翌朝、空を見上げれば、昨日の雨雲はどこへやら、清々しい青空が広がっていた。
いつものスクールバッグと、今日はもうひとつ。
返さなきゃいけないものを持って家を出る。
いつもの通学路、ただし水たまり多め。
バス停のベンチで眠っている地域猫。
玄関の掃除をしてる酒屋のおじさん。
小さな子どもを自転車に乗せた主婦の人。
そして、俺を待っている神星が……いない⁉︎
「な、なんで……」
もうすっかり当たり前になっていた、通学路で俺を待つ神星の姿。
なぜ、どうして。
約束していたわけじゃないけど、まさか、いないなんて思わないだろ。
「ジャージも返したかったのに……」
そう呟いてハッとした。
急いでスマホを取り出して、神星とのチャット画面を開く。
『おはよ、もしかして風邪ひいた?』
既読がつかなかったら電話をしてみようか、いや電話なんて迷惑か……なんて、そんなことで迷う必要はなかった。
「!」
すぐに既読がついて、返信が来たから。
『熱出たから休むね』
おい、マジで熱出してんじゃねーかよ。
俺にジャージを貸してくれたから……。
『今、家に誰かいる?身体しんどくない?』
そのメッセージを送った俺の足は、ドラッグストアに向かっていた。
頭であれこれ考えるより、先に身体が動いてしまう。
『いない。しんどいけど大丈夫』
「ったく……」
レジの会計を済ませる前に、メッセージを送る。
『家の場所教えろ』
◇
◇
◇
ポチ、とインターホンを押すと、すぐに通話がつながった。
「俺だよ、開けて」
『うん……』
覇気のない声が聞こえてまもなく、玄関の扉がガチャリと開く。
「楠木……」
「お邪魔します。ほら、早くベッド戻って」
マスクをつけて、とろんとした目でこちらを見つめる神星の背中に手を添えて、部屋に戻るよう促す。
神星は怠そうな足取りでベッドまで歩き、ゴロンと大人しく横になった。
「水分取ったか?経口補水液と、普通の水とかお茶も買ってきたから。飲めそう?」
「ん……」
紙コップに経口補水液を注いで渡すと、こくこくとよく飲んでいる。
喉渇いてたのかもな。
「朝ご飯は食べた?」
熱い額に冷却シートを貼りながら尋ねると、神星は小さく首を横に振る。
「何か食べたいものあるか?お粥、すぐ食べれるやつ買ったし、ゼリーとかプリンもあるよ」
「……プリン……」
「プリンね!りょーかい。他のもの冷蔵庫入れてくるから、ちょっと待っててな」
さらりと頭を撫でてから、買ってきたものをサッと整理して、再び神星のいる部屋に戻る。
神星は上体を起こして、机の上に置いてあったプリンに手を伸ばすところだった。
「あーいいよ、開けるよ」
「あっ……」
「はい、あーん」
「……!」
小さく開いた口に、プリンが一口、また一口と消えていく。
「どう?美味い?」
顔を覗いて問いかけると、神星はゆっくり頷いた。
そして、何か言いたげにしている。
「?」
「……楠木、学校、あるだろ」
「んなの、休む休む!一日くらいどうってことないよ」
スプーンで最後の一口を綺麗にかき集めて、ほい、と神星の口に持っていけば、ぱくりと食べられる。
食欲があって一安心した。
俺の弟たちも、熱出してもプリンは食べてくれるから、プリン様には感謝してもしきれない。
「よし、あとは風邪薬飲んでゆっくり寝とけ」
神星に薬を飲ませ、布団を被せ、ぽん、ぽん、とお腹を優しく叩いて……
「楠木……なんで、そんな、慣れてんの……」
「え?」
「なんか、子守りみたいだな……」
「子守り……?」
あれ?
