午後の三時を過ぎるとだんだん海水浴場のお客さんは帰り支度を始め、四時を過ぎると浜辺の人の姿はまばらになり、駐車場が閉まる五時には完全にひと気がなくなる。
 そうなれば海の家は閉店だ。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った海の家で、僕はぼんやりしながら座敷に掃除機をかけていた。

(……あと……何すればよかったんだっけ……)

 土間に箒掛けをして、テーブルを最後にアルコールで消毒して……そうすれば今日の僕の仕事は終わりだ。それなのにさっきからあまり作業は進んでいない。

 こんなときに活を入れてくれるばあちゃんは町内会の集まりに出かけていて不在なので、余計に気が抜けてしまう。しゃきっとしなくちゃと思うのだけど、またすぐに思考は数時間前の出来事に戻ってしまうのだ。
 それもこれも、数時間前に千里くんに言われた言葉が原因だ。

『嫌なことは嫌って言えよ。言いたいこと呑み込んで我慢してても、ずっとそのままだろ』

 あの言葉がこれほどまでに胸に突き刺さっているのは、自分でも自覚があったからだ。

 言いたいことが言えずに言葉を呑み込んでしまったり、相手に遠慮してしまい嫌なことでも嫌だと言えなくなってしまったのは、一体いつからだっただろう。

 父さんと母さんが生きていたころは、『凪は本当にわがままなんだから』とよく苦笑されていた記憶があるので、たぶんばあちゃんと二人で暮らすようになってからだ。

 父さんと母さんが車の事故で亡くなったのは、僕が七歳のころだ。父さんの運転する車が、雨でスリップしたトラックと正面衝突したのだ。

 当時は両親の死を上手く理解することが出来なかったし、その頃の記憶はあいまいだ。気が付くと父さんたちと暮らしていた東京のマンションを離れて、ばあちゃんの家で一緒に住むことになっていた。

 母さんに甘やかされて育ったわがままな僕に、昔気質のばあちゃん。周りには海と山だけ。ゲームもない、お菓子もない、父さんも母さんもいない。ないない尽くしの生活で、当時の僕はかなり暴れた記憶がある。

『辛抱しな、凪、辛抱するんだ』

 暴れて泣きわめく僕を抱きしめながら、ばあちゃんは悲しそうによく言っていた。その言葉は僕の胸の中に静かに積み重なっていき、そして僕の身体の隅々まで染みこんでいったのだろう。
 こうして僕はいつからか、寂しさを感じるたびにぐっとこらえ、感情に蓋をするようになった。

 自分の感情をそのまま出さないように。
 出来る我慢はして、ばあちゃんや周りの人に迷惑をかけないように。
 それが僕の生き延びていく術でもあった。

 だからと言って『我慢を強いられた』などとばあちゃんを恨む気持ちは微塵もない。
 辛抱しなくては生きていけない状況だったし、きっとばあちゃんは僕以上にたくさんの我慢をしていたに違いないのだから。

 だけど……今日千里くんに言われて気が付いてしまった。僕はずっと、あの言葉に囚われている。

(だとしても、僕はどうすればいいんだろ)
 今さら自分を変えることなど出来そうにもない。というか、本当に変わる必要があるとも思えなかった。

 僕は掃除機を放り出し、海に面した窓の近くに寄った。ひと気のない浜辺を見つめ、ため息を付く。
 いつも海を見ると、悩みや嫌なことが吸い込まれるような気がしていたが、今日ばかりはその効能もきかないようだ。

 はあ、ともう一度大きなためいきを吐いたとき、店の横の駐車場から砂利を踏む車の音が聞こえた。
 
 音の方に顔を向けると、白い車が駐車場に入ってきたのが見えた。車高が低い改造車からは、爆音の音楽が漏れ聞こえてくる。

(なんだろう、あの車……)

