輪場に差し掛かったあたりで後ろから声をかけられた。
 この学校で海莉を一ノ瀬と呼ぶのは神室しかいない。しかし、校内で呼ばれたのは初めてだ。
 
「そいつが例の彼女なのか?」

 神室は一人きりだった。お供の連れていない神室を珍しく思いながらも、自宅モードである理由に納得した。
 
「彼女……ではなかったけど」
「彼女って、僕のこと? 海莉は神室に僕のことを恋人だって話していたの?」

 浮き浮きと割って入ってきたレイを、神室は不快げに睨みつけ、すぐにまた海莉に視線を戻した。
 
「嘘をついていたんじゃなくて、本気で勘違いしていたのか?」
「……そうだよ」
「やっぱりあの声は男だと思ったんだ。なにが美少女だ。どっから見ても男じゃねえか」

 自分でも馬鹿な勘違いに悔やんでいたところだ。わかっていることを指摘されると腹立たしくなってくるというのは、本当のことらしい。

「髪型はショートだったけど、長めだったし、可憐な感じでめちゃくちゃかわいかったんだって」
「惚気かよ。うざ」
「海莉、僕のことそんなふうに想っていてくれたの?」

 顔をしかめた神室の横に、きらきらと目を輝かせたレイがいる。二人が惹かれ合うとの不安は杞憂で終わったと言っていいだろう。なんせレイは異性ではなかったのだから。

「……つーかなんで俺の顔を知ってんだよ」
「あ、それは」
「海莉が写真を送ってくれたからだよ」

 レイがまたも口を挟んできた。しかし、神室はレイがいないかのように目をくれず、海莉を睨みつけたままだ。
 
「……勝手にしろくまやラッコと写ってるやつを送りやがったのかよ?」
「ラッコとは撮ってないはずだよ……あざらしとだった」
「一ノ瀬おまえ……檜山たちにあのカバやダチョウと撮ったアホ面をばらまいてやろうか?」
「何言ってるの? 海莉は凛々しくてかっこよくて、可愛らしいし、まぬけな顔して写っていたのは神室のほうじゃないか」
「……んだって?」

 今度の神室はスルーできなかったようだ。レイのほうに睨みを向け、「勝手に見てんじゃねえよ」と声を荒らげた。

「勝手にって、海莉が送ってきてくれたんだもん」
「どの写真だ? すぐに消せ!」
「いやだよ。海莉も写ってるし」

 レイの返答で、神室は苦虫をつぶしたような顔になった。

「彼女だか彼氏だか知らねえけど、家には絶対に連れてくんなよ!」

 神室から北海道ぶりに見た閻魔の形相で怒鳴られ、圧倒された海莉は無言でこくこくと頷いた。神室はふんっと鼻を鳴らし、歩みにも怒りをあらわに校舎のほうへ去っていった。

「神室はホントに嫌な奴だね」

 嫌な奴ではない。レイの言葉を否定してやりたいところだが、そう見えるほどに怒らせてしまったのは海莉のせいだ。
 神室は写真を撮られることがそもそも嫌いで、海莉はそれを知っていた。自分も同様の嫌悪感を抱えているのに、他の人の目に晒してしまったのだ。
 帰宅した後が怖いと思いながらも、海莉は新たに芽生えた心配のほうに気を取られていた。
 二人が惹かれ合うとの不安は杞憂に終わった。しかし、真逆とばかりに馬が合わないのは、不安どころではないほど海莉の心を苛んでいた。
 東京で最も親しいといえる相手は神室だ。恋愛的な意味では困ると考えていたはずが、友人という意味ではレイと仲良くして欲しいとの願いを抱き始めていた。
 身勝手だとの自覚を覚えつつも、海莉は願ってしまう自分を抑えられなかった。