『楠木』
あれ……俺、また神星に捕まえられてる?
無駄に色気の混じった声で呼びやがって。
耳がじんじん熱くて、頭がふわふわする。
くそ、俺はこんなところで終わる男じゃないのに……!
なんで逃げられないんだよ……!
「ハッッッ!!」
窓から差し込む朝日の光。
外ではチュンチュンと小鳥が鳴いている。
ここまでなら爽やかな朝だと言えたのに、残念。
「……夢にまで出てくんなよ……」
夢見の悪さと、それに伴いびっしょりと汗をかいた背中。
ぶっちゃけ寝る前より疲れている気がする。
これじゃあ何のために眠ったのか分からない。
時計を見れば、いつもの起床時刻より一時間も早い。
こんなに汗をかいたまま再び目を瞑っても、どうせ身体が気持ち悪くて休まらないし……。
「シャワー浴びるかー……」
のそりと起き上がって、ぐーっと伸びをして、家族を起こさないように気をつけながら浴室へ向かう。
朝にシャワーを浴びることは、これまでにもたまにあった。
バイトでヘトヘトになるほど疲れたときとか、弟たちを寝かしつけて、そのまま自分まで寝てしまったときとか。
俺はこの朝シャワーが結構好きだ。
毎日ではなく「たまに」だからこそ、ちょっとした気分転換になるし、全身を洗い流して朝日を浴びたときの爽快感が、とにかくまあ最高なんだ。
「あら!翠おはよう、朝ごはん作ってくれてるの?」
「おー母さん、おはよ。なんか、今日は早く目が覚めちゃってさ」
「あら、嫌な夢でも見た?大丈夫?」
「っ、あー、まあ大丈夫だよ」
あはは……と苦笑いをしつつ、半熟の目玉焼きを皿に盛り付ける。
母さん、何かと鋭くてビビるんだよな。
「「兄ちゃんおはよー」」
「おー詩音、玲音、おはよ」
先ほどトースターにセットした食パンが焼きあがったとき、弟たちも眠そうな目を擦りながら起きてきた。
みんなが席に着く頃には、ちょうど全ての準備が整いそうだ。
「あれ、兄ちゃん、シャンプーの匂いする!」
「お風呂入ったの?」
「ん?ああ、早く目が覚めちゃってさ」
「えーいいなぁ」
「俺たちも早く起きたら入ってもいい?」
「ははっ、今度休みの日にでも一緒に朝風呂するか」
「「うん!」」
可愛い可愛い弟たちとほのぼのした会話をしていたこのときの俺は、まだ知らなかった。
この数十分後、あいつにも同じことを指摘されるなんて。
◇
◇
◇
バス停のベンチで眠っている地域猫。
玄関の掃除をしてる酒屋のおじさん。
小さな子どもを自転車に乗せた主婦の人。
いつもと変わらない朝の景色……の中に、明らかな異常が発見された。
「楠木、おはよ」
「おはよ、じゃねぇよ。なんでいるんだよ。いつももっと早く行ってるだろ」
「楠木が喜ぶかなって」
「こんなんでドキドキしねーわ!」
そう、神星。
神星鈴斗が、通学路で俺を待っていた。
待ち伏せみたいなことをして、なぜドキドキさせられると思ったのか意味不明だ。
俺はお前に恋するヒロインじゃねぇんだぞ?
「ま、せっかくだから、一緒に行こうよ」
「はいはい」
朝から神星と登校なんて、周りからの熱い視線を横取りされかねないし、これまでの俺ならお断りだったけど……今の俺にとっては、神星をドキドキさせるチャンスでしかない!
というわけで、早速何かできないものかと神星をチラリと見上げると、
「っ、な、なに、」
神星の方が先にこちらを見ていて、ぐっと顔を近づけてくる。
「……楠木、風呂入ってきた?」
「?入ったけど」
素直にそう答えると、神星は表情を変えないままさらに近づいてきて、俺の首筋の近くでスン、と鼻を鳴らす。
「……すごくいい香りがする」
「っ……!?」
「俺も同じシャンプー使おうかな?」
「はぁ!?」
ぶわっと顔が熱くなるのが分かった。
手の甲をほっぺたに当ててみたら、やけどしそうな温度がひりひり伝わってくるではないか。
そんな俺を見て、神星は満足気にふっと微笑み、優雅に歩き出す。
「くっ……悔しい……」
余裕たっぷりの大きな背中を睨みつつ、昨夜用意した作戦ノートを確認しようと、ガサゴソとスクールバッグを漁る。
しかし、ノートを取り出す前に、俺はあることを思い出してしまった。
(……英語の宿題やってねぇ……)
昨夜、後回しにしたそれ。
英語は今日の一限目、つまり、俺に残された時間はあとわずか。
テストの度に赤点に怯えるような頭の持ち主にとって、自力で授業開始に間に合わせるのは不可能に近い。
ここは、幼馴染かつ成績優秀な原田に、泣きついて頼むしかないか……?と思ったところで、ふと気づく。
目の前に、いるじゃん、めちゃくちゃ頭がいいやつ。
……そうだ、これだ!
