海の家が営業を開始してから十日。
 初めての海の家の仕事に戸惑っていた千里くんもすっかり慣れ、蓮さんたちと軽口を交わしながら仕事をこなせるほどの余裕が出てきた。もちろん蓮さんも蒼佑さんも相変わらず優秀な働き手なので、しおさい亭は更にますます安泰だ。

 そしてもうひとつの変化は、浜辺で『友達になろう』と握手を交わしてから、僕と千里くんは急速に打ち解けたということだ。

 以前のそっけない態度が嘘のように、千里くんは僕のことを『凪』と呼んで話しかけてきてくれるようになった。もちろんそれは僕にとって喜ばしい変化。
 こうして僕たちは無事に、しおさい亭の座敷のテーブルで一緒に宿題を広げる仲になったというわけだ。

「うわ~、千里くんの学校の宿題って、そんなに多いんだ」
 僕は千里くんが持ち込んできた夏休みの宿題の量を見て、目を丸くした。

「一応進学校だからな。他のやつらは宿題もやって塾にも通ってるから、俺は少ない方」
「ひえ~」

 千里くんは県庁所在地の街なかに住んでいて、僕でも名前を聞いたことがあるくらいに有名な進学校に通っている。僕の高校と比べると、倍以上の宿題の量だ。田舎ののんびりとして学校でよかったな、なんて内心思ってしまう。

「あ、ねえ。この問題わかる?」
「ああ、これならこの公式を使って……」

 さすがに進学校に在籍しているだけあって千里くんは賢い。僕がした質問も参考書や教科書なしにすらすらと解いて見せる。僕が躓いていたところもすぐに探り当て、必要ならば中学の学習内容にさかのぼって解説してくれる。僕だって勉強が全然出来ない方ではないけど、それでも本当に賢い人はすごいなあと感心しきりだ。

「あれ~、二人ともとも宿題してんの?」
 厨房から出てきた蓮さんと蒼佑(そうすけ)さんが座敷の僕たちに向かって声を掛けた。
「お疲れ様です」
「凪くんもお疲れ~外めっちゃ暑かった~」
 二人はさっきまでばあちゃんと一緒に買い出しに行ってくれていたのだ。片手に持っているラムネの瓶は、ばあちゃんからの差し入れだろう。

「宿題やってんの見ると、高校生だな~って感じするよな」
 座敷に上がってきた蓮さんは、僕たちの手元を見て、感慨深そうに言った。
「蓮は高校生のときも、宿題やってなかったけどねぇ」
 蒼佑さんがのんびりと言って、蓮さんが「はあ~?」と突っかかっていく。

「ちゃんとやってましたけど~?」
「俺の宿題丸写しにしてただけでしょ」
「あっ、そういえばそうだったっけ」
 わはは、と蓮さんが誤魔化し笑いをする。

 そんな二人のやりとりが面白くて思わずふきだしてしまった。二人はいつもこの調子で、僕は笑わされっぱなしなのだ。

「あ、そういえば、大学は宿題ってないんですか?」
 僕の質問に、蓮さんは眉をよせながら答えた。
「あ~……あるっちゃあるよ。スケッチ五枚と語学のレポートと、建物の写真と設計図書くやつ……」
「結構あるんですねえ」
「学部によって違うかも。蓮は建築学科だからけっこう宿題あるけど、俺は経営学部だからひとつもない」
 余裕の笑みを浮かべて蒼佑さんが言う。
「ずり~よなぁ~。宿題が一個もないなんて」
「しょうがないだろ、自分で選んだ学部なんだから」
 口を尖らせた蓮さんに、千里くんが冷静に突っ込む。
「あ~そんなこと言って! えらそうな千里くんには宿題が無限に増える魔法をかけてやろう」
「うわ、やめろ、ひっつくなって」
「こら蓮、やめなさい」

 楽しそうにじゃれ合う三人を眺めながら、僕はへえと感心した。
 蓮さんと蒼佑さんは同じ大学に通っていると聞いてはいたが、何の学部なのかは知らなかった。というか、大学というものにどんな学部があるのかさえも僕はよく知らないのだった。

 毎年叔父さんのペンションに大学生のバイトの人は来ていたが、今年ほどに仲良くなることはなかったのだ。ここまで蓮さんや蒼佑さんと仲良くなれたのは、同じ年の千里くんという存在がいるからだろう。

「さ、そろそろ行こうか。凪くんたちの勉強の邪魔はしたくないし」
「あ~、そうだな」

 蓮さんと蒼佑さんが立ち上がる。僕は二人に「お疲れさまでした」と頭を下げた。

「また明日ね、凪くん」
 にっこり笑って蓮さんが手を振ってくれる。それに手を振り返し、海の家を出て叔父さんのペンションへ続く道を上っていく二人の背中を目で追った。

