不安しかなかった北海道旅行は、思いも寄らないくらいに楽しいひとときだった。帰りの飛行機に乗ったときには名残惜しいほどで、北海道の街並みを目に焼き付けようと、しばらく窓から目を離せずにいたくらいだ。
 しかし、自宅へ帰った途端に、四人はそれぞれの生活に戻ってしまった。母と義父は、旅行中に溜まっていたものを処理しなければならないと言って、その日もまだ休日だったというのに、ひと休みもせずスーツ姿で出かけていってしまった。
 海莉は、以前ならそんな親に対して腹立たしさを感じたり、がっかりしていたはずが、申し訳なさそうに出ていく二人を見送りながら、体調を気遣っている自分を見つけて驚いた。
 親が気にかけてくれないと嘆いていた自分こそ、求めるばかりで理解しようとしていなかったのかもしれない。
 家族旅行と聞いた当初は、面倒くさいとしか思えなかったのに、結果を見てみれば、楽しいばかりだったうえに、海莉に大きな変化を与えてくれたようだ。

『海莉が楽しんだことは嬉しいよ……でも、嬉しくない』

 ただそんな海莉とは裏腹に、レイのほうは大層ご不満な様子だった。
 頼まれたとおり海莉の写った写真を送っていたのに、撮った場所が面白かったかなどを訊ねてくるでもなく、誰に撮ってもらったものなのか、神室とは何を話してどれほどの仲になったのかなど、旅行とはおよそ関係ないことばかりを訊ねられて困惑しきりだった。

「気持ちはわかるけど……だったら、レイも日本に来たとき行ってみればいいじゃん」
『そういう意味じゃない……けど、そうだね。海莉となら行ってみたい』

 さらりと言ったレイの言葉に、海莉の心臓は跳ね上がった。男女二人きりでの旅行なんて、いくら親友ほどの仲でも普通はしない。

「……俺もレイと行ったほうがもっと楽しめたと思う……けど」

 ほぼ告白と言っていいそれに、海莉は耳まで熱くしながら本音を返した。
 
『だよね。僕たちだったら、どこへ行っても楽しいよ。それより、神室と他にどんな話したの?』

 レイもはにかんだ声音で同調してくれている。
 はっきりとはまだ明確にしていないまでも、レイとの仲は海莉の願いどおりになっているのだろうか。そう期待してしまうような会話になってきた。
 
「話っていうか、温泉があったから、温泉行って……」
『温泉? どういうこと? 二人でバスタイムしたの?』

 怒声に近い声が聞こえてきて、海莉は驚愕に固まった。甘い雰囲気だったはずが、いきなりだ。しかも、どこに激昂するポイントがあったというのかまるでわからない。

『海莉、聞いてる? どういうことなのか説明して!』
「……そんな貸切みたいにはならなかったよ。おじいちゃんの集団とか、おじさんは何人もいたし、俺らくらいの年の子はいなかったけど」
『そういうことじゃなくて、神室の前で裸になったのかってことだよ!』
「裸って……なるでしょ、そりゃ……プールじゃないんだから」
『NOOOO!』

 今度は絶望したような叫び声だ。イギリスの感覚としてはあり得ないことなのだろうか。
 日本で暮らしていたうえに、イギリス人の母は日本史研究の教授だから、知らないはずはないと思っていた。しかしどうやら、思い違いだったらしい。

「変かもしれないけど、日本だと普通のことなんだよ」
『二度と旅行へ行くな!』
「……へっ?」
『次にママから誘われても、勉強があるとか体調が悪いとか、なんか適当に言い訳して、行かないで』
「何言ってんの?」
『神室と風呂に入ったなんて、信じられない。そんなの……』

 次は一転、悲痛なすすり泣きが聞こえてくる。近しい人が死んだかのごとくさめざめとした涙声で『油断してた』などと呟いている。
 知らなかった文化とはいえ、レイが怒ったり悲しんだりすることではないと思うのだが、なぜこんな反応を見せるのかわからない。もしかしたら、レイは情緒不安定で、なにかまったく違うことで思い悩んでいるのだろうか。
 
「大丈夫? 体調悪いの?」
『……悪くなってきたかも。ていうか、勉強しなきゃ』
「えっ? 今日は休みだろ?」
『休みだけど、勉強する』
「まじで? なんで、いきなり……」

