海開きから三日。
入浜海水浴場は毎日天候にも恵まれ、たくさんの家族連れが訪れている。
僕たちの海の家『しおさい亭』も連日大盛況だ。
「凪、ラーメン二丁出来たよ」
「はーい」
厨房からばあちゃんに声をかけられ、僕はカウンターへ取って返した。ラーメンをお盆に乗せ、小上がりになっている座敷に上がる。
「醤油ラーメン二つ、お待たせしました」
家族連れのお客さんの前にラーメンをお出しすると、三歳くらいの男の子が「わあい、美味しそう!」と歓声をあげた。
「熱いから気をつけてね」と子供用のフォークとスプーンと取り皿を渡す。男の子はお母さんに取り分けをしてもらい、嬉しそうに食べ始める。
僕はそんな楽しそうな親子の姿を眺め、頬を緩めた。
楽しそうに海の家で過ごしてくれているお客さんの姿を見ると、言葉に出来ないくらいに幸せな気持ちになる。僕にとって入浜の海も『しおさい亭』もかけがえのない大切な場所なのだ。
「会計お願いしま~す」
背後でお客さんの声が聞こえた。
立ち上がろうとしたが、「は~い!」と蓮さんが先に応えてくれた。蓮さんは空いた皿の回収を蒼佑さんに任せ、会計のレジの前に走っていく。
初日に蓮さんが「なんでも任せてもらっても大丈夫!」と自信満々に言っていたのは伊達ではなく、大学生二人組は即戦力だった。蓮さんと蒼佑さんとの連携もばっちり、お互いの仕事を補う動きはベテラン並みだ。
「あの~、お兄さんって大学生なんですか? かっこいい~」
そのとき、レジの方から女の人の弾んだ声が聞こえてきて、僕は思わず聞き耳を立ててしまった。ちらっと声の方を見れば、蓮さんが会計を済ませたお客さんに話しかけられている。
(わ……これって、ナンパだよね)
この海は家族連れが多く、あまりそういう光景を見たことがないので驚いてしまった。
二十代前半らしき女性客の顔には、明らかに蓮さんへの好意が浮かんでいるし、さりげなく蓮さんの肩なんかに触ったりしている。随分積極的だ。蓮さんの方も嫌がる様子もなく愛想よく答える。
「そうですよ~。お盆まではここでバイトしてるんで、良かったらまた食べに来てください。こんなに可愛い人なら大歓迎っす!」
にかっと爽やかに微笑めば、女性たちは一気に盛り上がる。
「え~また来ちゃいます!」
「ってかお仕事終わったら遊びません?」
「お、いいっすね! じゃ連絡先交換して――」
「駄目だよ、蓮」
すっと遮ったのは蒼佑さんだった。音もなく近づいた蒼佑さんは、蓮さんが手にしたスマホを取り上げると、女性客に向かって優しい笑顔を浮かべて話しかける。
「すみません、俺たちここの仕事終わったらペンションのほうの手伝いもあるんですよ。また食べに来てくださいね」
穏やかながら有無を言わせない口調に、女性客たちは早々に諦め、名残惜しそうに帰っていった。
「……蒼佑、邪魔すんなよ。せっかく綺麗なお姉さんと仲良くなれそうだったのに」
「何言ってんの、トラブルの元でしょ? しおさい亭にも豊さんにも迷惑がかかる。だめだよ、ああいうのは断らないと」
「別にいいじゃん、個人的に遊ぶだけなんだから。上手くやるからトラブルなんかにならねえよ」
「だめなものはだーめ」
すっぱりと言い切ると、蒼佑さんは踵を返し仕事に戻っていった。
蓮さんはそんな蒼佑さんの後姿を見つめ、「なんだよ……」と口をとがらせている。拗ねたような顔だけど、それがまたとても可愛く見えてきて、僕は微笑ましい気持ちになった。
蓮さんと蒼佑さんはしょっちゅう言い合いはするものの、喧嘩するほど仲が良いってやつだと思う。少しやんちゃなところのある蓮さんのことを、蒼佑さんは放っておかないようだし、蓮さんも蓮さんで文句はいいつつも、蒼佑さんのことを信頼しているみたいだ。本当にいいコンビだと思う。
仲の良い二人の様子を見てにこにこしていると、突然厨房のほうから、がっしゃーんと派手な音が聞こえてきた。
「え、何……?」
急いで厨房に向かった僕は、中の光景を見て言葉を失った。
厨房の調理台近くの床に冷やし中華がひっくり返っていて、その前で千里くんが固い顔で固まっている。状況から見るに、どうやら千里くんが皿を落としてしまったらしい。コンロの前に陣取ったばあちゃんが「あ~あ、何やってんだい」とばかりに呆れたように横目で見ている。
「ち、千里くん……? 大丈夫?」
千里くんがはっと我に返ったように僕のことを見た。でもぐっと強い視線でにらむように一瞥しただけで、すぐに視線を逸らされてしまう。
(――あれ。これって、また睨まれた……?)