言われてみれば、俺、弟たちにするみたいに色々してた……⁉︎
身体に染みついているものが、勝手に表に出てきてしまっていた……待って、恥ずい、かなり。
「お、俺、八歳下の双子の弟がいるからさ!ついつい!」
パッと手を離したら、弱々しい力でその手を掴まれた。
「……落ち着くから、やめなくていい……」
「っ……!」
ついこの間まで、俺が知ってる神星の表情は、胡散臭い微笑みだけだったのに。
最近、少しずつ、あったかい笑顔とか、照れた顔とか、新しい神星を知るようになって。
今日もまた、俺は知ってしまった。
不安なとき、甘えたいとき、神星がどんな瞳で俺のことを見つめてくるのか。
「……分かったよ、やめないやめない」
布団越しにそっと身体に触れると、神星が安心したような笑顔を見せてくるものだから、不可抗力でときめいた。
もちろん神星には教えてやらないけど。
「……楠木、ありがとな」
「別に……」
「……俺の家、小さい頃から、親が仕事で忙しくしてるから……ちょっと風邪引いたくらいなら、一人で寝てることも多くて……昔は、それが結構、心細かった」
「……兄弟とかはいねーの?」
「一人っ子だよ……楠木は、長男か。通りで、テキパキしてるな、色々」
「へへ、まあな!」
「その割に、普段は子どもっぽいけど……」
「おい、帰るぞ?」
冗談のつもりで立ち上がったら、さっきより強く手首を掴まれ、ぐいっと引かれたから、
「わっ」
神星の布団に、そのままダイブ―――。
「ぁ、あの、神星、」
「楠木……俺が寝るまで、ここにいて」
ふわりとかけられた布団の下、脚と脚が触れ合って、肩がぴくっと跳ねる。
目と鼻の先には、熱っぽい神星の顔。
潤んだ瞳の中に、戸惑う自分が映されている。
呼吸をするたびに肺を満たすのは、昨日借りたジャージより、もっともっと濃い神星の香り。
「……今日は、俺の負けでいいからさ……ね?」
「っ……そもそも、俺にジャージ貸してくれたから、風邪引いたんだし……別に、引き分けでいいだろ」
「ふふ、そっか……」
神星はゆっくり目を閉じて、すぐに眠りについた。
俺は、まるで神星の体温と匂いに拘束されたみたいに、しばらく布団から動けなかった。
すやすや眠る神星を起こしてしまいそうなほどに、俺の心臓の鼓動は騒がしくて……引き分けでいいだろ、とか、かっこつけて言ったけど、なんだか、惨敗した気分だった。
◇
◇
◇
「楠木、おはよ」
「……!神星、おはよ」
翌朝、神星は無事に回復し、いつも通り俺を待っていた。
「昨日はありがとな」
「っ!」
当然の如く頭を撫でてくるから、咄嗟にばびゅんと距離を取る。
「ありゃ、逃げちゃった」
「……いいか!なんか雨降ったり風邪引いたり!色々あったけど!俺とお前はライバルだかんな!」
「?そうだけど、改まってどうした?」
「ぬ、ぬるい勝負すんなよって話!俺は、来たる体育祭、全校生徒の前で、神星よりかっけーとこを見せるからな!覚悟しとけよ!」
よし、大声で決意表明したら、ビシッと気が引き締まった感じがする。
なかよしこよしで気の抜けた戦いをしていたら、多分、ミスターコンで勝つのは神星だ。
そんなの許せない!
ぜっったいに!!俺はこいつに勝―――
「何言ってんの楠木」
「っ、」
「俺だって本気出して、かっけーとこ見せるつもりだよ」
昨日の可愛い風邪っぴき神星はもういなかった。
大人びた顔つきで近づいてきて、耳元で囁きやがった。
「……楠木がドキドキしちゃうくらいね」
妖艶とすら言えるような、ドキドキしちゃう声で。
「……マジで、絶対勝ってやる」
「はは、そんなに耳赤くしてんのによく言う」
やっぱり、神星、めちゃくちゃムカつく。
ムカつくけど、これでいい。
俺は、このムカつきを原動力にして、最強のドキドキイベントである体育祭を制するのだから……!
