一ノ瀬(いちのせ)海莉(かいり)の目覚めは着信音から始まる。
 冬から春へと移りゆく冷たい空気の中、音楽ではなく耳障りなベルの音に設定してあるそれがけたたましく鳴り響き、海莉は枕元に手を這わせた。
 取りそこねるわけにはいかない。逸る気持ちを抑えながら手探りし、遮光カーテンに閉ざされた薄闇の中、探り当てたスマホを取って耳に当てた。

「……おはよ」
『モーニン、海莉! 今日はどんな夢を見た?』

 寝ぼけ眼の海莉の耳に、ハイテンションな声が突き刺さる。
 
「夢?」
『僕はでてきた? 夢で会えてたら嬉しいんだけど』
「夢なんて見てない。……あー、ちょっと待って」
『トイレ? そのまま持っていってもいいよ』
「そんなことできるかよ!」

 とんでもないことを言われて一気に目が冴えた。
 電話の向こうにいるのは、各務(かがみ)レイ。十五歳の女子だ。淡い恋心めいたものを抱く同い年の女子との通話中に、用を足せるはずがない。着信が来るより先に起きて済ませておくべきといつも思うのだが、冬場の朝六時前という時間に目覚めるのは至難の業で、毎朝レイから起こされる羽目になっている。

「……おまたせ」
『待ったよ』
「ごめんごめん。で、レイの一日はどうだった? ジェシカとは仲直りした?」
『するわけないじゃん、あんなブス』
「ブスって……ひどいな」
『それより聞いてよ。ジョンの野郎が僕のスマホ勝手に見て、このベビーは君のなんなの?とか聞いてきてさ』

 ぷんすかと喚き立てるレイに、うんうんとなだめるように相槌を打ち、怒りが鎮まるまで辛抱を続ける。
 レイが朝っぱらから快活なのは、彼女のほうは寝起きではなく寝る前だからだ。イギリスにいるレイとの時差は八時間。朝六時のいま、レイのほうは一日を終えた夜の十時であるため、一日の出来事をまくし立ててくるのである。

「……勝手にスマホを見るのは困るね」
『スマホは別に見られてもいいんだよ。そうじゃなくて、愛する海莉のことをバカにするのがムカつくんだ』

 レイは枕詞のように、愛だの好きだのと頭につける。イギリス人の母と日本人の父を持つハーフのレイは、人生のほとんどをイギリスで過ごしている。遺伝子がゆえか文化的な違いか、気安く口にするレイに対して、生粋の日本男児である海莉は、恥ずかしさに戸惑うばかりである。
 
「でも、あんまり喧嘩はするなよ。レイが嫌がらせとかされたりしたら嫌だし」
『……海莉……』

 感激したような声が返ってきて、かっこつけ過ぎたかなと海莉は頬を熱くした。
 レイは負けん気が強く、男だろうが遠慮なく食ってかかる。これまでにいくつ武勇伝を聞かせてもらったかわからないくらいだが、レイは女子だ。体格差が出てくる年頃なのだから、いくら相手に非があったとしても、子どもの頃と同じように男子に楯を突くのは心配でならない。
 海莉は小柄なうえにスポーツもやっておらず、大した盾にはならないだろうけど、それでも一応は男子であり、レイのためならボコボコにされる覚悟はある。
 しかし、一万キロという距離は遠い。駆けつけることなんて到底不可能で、口で止める以外に彼女を守る術がない。

『うん、そうだよね。同じ土俵に立つなって言うし、海莉のようにおおらかな心で過ごすよ』
「俺はおおらかっていうか、単にビビリなだけだけど」
『僕はそういう海莉が好きだよ』
「……ありがと」

 全身がかーっと熱くなり、声が上擦ってしまった。毎日のように言われていても、慣れることなどできない。レイにとっては挨拶のようなものだろうから、気楽に受け止めるべきなのだけど、身体のほうは本気で受け取ってしまう。

『じゃあ、今日も一日頑張ってね』
「……レイも遅くまで勉強してないで、ちゃんと寝るんだぞ」
『うん。夜更かしは肌に悪いしね』

 別れの挨拶を交わし合い、毎朝恒例の五分間は終わった。
 レイはいわゆるボクっ娘というやつだし、気性も荒いが、肌を気遣うあたりはさすが女子だ。海莉は、レイの苛立ちを鎮めることに成功した満足感を口元にたたえながら、洗面所へと向かった。
 