なんて思わなくもなかったけど、僕はなんとか気を取り直し、千里くんに話しかけた。
「あの……怪我とかない?」
俯いたまま千里くんが頷く。
「それなら良かった。片付け手伝うね」
バケツとちりとりと雑巾を持ってくると、千里くんに無言で奪われた。
「俺、自分でやるから」
「え、手伝うよ? 二人でやった方が早くない?」
「いや、いい」
千里くんはそっけなくそう言うと、しゃがみ込んで片付けを始めた。僕は困惑しながら千里くんの後姿を見つめた。
(これって、放っておいていいのかな……?)
千里くん本人の希望でばあちゃんの調理の補佐に入ってもらったけど、どうやら厨房の仕事は初めてらしく、うまくこなせていないのは明らかだ。せっかちなばあちゃんはいらいらしているようだし、このままだとばあちゃんの嫌味と毒舌が炸裂するのも時間の問題のように思える。
「……あのさ、千里くん、よかったら僕と交換する? 僕が厨房に入るから、接客のほうをお願い出来るとありがたいな」
千里くんははっと顔を上げ、思いっきり眉をしかめた。
(……怖っ)
僕はいそいで口をつぐんだ。店での接客のほうが楽かもしれないと思って提案したことだけど、千里くんの気に障っていまったらしい。
どうしようかと困っていると、ばあちゃんが助け舟を出してくれた。
「こっちはあたし一人で大丈夫だから、千里くんと凪は店の方に行っといで」
ばあちゃんの言葉を聞いた千里くんが、眉を寄せて口を開きかける。でもばあちゃんがもう一言を付け加える方が早かった。
「もうお客さん引いてきただろ? 昼どきも過ぎたし、もうあたしだけで捌ききれるよ。ほら、行きな」
「……わかりました」
床を片付け終わった千里くんが仕方なさそうに頷いた。項垂れるようにして立ち上がり、厨房を出て行く。
その背中が意気消沈しているようだったが、声をかけるのを躊躇してしまう。きっと僕なんかがフォローの言葉を言っても、千里くんは喜ばないどころかむかつくだけかもしれない。
ため息を飲み込んで、僕は千里くんを追って厨房を出る。千里くんは出入り口の近くで僕を待っていた。
「何すればいい?」
不機嫌な声だ。僕とは視線を合わせようともしない。「それじゃあ、空いてるお皿さげてください」と言うと、小さく頷いて大股で座敷の方へ歩いていく。
「……はぁ」
さっきは我慢できたため息が今度は我慢できなかった。
初日からとげとげしかった千里くんの態度は、海の家で一緒に働き始めてから数日経っても和らぐことはなかった。
話しかけてもそっけない返答ばかり。
しゃべるときも視線が合わない。
かといって全くこちらに対する興味がないのかと思えばどうやらそうではないらしく、よく千里くんからの視線を感じる。でも振り向いてみても、睨まれるか視線を逸らされて終わりなのだ。
豊叔父さんやばあちゃんとは普通にコミュニケーションが取れているようなので、目つきが悪いとか、人見知りだとかそういう話ではないみたいだ。
そっけないのも僕限定。気に入らないのも僕限定ってことかな。ああ、なんて理不尽な……!
