家に辿り着くと、二人ともびしょ濡れだったことに母は驚き呆れた。さらにはおれが車に轢かれそうになってしまったことを桔都が告げたため、今度は泣きそうな顔で抱きつかれてしまった。
(心配させるから言わないでって、言ったのに……!)
「無事で良かった……!」
「……うん……っひく」
もらい泣きと言うか、おれも母を前にすると緊張の糸が切れてしまった。あの瞬間は何も考えられなかったけれど、おれが死んだり大怪我をしたら本気で悲しんでくれる人が、少なくとも二人いる。きっと丞さんも同じだから三人だ。
今さらながらに怖かったなと思い、体に震えが走った。それを寒いからだと勘違いした母が、お風呂沸いてるから入ってきなさいと促してくれる。
「桔都も一緒に入る?」
「う……う……いや、やめておく」
「じゃあ、すぐ上がるね!」
桔都はしばらく迷ったようだが、断られたので追及しないでおく。以前の反応を見るに、狭い風呂に二人で入るより一人でゆったりしたい派なんだろう。
温かい湯船に浸かると、ふぅ~っと思わず声が出た。想像以上に熱く感じて、相当体が冷えていたのだと気づく。
(早く桔都に交代しないと、風邪引かせちゃうなぁ)
風邪を引かせないために迎えに行ったはずなのに、とんだことになってしまった。
手のひらにお湯が沁みる。コンクリートに手をついた際小さく擦りむいていたこともわかった。これくらいは言わないでおくことにする。
それ以外には体の不調も無さそうだったことにホッと安堵した。これ以上、家族に心配をかけたくないのだ。
桔都と交代し、帰ってきた丞さんと四人で夕飯を食べてからぶどうを食べた。この何気ない日常は突然失われてしまう可能性があるということを、身をもって実感した日だった。
運転手の人には丞さんが改めて電話してくれていた。話している内容までは聞こえなかったものの、声のトーンは穏やかだったから怒ったりはしていなかったと思う。
そして翌日、ひどい悪寒を感じながら目覚めた。平日よりはたくさん寝たような、でもよく眠れなかったような変な感覚だ。
部屋を出ると、タイミング良く顔色の悪い桔都とかち合う。
「おはよ……うー。今朝寒くない? なんか体怠いし……」
「僕も……」
階下に降りて両親に挨拶したおれと桔都は、血相を変えた両親に当番医の病院に連れて行かれることになった。
「桔都ぉ、頭痛い……」
「うん……僕も……」
情けないことに、二人して風邪を引いてしまったらしい。
おれと桔都はまとめて広い部屋に寝かされ、額に冷却シートを貼ってウンウン唸っている。熱が上がり、立ち上がる気力もないほど体が重い。
ひとしきり看病したあと、母は風邪が移らないように別室へ行ってしまったし、父は看病グッズや病人食の買い出しに出掛けている。
風邪なんてかなり久しぶりに引いたけれど、一人じゃなくてよかったと心から思う。同じ部屋に桔都という仲間がいるのはとても頼もしいし、申し訳ないと感じつつ嬉しい。
昔は熱を出すと、母に甘やかしてもらえる特別な行事だと思っていた。
しかしおれのために必死に働いてくれていることに気づいてからは、なんとか余計な雑事で母を悩ませないようおれも心掛けていた。体調不良に一人でじっと耐えた日もある。
家族が四人になってから、いいことばかりだ。
明日学校を休むことになりそうだと秀治にメッセージを入れていたとき、ふとスマホから顔を上げる。桔都は全くスマホを触っていなかった。というか、この部屋に入ってから持っているのを全く見ていない。
「桔都、彼女に連絡しなくていいのか?」
「……は?」
お互いに頭が朦朧としているらしい。ストレートに気になっていたことを聞いてしまったおれに対し、桔都はぽかんとして見せた。
「ええと、佐倉さんと……付き合ってるんじゃないの?」
「あり得ない。ないない」
またもやストレートに彼女の名前を出すと、桔都はもはや恐怖と言いたげに眉を顰めて首を左右に振り、頭痛に響いたらしく「ウッ」と呻いた。
「え、昨日のボウリングは?」
「いつもの奴らと。言わなかったっけ?」
「言ってた……」
おれが勝手に邪推していただけだ。完全に勘違いしていたようで「うわぁぁぁー!」と叫びたいほど恥ずかしくなった。そんな気力もないが。
「桔都ってモテるでしょ。彼女、作らないの?」
「彼女は、作らない……」
「……そっか」
ホッと胸のつかえが取れたような心地がして、仰向けにゴロンと転がった。発熱で消耗した体に眠気が忍び寄ってくる。
「……嫌だった?」
「ん……」