 車から降りてきたのは、降りてきたのは二十代前半くらいのカップルだ。楽しそうに腕を組みながら、浜辺のほうへと向かっていく。

 それをぼんやりと見つめていたが、二人が服を脱いで水着で波打ち際へと歩いていくのを見て、はっと我に返った。

 この海水浴場では、遊泳時間は八時から五時までと決まっている。
 入浜はおだやかな海だが、夕方から夜にかけて、波が高くなることがあるのだ。だから夜間は遊泳禁止とされている。海へと続く道の入り口にも駐車場にも注意を促す看板が立っているはずだけど、それを知っていても海に入る人もいて、最近は問題になっていた。

(どうしよう……注意した方がいいんだろうけど……)
 見るからに柄が悪そうな人たちなので怖いし、関わり合いになりたくないし……。

 そのとき、またふっと千里くんの言葉が蘇った。

『言いたいこと呑み込んで我慢してても、ずっとそのままだろ』

 一瞬僕はぐっと息を詰め、それから『いやいやいや……』と息を吐きだした。千里くんは嫌なことは嫌と主張しろと言っただけで、こういう状況のときのことを言っていたわけじゃない。

(……でもなんでだろう。なんかむかむかしてきた)

 胸の底から潜んでいた怒りに近い温度の高い感情が、徐々にふつふつと表面に湧き上がってくる。

 誰に対する怒りだ? 自分に対する怒りなのか?
 わからない。だけど僕は、気が付くと外へと飛び出していた。

 入浜(いりはま)海水浴場は、こぢんまりしているので、海の家がある広場から階段を10段ほど下りるともう砂浜だ。
 僕は階段を駆け下り、海へと入っていく水着姿の彼らの後姿に向かって声を張りあげた。

「あの……っ! すみません! もう遊泳時間、終わってるので……っ」

 思ったよりも大きな声が出た。カップルが驚いたように振り返る。

「え、誰ぇ?」
 と水着姿の女性が眉を寄せる。

「あっ、えっと、僕は……そこの海の家の者ですけど」
「は? 何だよお前。バイトかぁ? 邪魔すんなよ」

 金髪の男の人が僕のことを上から下まで舐めるように全身を観察し、それからふんと鼻で笑ったのが見えた。

 (ふっ、あんなチビ相手にもなんないぜ)って感じの顔だ。
 またふつふつと怒りが込み上げてきて、僕は男の人に向かって叫んだ。

「でもっ、今の時間は、遊泳禁止なので!」
「アァ!?」

 男の人がその瞬間大きな声を出した。思わずびくっと身を引いた僕に、男の人が罵声を浴びせかける。

「うるせえ! こっちは遊んでるだけだっつーの! ガキがいちいち口出すなよ!」
 大きな声で叩きつけられるように怒鳴られて身が竦んだ。

 僕は今まで生きていて、こんなふうに他人に怒鳴られたことがなかった。さっきまでむかむかとしていた怒りは一瞬で吹き飛び、頭が真っ白になる。今さら自分の無謀さと考えのなさを後悔しても遅かった。

 男の人は、怯えて固まった僕の様子に満足そうな顔をして少し笑って、今度は急に猫なで声を出してきた。

「ぼくちゃんは家に帰って、ママのおっぱいでも飲んでた方がいいんじゃないでちゅかぁ~?」

 その言葉に、隣にいた女の人が爆笑する。
 言葉が出ない僕を気のすむまで嘲り笑うと、二人は僕の存在などなかったかのように無視をして、また海に向かって進み始めた。

 ――いつものように、ただ黙ってればよかったじゃん。

 自分の頭の中で声がした。

 ――見ない振りして、気づかない振りしていればよかったじゃん、変な気を起こして関わるから、こんなことになるんだよ。

 違う、と言い切れる力なんて僕にはない。
(やっぱり僕は……)
 俯き、自分の手のひらを見ると、細かく震えている。怖かった。惜しさと情けなさにじわっと目から涙が滲みだしてくる。

 でもこんな奴らのせいで泣くなんて死んでも嫌だ。ぐっと唇を噛んだとき、後ろから砂を踏みしめる音が聞こえた。

「おい、何やってんだ」

 と、低く鋭い声が砂浜に響いた。第三者の声に、男の人と女の人が、怪訝な顔で振り返る。僕は息を呑んだ。

(え……嘘。この声って……まさか……)
 