宿題を見せてもらうなんて、ライバルに借りを作るみたいで普通は嫌だけど……俺たちは、普通じゃない戦いの火蓋を切ったんだ。
神星が「宿題見る?」と胸キュンな提案をしてくる前に、俺の方から、ドキドキお願い攻撃を喰らわせてやる!
ふぅ、と息を吐いて、いざ出陣。
まずは、さりげないボディタッチから。
神星の腕をきゅ、と掴んで引き留めて、
「楠木?」
そのまま、身長差を生かした上目遣い。
俺のチャームポイントの一つ、きゅるんとしたぱっちりお目目に、お前だけを映してやるから感謝しろよ。
「神星……英語の宿題、やった?俺、忘れちゃったからさ、見せてほしくて……」
どうだ、俺の上目遣いは!
今すぐ顔を真っ赤にして、カタコトになったっていいんだぞ。
「……やだ」
「は?」
え?今、なんて言ったこいつ。
やだって?言った?言ったよな?しかも真顔で。
そんな……俺のボディタッチと上目遣いが全く効いていない?
あれ?
というか、それより、シンプルに英語の宿題がピンチなんだけど?
席順的に、俺、今日、当てられそうだし……。
テストの点が低い分、普段の授業でやる気あります!って姿勢を見せないといけないのに……!
「……って言ったらどうする?」
「え?」
「やだって言ったら、どんな顔するのかなって気になって。ふふ、楠木、焦りすぎね」
「っ!じゃ、じゃあ、見せてくれんの?」
「ぇ、ぁ、うん……」
「良かったぁ〜」
なんだかんだ、宿題はちゃんと間に合わせてきた人生だから、その輝かしい記録が今日で途絶えてしまうのは避けたい。
中学の頃から原田に土下座を安売りしすぎて、そろそろ愛想を尽かされそうで危ないし、今ここで神星に見捨てられたら非常にまずいのだ。
さて、宿題がなんとかなりそうでホッと一安心した頃、ちょうど学校に到着したのだけれど、なんだかやけに周りからの視線が刺さる。
いや、そりゃあ、神星と俺が歩いていたらさ、見惚れてしまうのは当然だろうが……なんか、いつもとちょっと違うような……変に甘い目つきをしているというか……。
「んで、楠木」
「ん?何?」
「いつまでそうしてんの?」
「え?」
「……腕……」
神星にそう言われて初めて、自分が神星の腕に抱きついた状態で登校していたことを知った俺の心情を、三十字以内で述べよ。
この問題に解答はない。
今のこの気持ちを、俺自身も言葉で表せない……!
「ぁ、その、悪かった……」
恥ずかしくて堪らなくて、そしてすごく気まずくて、ゆっくりと神星の腕から手を離す。
怒っているか、嘲笑っているか、あるいはその全てを通り越してドン引きされているか……。
チラリと横顔を盗み見たその瞬間、
「っ……!」
心臓がどきゅんと鳴って、胸の奥がきゅ〜っと痛んだ。
あの、神星が。
いつだって顔色ひとつ変えず、テンプレートみたいな笑顔を崩さない神星が。
ほっぺたと耳を、うっすら赤く染めているではないか。
「神星、お前、照れて、」
「ほら、早く宿題やれよ」
「っ!?」
突然視界が遮られたと思ったら、顔面にノートを押しつけられていた。
ノートを受け取って開けた視界に映っていたのは、くるりと背中を向けてしまった神星の姿。
「へへ、今日は俺の勝ちだな!」
バシッとその背中を叩いてやったら、もう片方の手で持っていたノートをひょいっと奪われた。
「見なくていいの?」
「見る!!見せて!!」
必死で懇願する俺に、いつもよりちょっと赤らめた顔で微笑む神星を見た朝。
胸できらきらした何かが弾けるような、それに伴って目に映る世界が煌めくような、そんな体験をしてしまったんだ。
あれ……俺、また神星に捕まえられてる?
