肋骨を折るような勢いで、バクンバクンと動く心臓。
この身体全体が、大きな一つの楽器になったみたいに、内側から激しく振動する。
自分の鼓動が、脳の細胞まで揺らしている気がする。

「楠木?」

「ひゃい!」

「ふふ、そんな緊張しないでよ、親もいないし」

だぁかぁらぁ!
俺にとって、お前のご両親がいないことは、リラックスする要素にならねぇんだよ!
むしろ別の意味を持つわけさ!!分かる⁉︎

「とりあえず、なんかジュース持ってくるね」

「ありがとう……」

分かんないよな、そうだよな。
神星は俺のことそんな風に意識してないもんな。
ガチのマジで恋しちゃってるのは、俺の方だけだもん。

「はい、オレンジジュースで良かった?」

「うん!さんきゅ」

緊張で喉が渇いたから、ありがたくジュースを飲んでいると、神星がなんだかソワソワとしている。

「ん?どうした?」

「っ、あー、いや……俺、家に友達呼ぶのとか初めてだから、何していいか分からなくて。漫画とか、テレビゲームとか、あとはカードゲームとかも用意したんだけど……気になるもの、ある?」

辿々しく話しながら、部屋の色んなところから色んなものを出してくる神星を見て、思わず笑みが溢れた。
なんて愛おしいんだよ、神星鈴斗って男はさ。

「っ、ごめん、家で遊ぶって、こういうことではなかった……?」

「ははっ、間違いも正解もないよ。色々考えてくれて嬉しい!全部めっちゃ楽しそう!」

「……!良かった……」

神星がホッとしたように柔らかい笑顔を見せるときには、俺の緊張もすっかり和らいで。

「よし!じゃあー……まずはゲームやるか!」

「ふふ、いいね」

「てか、神星ってゲームとかやんの?」

「ん〜たまに?スマホゲームも少しはやってる」

「マジ⁉︎何やってんの?教えて!」

いいよ、と神星が手を伸ばした先にあったスマホ。
そこには、今もちゃんとお揃いのステッカーが挟んである。

「なぁなぁ、神星」

「ん?」

なんか嬉しくなっちゃって、トートバッグにつけてきたキーホルダーを見せた。

「これ、ちゃんとつけてきたんだぜ」

「っ!ほんとだ……ふふ、可愛いことするよな、楠木って」

「っ……!」

優しく頭を撫でられて、ちょっとは引っ込んでいたドキドキが、ぬっと顔を出しそうになる。

「ほ、ほら!ゲームゲーム!やろうぜ!」

慌ててわたわた騒いだら、神星はふっと笑った。
余裕の差にムカついたから、今からやるゲームでは、容赦なく神星を潰してやる……!と密かに意気込んだ。







楽しい時間というのは、あっという間に過ぎるもの。
ゲームで俺が神星に何連勝もして、勝負魂に火がついた神星が、優秀な頭脳を使って少しずつ攻略してきやがって、そしたら今度は俺が何連敗もして……。
ちょうど勝敗数がイコールになったところで、二人とも空腹で力尽きた。

「はーマジで頭使った」

「楠木は感覚でやってるだろ」

「あ?バカって言いたいのか?まあバカだけど」

「はは、感覚的にできる方がかっこいいよ」

普通なら嫌味かよって言いたくなりそうなのに、不思議と嫌味に聞こえなかった。
そのせいで、ただ少し照れたやつになったじゃねぇか。

「あーもー飯だ飯!よし!買い物行くぞ!」

むずむずした気持ちになったから、バッグを持ってそそくさと玄関に向かった。
靴を履いて玄関の扉を開けようとしたとき、ふわりとすぐ後ろに神星の気配を感じる。

「ハンバーグだっけ?楠木に作ってもらえるなんて、嬉しい」

「っ……」

わざわざ壁ドンみたいなことして、耳元で囁きやがって。
今から外に出るっていうのに、顔が赤くなっちゃうだろ。

与えられる熱から逃げるように、玄関の扉を勢いよく開けて飛び出した。

「楠木!待ってよ」

鍵をかける動作すら、神星がやるとかっこよく見えてしまう。

「っ、早く行こうぜ」

恋のフィルターを通して見る世界が、どれだけ眩くて、どれだけ甘く切ないか……神星に教えてあげられるのが、俺だったらいいのにな。







神星の家から数分のスーパーで必要な食材を揃え、無事に帰宅したわけだけど……。
神星との買い物、ぶっちゃけ、控えめに言って……
最っっっ高だった!!

