翌朝、空を見上げれば、昨日の雨雲はどこへやら、清々しい青空が広がっていた。

いつものスクールバッグと、今日はもうひとつ。
返さなきゃいけないものを持って家を出る。

いつもの通学路、ただし水たまり多め。
バス停のベンチで眠っている地域猫。
玄関の掃除をしてる酒屋のおじさん。
小さな子どもを自転車に乗せた主婦の人。

そして、俺を待っている神星が……いない⁉︎

「な、なんで……」

もうすっかり当たり前になっていた、通学路で俺を待つ神星の姿。
なぜ、どうして。
約束していたわけじゃないけど、まさか、いないなんて思わないだろ。

「ジャージも返したかったのに……」

そう呟いてハッとした。
急いでスマホを取り出して、神星とのチャット画面を開く。

『おはよ、もしかして風邪ひいた?』

既読がつかなかったら電話をしてみようか、いや電話なんて迷惑か……なんて、そんなことで迷う必要はなかった。

「!」

すぐに既読がついて、返信が来たから。

『熱出たから休むね』

おい、マジで熱出してんじゃねーかよ。
俺にジャージを貸してくれたから……。

『今、家に誰かいる?身体しんどくない?』

そのメッセージを送った俺の足は、ドラッグストアに向かっていた。
頭であれこれ考えるより、先に身体が動いてしまう。

『いない。しんどいけど大丈夫』

「ったく……」

レジの会計を済ませる前に、メッセージを送る。

『家の場所教えろ』







ポチ、とインターホンを押すと、すぐに通話がつながった。

「俺だよ、開けて」

『うん……』

覇気のない声が聞こえてまもなく、玄関の扉がガチャリと開く。

「楠木……」

「お邪魔します。ほら、早くベッド戻って」

マスクをつけて、とろんとした目でこちらを見つめる神星の背中に手を添えて、部屋に戻るよう促す。
神星は怠そうな足取りでベッドまで歩き、ゴロンと大人しく横になった。

「水分取ったか?経口補水液と、普通の水とかお茶も買ってきたから。飲めそう?」

「ん……」

紙コップに経口補水液を注いで渡すと、こくこくとよく飲んでいる。
喉渇いてたのかもな。

「朝ご飯は食べた?」

熱い額に冷却シートを貼りながら尋ねると、神星は小さく首を横に振る。

「何か食べたいものあるか?お粥、すぐ食べれるやつ買ったし、ゼリーとかプリンもあるよ」

「……プリン……」

「プリンね!りょーかい。他のもの冷蔵庫入れてくるから、ちょっと待っててな」

さらりと頭を撫でてから、買ってきたものをサッと整理して、再び神星のいる部屋に戻る。
神星は上体を起こして、机の上に置いてあったプリンに手を伸ばすところだった。

「あーいいよ、開けるよ」

「あっ……」

「はい、あーん」

「……!」

小さく開いた口に、プリンが一口、また一口と消えていく。

「どう?美味い?」

顔を覗いて問いかけると、神星はゆっくり頷いた。
そして、何か言いたげにしている。

「?」

「……楠木、学校、あるだろ」

「んなの、休む休む!一日くらいどうってことないよ」

スプーンで最後の一口を綺麗にかき集めて、ほい、と神星の口に持っていけば、ぱくりと食べられる。
食欲があって一安心した。
俺の弟たちも、熱出してもプリンは食べてくれるから、プリン様には感謝してもしきれない。