無駄に色気の混じった声で呼びやがって。
耳がじんじん熱くて、頭がふわふわする。
くそ、俺はこんなところで終わる男じゃないのに……!
なんで逃げられないんだよ……!
「ハッッッ!!」
窓から差し込む朝日の光。
外ではチュンチュンと小鳥が鳴いている。
ここまでなら爽やかな朝だと言えたのに、残念。
「……夢にまで出てくんなよ……」
夢見の悪さと、それに伴いびっしょりと汗をかいた背中。
ぶっちゃけ寝る前より疲れている気がする。
これじゃあ何のために眠ったのか分からない。
時計を見れば、いつもの起床時刻より一時間も早い。
こんなに汗をかいたまま再び目を瞑っても、どうせ身体が気持ち悪くて休まらないし……。
「シャワー浴びるかー……」
のそりと起き上がって、ぐーっと伸びをして、家族を起こさないように気をつけながら浴室へ向かう。
朝にシャワーを浴びることは、これまでにもたまにあった。
バイトでヘトヘトになるほど疲れたときとか、弟たちを寝かしつけて、そのまま自分まで寝てしまったときとか。
俺はこの朝シャワーが結構好きだ。
毎日ではなく「たまに」だからこそ、ちょっとした気分転換になるし、全身を洗い流して朝日を浴びたときの爽快感が、とにかくまあ最高なんだ。
「あら!翠おはよう、朝ごはん作ってくれてるの?」
「おー母さん、おはよ。なんか、今日は早く目が覚めちゃってさ」
「あら、嫌な夢でも見た?大丈夫?」
「っ、あー、まあ大丈夫だよ」
あはは……と苦笑いをしつつ、半熟の目玉焼きを皿に盛り付ける。
母さん、何かと鋭くてビビるんだよな。
「「兄ちゃんおはよー」」
「おー詩音、玲音、おはよ」
先ほどトースターにセットした食パンが焼きあがったとき、弟たちも眠そうな目を擦りながら起きてきた。
みんなが席に着く頃には、ちょうど全ての準備が整いそうだ。
「あれ、兄ちゃん、シャンプーの匂いする!」
「お風呂入ったの?」
「ん?ああ、早く目が覚めちゃってさ」
「えーいいなぁ」
「俺たちも早く起きたら入ってもいい?」
「ははっ、今度休みの日にでも一緒に朝風呂するか」
「「うん!」」
可愛い可愛い弟たちとほのぼのした会話をしていたこのときの俺は、まだ知らなかった。
この数十分後、あいつにも同じことを指摘されるなんて。
◇
◇
◇
バス停のベンチで眠っている地域猫。
玄関の掃除をしてる酒屋のおじさん。
小さな子どもを自転車に乗せた主婦の人。
いつもと変わらない朝の景色……の中に、明らかな異常が発見された。
「楠木、おはよ」
「おはよ、じゃねぇよ。なんでいるんだよ。いつももっと早く行ってるだろ」
「楠木が喜ぶかなって」
「こんなんでドキドキしねーわ!」
そう、神星。
神星鈴斗が、通学路で俺を待っていた。
待ち伏せみたいなことをして、なぜドキドキさせられると思ったのか意味不明だ。
俺はお前に恋するヒロインじゃねぇんだぞ?
「ま、せっかくだから、一緒に行こうよ」
「はいはい」
朝から神星と登校なんて、周りからの熱い視線を横取りされかねないし、これまでの俺ならお断りだったけど……今の俺にとっては、神星をドキドキさせるチャンスでしかない!
というわけで、早速何かできないものかと神星をチラリと見上げると、
「っ、な、なに、」
神星の方が先にこちらを見ていて、ぐっと顔を近づけてくる。
「……楠木、風呂入ってきた?」
「?入ったけど」
素直にそう答えると、神星は表情を変えないままさらに近づいてきて、俺の首筋の近くでスン、と鼻を鳴らす。
「……すごくいい香りがする」
「っ……!?」
「俺も同じシャンプー使おうかな?」
「はぁ!?」
ぶわっと顔が熱くなるのが分かった。
手の甲をほっぺたに当ててみたら、やけどしそうな温度がひりひり伝わってくるではないか。
そんな俺を見て、神星は満足気にふっと微笑み、優雅に歩き出す。
「くっ……悔しい……」
余裕たっぷりの大きな背中を睨みつつ、昨夜用意した作戦ノートを確認しようと、ガサゴソとスクールバッグを漁る。
しかし、ノートを取り出す前に、俺はあることを思い出してしまった。
(……英語の宿題やってねぇ……)
昨夜、後回しにしたそれ。
英語は今日の一限目、つまり、俺に残された時間はあとわずか。
テストの度に赤点に怯えるような頭の持ち主にとって、自力で授業開始に間に合わせるのは不可能に近い。
ここは、幼馴染かつ成績優秀な原田に、泣きついて頼むしかないか……?と思ったところで、ふと気づく。
目の前に、いるじゃん、めちゃくちゃ頭がいいやつ。
……そうだ、これだ!