家族やカップルが多い店の中を、二人で一緒に歩いてさ……野菜はどれが美味しそうか〜とか、肉が割引になっててラッキーだ〜とか、他愛もない話して。
もし同棲したら、毎週こんな感じで買い出しに行けるのかな〜なんて……付き合ってもないのに、妄想膨らみすぎだろ!って自分でも引くけど。
でも、本当に、楽しくて……。

「楠木、お皿これでいい?」

「!あ、あぁ、うん、ありがと」

ハンバーグを盛り付ける皿を持った神星の声で、ハッと意識がクリアになった。
手伝わなくていいよって言ったのに、神星は細々としたことを手を利かせてやってくれる。

「おぉ……めっちゃ美味しそう」

「へへ、だろ?今日のために何回も何回も練習し……っ、なんでもない」

しまった!と思ったときには、時すでに遅し。

「……へぇ?何回も何回も?練習したの?」

案の定、神星はにんまりと口角を上げて、上機嫌にこちらを見ている。

「あーあ、料理上手なキャラでいこうと思ったのになー」

わざと頬をぷくっと膨らませて、分かりやすく拗ねてみたら、頭をわしゃわしゃと撫でられた。
……実はちょっとだけ、これを期待してた。

「ふふ、実際上手だし、楠木はそのままでいいよ」

「っ……」

期待して自分からあざといことをしたくせに、頭なでなで耐性は全然ない。

「っ、冷める前に食べようぜ」

「はーい」

今、このときめきを紛らわす方法は、もはやこのハンバーグたちを机に運ぶことくらいしかない。

せかせかとお盆を持って、付け合わせのサラダとかも全部、バランス良く並べたら……
なんか、結構豪華に見えるじゃん⁉︎

「神星!どう⁉︎俺すごい⁉︎」

頑張って作ったから、開き直って全力で褒められにいくことにした。
今だけは尻尾を振る子犬だって思われてもいいさ。

「すごいよ、ほんとに。楠木、ありがと」

ほっぺを優しく包まれて、親指ですり、と撫でられた。
もし本当に犬になれたなら、ワンッと可愛く鳴いて、神星に抱きついても、怒られなかっただろうな。

可愛く鳴くことも、抱きつくこともできない俺は、頬に添えられた手を少しだけ唇に寄せて我慢する。
この大きな手と優しい温度が、どうしようもなく好きなんだ。

「……楠木、ハンバーグ冷める……」

「っ!!」

顔を赤くした神星の声で、途端に正気に戻った。
今の俺、相当恥ずかしいことしてた……よな?
神星の熱に浮かされてるときは、多分、蜂蜜みたいな甘い物質が脳から出ているんだと思う。
そうじゃなきゃ、こんなことできないよ……。

「えっと……食べますか?」

「ハイ、タベマス」

「食べていいですか?」

「ドウゾ!!」

ほんのり頬を染めたままの神星が、いただきます、と手を合わせる。
そして、ハンバーグを丁寧に切り分け、一口サイズのものを口に運ぶ。

頼む、どうか、神星の口に合ってくれ……!
これでフラれたら、俺はもう二度とキッチンに立てねぇぞ……!

「……美味い……」

「ほ、ほんと?」

「何これ、美味すぎるよ、楠木」

「……!」

目を輝かせた神星は、まるで小さな子どものような純粋な笑顔を見せてくれた。
俺は昔の神星を知らないし、それが少し悔しかったけど……。
今、神星の幼い頃の面影みたいなものが、淡く瞬いたように感じて……ちょっと、夢が叶った気分だ。