なんて聞かれて、なんて答えたのかも定かじゃない。会話の途中だったのにすうっと眠りにつき、目覚めたときには少し体が楽になっていた。
「……うぉっ! なに? どした?」
んーっと布団の上で伸びをしてから、桔都がおれをジーッと見つめていることに気づく。なにか言いたげな目に問いかけた。
「瑞に、話しておきたいことが、あって……僕の母親のこと」
「……うん」
ついに、来た。これまであえて誰にも訊かなかったから、桔都の母が亡くなっているらしいということしか知らないのだ。
桔都はぼさぼさ髪の隙間から睫毛の先を揺らす。どう話そうか迷っているようだったが、悲愴感までは感じさせない。
「僕が幼稚園に行ってたときに、亡くなって……正直、その時のことは、あまり覚えてない」
「……そっか」
星凪と会ったとき、丞さんが小学生のときからシングルファザーだったと聞いていたから、予想できていたことだった。なんて言葉を掛けるのが適切なのかわからなくて、小さく相槌を打つ。
「原因が、僕を迎えに来るときの、交通事故で……」
「あ……」
「昔から車には気を付けるようにって、言われてたんだ。だから……昨日は取り乱して、ごめん」
母のことが大好きでずっと支え合って生きていたからこそ、幼い頃に母を亡くした桔都が不憫でならなかった。どちらの方がつらいとか、そういう話ではない。
きっと幸せだったに違いない家庭が一日でバランスを崩してしまう恐怖は、想像しただけでも胸が苦しくなる。小さな桔都は「どうしてお母さんがいないの」と何度も考えただろう。
丞さんに言い聞かせられて交通事故に遭った母を想像し、潜在意識下に交通事故への恐れが桔都に植え付けられていた。昨日、おれを失ったらどうしようと必死で縋りついてきた様子は痛々しいほどで、桔都が長年抱えてきた喪失の悲しみを垣間見た気がした。
隣の布団で小さくなっている桔都に向かって笑いかける。
「大丈夫だよ。おれ、驚異の反射神経で避けたんだから。見せられなかったのが悔しいくらい!」
「……うん、見たかったな」
目が合うと、桔都も目を細めて笑う。やっぱり眼鏡がないと表情がよく見えていいな、と思った。
「おれの前の父さんさぁ、DVっていうの? 母さんにもおれにも手を上げる人で。大怪我とかはなかったけど、怒って脅すみたいなのが多くて」
「…………」
突然語り出してみる。今なら話せる、と感じたから。桔都に知っておいてほしいと思ったから。
父は機嫌のいい時と良くない時の差が激しい人だった。おそらく母と結婚した当初はそこまでじゃなかったはずだが、だんだんとその差は広がり、小学校のときのおれはいつ父がキレるのかびくびくして過ごしていた記憶ばかりがある。
駄目な話題や必ず怒るパターンがわかっていればまだ対策はできるのに、怒りはいつも突然で理不尽だった。母の作った食事をひっくりかえし、物を壊し、頬を叩かれる。怒って家を出て行って何日も帰ってこない日もあった。
優しい時の父を信じたい気持ちはあったけれど、だんだんと父が笑顔でも恐怖を感じるようになっていった。
母は気丈で、ああ見えて気が強い一面もあるので父に言い返すことも多かった。両親の喧嘩は嫌だったけど、最終的に母が何も言い返さなくなったとき「ああ、父は完全に嫌われたんだな」とおれもなんとなく悟った。
母と二人で家を出て、数年かかったようだが離婚は成立した。養育費が振り込まれず、生活が苦しくなったこともある。母はたくさん働いて、おれが健康的な生活を送れるよう努力してくれた。
家にひとりで寂しい時間もあったけれど、母と二人の生活は穏やかで幸せだった。
「でもさ、今はもっと幸せなんだ。母さん、たまに怒るけど楽しそうだし。丞さんと、桔都のおかげだね」
「……話してくれて、ありがとう。僕も、奏海さんが来てくれて嬉しい」
「えー、おれはぁ?」
「瑞は……好き」
「えへへ」
ぼそぼそと喋る割にストレートな愛情を伝えてくれた桔都に、へらへら笑って答える。嬉しくて恥ずかしくて、隠された胸の奥でぴょんと心臓が跳ねてしまった。
その夜は丞さんが買ってきた鰻を桔都と食べた。母は「熱のあるときに食べるものじゃない!」と丞さんにプンプンしていたが、丞さんはいつもの調子で「奏海さん、鰻好きでしょ?」とズレた発言で躱していたのが面白かった。
おれたちも夜にはだいぶ回復していたため、柔らかめに炊いたご飯で作られた鰻玉丼を堪能した。たまには風邪を引くのも悪くないなぁ、と思ったのは秘密だ。
(心配させるから言わないでって、言ったのに……!)
