病院の廊下は、冷房が効きすぎているのか妙にひんやりしていた。
 救急車でこの病院に運ばれてから一時間は経つだろうか。ばあちゃんはまだ処置室から出てこない。ときおり看護師さんが出入りしているが、詳しいことを聞き出すことは出来ず、僕は緊急外来の待合室の椅子に座り、細かく震える手を握り締めることしか出来なかった。

「凪!」
 その声に顔を上げると、廊下の先から豊叔父さんが小走りでやってくるのが見えた。後ろには千里くんもいる。

「ばあちゃんの容体は?」
 叔父さんに聞かれ、僕は「わからない」と首を振った。

「厨房で倒れてたんだ。いくら名前呼んでも返事してくれなくて、真っ青な顔してて、身体も冷たくて……僕……僕……」
「わかったよ凪、……わかったから」

 叔父さんが僕の震える肩を擦ってくれた。しばらく肩や背中を優しくさすったり叩いたりしてくれた後、僕の顔を覗き込んでくる。

「大丈夫だ。きっと大丈夫に決まっている。あんなに口が減らないばあちゃんだぞ? ああいうのはしぶといって、昔から決まってんだよ」
 な? と叔父さんは笑顔で言う。僕は小さく頷いた。
「……うん」

 不安が小さくなったわけではない。でも叔父さんの言葉で、すこしだけ俯いた顔を上げることが出来た。

 叔父さんは笑顔で僕を励ましてくれたけど、叔父さんだって不安で怖いに決まっている。きっと内心では気が気ではないはずだ。椅子にも腰かけず、立ったままで処置室の扉を見つめている叔父さんの姿を見て、僕はそう思った。

「凪……」
「……千里くん。来てくれたんだね……」
「……ああ」

 千里くんが隣に腰かけた。僕の背中に手を当てて、そっと気遣うように擦ってくれる。
 千里くんの手が優しくて温かくて、呼吸が楽になったような気がした。千里くんの方を見あげると、やさしく頷いてくれる。

「大丈夫だよ」
「うん」
 今度はしっかり頷くことが出来た。

 刻々と時間は過ぎていく。
 いつのまにか扉一枚向こうは静まり返っていた。人の話し声も低く聞こえてくる。

 息を詰めて見つめていると、目の前の扉が開いて眼鏡をかけた白衣姿の中年の男の人が出てきた。おもわず僕は立ち上がった。

「天ケ瀬美千代さんのご家族の方ですか?」

 医師は叔父さんと僕、千里くんを順に見ながら訪ねる。「はい、そうです」と焦った様子で叔父さんが答える。

「美千代さんの容体は落ち着いています。軽い心臓の発作が出たようですが、命に別状はありません」

 その言葉に、身体中の張り詰めていたものが、ゆっくりと抜けていく。

「ああ……良かった……」

 呟いた瞬間、足から力が抜けしゃがみ込んでしまいそうになった。隣の千里くんが支えてくれなかったら、僕は廊下に座り込んでいたことだろう。
 腑抜けた僕のかわりに、「ありがとうございます」と叔父さんが何度も頭を下げる。

「詳しいことを説明するので、ご家族の方はこちらに……」

 医師に促され、叔父さんが僕の方に振り向いた。千里くんに支えられてなんとか立っている状態の僕に目を丸くし、ふっと笑いを漏らした。

「俺が説明を聞いてくるから、凪はここにいな。千里くん、よろしくな」

 叔父さんは優しい声でそう言うと、医師といっしょに廊下の先へと消えていった。静かな廊下に僕と千里くんだけが残られる。

「……腰抜けるの、二回目だね」
「だな……」

 僕は千里くんに支えられ、なんとか椅子に座った。隣に千里くんが腰かける。

「良かった……。ほんとに……良かった」

 安心した途端、僕の目からはぽろりと涙が転がり落ちた。
 一度あふれたものは止まらない。次から次へとこぼれた涙は、やがて嗚咽をつれてきた。

「ばあちゃん……死んじゃうかと、思っ、て……怖かった……」 
 ひっ、ひっ、と息が引きつる。

「僕には、ばあちゃんしか、……いないから、……ばあちゃんだけだから、……い、いなくなったら、どうしようって……怖くて」
「凪……」

 隣の千里くんが戸惑ったような声を出す。
「……ごめん、っ、なんか……ごめんね……」
 親戚でもないし僕の家の事情も知らないのに、いきなり叔父さんに病院に連れてこられたのだから、戸惑って当たり前だ。