 あんなに電話にこだわっていたレイがどうしたというのだろう。海莉も旅行のことについてまだまだ話したいことがあるし、長電話になるものと思っていたのに。

『今のままじゃ、説得できないから』
「説得って、何を?」
『あんまり、神室と仲良くしないでよね』
「えっ? 本気で切るつもり?」
『朝は起こすから。Bye、海莉』
「ホントに?」

 ぷつりと通話は切れてしまった。レイから一方的に切られたのは初めてだ。海莉は信じられず、スマホを耳に当て直しては、本当に切れているのかを確認してしまうほど驚いた。
 レイは熱心に勉強をするタイプである。
 クラスメイトや友人たちとも、学校で顔を合わせるたけで遊びに出かけたりはせず、海莉との時間以外はほとんど自室に引きこもっているのが常だ。海莉が暇つぶしに勉強ばかりしていたのも、そんなレイの姿勢につられたからという理由が大きい。
 そのレイがさらに勉強しなければならないとは、よほど面倒な試験があるらしい。
 海莉は残念に思いながらも、旅行から帰ったばかりの身体は、ベッドへ寝転んだ途端に夢の世界へと誘われ、すぐに眠ってしまった。
 
 翌朝になり、いつもの時間にレイから電話がかかってきた。まだゴールデンウィーク中の海莉は、こんなにも早くから起きる必要はない。それでも気遣いありがたく長電話を覚悟で出たのだが、レイは疲れ切った様子ですぐに切れてしまった。
 相当根を詰めて勉強に励んでいたらしい。
 レイに構ってもらえないとなれば、海莉も同じように勉強するしかやることがなさそうだ。肩を落としながらダイニングへ向かったところ、珍しくも母と義父の姿があった。

「おはよう」
「あら早いのね。直接渡せないかもしれないと思ったけどよかったわ。海莉、これ」

 母は足元にある紙袋を持って立ち上がり、テーブルの上へ置いた。海莉は「なに?」と聞きながら覗き込む。すると義父が「……まさか、かぶったかな?」と、うなじをかきながら、姫宮を呼んだ。

「俊司さんも何か買ってきたの?」

 母が紙袋から取り出したのは、任天堂のゲーム機本体と数本のゲームソフトだった。

「お持ちいたしました」

 姫宮も電気店の紙袋を持って現れ、義父は受け取りながら「そっちにしたか」と、安堵の笑みを浮かべた。
 義父が取り出したのは、ソニーのゲーム機とソフトだった。それらと一緒に、アップルのマークの入った箱もある。

「どういうこと?」

 海莉の眼の前に、まるで誕生日とクリスマスが一度に来たような光景が広がった。

「北海道で話していたじゃない。友達が持っていたゲームが羨ましかったって。なんのソフトがいいのかわからなかったから、高校生の男の子が好みそうなものを店員に聞いてみたんだけど、他のものがよかったら教えて。それも買ってくるから」

 確かに羨ましいというようなことは言ったが、小中学生時代の胸のうちを話しただけで、今も欲しいというわけではなかった。

「夫婦揃って同じ考えだったようだな。俺は、高校生ならプレステのほうがいいと思ったんだが、どちらもそれぞれの良さがあるし、二つあって悪いことはない。ソフトはこんなものでいいだろうか?」

 母からのプレゼントなんて初めてのことだった。物心がつく前にはあったのかもしれないが、海莉の記憶には残っていない。このサプライズは、その償いなんだろうと察せられても、義父のほうまで気遣ってくれるとは、まさに思わぬ驚きだ。
 
「……ありがとう」
「タブレットのほうが使いやすいと思ってiPadにしてみたが、もしパソコンも欲しいようなら遠慮なく言ってくれ」
「十分だよ。本当に、ありがとう」

 どんな理由にせよ、海莉の話を聞いて思い遣ってくれたらしい。感激に胸が詰まるとはこのことだ。海莉は、耐えようにも滲んでくる涙を手の甲で拭った。
 そのとき神室が、「どうしたの?」と驚きの声をあげながらダイニングへと入ってきた。

「……何があったの?」
「おはよう、隆司。ゲームだよ。海莉くんが欲しいと言っていたからプレゼントするために買ってきたんだ。母さんも同じ考えでね、あやうく被るところだったよ」