「へへ、神星ありがと!俺も食べよっと!……ん!美味い!俺ってすげー!」

「ははっ、自画自賛もそこまでいくと清々しいな」

「俺、褒められると伸びるタイプなんで。これからは自分で自分を褒めていく時代なんだよ神星くん」

「ふふ、何それ、面白いし最高じゃん。俺も見習わなきゃ」

「お前は褒めるとこしかないから忙しくなるな」

「……!」

二秒後くらいに「あっ」となって、カアっとなって、深めの穴を掘って消えようかと思った。

でも……

隣の神星が、天使のような柔らかい笑顔で、もぐもぐと俺の作ったご飯を食べるのを見たら……

「っ、楠木?」

あまりの愛おしさに、消えるどころかむしろ、その身体に寄りかかってみたくなった。
体重をぐーっとかけていったら、食べにくいと言って跳ね返された。







「ふ、風呂さんきゅ〜……」

「……!」

「か、神星も入ってこいよ!」

「うん……行ってくる」

バタンと部屋の扉が閉まり、ふぅ〜と大きく息を吐いた。

楠木翠(16)、このお泊まり最大のTo doリスト項目(風呂)を無事に完遂しました!
マーーージで疲れた……。

いや、やってることとしては、普段と大きく変わるわけじゃないけど……そもそも他人の家って時点で、勝手が違うから気を遣うじゃん?
神星……好きな人の家となれば尚更……。

そんな中で、髪も身体も綺麗に洗って、いつもより入念なスキンケア!保湿バッチリ!ピチピチ!
さらには香水!
俺はあえて、昼間は香水をつけずに、ギャップ萌えを狙うことにした。
風呂上がり、急にいい香りがしたら、さすがの神星だってドキドキが止まらなくなる……はずだ。

あとは、さぷらぁいず!って言うほどでもないけど、神星が風呂から帰ってくる前に、色つきリップを塗って〜。
そして……何より。
外見だけじゃあの男は落とせない……行動あるのみ!

思い返せば今日一日、俺、ほぼ何もできてない!
あんなにドキドキさせてやるって意気込んでたはずなのに、結局、俺がドキドキさせられっぱなし……。
このままじゃ、不完全燃焼にもほどがある。

しかし、まだ間に合うはずだ。
なんといっても、お泊まりの最大ドキドキチャンスなんて、寝る前の時間だと古代より決まってるのだから……!……多分……!

ってなわけで、俺にとっては今からが勝負。
お泊まりマジックで、もしかしたらもしかすると、神星が俺のこと……
恋愛対象として見てくれるかも、しれないじゃん。


水族館デートのときも睨めっこしたハンディミラーを片手に、ささやかな色を唇に足した。
俺は男だし、女子みたいに可愛くないし、身体も柔らかくないけど……あ、ほっぺだけは柔らかいか。