「よし、あとは風邪薬飲んでゆっくり寝とけ」

神星に薬を飲ませ、布団を被せ、ぽん、ぽん、とお腹を優しく叩いて……

「楠木……なんで、そんな、慣れてんの……」

「え?」

「なんか、子守りみたいだな……」

「子守り……?」

あれ?
言われてみれば、俺、弟たちにするみたいに色々してた……⁉︎
身体に染みついているものが、勝手に表に出てきてしまっていた……待って、恥ずい、かなり。

「お、俺、八歳下の双子の弟がいるからさ!ついつい!」

パッと手を離したら、弱々しい力でその手を掴まれた。

「……落ち着くから、やめなくていい……」

「っ……!」

ついこの間まで、俺が知ってる神星の表情は、胡散臭い微笑みだけだったのに。
最近、少しずつ、あったかい笑顔とか、照れた顔とか、新しい神星を知るようになって。

今日もまた、俺は知ってしまった。
不安なとき、甘えたいとき、神星がどんな瞳で俺のことを見つめてくるのか。

「……分かったよ、やめないやめない」

布団越しにそっと身体に触れると、神星が安心したような笑顔を見せてくるものだから、不可抗力でときめいた。
もちろん神星には教えてやらないけど。

「……楠木、ありがとな」

「別に……」

「……俺の家、小さい頃から、親が仕事で忙しくしてるから……ちょっと風邪引いたくらいなら、一人で寝てることも多くて……昔は、それが結構、心細かった」

「……兄弟とかはいねーの?」

「一人っ子だよ……楠木は、長男か。通りで、テキパキしてるな、色々」

「へへ、まあな!」

「その割に、普段は子どもっぽいけど……」

「おい、帰るぞ?」

冗談のつもりで立ち上がったら、さっきより強く手首を掴まれ、ぐいっと引かれたから、

「わっ」

神星の布団に、そのままダイブ―――。

「ぁ、あの、神星、」

「楠木……俺が寝るまで、ここにいて」

ふわりとかけられた布団の下、脚と脚が触れ合って、肩がぴくっと跳ねる。
目と鼻の先には、熱っぽい神星の顔。
潤んだ瞳の中に、戸惑う自分が映されている。
呼吸をするたびに肺を満たすのは、昨日借りたジャージより、もっともっと濃い神星の香り。

「……今日は、俺の負けでいいからさ……ね?」

「っ……そもそも、俺にジャージ貸してくれたから、風邪引いたんだし……別に、引き分けでいいだろ」

「ふふ、そっか……」

神星はゆっくり目を閉じて、すぐに眠りについた。
俺は、まるで神星の体温と匂いに拘束されたみたいに、しばらく布団から動けなかった。
すやすや眠る神星を起こしてしまいそうなほどに、俺の心臓の鼓動は騒がしくて……引き分けでいいだろ、とか、かっこつけて言ったけど、なんだか、惨敗した気分だった。







「楠木、おはよ」

「……!神星、おはよ」

翌朝、神星は無事に回復し、いつも通り俺を待っていた。

「昨日はありがとな」

「っ!」

当然の如く頭を撫でてくるから、咄嗟にばびゅんと距離を取る。

「ありゃ、逃げちゃった」

「……いいか!なんか雨降ったり風邪引いたり!色々あったけど!俺とお前はライバルだかんな!」

「?そうだけど、改まってどうした?」

「ぬ、ぬるい勝負すんなよって話!俺は、来たる体育祭、全校生徒の前で、神星よりかっけーとこを見せるからな!覚悟しとけよ!」

よし、大声で決意表明したら、ビシッと気が引き締まった感じがする。
なかよしこよしで気の抜けた戦いをしていたら、多分、ミスターコンで勝つのは神星だ。
そんなの許せない!
ぜっったいに!!俺はこいつに勝―――

「何言ってんの楠木」

「っ、」

「俺だって本気出して、かっけーとこ見せるつもりだよ」

昨日の可愛い風邪っぴき神星はもういなかった。
大人びた顔つきで近づいてきて、耳元で囁きやがった。

「……楠木がドキドキしちゃうくらいね」

妖艶とすら言えるような、ドキドキしちゃう声で。

「……マジで、絶対勝ってやる」

「はは、そんなに耳赤くしてんのによく言う」

やっぱり、神星、めちゃくちゃムカつく。
ムカつくけど、これでいい。
俺は、このムカつきを原動力にして、最強のドキドキイベントである体育祭を制するのだから……!