実力テストを終えた放課後、持ち込みのできるカラオケで集まることになった。僕は別に歌うのが好きというわけではないが、他人に言わせると「それなりに上手い」らしい。
 運動も勉強もそれ以外のこともやろうと思えばなんでもそつなくこなせるのは、器用貧乏の典型だろう。早く家に帰ってジャージになりたいなと考えつつ、まだ二人しか集まっていないため抜けるのも悪い。

「桔都最初に歌う?」
「んー、まだいい」
「おけ。トップバッター奥山、みょんみょん歌います!」

(瑞はもう帰ってるかな……)

 一緒に風邪を引いてお互いの過去をさらけ出してから、瑞との距離がいっそう縮まったように感じていた。だから早く家に帰りたいし、瑞のそばにいて瑞が喋ったり笑ったりするのを見ていたい。

 奥山が野太い声で切ない恋心を歌っている。女子中高生が共感した曲ナンバーワンだとテレビでは謳われていたが、男子高校生である僕も初めて聞いたときは「わかる……!」とかなり共感してしまった。
 なぜなら自分も絶賛恋をしているから。……ひとつ屋根の下に住む、瑞に。



 ――僕は昔から内気で、引っ込み思案だった。
 今でこそ外では上手く立ち回る術を身に着けたけれど、家でありのままに過ごすことは自分のバランスを取るために必要な儀式のようなものだ。

 だから僕が自分らしく過ごせる我が家に異分子である瑞がやってきたとき、かなり警戒していた。
 しかも同じ学校の同級生だ。父の再婚は喜ばしいことだったものの、「連れ子はちょっと嫌だな……」とひどいことを考えてしまったくらい。本当は、笑われたり以前の二の舞になったらどうしようと怖かったのである。

「あの、……こんにちは?」

 くるりとカールを描く前髪の奥、黒目がちな目がキラキラしている。瑞が僕を下から覗き込んできたとき、茶色いふわふわのトイプードルが脳裏をよぎった。
 今の学校に転入してまだそれほど経っていないため顔に見覚えはなく、一瞬向こうも自分を知らないかもなと期待して。

「え~~~~~っ!?!?」

 まぁそんな都合のいい考えは瑞の驚愕した声で吹き飛ばされた。

(ああ、また言いふらされる。でも家で擬態なんて無理だし、再婚はいいけど顔合わせなんてしなきゃよかったのに……)

 目を丸くしたまま腰を抜かした瑞を見下ろしながら、僕は深く深く落ち込んでいた。

 しかし結果として瑞は想像していたような嫌な奴ではなく、むしろ学校では絶対に言わないと約束してくれた。なにより僕の心を掴んだのは瑞がさらっと口にした、ある言葉だ。

「なんかスパイダーマンみたいだな。かっこいいじゃん」

 僕が実はマーベルのヒーローを熱狂的に好きだなんて、瑞は知る由もないだろう。スパイダーマンであるピーターは、ヒーロー活動をしていないときはごくごく普通の高校生だ。
 畏れ多いと感じつつ嬉しい例えに、内心高揚してしまった。頑なに拒否しようとしていた心の錠が、カチリと外れる。

 それと同時に、初めてちゃんと瑞の顔を認識した。走って追いかけてきたせいで前髪が真ん中で左右に流れ、丸い額まで見えている。鼻や口のパーツが小さく、目は反対に大きい。
 ニコッと笑いかけてくる顔や小首を傾げて見上げてくる顔はあどけない少年のようで愛らしく、控えめに言ってもかなり整っていると感じた。

 ドクドクと心臓が早鐘を打つ。楽しそうに笑う瑞の顔を見ていると、なんだか顔が熱かった。

(……?)

 それから父が奏海さんと結婚して、瑞たちが我が家に越してきた。
 嬉しかった。お兄ちゃんだと言い張る瑞に付き従うのは楽しいし、正直なところ可愛い弟ができたみたいでお世話したい欲もあった。

 それとは別に、僕が慎重になっている部分もある。学校で言いふらさないと約束してくれた瑞のことは信用しているけれど、趣味を知られたら嫌われるかもしれない。
 スーパーマンが好きだなんて子どもみたいだと呆れられないだろうか? フィギュアを集めているなんて気持ち悪いとドン引きされないだろうか?