 僕は後ろをゆっくりと振り返った。
 思った通り、そこにいたのは千里くんだった。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、日の陰り始めた砂浜をこちらに向かってゆっくりと歩いてくる。

 千里くんは僕の横まで歩いてくると、ちらりとこちらに視線をよこした。でも何も言わず、視線を水着姿のカップルの方へ向ける。

「遊泳時間、終わりなんだけど」

 そう言った千里くんの声は特別大きいものではなかった。それなのにやっぱり砂浜によく響いた。

 きんと鋭く、同時に妙な圧を持った声と彼自身の存在に、男の人が目に見えて怯んだのが分かった。

「な、なんだよ、お前……」

 男の人は千里くんを睨みつけてきたが、声にさっきまでの勢いはない。明らかに突然現れた千里くんの存在に怯えているようだった。

「聞こえなかった? 遊泳時間は終わり。今は泳いじゃいけない時間。守れないなら帰って」

 千里くんが、もう一段声を低めた。その声には驚くほどに圧倒的な迫力があった。空気がピンと張り詰め、息をすることすら許されないような緊張感が漂う。

 女の人が男の人の顔を見上げ、腕を引いた。小声で「ねえ、帰ろうよ」と言っているのも聞こえる。

 男の人はじっと千里くんを睨みつけていたが、やがて千里くんの迫力に押し負けたようだ。視線を逸らし舌打ちをひとつだけ残すと、女の人の手を引いて足早に海から上がる。そのまま駐車場の方へと消えていった。

「……良かった……」
 ほっと安心した瞬間、かくんと膝が折れ砂浜に座り込んでしまった。

「天ケ瀬っ」
 千里くんが仰天したように僕の側に駆け寄ってくる。僕は半泣き半笑いで彼の顔を見あげた。

「ごめん。怖くて腰、抜けたみたい」
 情けないことこの上ない。だけど完全に腰が抜けてしまった僕は、その場から一歩も動けなくなってしまった。

 千里くんは困ったように後頭部をさすっていたが、突然俺の横にどすんと座り込んだ。

「動けるようになるまで付き合う」
「え……」 

 僕は驚いて千里くんの横顔を見た。彼の顔には呆れも馬鹿にするような表情もない。
 夕暮れ色にそまっていく海は穏やかで、心地よい海風が吹いてくる。静寂が僕たちを優しく包んでいる。こんな気持ちで千里くんのそばにいたのは初めてのことだった。

「……あの、聞いてもいいかな」
 うん、と千里くんが頷く。
「どうしてここに千里くんがいるの?」
 千里くんは一瞬息を止め、そして小さく吐き出した。

「……謝りに来た」
「謝りに?」

 驚いて声が裏返りそうになった。だってあの千里くんがわざわざ謝りに戻ってきただなんて。しかも未だかつてないくらいに神妙な面持ちの彼は、知らない人みたいだ。

「今日、俺がミスしたときフォローしようとしてくれたのに、キツイこと言っちまったから」

 「ああ」と僕は小さく頷いた。
 キツイこととはあの言葉だろう。

『言いたいこと呑み込んで我慢してても、ずっとそのままだろ』という彼の言葉は、確かに僕の胸に突き刺さったけど、それは本当のことだったからだ。彼に腹を立てる気持ちはちっともない。

「もうそれはいいよ。怒ってないし」
「でも怒られた、蒼佑に」
「蒼佑さんに?」
「ああ、蓮にも怒られた。態度が悪い、言い過ぎだって」

 二人に挟まれて説教を受けている千里くんの姿が目に浮かんだ。思わず吹き出しそうになって、なんとか耐える。ここは笑っていい場面じゃない。

 千里くんは真剣な顔で先を続けた。
「でも俺、お前が変わりすぎててびっくりして、どうしていいかわかんなくなって……」
「僕が変わりすぎてて?」

 よくわからない言葉に、僕は首を捻った。
 僕と千里くんは初対面のはずだ。変わりすぎて……ということは、千里くんは僕のことを知っていたということ?

