朝早くにペンションを出発し、電車に揺られること二時間ちょっと。
 海を離れ、山を越え、車窓に映る景色がどんどん高いビルとマンションで占められていくのを見て、僕は声をあげた。

「うわぁ、すごい! 都会だなぁ……!」

 思わず口をついて出た言葉に、隣の座席に座った千里くんがははっと笑う。

「凪がそんなに興奮してるのって、珍しいな」
「だって毎日海と山しか見てないんだもん。興奮しちゃうよ」
「まあ、確かにな」
 僕と千里くんは目を合わせ笑い合った。

 今日は千里くんの志望大学のオープンキャンパスの日だ。豊叔父さんに特別の許可をもらって休みを貰い、僕たちはこうして電車に揺られて目的地の大学へと向かっている。

「電車に乗ったのはいつぶりかなぁ。街中の方に出てくるのもたぶん何年かぶりだよ」
「え、そうなのか? 友達と遊びに来たりしねぇの?」
「うーん、なかなかないかな。夏のあいだはずっと海の家の手伝いだし、それ以外の時期は叔父さんのペンション手伝ってるしなぁ」

 こう考えてみると、今年の夏は本当にいろんな体験をしているなと、自分でも驚いてしまう。
 すべてが新鮮で、目の前の世界がどこまでも広がっていくような気がする。

「連れてきてくれてありがとうね、千里くん」

 千里くんがいなかったら、きっと僕は、オープンキャンパスに行こうという考えも思いつかなかったに違いない。

 ふっと千里くんが目を細めた。

「礼を言うの、早くねえ?」
「……そっか」

 それもそうだ。今日という一日は、始まったばかりだ。


  
 最寄りの駅で電車を降りて、そこからバスに乗り換えて十分ほど。千里くんの志望大学は、大きな街から少し外れたところにあった。広大な敷地にはセンス良く緑が植えられ、その隙間からはモダンなコンクリート造りの校舎がのぞいている。

 門の近くの広場に設置された受付には、たくさんの制服姿の学生たちが行き交っていた。多くは僕たちと同じ学年くらいで、中には中学生や小学生に見えるような子たちまでいる。

「すごいなあ、あんなに小さいうちから見に来てるんだね」

 僕が言うと、「小学生向けのプログラムもあるからな」と千里くんが答える。すっかり驚いてしまった。まったくの別世界だ。

 千里くんがネットで二人分のオープンキャンパスの申し込みを事前にしておいてくれたおかげで、キャンパスツアーは順調に回ることが出来た。

 千里くんが志望する地質学の模擬授業をいっしょに受け、理学部や農学部の展示コーナーを見て回った。お昼時には学食の無料試食で腹を満たして、また大学中を歩き回る。 

 千里くんはずっと楽しそうに目を輝かせていて、それを見るだけで僕も楽しかった。

 大学の構内を千里くんと一緒に並んで歩いている……というシチュエーションが不思議で、僕は始終そわそわとしながら千里くんの横顔を見つめた。

(千里くんと同じ大学に通ったら、毎日きっと楽しいだろうな)
 そんな想像までしてしまう。

「大学って、歩いてる人もみんな個性的って感じだよね」

 構内の広場にあるベンチに並んで腰かけ、近くの自販機で買ったジュースを飲みながら僕は千里くんに話しかけた。

「まあ、いろんな奴が集まってくるからな。だからこそ面白いんだろうな」
「うん、確かに面白そう」
 そう言うと、千里くんは僕の顔を見た。

「凪も大学に行きたくなったか?」
「え」

 じっと顔を見つめられ、僕はあいまいに微笑んだ。

「行けたら楽しそうだな、とは思ったけど――」

 言いかけたそのとき、横から「あれ、千里?」という女の子の声が飛んできた。

 はっとして顔を上げると、制服姿の女子二人と男子一人のグループがこちらを見ていた。

「お、涌井(わくい)たちじゃねえか!」
 千里くんがすこし驚いたような顔をしながらも、笑顔で立ち上がった。

「千里も来てたんだ」
「おう。朝から来てたけど全然会わなかったな」
「そうなんだ~。ここのキャンパス広いからね」
「他に誰かに会った?」
「会った会った。侑真くんと横沢と、あと谷口さん」
「おー、結構来てんだな」