いつものスクールバッグと、今日はもうひとつ。
返さなきゃいけないものを持って家を出る。
いつもの通学路、ただし水たまり多め。
バス停のベンチで眠っている地域猫。
玄関の掃除をしてる酒屋のおじさん。
小さな子どもを自転車に乗せた主婦の人。
そして、俺を待っている神星が……いない⁉︎
「な、なんで……」
もうすっかり当たり前になっていた、通学路で俺を待つ神星の姿。
なぜ、どうして。
約束していたわけじゃないけど、まさか、いないなんて思わないだろ。
「ジャージも返したかったのに……」
そう呟いてハッとした。
急いでスマホを取り出して、神星とのチャット画面を開く。
『おはよ、もしかして風邪ひいた?』
既読がつかなかったら電話をしてみようか、いや電話なんて迷惑か……なんて、そんなことで迷う必要はなかった。
「!」
すぐに既読がついて、返信が来たから。
『熱出たから休むね』
おい、マジで熱出してんじゃねーかよ。
俺にジャージを貸してくれたから……。
『今、家に誰かいる?身体しんどくない?』
そのメッセージを送った俺の足は、ドラッグストアに向かっていた。
頭であれこれ考えるより、先に身体が動いてしまう。
『いない。しんどいけど大丈夫』
「ったく……」
レジの会計を済ませる前に、メッセージを送る。
『家の場所教えろ』
◇
◇
◇
ポチ、とインターホンを押すと、すぐに通話がつながった。
「俺だよ、開けて」
『うん……』
覇気のない声が聞こえてまもなく、玄関の扉がガチャリと開く。
「楠木……」
「お邪魔します。ほら、早くベッド戻って」
マスクをつけて、とろんとした目でこちらを見つめる神星の背中に手を添えて、部屋に戻るよう促す。
神星は怠そうな足取りでベッドまで歩き、ゴロンと大人しく横になった。
「水分取ったか?経口補水液と、普通の水とかお茶も買ってきたから。飲めそう?」
「ん……」
紙コップに経口補水液を注いで渡すと、こくこくとよく飲んでいる。
喉渇いてたのかもな。
「朝ご飯は食べた?」
熱い額に冷却シートを貼りながら尋ねると、神星は小さく首を横に振る。
「何か食べたいものあるか?お粥、すぐ食べれるやつ買ったし、ゼリーとかプリンもあるよ」
「……プリン……」
「プリンね!りょーかい。他のもの冷蔵庫入れてくるから、ちょっと待っててな」
さらりと頭を撫でてから、買ってきたものをサッと整理して、再び神星のいる部屋に戻る。
神星は上体を起こして、机の上に置いてあったプリンに手を伸ばすところだった。
「あーいいよ、開けるよ」
「あっ……」
「はい、あーん」
「……!」
小さく開いた口に、プリンが一口、また一口と消えていく。
「どう?美味い?」
顔を覗いて問いかけると、神星はゆっくり頷いた。
そして、何か言いたげにしている。
「?」
「……楠木、学校、あるだろ」
「んなの、休む休む!一日くらいどうってことないよ」
スプーンで最後の一口を綺麗にかき集めて、ほい、と神星の口に持っていけば、ぱくりと食べられる。
食欲があって一安心した。
俺の弟たちも、熱出してもプリンは食べてくれるから、プリン様には感謝してもしきれない。
「よし、あとは風邪薬飲んでゆっくり寝とけ」
神星に薬を飲ませ、布団を被せ、ぽん、ぽん、とお腹を優しく叩いて……
「楠木……なんで、そんな、慣れてんの……」
「え?」
「なんか、子守りみたいだな……」
「子守り……?」
あれ?