「無事で良かった……!」
「……うん……っひく」
もらい泣きと言うか、おれも母を前にすると緊張の糸が切れてしまった。あの瞬間は何も考えられなかったけれど、おれが死んだり大怪我をしたら本気で悲しんでくれる人が、少なくとも二人いる。きっと丞さんも同じだから三人だ。
今さらながらに怖かったなと思い、体に震えが走った。それを寒いからだと勘違いした母が、お風呂沸いてるから入ってきなさいと促してくれる。
「桔都も一緒に入る?」
「う……う……いや、やめておく」
「じゃあ、すぐ上がるね!」
桔都はしばらく迷ったようだが、断られたので追及しないでおく。以前の反応を見るに、狭い風呂に二人で入るより一人でゆったりしたい派なんだろう。
温かい湯船に浸かると、ふぅ~っと思わず声が出た。想像以上に熱く感じて、相当体が冷えていたのだと気づく。
(早く桔都に交代しないと、風邪引かせちゃうなぁ)
風邪を引かせないために迎えに行ったはずなのに、とんだことになってしまった。
手のひらにお湯が沁みる。コンクリートに手をついた際小さく擦りむいていたこともわかった。これくらいは言わないでおくことにする。
それ以外には体の不調も無さそうだったことにホッと安堵した。これ以上、家族に心配をかけたくないのだ。
桔都と交代し、帰ってきた丞さんと四人で夕飯を食べてからぶどうを食べた。この何気ない日常は突然失われてしまう可能性があるということを、身をもって実感した日だった。
運転手の人には丞さんが改めて電話してくれていた。話している内容までは聞こえなかったものの、声のトーンは穏やかだったから怒ったりはしていなかったと思う。
そして翌日、ひどい悪寒を感じながら目覚めた。平日よりはたくさん寝たような、でもよく眠れなかったような変な感覚だ。
部屋を出ると、タイミング良く顔色の悪い桔都とかち合う。
「おはよ……うー。今朝寒くない? なんか体怠いし……」
「僕も……」
階下に降りて両親に挨拶したおれと桔都は、血相を変えた両親に当番医の病院に連れて行かれることになった。
「桔都ぉ、頭痛い……」
「うん……僕も……」
情けないことに、二人して風邪を引いてしまったらしい。
おれと桔都はまとめて広い部屋に寝かされ、額に冷却シートを貼ってウンウン唸っている。熱が上がり、立ち上がる気力もないほど体が重い。
ひとしきり看病したあと、母は風邪が移らないように別室へ行ってしまったし、父は看病グッズや病人食の買い出しに出掛けている。
風邪なんてかなり久しぶりに引いたけれど、一人じゃなくてよかったと心から思う。同じ部屋に桔都という仲間がいるのはとても頼もしいし、申し訳ないと感じつつ嬉しい。
昔は熱を出すと、母に甘やかしてもらえる特別な行事だと思っていた。
しかしおれのために必死に働いてくれていることに気づいてからは、なんとか余計な雑事で母を悩ませないようおれも心掛けていた。体調不良に一人でじっと耐えた日もある。
家族が四人になってから、いいことばかりだ。
明日学校を休むことになりそうだと秀治にメッセージを入れていたとき、ふとスマホから顔を上げる。桔都は全くスマホを触っていなかった。というか、この部屋に入ってから持っているのを全く見ていない。
「桔都、彼女に連絡しなくていいのか?」
「……は?」
お互いに頭が朦朧としているらしい。ストレートに気になっていたことを聞いてしまったおれに対し、桔都はぽかんとして見せた。
「ええと、佐倉さんと……付き合ってるんじゃないの?」
「あり得ない。ないない」
またもやストレートに彼女の名前を出すと、桔都はもはや恐怖と言いたげに眉を顰めて首を左右に振り、頭痛に響いたらしく「ウッ」と呻いた。
「え、昨日のボウリングは?」
「いつもの奴らと。言わなかったっけ?」
「言ってた……」
おれが勝手に邪推していただけだ。完全に勘違いしていたようで「うわぁぁぁー!」と叫びたいほど恥ずかしくなった。そんな気力もないが。
「桔都ってモテるでしょ。彼女、作らないの?」
「彼女は、作らない……」
「……そっか」
ホッと胸のつかえが取れたような心地がして、仰向けにゴロンと転がった。発熱で消耗した体に眠気が忍び寄ってくる。
「……嫌だった?」
「ん……」
なんて聞かれて、なんて答えたのかも定かじゃない。会話の途中だったのにすうっと眠りにつき、目覚めたときには少し体が楽になっていた。