 千里くんはまた一瞬息を止め、ゆっくりと吐き出す。何かを言い淀んでいるような感じだ。僕はじっと彼の言葉を待つ。

「昔……俺、親に連れられてここに来たことがあるんだよ」
「入浜に? そうなの?」
「小学校低学年のころ。うち親が忙しい人だったら、どっかに遊びに連れてきてもらえるのって珍しかったんだよ。んで、テンション上がって調子乗ったら海で溺れかけて……そんで同じくらいの年のやつに助けてもらった」
 言葉を切った千里くんは、じっと僕のことを見た。綺麗な形の二重瞼が細められる。

「たぶんお前だったと思うんだけど……」
「えっ、嘘」
「ここの海の家の子だって言ってたから、間違いないと思う。覚えてないか?」

 う~んと頭を捻ってみたが、記憶には残っていない。ごめんね、と言うと、いや、と千里くんが首を振る。

「そんでその後、なぜか仲良くなって一緒に遊んだんだよ。それ覚えてたから、蓮たちがここにバイトに行くって聞いて、お前のことを思い出して俺も便乗して来た。でも最初その子がほんとにお前かわかんなかったんだ。だってそんときお前、ずげえわがままだったから」
「僕わがままだった!?」
「ああ、かなりな。女王様みたいに俺にいろいろ命令してきてすごかった」
「じょ、女王様……」

 気が遠くなってきた。確かに入浜にやってきた当初ばあちゃんに反抗して困らせていた覚えはあったけど、まさか女王様と言われるほどだったとは……。

「反対に俺は昔、今とは考えられないくらいに大人しかったんだよ。もっといじいじしてたしな」

 あっ、と思った。今日の昼間に蒼佑さんにされた話を思い出す。千里くんはまっすぐ海を見つめたまま「それで」と話を続けた。

「なんかの話のときに、『僕なんてどうせ駄目だ』的なことを言ったら、めちゃめちゃお前に叱られた。それがあったから、お前にもう一回会ったとき、変わりすぎててびっくりした。あんなにわがままだったのに、大人しくにこにこしてるだろ。猫かぶってんのかとも思ったけど、なんか違うし。『意味わかんね』ってイライラした。それであんなことまで言っちまって……悪かった」

 千里くんがこちらを向きなおり、小さく頭を下げた。僕は慌てて首を振る。
「気にしないで! 僕ももう気にしてないし!」

 とりあえずは千里くんの不可解な態度の理由も分かった。それに、初対面じゃなかったという驚きの事実も。

 千里くんのことを覚えてはいないけど、そういえば昔、同じくらいの年の男の子が浮き輪ごと流されて泣いていたので、引っ張って浜まで連れてきたことはあった。たぶんその子が千里くんなのかもしれない。

「でもそんな昔のこと、よく覚えてたね? もう十年くらい前のことなのに」
「そりゃ……可愛かったから」
「……え?」
「あ……いや、なんでもねえ!」

 千里くんがはっと我に返ったように言う。慌てているその横顔がほんのり赤いように見えて、僕は心の底から驚いた。
(なんか千里くんって、可愛い人だな……?)

 あんなに怖いと思っていた人なのに、今となってはそのかけらもない。それどころか可愛らしいとさえ思えてくる。
 それに、僕のことを覚えていて再び会いに来てくれたというのがなんとも健気じゃないか。

 僕はすっかり温かい気持ちになって、千里くんの顔を覗き込んだ。
「ねえ千里くん。僕と友達になってくれない?」

 千里くんが目を見開く。

「前に会ったときのことは覚えてなくてごめんね。またこうして会えたのは何かの縁だと思うから、良かったら千里くんと友達になりたい。……駄目かな?」

 首をかしげて頼むと、千里くんはぎこちなく頷いた。

「……お、おう」
「本当? いいの? すごく嬉しい」
「お、おう……」

 海に向かって沈む夕日の影が伸びてきて、千里くんの顔を真っ赤に染めている。潮風に吹かれながら、僕たちはとりあえず手始めに、「よろしくね」と握手を交わしたのだった。