 レイとこんなふうに毎日電話やメールができるようになったのは、三年前からだ。小学三年のとき初めて同じクラスになったレイとは、すぐに親友と呼べるほど親しくなれたのだが、四年へと進級するまえにイギリスへと引っ越してしまった。ただ、距離は離れても連絡は途切れることなく取り続け、友情に陰が差したことは一度もない。
 海莉はその頃スマホを持たせてもらえず、パソコンもなかったため、小学生時代の三年間は、エアメールを使っての時間がかかるやりとりをしていた。中学生へ進学するときに、ようやくスマホを購入してもらえのだが、祖父母と住んでいるこの家にWi-Fiなどという大層なものはなく、パケット通信だけでは長時間の通話ができない。そのため毎日五分だけと取り決め、基本はメールで友情を育んでいた。

 ──友人という関係が、恋人になる日は来るのだろうか。

 レイと話し終えたあとは、いつもそのことが頭によぎる。
 離れて暮らしているのに、いまだにクラスの誰よりも近い存在であり続けている。恋人と言ってもいいのではとの淡い期待は、どうしても抑えることができない。
 ただ、この六年間一度も会っていないという事実が、確認という名の告白をする意欲をせき止めていた。
 やはり、面と向かって会えるようにならなければ、特別な関係になるのは難しい。そう、自らにストップをかけてしまっていた。
 レイは日本の大学へ通うつもりだという。つまり、あと三年ほど我慢すれば、このどっちつかずの関係がはっきりとする日が訪れるのである。
 晴れて恋人となれるか、へたに告白することで友情も終わるか、変わらず友達でいられるか、様々な可能性があるものの、海莉は九年ぶりに会うその日を心待ちにしていた。
 その日に向けて、レイから失望されないよう頑張ろうと、冷たい水を顔にかけて気を引き締め、海莉は茶の間へと向かった。

「おはよう……えっ?」

 茶の間の障子戸を開けた瞬間、海莉は飛び上がるほど驚いた。祖父の隣に母の姿があった。
 母はいつも突然やってくる。だから連絡もなしにいきなりということよりも、すっぴんでスウェット姿であることに驚いた。来るときは夕食をともに済ませるだけで東京へとんぼ返りをしてしまうため、いつもは洒落たスーツ姿なのだ。どうやら何年ぶりかに実家で一晩を過ごしたらしい。

「おはよ。昼に会議があるから、昨夜遅くに帰ってきたのよ」
「……昨夜って……俺そんとき寝てた?」
「起きてたみたいたけど、わたしのほうが疲れてたからお風呂借りてすぐに寝たの」

 大あくびをする母の後の引き戸が開いて、祖母が顔を出した。
 
「かいちゃん、目玉焼きでいい?」
「おはよ。うん。あと佃煮も食べたい」

 はいよ、と言って祖母は引っ込み、祖父が「茶を淹れるか」と言って立ち上がった。

「俺が淹れるよ」
「いいていいて。かいは、淳子(あつこ)と話してりゃいい」

 祖父も台所のほうへと消えていき、母と二人きりになった。母とは一年に二度会えば多いほうという頻度なため、二人きりだと緊張する。ちゃぶ台の上で振動したスマホを母が手に取ったのを見て、海莉はおずおずと定位置である襖の前の座椅子に腰を下ろした。
 母が化粧をしていない姿を見たのは何年ぶりだろうと、通話する母をまじまじと見てしまう。顔を合わせたこと自体一年半ぶりなのだから、記憶になくても無理はない。
 
 母は海莉が一歳になる頃、父と離婚をして女手一つとなった。
 デザイナーの母は私生活とは裏腹に、仕事のほうは順調だったらしく、海莉は祖父母の住むこの家へと預けられ、母とは離れて暮らすことになった。お盆や正月に帰省したときに顔を合わせるだけの関係を続け、年々忙しさの増す母とは、去年は一度も会わず、一昨年のお盆に顔を合わせて以来だった。
 祖父母は親代わりとして厳しく躾てくれた反面、一人孫の海莉を憐れみ、不自由なく愛情たっぷりに育ててくれた。お陰で悲観することもなく、幸福とも言える日々を過ごすことができたのだが、母のことを親として見るのは難しく、遠縁の親戚といった感じにぎくしゃくとしてしまう。