言われてみれば、俺、弟たちにするみたいに色々してた……⁉︎
身体に染みついているものが、勝手に表に出てきてしまっていた……待って、恥ずい、かなり。
「お、俺、八歳下の双子の弟がいるからさ!ついつい!」
パッと手を離したら、弱々しい力でその手を掴まれた。
「……落ち着くから、やめなくていい……」
「っ……!」
ついこの間まで、俺が知ってる神星の表情は、胡散臭い微笑みだけだったのに。
最近、少しずつ、あったかい笑顔とか、照れた顔とか、新しい神星を知るようになって。
今日もまた、俺は知ってしまった。
不安なとき、甘えたいとき、神星がどんな瞳で俺のことを見つめてくるのか。
「……分かったよ、やめないやめない」
布団越しにそっと身体に触れると、神星が安心したような笑顔を見せてくるものだから、不可抗力でときめいた。
もちろん神星には教えてやらないけど。
「……楠木、ありがとな」
「別に……」
「……俺の家、小さい頃から、親が仕事で忙しくしてるから……ちょっと風邪引いたくらいなら、一人で寝てることも多くて……昔は、それが結構、心細かった」
「……兄弟とかはいねーの?」
「一人っ子だよ……楠木は、長男か。通りで、テキパキしてるな、色々」
「へへ、まあな!」
「その割に、普段は子どもっぽいけど……」
「おい、帰るぞ?」
冗談のつもりで立ち上がったら、さっきより強く手首を掴まれ、ぐいっと引かれたから、
「わっ」
神星の布団に、そのままダイブ―――。
「ぁ、あの、神星、」
「楠木……俺が寝るまで、ここにいて」
ふわりとかけられた布団の下、脚と脚が触れ合って、肩がぴくっと跳ねる。
目と鼻の先には、熱っぽい神星の顔。
潤んだ瞳の中に、戸惑う自分が映されている。
呼吸をするたびに肺を満たすのは、昨日借りたジャージより、もっともっと濃い神星の香り。
「……今日は、俺の負けでいいからさ……ね?」
「っ……そもそも、俺にジャージ貸してくれたから、風邪引いたんだし……別に、引き分けでいいだろ」
「ふふ、そっか……」
神星はゆっくり目を閉じて、すぐに眠りについた。
俺は、まるで神星の体温と匂いに拘束されたみたいに、しばらく布団から動けなかった。
すやすや眠る神星を起こしてしまいそうなほどに、俺の心臓の鼓動は騒がしくて……引き分けでいいだろ、とか、かっこつけて言ったけど、なんだか、惨敗した気分だった。
◇
◇
◇
「楠木、おはよ」
「……!神星、おはよ」
翌朝、神星は無事に回復し、いつも通り俺を待っていた。
「昨日はありがとな」
「っ!」
当然の如く頭を撫でてくるから、咄嗟にばびゅんと距離を取る。
「ありゃ、逃げちゃった」
「……いいか!なんか雨降ったり風邪引いたり!色々あったけど!俺とお前はライバルだかんな!」
「?そうだけど、改まってどうした?」
「ぬ、ぬるい勝負すんなよって話!俺は、来たる体育祭、全校生徒の前で、神星よりかっけーとこを見せるからな!覚悟しとけよ!」
よし、大声で決意表明したら、ビシッと気が引き締まった感じがする。
なかよしこよしで気の抜けた戦いをしていたら、多分、ミスターコンで勝つのは神星だ。
そんなの許せない!
ぜっったいに!!俺はこいつに勝―――
「何言ってんの楠木」
「っ、」
「俺だって本気出して、かっけーとこ見せるつもりだよ」
昨日の可愛い風邪っぴき神星はもういなかった。
大人びた顔つきで近づいてきて、耳元で囁きやがった。
「……楠木がドキドキしちゃうくらいね」
妖艶とすら言えるような、ドキドキしちゃう声で。
「……マジで、絶対勝ってやる」
「はは、そんなに耳赤くしてんのによく言う」
やっぱり、神星、めちゃくちゃムカつく。
ムカつくけど、これでいい。
俺は、このムカつきを原動力にして、最強のドキドキイベントである体育祭を制するのだから……!



