母がボーナスをつぎ込んだという部屋は、想像以上に広く豪華だった。
大きなベッドが二つ並んでもなお余裕の広さがあり、おれでも寝転がれる大きさのソファが二つも置かれている。壁一面の窓の外には、この辺りで一番の繁華街の夜景が広がっていた。
「丞さんひどいのよ!? 昨日海外出張から帰ってきたばかりなのに、今日はまた! 職場の飲み会なんだって!」
「う~ん、行きたくて行ったわけじゃないんじゃない?」
たらふく夕ご飯を食べて元気を取り戻した母は今、ルームサービスで頼んだバニラアイス乗せのアップルパイをガツガツ食べている。元気そうでよかった……母は泣いているよりプリプリ怒っている方が安心する。
「今夜はぶり大根が食べたいって丞さんにしては珍しくリクエストしてきたから、ウキウキで仕込だのに……」
「うんうん、明日みんなで食べよう?」
「うう、部署の飲み会に負けた……ぶり大根の方が絶対美味しいのに……」
「ぶり大根の方が美味しいよね」
何を比較しているのかわからなかったが、とりあえず頷いておく。
「しかもね、丞さんの部下の女の子、すごく若くて可愛いの! 『よく質問してくる』って、ぜったいあの人のこと狙ってるよね!? そう言ったら『そんなはずない』って否定されるし……ばかばか! 丞さんのわからずや!!」
「丞さん、ほんとに気づいてないと思うよ。どうせ母さんしか見えてないって」
母と丞さんは同じビルで働いている。お昼時になるとビルの前にランチのフードトラックが来るらしいのだが、ある日注文したメニューが取り違えて二人に渡された。それがきっかけとなって話すようになり、恋が芽生えたというドラマみたいな出会いだ。
だから母は丞さんの同僚も何度か見たことがあるという。可愛い女の子が夫の近くにいるのは、確かに気になってしまうかもしれない。
スプーンを振り回して落ち込んだり怒ったり、珍しく情緒不安定な母はやっぱり恋する乙女だ。
でも断言できるのは、丞さんが浮気なんて百%あり得ないってこと。母も本当は信じていているのだと思う。
母の愚痴の相手をしながら期間限定メニューの『醤油アイス〜みたらしバナナを添えて〜』を食べていると、スマホが震えた。
「あ、桔都だ」
「なに食べたって? 桔都、ひとりで寂しいかなあ」
桔都には両親の喧嘩だと事情を話してある。向こうの帰宅が遅くなりそうだったのもあるし、やはり家庭内の分担はおれが母、桔都が丞さん(逆も然り)となっているので丞さんのことは任せたつもりだ。
夕飯は外で食べてきていいよとメッセージで伝えたものの、「家になんかある?」と訊いてきたため家で食べたかったらしい。
今来たメッセージには、ご飯とみそ汁にぶり大根の並んだ食事の写真とメッセージのスクリーンショットが添付されていて、これを丞さんに送ったと書いてあった。
『母さんと瑞は家出しました。僕の夕飯です。』
……桔都、結構容赦ない奴だなぁ。
「ぶり大根、食べつくされてるかもね」
「あの子もよく食べるよねぇ。ま、なくなってたらまた作ればいいわ」
母がスッキリした顔で笑う。この家出は丞さんへの「怒ってますよ」というアピールが目的なので、十分目的が果たせているはずだ。ちなみに母のスマホは電源を切ってある。
願わくば、丞さんの忙しさが少しでも軽減されますように。母とすぐに仲直りしてくれますように。
殊の外楽しんだ母との一泊二日贅沢お泊り会……じゃなく家出は、チェックアウト時間よりも早く終わりを迎えた。
「母さーん、丞さんもう下に迎えに来てるって。よかったじゃん?」
「んー……」
珍しくおれの方が早く起き出し、朝からテレビを見たりスマホで漫画を読んだりしていた。母が起きようとしないのはまた拗ねてるのかな、とベッドの方まで様子を見に行く。
「もう起きないと、待たせちゃうよ?」