 瑞はそんな奴じゃないと思っているけれど、まだお互いに知らない部分は多い。自覚はなかったが僕にしては珍しく、瑞とはもっと仲良くなりたいと思っていて、趣味を知られることが関係に亀裂を入れてしまうんじゃないかと不安だったのだ。

 瑞はとても大らかで、部屋のドアも開けっ放しのことが多い。自分と違って隠したいことなんてないんだろうな、と少し羨ましかった。
 しかしながら逆に怪しまれると思い「ドアを開けるな」なんて言えず、瑞はあっさりと僕の部屋を見てしまったのだ。不意打ちで絶望したのは言うまでもない。

 だが僕の予想なんて軽々と超えてくるのが瑞という男だ。

「すっげーな! かっけー……!!」
「え……」

 目を輝かせ、僕の長年集めてきたフィギュア達を見つめる瑞の瞳には軽蔑や嘲りの色など全くない。素直に感心し褒めてくれた瑞に僕の抑えてきた(たが)も外れ、オタク全開で好き語りしてしまった。

 好きなだけ喋ってから「やってしまった……」と後悔したものの、瑞は全く嫌な顔をしていない。それどころか一緒に映画を見ようとまで言ってくれて、ちょっと泣きそうだった。
 なんていい子なんだろう。母を喪ってから長年頑なに恋人を作らなかった父の選んだ人は、子どもまでよく出来た人間だ。

 風呂を出て瑞を探すと、リビングのソファで寝落ちしていた。一応勉強しようとしたらしい、お腹の上に教科書が乗っている。ソファの背から見下ろすと、健やかとしか言いようのない可愛い寝顔が見られた。
 全体的に持っている色素が薄いためか、唇もベビーピンクだ。薄茶色の睫毛は長く、密度が高い。

 「瑞、寝ちゃったの? ……かわいいなぁ」

 口にしてからこの感情はなんだ? と我に返る。
 考えている内に濡れた髪から瑞の頬へ水滴が落ちてしまい、「んんぅ……」と声が聞こえた。その瞬間、身の内に劣情が込み上げてくる。
 水滴を追いかけるように柔らかな頬を撫でたのは無意識だった。

(あれ……? 僕、瑞のことが……)

 可愛い、一緒にいたい、触れたい。そんなの――ただの()じゃないか。
 彼女がいたことはあったけれど、その時よりも強い感情が瑞に向かっているのを自覚した。同時に納得してしまう。

 素直で明るくて、どんな僕のことも受け入れてくれる優しい瑞を好きにならないなんて、無理だ。

 それから瑞のことを意識しすぎて避けてしまったり逆に嫉妬したり、初めての感情に振り回され続けた。
 お風呂場での遭遇ハプニングは刺激的すぎたし、瑞が無防備なのでアメリカでは同じベッドで寝たりもした。寝相で抱きついてくるし、半袖短パンだから素肌を意識してしまい、当然一睡もできなかった。

 本当に、瑞は隙だらけなのをもうちょっと自覚してほしい! 男子高校生なんて性欲の塊と言っても過言ではない。

 しかも文化祭では可愛すぎる女装に腰を抜かすかと思った。ヘアメイクを担当した岸多の手腕が遺憾なく発揮されたようで、周りを人に囲まれていなかったら隠して連れて帰りたいくらいに可憐な姿だった。
 瑞単体と二人で撮られたチェキの写真は、岸多の協力もあってどちらも僕の手元にある。人に見せるなんて危ないし、自分が無理なので。

 どうやら自分は独占欲が強い方みたいだ。したがって、好きな人と同じ家に住んでいるというのはとても幸せなことだった。
 本当なら学校でも仲良くしたい。とはいえ交友関係に重なるところは現状なく、変に噂されるのは困る。人は突然の大きな変化を好まないということを、僕は身を持って知っていた――



「お、やっと来た。なにしてたん?」

 交互に歌ってから、飲み物で喉を冷やしていると篠元、(つづき)、隅川が部屋に入ってきた。今日はこの三人が誘ってきたわりに、遅い登場だ。

 篠元は当然という顔をして僕の隣に座り、僕の買ってきた飲み物に口をつけた。自分は潔癖と言うほどでもないが篠元のこういうところが苦手だ、と思う。
 以前は奥山の彼女もよく一緒に遊んでいたが、篠元と折り合いが悪くいつしか来なくなってしまった。

「ごみ掃除? みたいな」
「うわ、篠元こっわ」
「待って、お前も同罪だかんな!?」

 三人にしかわからない話題らしく、顔を見合わせてギャハハと笑っている。最近この三人は内輪で盛り上がっていることが多く、楽しそうではあるものの嫌な感じだ。
 話題に入れてもらえないことが嫌なんじゃなくて、見えないところで悪いことをしているんじゃないかと思わせるような不気味な予感がある。