 僕は深呼吸を何度か繰り返して息を落ち着け、今度はちゃんと千里くんに向かって話しかけた。

「僕ね、七歳頃に両親を事故で亡くして……東京からこっちに引っ越してきたんだ。ばあちゃんが引き取ってくれて、それからばあちゃんが育ててくれて」

 嗚咽まじりの聞きにくい声だろうに、千里くんは息を殺すようにじっと聞いてくれている。

「ずっとばあちゃんに苦労させてたくせに、僕はばあちゃんのために何も出来てない。全部受け取るだけで……何も返してない。それどころか……大学なんて、贅沢なことを考えて……罰が当たったのかな。おかしいよね、罰なら僕に当たればいいのに……なんでばあちゃんに当たっちゃったかな……」

「それは違えだろ」

 ずっと黙って僕の話を聞いていた千里くんが、ぽつりと言った。

「罰だなんて、そんなことあるはずがねえ」

 怒ったような固い声だった。恐る恐る見上げた僕の顔を、千里くんは強い視線で見つめてくる。

「なんでやりたいことをやりたいって思うだけで、罰があたらなくちゃいけねえんだ?」
「それは……」
「美千代さんは昨日、俺に言ったぞ。『今度、凪を大学に連れてってやってくれ』って。お前が大学に興味持ってることだって、行けたらいいなって思ってることだって、とっくに気が付いてたんだよ。美千代さんの目は節穴なわけがないだろ」
「え……?」

 気が付いていた? ばあちゃんが?

「大事な相手がやりたいって思ってること、応援したいと思うのが普通だろ。欲しいものを手に入れて、笑ってて欲しいだろ。お前が美千代さんを思うように、美千代さんだって、お前に幸せでいてほしいって思ってるに決まってんだろうが」
「千里くん……」

 その言葉に、ぽろぽろと新しい涙が自然と流れ始めた。

「僕、ばあちゃんに、会いたい……」

 そうつぶやくと、千里くんは腕を伸ばしそっと抱き寄せてくれた。
 不器用だけど優しいその腕に、僕は身を預けた。こつん、と千里くんの肩におでこが当たる。

「すぐ会えるって。大丈夫だ」

 すぐ近くから聞こえる千里くんの声はいままで聞いた中で一番優しくて、そして身体から伝わってくる体温は甘い。
 ふっと汗と制汗剤の混じった匂いがする。どこか海の似た匂いを嗅いだ瞬間、背骨を甘やかな泡がふつふつ上ってくのを感じた。心臓がゆっくりと、でも確実に速度をあげていく。

「……千里くん……」 
(この感情って……なんだろう……。わかんない……わかんないけど……)

 疲れ切った頭ではこれ以上考えることが出来なかった。

(友達なんだもん、今だけは甘えていいよね……?)

 誰かに向けたかわからない質問に、当然答えは返ってこない。
 まあいいや、と僕は額を千里くんの肩に擦り付け、温かな彼の腕の中で目を閉じた。どく、どく、と心臓の音がする。

 そのとき目の前の扉が再び開いた。中から看護師さんが出てくる。栗色の髪の毛をまとめた若い看護師さんに見覚えがあった。救急車でこの病院に乗り入れたとき、初めに対応してくれた人だ。彼女も僕の顔を覚えていたらしく、こちらに歩み寄ってくる。

「天ケ瀬さんの意識、戻りましたよ。それで『ナベは無事か』って騒いでるんですが……なんのことだかわかります?」
「ナベ?」
 僕は「あ……」と目を見開いた。
「今朝倒れたとき、ばあちゃん、厨房でラーメンの出汁をとってて……たぶんその鍋のことかと……」
 看護師さんがきょとんと目を瞬く。

「ラーメンの出汁の鍋、ですか?」
「はい、ラーメンの出汁の鍋……」

 目が覚めて一番の心配事がそれとは……。
「すげえ、やっぱり美千代さんは美千代さんだな」
 千里くんが心底感心したように言い、僕らは顔を見合わせて茫然とし……それから思い切りふきだしたのだった。