 ぽんぽんと飛び交う会話を聞いていると、千里くんが僕の方を振り返った。
「凪、こっちは高校の友達」と紹介してくれる。

「え、あっ、こ、こんにちは」
 つっかえながらも僕は慌てて頭をさげた。

「可愛い子~誰?」
「この子はバイト先の子。今海の家とペンションでバイトしてんだよ」
「えっ、そうなの? 最近見かけないと思った」

 四人の会話を聞きながら、僕はそっと俯いた。

 千里くんも、千里くんのお友達たちも雰囲気がとても華やかで、なんとなく気後れしてしまうのだ。でも千里くんのお友達の前だから……とせめてもの作り笑顔を浮かべて黙っていると、髪の長い方の女の子が言った。

「ねえ、ちょうどいいから、一緒に回らない?」

 もう少しで「えっ」と声が出そうになった。嫌だ、と思った。二人で回りたい――。

 でもそんなことは当然口に出来ず、僕は千里くんの顔を見あげた。視線があう。千里くんが目を優しく細めた。

 そして友達のほうに向きなおると、はっきりとした声で言った。

「悪い、今日はこいつと一緒に来てるから」

(――千里くん、断ってくれた)

 何も言わなかったのに、気持ちを分かってもらったみたいで嬉しい。嬉しいなんて思ったらお友達には悪いだろうけど……。

「え~残念、あ、じゃあ今度バイト先に遊びに行くわ」
「おう、いつでも来い。ついでにいっぱい金落とせよ」
「え~千里えぐい~」

 そんな会話を交わし、千里くんのお友達たちはじゃあなと手を振りながら去っていった。見送っていた千里くんが振り返ってほほ笑む。

「じゃあ俺らも行くか」
 うん、と頷きかけて、僕は口ごもった。

「あの、ありがと」
「ん?」
「僕のこと優先してくれて、嬉しかった。ありがとう」

 僕がそう言うと、千里くんは目をぱちぱち目を瞬いた。そしてさっと視線を逸らしてぼそっと言った。

「俺はお前と二人が良かったから、断っただけ」
「え……あ……うん」
 なんと言っていいかわからずに僕は俯いた。

 なんだか胸がぎゅっと締め付けられるみたいに苦しくて、頬が火照る。心臓かどくどくとうるさくて、盗み見た千里くんの横顔の、四つ並んだピアスの銀色と段々赤く染まっていく耳たぶの赤を見ていたら、信じられないほどに脈が速くなっていく。

「……なあ」
 しばらく経ってから、千里くんが言った。

「大学の中は十分見て回ったと思うんだよ」
「う、うん?」
「だから、今度は大学の外を見に行かねえ? っていうか遊びに行かねえ? せっかくここまで来たんだし」
「え」

 遊びに行きたい! と反射的に叫びかけて、思い出した。

「あ、でもペンションの仕事が……」

 大学から叔父さんのペンションに帰るまでは二時間半はかかる。そろそろ帰らないと、夕食の支度に間に合わない。

「ああ、それだったら豊さんに交渉済み」
 千里くんはそう言うと、スマホを操作し、僕に叔父さんからのメッセージの画面を見せてくれた。

《今日は遊んでっていいよ。楽しんでこい!》

 叔父さんからのLINEの返信だ。

「いつのまに?」

 僕は用意周到な千里くんに驚いてしまった。千里くんが照れくさそうににかっと笑う。

「だって俺、今日すげえ楽しみにしてたんだよ。ほら、行こうぜ」
「―――っ」

 千里くんが手を伸ばし、僕の手を掴んだ。瞬間、ぎゅんと狭まった心臓が、爆音で打ち始める。

「えっ、なっ、手、手、手……」
「おう、はぐれないようにな。凪は方向音痴みたいだから」
「違う! 方向音痴なんかじゃないよ」

 千里くんが繋いだ手を目の高さに掲げ、にぎにぎと指を動かす。そしていたずらっぽい視線を僕に寄こした。

「まあいいじゃん。誰も見てねえよ」

 千里くんは僕の手を掴んだまま、早足で歩きだす。

(ど、ど、ど、どうしよう――! 手が手がっ)

 千里くんの手は僕よりも一回りくらい大きくて分厚くて熱かった。
 手を繋いでいる分身体が近くなって、手だけではなく、ときおり腕と腕が触れる。そのたびにそわそわと落ち着かなくなってしまう。触れている手のひらや指から、甘い疼きのようなものが腕までよじ登ってくる。

 女の子同士が手を繋いでいるのは中学のころに良く見かけていたけど、自分たちは高校生の男子同士だ。

 あまり深い友達付き合いをしたことがない僕が知らないだけで、これって普通のことなの?

 わからない。それに――。

 僕は繋いでいないほうの手で胸を押さえた。
 どうして僕は、こんなにドキドキしてるんだろう。