「ごめんごめん」

 母はスマホをテーブルに置いて、海莉に微笑を向けた。よそ行きとも言える笑みを見て、おそらく海莉のほうも同じだろうと腰の座りが悪くなった。

「……こんな時期に来るなんて珍しいね」
「そうね。春に来たのは何十年ぶりかしら……今回来たのは、再婚が決まったからなの」

 さらりと言われて海莉は固まった。頭の中で二回繰り返して、母の言葉の意味をようやく理解した。

「……再婚?」
「そう。あなたは神室(かむろ)海莉になるの」
「かむろ……」

 まるでどころかまったくぴんとこない。どうせ離れ離れに暮らすことは変わりないのだし、と考えて他人事のような気持ちで新たな名字を反芻した。

「そう。神室海莉。かっこいいでしょ?」
「まあ、うん……おめでとう」
「ありがとう。それで、新しいお義父さんの家へ引っ越すことになったから、海莉に試験を受け直してもらいたいの」

 今度は理解するまで数秒どころじゃなかった。試験といえばつい先月共通テストを受けたばかりで、通学に三十分はかかるが、友人も多く進学する東高校への入学資格を得たところだ。

「海莉聞いてる? 俊司(しゅんじ)さんの……新しいお義父さんが理事をしている学校なの。定員は満員なんだけどテストを受ければ入学資格を得られるそうで、他のところでもいいけど、どうせなら義兄弟になる隆司(りゅうじ)くんもいるし、そこがいいだろうって二人で話し合って……」
「ちょ、ちょ、えっ? なん……義兄弟? お義父さんが理事?」
「心配する必要はないわ。あなたの共通テストの結果を伝えたら問題ないって言ってたもの」
「心配っていうか、どういうこと? テストを受け直すってこと?」
「そうよ。急で申し訳ないけど、来週なの。でも、復習だけしておけば大丈夫だろうって」
「ちょっと待って、本気で言ってんの?」

 うろたえる海莉の前に、祖母がお盆を持って現れた。母は海莉との会話は終わりとばかりに立ち上がり、お盆を受け取って朝食をちゃぶ台に並べ始めた。

「手伝わなくてごめん」
「いいていいて」

 そして二人でバタバタと台所へ消えていった。入れ違いに祖父が現れ、「あちあち」と両手に持っていた湯呑みを急いでちゃぶ台の上に置いた。

「盆がもう一つあってもよかったな」

 祖父は置いた途端に立ち上がったが、「あとのはわたしが持っていくから」と母の声が聞こえてきて、自身の座椅子に腰を下ろした。

「ほれ、かい」
「ありがと」

 差し出された湯呑みを受け取り、ずしりとした重みと熱さに慌ててちゃぶ台の上へと置いた。

「もう一つ買うても、ばあさんと二人じゃ無駄になるな」

 祖父のぽつりとした声を聞いて、お茶を冷ますために息を吹き込んでいた海莉は顔をあげた。眉尻を下げた目とかち合い、引っ越しをするということは祖父母たちと離れて暮らすことになるのだとようやく気づき、そんなの絶対に嫌だと青ざめた。

「……じいちゃん、俺、東高校行くつもりだから……」
「子は親と暮らすべきらて」
「でも、母さんはこれまでじいちゃんたちに任せっきりだったじゃん……」
「あいつもかいと暮らしたがってたんだけ。仕事ばかりで海莉は不満だったかもしれんが、子を養うには働かにゃならん。あいつなりに必死に頑張っとったんだっけさ」

 祖父の言いたいことはわかるし、おそらく正しいのだろう。しかし、今さらにも程があるとして、憤慨せずにはいられない。
 祖父母のお陰で幸福とも言える人生を過ごすことができたが、それは今になって振り返ればという前提があっての話だ。幼い頃は母を恋しく想うあまり、毎晩のように祖母の胸で泣き、小学校にあがったあとも胸の奥に寂しさは残っていた。中学生となり、ようやく思慕の念から解放されたわけで、高校へ進学すれば、親なんてむしろ敬遠する時期になる。
 今さら過ぎるし、これでこの十四年を帳消しにしようと言うなら、虫がよすぎるとしか思えない。

「でも俺、じいちゃんたちと離れたくない」
「ああ。じいちゃんたちも寂しいさ。だけんど、おまえももう何年かすれば成人して親離れしちまうんだから、あと数年くらい母親のそばにいてやりなさい」
 
 祖父は、決定されたことのように受け止めている。この様子では、海莉がどのように説得しても無駄なような気がした。
 母たちが戻ってきて朝食の時間になったが、久しぶりに家族が四人揃っての団らんだというのに、海莉の胸は不安と悲しみばかりが占め、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。