「……うぉっ! なに? どした?」
んーっと布団の上で伸びをしてから、桔都がおれをジーッと見つめていることに気づく。なにか言いたげな目に問いかけた。
「瑞に、話しておきたいことが、あって……僕の母親のこと」
「……うん」
ついに、来た。これまであえて誰にも訊かなかったから、桔都の母が亡くなっているらしいということしか知らないのだ。
桔都はぼさぼさ髪の隙間から睫毛の先を揺らす。どう話そうか迷っているようだったが、悲愴感までは感じさせない。
「僕が幼稚園に行ってたときに、亡くなって……正直、その時のことは、あまり覚えてない」
「……そっか」
星凪と会ったとき、丞さんが小学生のときからシングルファザーだったと聞いていたから、予想できていたことだった。なんて言葉を掛けるのが適切なのかわからなくて、小さく相槌を打つ。
「原因が、僕を迎えに来るときの、交通事故で……」
「あ……」
「昔から車には気を付けるようにって、言われてたんだ。だから……昨日は取り乱して、ごめん」
母のことが大好きでずっと支え合って生きていたからこそ、幼い頃に母を亡くした桔都が不憫でならなかった。どちらの方がつらいとか、そういう話ではない。
きっと幸せだったに違いない家庭が一日でバランスを崩してしまう恐怖は、想像しただけでも胸が苦しくなる。小さな桔都は「どうしてお母さんがいないの」と何度も考えただろう。
丞さんに言い聞かせられて交通事故に遭った母を想像し、潜在意識下に交通事故への恐れが桔都に植え付けられていた。昨日、おれを失ったらどうしようと必死で縋りついてきた様子は痛々しいほどで、桔都が長年抱えてきた喪失の悲しみを垣間見た気がした。
隣の布団で小さくなっている桔都に向かって笑いかける。
「大丈夫だよ。おれ、驚異の反射神経で避けたんだから。見せられなかったのが悔しいくらい!」
「……うん、見たかったな」
目が合うと、桔都も目を細めて笑う。やっぱり眼鏡がないと表情がよく見えていいな、と思った。
「おれの前の父さんさぁ、DVっていうの? 母さんにもおれにも手を上げる人で。大怪我とかはなかったけど、怒って脅すみたいなのが多くて」
「…………」
突然語り出してみる。今なら話せる、と感じたから。桔都に知っておいてほしいと思ったから。
父は機嫌のいい時と良くない時の差が激しい人だった。おそらく母と結婚した当初はそこまでじゃなかったはずだが、だんだんとその差は広がり、小学校のときのおれはいつ父がキレるのかびくびくして過ごしていた記憶ばかりがある。
駄目な話題や必ず怒るパターンがわかっていればまだ対策はできるのに、怒りはいつも突然で理不尽だった。母の作った食事をひっくりかえし、物を壊し、頬を叩かれる。怒って家を出て行って何日も帰ってこない日もあった。
優しい時の父を信じたい気持ちはあったけれど、だんだんと父が笑顔でも恐怖を感じるようになっていった。
母は気丈で、ああ見えて気が強い一面もあるので父に言い返すことも多かった。両親の喧嘩は嫌だったけど、最終的に母が何も言い返さなくなったとき「ああ、父は完全に嫌われたんだな」とおれもなんとなく悟った。
母と二人で家を出て、数年かかったようだが離婚は成立した。養育費が振り込まれず、生活が苦しくなったこともある。母はたくさん働いて、おれが健康的な生活を送れるよう努力してくれた。
家にひとりで寂しい時間もあったけれど、母と二人の生活は穏やかで幸せだった。
「でもさ、今はもっと幸せなんだ。母さん、たまに怒るけど楽しそうだし。丞さんと、桔都のおかげだね」
「……話してくれて、ありがとう。僕も、奏海さんが来てくれて嬉しい」
「えー、おれはぁ?」
「瑞は……好き」
「えへへ」
ぼそぼそと喋る割にストレートな愛情を伝えてくれた桔都に、へらへら笑って答える。嬉しくて恥ずかしくて、隠された胸の奥でぴょんと心臓が跳ねてしまった。
その夜は丞さんが買ってきた鰻を桔都と食べた。母は「熱のあるときに食べるものじゃない!」と丞さんにプンプンしていたが、丞さんはいつもの調子で「奏海さん、鰻好きでしょ?」とズレた発言で躱していたのが面白かった。
おれたちも夜にはだいぶ回復していたため、柔らかめに炊いたご飯で作られた鰻玉丼を堪能した。たまには風邪を引くのも悪くないなぁ、と思ったのは秘密だ。