 ふたりは何を話しているのか、蓮さんが蒼佑さんの肩に負ぶさったり、蒼佑さんが嫌そうな顔で蓮さんの振り払ったり……じゃれ合いながら歩いていく姿はとても楽しそうだ。

「蓮さんと蒼佑さんって仲いいよね。幼馴染で大学まで一緒なんてすごいよね」
「まあ喧嘩ばっかりだけどな」
「確かに」

 くすっと笑ってしまった。きっと大学でもふたりはこの調子なのだろうと想像がつく。

「それにしても大学かぁ……どんなところなのかなぁ……想像もつかないなぁ」
 つぶやいた僕に、千里くんが首を傾げた。

「え、凪って大学行かねえの? 専門学校?」
「ううん、どっちも行かないよ。高校卒業したら、そのままおじさんのペンションとばあちゃんの海の家を手伝うつもり」

 そうなのか、と千里くんがきょとんとしている。
 高校を出てすぐに就職する人は、進学校に通う千里くんのまわりにはあまりいないのかもしれない。でもこのあたりの田舎では珍しいことではない。現に僕の通う高校では、就職と進学の割合は半々くらいだ。

「千里くんは進学?」
「おう。俺は地元の国立大目指してる。親には反対されてるけど」
「反対? なんで?」
「あ~、俺の親さ、弁護士なんだよ」
「えっ、弁護士さん? すごいね!」
 僕はすっかり驚いてしまった。

 雰囲気や持ち物から、千里くんはもしかしたらリッチな育ちなのかなと思ってたけど、予想以上だった。両親がそろって弁護士って……サラブレッド中のサラブレッドって感じだ。

「親は俺に東京の大学の法学部に行ってほしいみたいだけど、俺はどうしても地元の大学に行きたくて。地質学の勉強したいんだよ」

 なんでも志望の大学には著名な教授がいて、その人の『ゼミ』というものに入りたいらしい。

「へえ……千里くんのお父さんもお母さんも、千里くんもすごいなあ。違う世界の話って感じがする」
 大学生の蓮さんや蒼佑さんといい、両親が弁護士で進学校に通う千里くんといい、なんだか眩しすぎて遠くに感じてしまう。

「別にたいしたことねえよ。すごいのは親であって、俺がすごいわけじゃねえし……てか俺はどっちかっていえば落ちこぼれだ」
「えっ?」

 落ちこぼれ、という言葉に僕は驚いてしまった。

「千里くん……あんなに頭いいのに?」
 僕は本気で言ったのだけど、千里くんはちいさく笑っただけだった。

「昔から親の求めるレベルには届かないんだよ。一応頑張ってみた時期もあったんだけど全然だめで、中学受験も落ちるし、高校受験も親が通わせたがってたとこはことごとく落ちるし」

 そう言うと、千里くんは遠くを見るような顔つきになった。

「まあ……なんて言うか……器が違うってのかな。悩んだ時期もあったけど、今は自分は自分でやるしかねえなって思ってる。……それに昔、お前に『どれだけ自分のことが気に入らなくても、自分から逃げることは出来ないんだぞ! 逃げずに自分と闘え!』って発破かけられたこともあるしな」

 ええっと大きな声が出てしまった。

「まさか……昔いっしょに遊んだっていうときの話?」
 「そうそう」と楽しそうに千里くんが頷く。

「う、嘘だよね。僕がそんなこと言ったなんて」
「マジだよ。だってそのころから俺の教訓にしてるもん。『逃げずに自分と闘え!』ってな」

 けらけら笑いながら千里くんが言う。

「ええぇ……」
 マジですか昔の僕……。

 そんなに偉そうなことを言っていたなんて信じられないし、黒歴史過ぎて居たたまれないほどに恥ずかしい。だけど目の前で笑っている千里くんの顔を見ていると、だんだんどうでもいいような気持ちになってきた。

「んで、お前は?」
「え?」
「本当はどうしたいの?」

 右手で片頬をついた千里くんにまっすぐに見つめてくる。僕はきょとんと見返した。
「さっき大学の話をしてるとき、すげえ羨ましそうな顔してたけど」

 どきりとした。だってその通りだったから。というか前から思ってたのだけど、千里くんは観察眼が鋭すぎじゃないだろうか。
 誤魔化そうとしてもすぐにばれそうだ。僕は観念することにした。

「別に海の家を継ぎたいって言ってるのが嘘なわけじゃないんだ。僕、この土地が大好きなんだよ。入浜の海が好きだし、しおさい亭が大好き。だから継ぎたいっていうのは僕のほんとの気持ち。……まあ、大学の話を聞いてると、いいなあって思うこともあるけど――」