宿題を見せてもらうなんて、ライバルに借りを作るみたいで普通は嫌だけど……俺たちは、普通じゃない戦いの火蓋を切ったんだ。
神星が「宿題見る?」と胸キュンな提案をしてくる前に、俺の方から、ドキドキお願い攻撃を喰らわせてやる!
ふぅ、と息を吐いて、いざ出陣。
まずは、さりげないボディタッチから。
神星の腕をきゅ、と掴んで引き留めて、
「楠木?」
そのまま、身長差を生かした上目遣い。
俺のチャームポイントの一つ、きゅるんとしたぱっちりお目目に、お前だけを映してやるから感謝しろよ。
「神星……英語の宿題、やった?俺、忘れちゃったからさ、見せてほしくて……」
どうだ、俺の上目遣いは!
今すぐ顔を真っ赤にして、カタコトになったっていいんだぞ。
「……やだ」
「は?」
え?今、なんて言ったこいつ。
やだって?言った?言ったよな?しかも真顔で。
そんな……俺のボディタッチと上目遣いが全く効いていない?
あれ?
というか、それより、シンプルに英語の宿題がピンチなんだけど?
席順的に、俺、今日、当てられそうだし……。
テストの点が低い分、普段の授業でやる気あります!って姿勢を見せないといけないのに……!
「……って言ったらどうする?」
「え?」
「やだって言ったら、どんな顔するのかなって気になって。ふふ、楠木、焦りすぎね」
「っ!じゃ、じゃあ、見せてくれんの?」
「ぇ、ぁ、うん……」
「良かったぁ〜」
なんだかんだ、宿題はちゃんと間に合わせてきた人生だから、その輝かしい記録が今日で途絶えてしまうのは避けたい。
中学の頃から原田に土下座を安売りしすぎて、そろそろ愛想を尽かされそうで危ないし、今ここで神星に見捨てられたら非常にまずいのだ。
さて、宿題がなんとかなりそうでホッと一安心した頃、ちょうど学校に到着したのだけれど、なんだかやけに周りからの視線が刺さる。
いや、そりゃあ、神星と俺が歩いていたらさ、見惚れてしまうのは当然だろうが……なんか、いつもとちょっと違うような……変に甘い目つきをしているというか……。
「んで、楠木」
「ん?何?」
「いつまでそうしてんの?」
「え?」
「……腕……」
神星にそう言われて初めて、自分が神星の腕に抱きついた状態で登校していたことを知った俺の心情を、三十字以内で述べよ。
この問題に解答はない。
今のこの気持ちを、俺自身も言葉で表せない……!
「ぁ、その、悪かった……」
恥ずかしくて堪らなくて、そしてすごく気まずくて、ゆっくりと神星の腕から手を離す。
怒っているか、嘲笑っているか、あるいはその全てを通り越してドン引きされているか……。
チラリと横顔を盗み見たその瞬間、
「っ……!」
心臓がどきゅんと鳴って、胸の奥がきゅ〜っと痛んだ。
あの、神星が。
いつだって顔色ひとつ変えず、テンプレートみたいな笑顔を崩さない神星が。
ほっぺたと耳を、うっすら赤く染めているではないか。
「神星、お前、照れて、」
「ほら、早く宿題やれよ」
「っ!?」
突然視界が遮られたと思ったら、顔面にノートを押しつけられていた。
ノートを受け取って開けた視界に映っていたのは、くるりと背中を向けてしまった神星の姿。
「へへ、今日は俺の勝ちだな!」
バシッとその背中を叩いてやったら、もう片方の手で持っていたノートをひょいっと奪われた。
「見なくていいの?」
「見る!!見せて!!」
必死で懇願する俺に、いつもよりちょっと赤らめた顔で微笑む神星を見た朝。
胸できらきらした何かが弾けるような、それに伴って目に映る世界が煌めくような、そんな体験をしてしまったんだ。