 しげしげとゲーム機の箱を眺めていた神室は、父の言葉でさらに目を丸くした。

「それで……ゲームを?」
「隆司も昔はよく俊一と遊んでいただろ? もしまたやってみたいようなら、海莉くんと一緒に遊んでみるといい」
「そうね。二人とも勉強ばかりしてないで、たまには遊んだほうがいいわ」

 およそ世の親とは真逆のセリフだろうことを言われて、海莉はとうとう噴き出した。神室の狐につままれたような顔もおかしい。つっこみを入れたい想いが、優等生の仮面を今にも突き破ってしまいそうな表情だ。
 おかしさに任せて笑っていると、涙がますます滲んでくる。こうなったら、一緒くたに流してやれと、海莉は腹を抱えて大笑いした。

 四人で早めの朝食を済ませたあと、母たちは揃って出勤して行った。二人を見送った海莉は、神室と二人で再び紙袋の中身をダイニングテーブルのうえに広げた。

「やばすぎ。ソフト何本あんだよ」
「……十本はあるね。遊び尽くせないくらいあるよ」

 並べた箱を二人で手に取りながら確認すると、新潟時代の友人宅で遊ばせてもらっていたまさにそれらのソフトもあった。

「これ、兄さんとやってたやつ。まだ途中までしかやってない……」

 何とも言えない複雑な表情をした神室が、ソフトを一つ手に取った。

「兄弟がいるっていいね」
「別に……一緒にやってても、兄さん一人でやってたようなもんだったし。何の助けにもなんないまま、兄さん一人でクリアして、すぐに飽きたみたいで全部処分しちゃったし」
「えっ、処分しちゃったんだ?」
「兄さんが買ってもらったやつだからな。処分したのを知った父さんから要るかって聞かれたけど、一人でやったってつまんないから、断ったんだ」

 義父が海莉にゲームを買ってきたのは、神室のためでもあったのかもしれない。母と同じ理由もあっただろうけど、息子も楽しめるならという理由は大きかったに違いない。

「じゃあ今度は俺と一緒にやってくれる?」

 だとすれば、このプレゼントは二人のものだ。海莉へのものという名目でも、神室のためでもあるのだから。
 一瞬驚いたような顔をした神室は、不貞腐れたようにぶすっとした顔をして、海莉から目を逸らした。

「一人でやっても、つまんないだろ?」

 海莉が言い添えると、神室はふんっと鼻を鳴らして、ゲーム機の箱を開け始めた。

「……二人でやるにしても、こんな画面じゃ小さすぎるだろ」

 一緒に遊んでくれるらしい。神室のつっけんどんな態度は、やはり照れ隠しなのではないだろうか。
 
「確かに。プレステのほうはそもそもテレビがないと無理だしね」

 リビングには、六十インチもあろうかというテレビが壁に掛けられている。海莉が引っ越してきて以来、いまだ電源が入っているところを見たところはない。あれでゲームをプレイしたら迫力満点だろう。
 海莉がダイニングからテレビを眺めていると、神室はゲーム機たちを紙袋の中に戻して、リビングのほうへと向かい出した。

「ここに繋げるなら、配線モールが必要になるな」

 神室はテレビの横から後ろを覗き込むようにして、何かを確認している。

「配線モールってなに?」
「テレビだけしかないのに、接続したらコードが垂れ下がることになるだろ? 見た目にきれいとは言えないから、カバーみたいなので隠すんだ」

 へえ、と海莉が感心していたところ、「隆司さま」と姫宮がやってきた。

「午後に海莉さまの部屋へテレビが届けられる予定となっておりますが」
「テレビ?」
「はい。旦那様が、ゲーム用のテレビも購入されたとおっしゃっていらして……」

 姫宮の話を聞いて、海莉と神室は目を見合わせた。

「用意がいいな」
「二人でやることを前提としてない? そんなに俺たちに遊んで欲しいのかな?」
「ふん。お節介な誘拐犯たちだ」

 旅行中の冗談ネタを持ち出してきて、海莉は噴き出した。北海道での雰囲気はいまだ継続中らしい。
 変化があったのは自分だけだと思っていたが、母たちや神室にも小さくない変化が起きている。
 家族旅行は、意図したもの以上に、意味のあるものを神室家にもたらせてくれたのかもしれない。