「ごめん、気持ち悪くて、起きれない……丞さん呼んで……」
「えっ、母さん!? どうしたの!?」
声を掛けると、返ってきた弱々しい声に驚く。起きあがろうとして枕に逆戻りした母の顔は、血の気がなく真っ白だった。
昨日は寝る時まで元気そうだったのに、突然どうしたのだろうか。動転したまま丞さんに電話を掛ける。こんな病気みたいな母は見たことがなく、不安で泣きそうな声になってしまった。
水飲む? と声を掛けても答えることすらつらそうで途方に暮れた。吐き気があるならむやみに起こすのも良くないだろう。
吐いてしまったときのためにバスルームから洗面器とタオルを持ってきて、すぐ出られるように荷物をまとめる。母はホテルの寝間着を着たままだけど、そこは致し方ない。
子どもの自分にできることはそれ以上思いつかず、じりじりと待つことしかできないのがもどかしくて仕方がなかった。
丞さんはまだなの? 早く来てほしい。丞さんに判断してもらわないと、救急車を呼ぶべきかもわからない。
(なんておれは、無力なんだろ……)
早く大人になりたい。でも来年には成人で、すぐにしっかりした大人になれるかというと、全く想像もつかないのが現実だ。人は何を経れば大人になれるのだろう?
母の様子を見ながらつらつらと考えていると、部屋のドアホンが鳴る。丞さんを迎えに飛んで行った。
検査入院になるかはわからないが、色々と検査をして落ち着くまで様子を見るとのことで、タクシーでおれだけ家に帰ることにした。
移動中母は辛そうだったし病院についてからも吐いてしまったりしたけれど、丞さんが「大丈夫」と言うので信じることにする。おれはもう、母にとってたった一人の家族ではない。もっと頼りになる人がいてくれてよかった。
「ただいま~」
大変なことになっちゃったなぁ、と出迎えてくれた桔都に苦笑して見せると、桔都はキュッと眉間に皺を寄せ見返してくる。
(なんか、怒ってる? ……置いてけぼりだったのが嫌だったのかな?)
「瑞」
「ん? 桔都どした?」
目の前に立った桔都から見下ろされて、首をコテと傾げる。どうして怖い顔をしているのだろう。優しい桔都を本気で怒らせるようなことをした覚えはない。
「こっち、来て」
「んん~、アイス?」
もしかして、昨日母と美味しいアイスをホテルで食べたことに嫉妬してるとか? おれは顔に出やすいので、「ルームサービスで期間限定アイスを食べました」と言わなくてもバレている可能性はある。
「違うから」
予想は外れたようで、桔都に腕を引かれて二階へと向かう。そのままおれの部屋のドアを遠慮なしに開けたためびっくりしてしまった。
なぜなら桔都はおれと違って、部屋のドアを勝手に開けたりしないし入ってきたこともないからだ。
桔都は部屋の電気をつけて、床に無造作に置かれた学校用の鞄を指さす。
「これ、説明して」
「あ……」
鞄から半分も出ているのは、ズタズタに切り裂かれたおれの写真だった。昨日はバタバタしていたから、部屋のドアを全開で家を出てしまったかもしれない。おれのスボラさなら鞄も当然開けたままで、桔都が通りかかって見えたに違いない。
嫌がらせについては元々話すつもりだったけど、これは見せるつもりがなかった。どうしようどうしようと焦って、上手く言葉が出てこない。
とにかく写真を自分の手で見えなくしようと前かがみになったとき、昨日蹴られた背中に鋭い痛みが走って「痛っ」と呟いてしまった。
「瑞」
「あ、違うんだ。えっと……」
「座ろう」
桔都はドアを閉めておれをベッドに腰掛けさせた。桔都は床に胡坐をかいて座り、写真を取り出す。丸めた部分を丁寧に伸ばし、険しい表情で見つめている。
家族写真を守れなかったことが申し訳なくて、胸が痛む。こうなったら仕方がないと、覚悟を決めて全て話そうとしたときだった。
「僕は、ここに越してくる前……学校で、苛められてたんだ」