 ここから先は、誰にも言ったことのない本音だった。
 言っていいのかな、と少し迷う。だけど聞いてもらうなら千里くんしかいないなぁ、と思ったら心が定まった。

「あのね、頭のいい千里くんにこんなこと言ったらあれなんだけど……、僕、結構勉強好きなんだ。知らなかったことが分かったときとか、知識と知識が結びついたときとかすごく嬉しくなって、世界の『核』みたいなものに触れたような気になるんだよ。世界って広くて深いんだなあって感動する。大学にいけばもっと勉強できるだろうし、絶対楽しいとも思うんだけど……でも、うちは親いないし。大学に行くお金なんてないし……」

 自分の言葉が妙にはっきりと響いて僕ははっとした。途端に罪悪感が込み上げてくる。慌てて取り繕うように誤魔化し笑いをした。

「あっ、でも大学なんて僕には関係のないことっていうか、遠い話って言うか。本当に大学とかに行きたいなとかは全然思ってないんだけどね!」

「いいんじゃねえの、別に今決めなきゃいけない話じゃないだろ」
「……え」
「悩めばいいんじゃん。自分がどうしたいか、どう出来るか、時間かけて考えりゃいい」

「そっか、――そう、だよね」
 千里くんの言葉がふっと心の中の深いところに入ってきた。

 そうか、その通りだ。今までは考えちゃいけないと思っていたけど、そんなはずはない。考えたり想像したりすることだけは自由なはずだ。うん、と僕はもう一度頷いた。

「逃げずに自分と闘えってやつだね」
「ん~微妙に使い方が違うような……」
「いいでしょ別に。もともとは僕の言葉じゃん。勝手に使ってるのは千里くんの方でしょ」
「お、言うようになってきたな? わがまま女王凪くんの片鱗が見えた」
「もう、何だよそれは!」

 二人で言い合いをして笑っていると、「凪」とばあちゃんが厨房から顔を出した。

「あ、ばあちゃん」
 ばあちゃんは座敷の方まで歩いて来ると、おもむろにラムネの瓶を二本差し出してきた。

「さっき蓮くんと蒼佑くんにもやったんだよ。あんたたちもお飲み。夏はラムネって昔から決まってるからね」
「わ、ありがとう……!」

 ラムネの瓶はきんきんに冷えていた。礼を言って受け取ると、ばあちゃんはテーブルの上に広げた宿題と千里くんの顔、それから僕の顔を順番に見て、「良かったね」とぼそっと言った。

「え?」
「いっしょに宿題が出来て良かったね。いっつもあんた、そこの席で一人で宿題してただろう。外で遊んでる人たちを羨ましそうに眺めてさ」

 僕は思わず黙り込んでしまった。この座敷で一人で宿題していてときどき寂しい気持ちになったのも、外で遊んでいる学生を見て羨ましい気持ちになってしまっていたことも、本当のことだった。でもそれをばあちゃんに気づかれていたとは、思いもしなかった。

「今年は千里くんがいて良かったね」
「……う、うん」
 ばあちゃんはそれだけを言うと踵を返し、厨房の中へと消えていった。

「……」
 ふたりきりになった座敷に、ざざんと波の音と、ウミネコの鳴き声が響く。

(ば、ばあちゃん……! なんでそんなこと言っちゃうの……!!)
 なんだか一気に羞恥がこみあげてきた。ばあちゃんに心の裡を知られていたことも恥ずかしいし、千里くんの前で思いっきり子ども扱いされたことも恥ずかしい。

 変な汗をかきながらも、僕は千里くんにラムネの瓶を差し出した。
「あの、これ……」
「おう……サンキュ……」
 受け取った千里くんが、少し眉を寄せる。

「――あ。もしかして、ラムネ嫌いだった?」
「いや……違うんだけど、俺、ラムネ飲んだことねえ」
「えっ、嘘っ!」

 さっきまでの羞恥も居たたまれなさも吹き飛び、僕は思わず大きな声を出してしまった。だって『ラムネを飲んだことがない』だなんて信じられないじゃないか!

「い、い、い、一回も飲んだことないの?」
 こくん、と千里くんが頷く。
「……それは人生の半分、損してる」
 僕の言葉に千里くんが目を剥いた。
「は、半分? 大袈裟じゃねえ?」
「ぜんぜん大袈裟じゃないよ」
 僕は重々しく頷いて手を差し出した。
「貸して。ラムネ開けてあげる。コツがあるんだ」
「お、おう」

 千里くんからラムネを受け取り、ナイロンの包装を剥がす。外した蓋を瓶の上部に押し当てた。そのままぐっと強く押し込む。瓶の上半分が、白い気泡で泡立ち、おぉっと千里くんが声を上げた。