……初めて好きになった人なんだ。
簡単には、諦めたくないよ。

「……」

神星のベッドに触れるだけで、身体がじわりと熱くなる。
机に伏せるみたいに、布団に顔を埋めたら……ああ、やっぱり、好き、この匂い。

「ただいま、楠木……」

「ぁ、神星……おかえり」

風呂上がりの神星は、さらさらのストレートな髪が綺麗だった。
いつもはセットしてるから、新鮮で特別感がある。

「楠木、ベッド使う?俺、敷き布団で寝るよ」

「ぇ、ぁ、いや、」

さっき俺がベッドで顔を伏せていたからか、神星は敷き布団の方に座って、今にも横になって寝ようとしているではないか。

「まって、神星、」

「っ、ん?」

咄嗟に神星の隣に行って、腕をぎゅっと掴んだ。

「ちがう、ベッドじゃなくてもいい……」

「……ごめん、こっちが良かった?」

「あ、」

神星はすくっと立ち上がって、今度はベッドへ向かう。
焦りとか、寂しさとか、とにかく胸がいっぱいになって、ベッドの上まで追いかけて、神星の腕をもう一度掴んだ。

「っ、どうしたの?」

「ま、っ、まだ、寝なくても、いいじゃん……」

「は……」

「せ、せっかく、お泊まり、なのに……」

「……また明日、起きてから遊べるだろ」

神星は俺から目を逸らして、背を向けて横になろうとする。

待ってよ、もっとドキドキしてよ。
動揺してよ。顔赤くしてよ。
俺のこと……ちゃんと、意識してよ。

「っ……」

溢れる想いのまま、背中に抱きついた。
本当はもっと、計画的に色々したかった。
たくさん困らせて、照れさせてやりたかった。
でも、なんにも余裕がないんだ。

「……まだ、寝ないで……」

「……楠木、」

「寝ないでよ……鈴斗(すずと)……」

「っ……!」

首元に顔を埋めて、抱きしめる力をぎゅう、と強くしたら、

「っ、あ、」

気づけば、ぼふっと柔らかいベッドが背中を受け止めてくれていて、むせかえるような甘く濃い好きな人の匂いが広がった。

「すず……と……」

くらくらする。
チカチカする。
見上げる神星の顔が……すごく、色っぽい。

ふわふわする意識のまま、ぼーっと神星を見つめていたら、突然その熱っぽい顔がこちらへ近づいてきて、

「⁉︎」

首筋にちゅ、と唇が触れた。

「すず、まって、」

吐息が熱い。唇も熱い。
キスされた場所が次々にやけどしていくみたいだ。

「……っ、みどり……」

こんな欲情的な声、知らない。
甘すぎて鼓膜が溶けそうだ。
身体の奥がゾクゾクする。

「みどり……」

右の首筋に何度も口づけされて、今度は反対側の首筋にも同じことをされて……
くすぐったくて、恥ずかしくて、変になりそうなのに、抵抗する気は起こらない。
溢れそうな声だけは、なぜか必死で我慢してた、けど、

「ひぁ、っ、」

つう、と唇で首筋をなぞられたとき、聞いたこともないような情けない声が出てしまった。
それが、全てが壊れる合図になった。

「……あ……」

神星は、俺の首筋から顔を離して、大きく大きく目を見開いていた。
その顔を見て、心臓がヒュッと乾いて冷たくなった。
だって、その瞳は、この世の終わりだと言っているような、酷く絶望したような、そんな……
真っ暗な闇を見るようなものだったから。

「……か、神星……」

それでも、このときはまだどこかで、期待していたんだ。
そんな目で俺を見るわけないって、思いたくて。

だけど、上体を起こして、俯く神星の頬に手を伸ばしたら、強い力で遠ざけられた。
そして―――

「……ごめん、完全に間違えた……」

「……は……」

トドメの一言が、心臓の真ん中にぐさりと突き刺さった。

「……ごめん、今日は、寝させてくれ」

神星の表情は分からなかった。
電気を消されたのもあるし、背を向けられてしまったから。

本当なら、今すぐにこの家から飛び出したかった。
けれど、夜中に走って帰るなんて、家族に心配をかけるに決まってる。

俺は放心状態のまま、床に敷かれた布団に横になった。
神星は眠っているのか、起きているのか。
どれだけ時間が過ぎたのか。
分からないまま、最悪の永遠のような夜に耐えた。

精神的に大きなショックを受けたからか、明け方に少しだけ意識は飛んだ。
目覚めても、神星は昨夜の体勢のまま、静かに背を向けていた。

朝日が本格的に街を照らし始める頃、俺は何も言わずに神星の家を出た。
自分の家に帰るには早すぎるから、早朝から開いている店を探して、テキトーに暇を潰した。


昼頃に家に帰ると、平和な家族の日常が待っていた。
昨夜のことがバレないように、なるべく明るくいつも通りに接するよう心がけた。
お泊まり楽しかったよ〜なんて言っちゃったし。
なんとなく、母さんには元気がないと気づかれているような気がするけど。

夜、自分の部屋で一人になって、初めて泣いた。
なかなか涙が止まらなかった。
胸が張り裂けそうなほど苦しくて、ズキズキと痛くて。

『……ごめん、完全に間違えた……』

あの神星の言葉が頭から離れない。
そこまで言わなくてもいいじゃん。
間違えたって、そんな言い方は酷いだろ。

……恋愛対象でもない男相手に、やりすぎたって思ったんだろうけどさ。
俺が神星を好きな気持ちも、間違いだって言ってるのと同じじゃん。
俺たちの関係に、そこにある想いに、間違いだとか正解だとか、そんな言葉を選んでほしくなかった。

ああ、恋なんてしなきゃ良かったな。
だって、辛いよ、すごく。

最低だ、最悪だ、本当に傷ついた。
でも、もう……嫌いになるには、遅すぎた。

神星のこと、
何も知らなかった四月に、戻りたい。
いけ好かない奴だと思ってたあの頃に、戻りたい。