「あたしみょんみょん歌う~」
「あ、それ最初に俺が歌ったから」
「ちょっと、女の子に気ぃ遣ってよ~! 奥山の彼女、そんなんで満足してるの?」

 篠元が奥山を苛々させているのを肌で感じつつ、隣に座る彼女の制服のポケットにカッターナイフが入っていることに気づいた。
 よくある小型だけど、段ボールとか切れるやつ。どうして持っているのだろうか。

(まじで、誰かを怪我させたりとか、してないよな……?)

 さすがにそこまでする奴じゃない。する理由がない。そう自分に言い聞かせながらも、すぐ悪い方向に考えてしまい制服のシャツの下で鳥肌が立ったのを感じた。

 カラオケを出るとき、スマホに瑞からのメッセージが入っていることに気づく。一瞬で心が弾み、ドキドキしながら通知をタップした。

「……え?」

 メッセージは奏海さんが家出(一泊)することと、瑞がついていくことになった経緯が簡単に書かれていた。
 家出って……予想外すぎる。奏海さんは明るくて面白い良い人だけど、びっくり箱のようなところがあるのはさすが瑞の母親だ。

 確かに父はいつも忙しいというか、僕の認識ではそれが普通だ。特に転職してからはやっと一年というところで、社内でのポジションは上の方らしいが周囲にかなり気を遣っている。
 奏海さんが冗談ぽく言いつつ本気で寂しがっているのは僕もなんとなく察しているため、父が怒られるのも仕方がないなとは思う。

 というか大人は感情を隠しすぎるから、たまには怒って実力行使に出るくらいがちょうどいいかもしれない。父も子供を家で一人にしなくてよくなったから、奏海さんに甘えているところがあるのだろう。

 帰っても瑞に会えないなんてつまらない。父には本気で反省してもらおう……と決意して帰宅した。



 それはふとした違和感だった。僕がメッセージを送って、慌てた父から「今すぐ帰る!」と連絡を受けた後にシャワーをした。
 自室に戻ろうとすると、必ず瑞の部屋の前を通る。相変わらず半開きどころかほぼ全開のドアが目に入り、「あわてんぼうだなあ」とほっこりしながらドアを閉じておこうとした。

「……?」

 廊下から差し込む光で、ベッドに立てかけられた学校の鞄が見える。当然それも開けっ放しだったのだが、そこから気になるものが飛び出していてドアを閉じようとした手を止めた。
 分厚さがないから教科書には見えない。ポスターを丸めたものに見えるが少し広がっていて、ちらっと見えた色に既視感があった。

 気づけば部屋の電気をつけて、鞄に駆け寄っていた。人のものを勝手に見るのは良くない。けど、これは。

「誰がこんなこと……!?」

 家族四人の写真が、カッターで切り裂かれたような姿でずたずたになっている。写真を両手で広げるとパラパラ破片が落ち、光の加減で靴に踏まれた足跡まで見えた。

(……カッター?)

 そういえば、篠元が今日カッターを持っていた。足跡はかなり大きく、男子生徒の内履きだろうと思われる。
 ――遅れてきた三人組。秘密を共有する楽しそうな嗤い。

(あいつらか)

 身だしなみ検査のとき、篠元が瑞に突っかかっていたのを思い出す。それがエスカレートした? それとももっと前にきっかけがあったのだろうか。
 どうせ篠元たちは、絶対に他にも瑞に何かをやっている。
 
 どれだけ楽天的でも、優しい瑞がこの写真を見て傷つかないはずがない。ボロボロの写真をどんな気持ちで持って帰ってきたのだろう。水を含んだように皺になっている一部分は、瑞が泣いたからじゃないのか?

「くそっ!」

 きつく手を握りしめる。瑞に対する嫌がらせに僕が関係していないはずもない。きっかけの一つに自分があるだろうことは、目立つ自覚があるからこそ想像できた。
 今日まで何も気づかず、のうのうと毎日瑞に癒され、恋を楽しんでいたなんて。我ながら情けない。

 瑞はおそらく、僕に気を遣ってこの件を隠しているのだ。そんなの許さない。明日帰ってきたら部屋に閉じ込めて、話すまで逃がさないで……それでそれで。

(今まで僕を救ってくれた分、守らせて。瑞……!)