「……え?」
大きなベッドが二つ並んでもなお余裕の広さがあり、おれでも寝転がれる大きさのソファが二つも置かれている。壁一面の窓の外には、この辺りで一番の繁華街の夜景が広がっていた。
「丞さんひどいのよ!? 昨日海外出張から帰ってきたばかりなのに、今日はまた! 職場の飲み会なんだって!」
「う~ん、行きたくて行ったわけじゃないんじゃない?」
たらふく夕ご飯を食べて元気を取り戻した母は今、ルームサービスで頼んだバニラアイス乗せのアップルパイをガツガツ食べている。元気そうでよかった……母は泣いているよりプリプリ怒っている方が安心する。
「今夜はぶり大根が食べたいって丞さんにしては珍しくリクエストしてきたから、ウキウキで仕込だのに……」
「うんうん、明日みんなで食べよう?」
「うう、部署の飲み会に負けた……ぶり大根の方が絶対美味しいのに……」
「ぶり大根の方が美味しいよね」
何を比較しているのかわからなかったが、とりあえず頷いておく。
「しかもね、丞さんの部下の女の子、すごく若くて可愛いの! 『よく質問してくる』って、ぜったいあの人のこと狙ってるよね!? そう言ったら『そんなはずない』って否定されるし……ばかばか! 丞さんのわからずや!!」
「丞さん、ほんとに気づいてないと思うよ。どうせ母さんしか見えてないって」
母と丞さんは同じビルで働いている。お昼時になるとビルの前にランチのフードトラックが来るらしいのだが、ある日注文したメニューが取り違えて二人に渡された。それがきっかけとなって話すようになり、恋が芽生えたというドラマみたいな出会いだ。
だから母は丞さんの同僚も何度か見たことがあるという。可愛い女の子が夫の近くにいるのは、確かに気になってしまうかもしれない。
スプーンを振り回して落ち込んだり怒ったり、珍しく情緒不安定な母はやっぱり恋する乙女だ。
でも断言できるのは、丞さんが浮気なんて百%あり得ないってこと。母も本当は信じていているのだと思う。
母の愚痴の相手をしながら期間限定メニューの『醤油アイス〜みたらしバナナを添えて〜』を食べていると、スマホが震えた。
「あ、桔都だ」
「なに食べたって? 桔都、ひとりで寂しいかなあ」
桔都には両親の喧嘩だと事情を話してある。向こうの帰宅が遅くなりそうだったのもあるし、やはり家庭内の分担はおれが母、桔都が丞さん(逆も然り)となっているので丞さんのことは任せたつもりだ。
夕飯は外で食べてきていいよとメッセージで伝えたものの、「家になんかある?」と訊いてきたため家で食べたかったらしい。
今来たメッセージには、ご飯とみそ汁にぶり大根の並んだ食事の写真とメッセージのスクリーンショットが添付されていて、これを丞さんに送ったと書いてあった。
『母さんと瑞は家出しました。僕の夕飯です。』
……桔都、結構容赦ない奴だなぁ。
「ぶり大根、食べつくされてるかもね」
「あの子もよく食べるよねぇ。ま、なくなってたらまた作ればいいわ」
母がスッキリした顔で笑う。この家出は丞さんへの「怒ってますよ」というアピールが目的なので、十分目的が果たせているはずだ。ちなみに母のスマホは電源を切ってある。
願わくば、丞さんの忙しさが少しでも軽減されますように。母とすぐに仲直りしてくれますように。
殊の外楽しんだ母との一泊二日贅沢お泊り会……じゃなく家出は、チェックアウト時間よりも早く終わりを迎えた。
「母さーん、丞さんもう下に迎えに来てるって。よかったじゃん?」
「んー……」
珍しくおれの方が早く起き出し、朝からテレビを見たりスマホで漫画を読んだりしていた。母が起きようとしないのはまた拗ねてるのかな、とベッドの方まで様子を見に行く。
「もう起きないと、待たせちゃうよ?」
「ごめん、気持ち悪くて、起きれない……丞さん呼んで……」