「ここで手を離すと噴き出しちゃうから、じっと待つのがコツ」
 僕は説明しながら、そのまま手のひらを押し当て続けた。十秒ほど待ち、ゆっくりと手を離す。気泡が消えて透明になったラムネ瓶を千里くんに渡した。
「飲んでみて」
 千里くんは受け取り、恐る恐るといった感じで口元に近づけた。そして思い切ったように口をつけ、瓶をあおる。ぐっ、ぐっ、と、千里くんの大きな喉ぼとけが上下する。やがて飲み干した千里くんは顔を正面に戻し、僕を見て叫んだ。

「うまい!」

 その満面の笑顔を見た瞬間、うわっと変な声が出そうになった。
 僕の胸の中で何かがしゅわと音を立てて弾けたのだ。まるで炭酸が噴き出していくように、胸の底から細かい泡が無数に湧き上がってくる。
 どくん、と心臓が大きく打つ。
 茫然と目を瞬く僕を、千里くんが不思議そうな顔で見た。

「どうしたんだ? 凪は飲まねえの?」
「う……うん。飲むけど」

(今のって、いったい何……?)

 ラムネの瓶を開けながら、もう一度自分の内側を覗き込むような心地で、胸の感触を浚ってみる。でもまるで泡が跡形もなく消えたように、なんの気配も見つけることが出来ない。

 考えながら手を動かしていたのが悪かったのだろう。気が付くと手元の瓶かは炭酸がしゅわしゅわ溢れていた。

「うわっ!」
「凪、もったいない! 吸って!」
「う、うん!」

 僕は慌てて瓶に口をつけた。おもいっきり瓶を呷れば炭酸の泡が弾けながら喉を滑り落ちる。それはさっきの胸の感触にどことなく似ていて、気が付くと僕は一気にラムネを飲み干していた。ふうと大きく息をはくと、正面で千里くんが笑い声を立てた。

「すげえ飲みっぷり。でもわかる。ラムネってすげえうまいもんな。俺、今まで人生の半分は損してた」
「……わかればよろしい」

 はは、と千里くんが笑いながら、空になった瓶を振る。ビー玉が瓶にあたってカラカラと音を立てる。

「なあ凪、このビー玉、取れんの?」
「うん。上の青いところを捩じって外せば」
「ほんとだ、外れた」

 千里くんの指がビー玉をつまみ、目の高さまで掲げる。それを覗き込んだ千里くんが「あ、凪が写ってる」と笑う。

 僕もつられるように、自分のラムネの瓶からビー玉を取り出しそっと覗き込んだ。

 ビー玉に映っているのは、逆さまになった千里くんの顔と、その後ろに広がる青い空と海。青と白い光の気泡。
 さっき引いていったはずの胸のしゅわしゅわが、また戻ってくる。
(――えっ)
 驚いてビー玉から目を離した。ほんの少し動揺しながらも目の前の千里くんに目をやる。
 そして僕はまた目を瞬いた。ビー玉を通さない千里くんは逆さまでもなく、白い気泡も身にまとってない。それなのに空と海の青を閉じ込めたような眩しい世界の中で、千里くんの笑顔はなぜか一番に煌めいて見える。

(あれ……? なんで僕……)

「なあ、凪」
 俯いてビー玉をいじくりながら、千里くんが口を開いた。
「俺といっしょに、オープンキャンパス行かねえ?」
「――え?」

 俯いた千里くんの瞼がかすかに震えているのが見えて、なぜだかもっと動揺して、千里くんの言葉を聞き逃してしまった。

「えっ、あっ、何?」

 千里くんが顔を上げる。すこし怒ったような顔をした。

「だから、大学のオープンキャンパス。ちょうど来週に、俺が行きたい地元の大学であるんだよ。ここからでも日帰りで行けるし、いろんな資料もらえるし話も聞ける」
「あ、で、でも。仕事もあるし」
「豊さんと美千代さんに頼んでみようぜ。一日だけ休み貰ってさ。……俺、お前と行きてえ」

 ――お前と行きてえ。

 その言葉に、なぜか心臓のあたりがまたしゅわっとした。僕は言葉が出なくて、咄嗟に頷いてしまった。
「ほんとか?」と千里くんが嬉しそうに身を乗り出してくる。

「あ、うん……僕も……千里くんといっしょに、行きたい」
 僕の言葉を聞いて、千里くんは満面の笑みを浮かべた。それを見た瞬間、また心臓の中でしゅわっと気泡が立つ。

 ざざん、と波の音がして、ウミネコの鳴き声がする。空はピカピカに晴れ上がって海は眩しくて、目の前で千里くんが楽しそうに笑っていて、僕の胸はラムネみたいにしゅわしゅわして。

(この感じはなんだろう)

 初めて感じる感情に、僕は胸のあたりを抑えて慎重に呼吸を繰り返した。