「えっ、母さん!? どうしたの!?」
声を掛けると、返ってきた弱々しい声に驚く。起きあがろうとして枕に逆戻りした母の顔は、血の気がなく真っ白だった。
昨日は寝る時まで元気そうだったのに、突然どうしたのだろうか。動転したまま丞さんに電話を掛ける。こんな病気みたいな母は見たことがなく、不安で泣きそうな声になってしまった。
水飲む? と声を掛けても答えることすらつらそうで途方に暮れた。吐き気があるならむやみに起こすのも良くないだろう。
吐いてしまったときのためにバスルームから洗面器とタオルを持ってきて、すぐ出られるように荷物をまとめる。母はホテルの寝間着を着たままだけど、そこは致し方ない。
子どもの自分にできることはそれ以上思いつかず、じりじりと待つことしかできないのがもどかしくて仕方がなかった。
丞さんはまだなの? 早く来てほしい。丞さんに判断してもらわないと、救急車を呼ぶべきかもわからない。
(なんておれは、無力なんだろ……)
早く大人になりたい。でも来年には成人で、すぐにしっかりした大人になれるかというと、全く想像もつかないのが現実だ。人は何を経れば大人になれるのだろう?
母の様子を見ながらつらつらと考えていると、部屋のドアホンが鳴る。丞さんを迎えに飛んで行った。
検査入院になるかはわからないが、色々と検査をして落ち着くまで様子を見るとのことで、タクシーでおれだけ家に帰ることにした。
移動中母は辛そうだったし病院についてからも吐いてしまったりしたけれど、丞さんが「大丈夫」と言うので信じることにする。おれはもう、母にとってたった一人の家族ではない。もっと頼りになる人がいてくれてよかった。
「ただいま~」
大変なことになっちゃったなぁ、と出迎えてくれた桔都に苦笑して見せると、桔都はキュッと眉間に皺を寄せ見返してくる。
(なんか、怒ってる? ……置いてけぼりだったのが嫌だったのかな?)
「瑞」
「ん? 桔都どした?」
目の前に立った桔都から見下ろされて、首をコテと傾げる。どうして怖い顔をしているのだろう。優しい桔都を本気で怒らせるようなことをした覚えはない。
「こっち、来て」
「んん~、アイス?」
もしかして、昨日母と美味しいアイスをホテルで食べたことに嫉妬してるとか? おれは顔に出やすいので、「ルームサービスで期間限定アイスを食べました」と言わなくてもバレている可能性はある。
「違うから」
予想は外れたようで、桔都に腕を引かれて二階へと向かう。そのままおれの部屋のドアを遠慮なしに開けたためびっくりしてしまった。
なぜなら桔都はおれと違って、部屋のドアを勝手に開けたりしないし入ってきたこともないからだ。
桔都は部屋の電気をつけて、床に無造作に置かれた学校用の鞄を指さす。
「これ、説明して」
「あ……」
鞄から半分も出ているのは、ズタズタに切り裂かれたおれの写真だった。昨日はバタバタしていたから、部屋のドアを全開で家を出てしまったかもしれない。おれのスボラさなら鞄も当然開けたままで、桔都が通りかかって見えたに違いない。
嫌がらせについては元々話すつもりだったけど、これは見せるつもりがなかった。どうしようどうしようと焦って、上手く言葉が出てこない。
とにかく写真を自分の手で見えなくしようと前かがみになったとき、昨日蹴られた背中に鋭い痛みが走って「痛っ」と呟いてしまった。
「瑞」
「あ、違うんだ。えっと……」
「座ろう」
桔都はドアを閉めておれをベッドに腰掛けさせた。桔都は床に胡坐をかいて座り、写真を取り出す。丸めた部分を丁寧に伸ばし、険しい表情で見つめている。
家族写真を守れなかったことが申し訳なくて、胸が痛む。こうなったら仕方がないと、覚悟を決めて全て話そうとしたときだった。
「僕は、ここに越してくる前……学校で、苛められてたんだ」
「……え?」