若干しょんぼりとして店の方に戻ってみると、食事のお客さんはほとんど帰っていた。座敷に十ほど並んだ座卓テーブルの海側の一番奥の席で、おばあちゃんと孫らしき男の子がのんびりとかき氷を食べている。時計を見るともう一時半。ばあちゃんの言うとおり、もうお客さんは入ってこなさそうだ。
お客さんが帰った後のテーブルの片付けは千里くんに任せて、僕がレジ前に立った。ランチタイムの売り上げを計算し、少なくなった小銭をレジに出していると、蓮さんがこちらにやってくる。
「やっと落ち着いてきたね」
「ですね。お疲れ様です」
蓮さんは疲れた〜とレジ横のカウンターに突っ伏すと、顔だけをあげ、笑顔でこちらを見上げてくる。
「俺こっちに来てから、すげー日焼けしたよ。見て、色の差やばいよね」
蓮さんがTシャツの袖を捲って見せてきた。上腕部分の肌がくっきりと二色に分かれている。
「ほんとだ……焼けましたねえ。というか、僕も負けてませんよ」
Tシャツの裾を捲り掛けたが、僕の場合は年中日焼けしていて分かりにくいかもしれないと思い直し、着ていたハーフパンツの腰の部分を少しだけずらして見せた。
「わー、ほんとだ。ってか腰、白っ!」と蓮さんが驚いたような声を上げる。
「あ、そういえば凪ちゃんって、この近くに住んでるって聞いてけど、家どのへん?」
「あ、……はい。そこの坂道のぼって左に曲がってすぐそこにあるんですけど――」
『凪ちゃん』
話を続けながらも、蓮さんのその呼び方に、僕はまた一瞬だけモヤっとしてしまった。初日から蓮さんは僕のことを『凪ちゃん』と呼ぶ。それが実は引っかっていたのだ。
確かに僕は身長も小さいし、友達からも女顔だとよく言われるけど、立派な高校二年の男だ。ちゃん呼びは勘弁して欲しい。
……とは思うものの、僕にそんなことを言い出す勇気があるはずもなく、ひたすら気にしないようにしていた。だってわざわざ言い出して空気を悪くしてもしょうがないし――。
「蓮」
そのとき唐突に声を掛けられ、僕と蓮さんは顔を上げた。千里くんがお盆を持ったままこちらを見ている。
「ん、何? 千里」
「その『凪ちゃん』っての辞めろよ」
「え?」
千里くんはちらっと僕の方に視線をよこしてから、蓮さんを睨みつけるように見た。
「馴れ馴れしいし、おかしいだろ。男だぞ」
「そりゃ凪ちゃんは男だけど……」
蓮さんは戸惑った顔をしていたけど、急にはっとして俺の顔を見た。
「もしかしてちゃん付で呼ばれるの嫌だった!?」
「あー……いえ、僕は」
確かに嫌だったけど、嫌だと言ってしまえば角が立つ。なんとも言えずに困っていると、千里くんがはっきりと言った。
「嫌に決まってんだろうが。高2の男だぞ」
「そっか、よく考えてみりゃそうだよな……。ごめん、凪くん!」
「あ、いえ。大丈夫です! ほんとに」
気にしないでくださいと笑顔で答えると、千里くんが今度は僕の方にぎろりと鋭い視線を寄こしてきた。
「お前もお前だ。なんで嫌だって言わねえんだ」
「……え……」
僕は驚きに思わず息を止めた。急所に尖ったものを突き付けられたように、胸のあたりがひやりとしたのだ。そんな僕に構いもせず、千里くんは容赦ない言葉を続ける。
「嫌なことは嫌って言えよ。言いたいこと呑み込んで我慢してても、ずっとそのままだろ」
千里くんは怒ったようにそう言うと、空いた皿を下げに厨房の方へとさっさと歩いていった。
「おい千里っ、ちょっと待てよ! なんだよ、その言い方は!」
蓮さんが怒ったような顔で千里くんを追いかけていく。
ひとり取り残された僕は、茫然とふたりの後姿を見つめることしかできなかった。
(え、なに、今のって――)
千里くんに言われた言葉を反芻すると、今になってじわじわとショックが胸の中に広がっていく。
千里くんの瞳が映していたのは、間違いなく怒りだった。あんな言い方をされるほどに、彼をイライラさせてしまっていたのか。
「――凪くん」
「えっ」
突然横からそっと伺うような小さな声がして、僕ははっと我に返った。蒼佑さんが申し訳なさそうな顔をしながら僕の側にやって来る。
「千里がきついこと言ってごめんね」
千里くんたちとの会話を聞いていたのだろう。僕は慌てて首を振った。
「いえっ、そんな蒼佑さんが謝ることでは……! ……それに、たぶん僕が悪いので」
ようやく千里くんのそっけない態度や鋭い視線の理由が分かった気がした。僕のはっきりしないところが、今までずっと千里くんを苛立たせていたのだ。
「凪くんが悪いわけないよ。そんなこと言わないで」
「でも……」
さっきはきつい言い方の方に驚いてしまったけど、よくよく考えれば千里くんの言っていることはもっともだとも思う。出来る出来ないの問題はあるけど、正論だ。
僕が何も言えないでいると、蒼佑さんは困ったように大きなため息を吐いた。そして「千里を庇うっていうわけじゃないんだけどね」と前置きをして、小さな声で話し始めた。
「千里ね、今はあんな感じなんだけど、昔は本当に大人しくて言いたいことは何にも言えないような子供だったんだよね。ご両親が厳しい人だったから仕方ないんだけど……。いつも言いたいことをのみ込んで、俯いてばかりいたから、俺も蓮も結構心配してたんだよ。でも小学校に入ってしばらくした頃から段々強くなっていって、今では強くなりすぎちゃった感じではあるけど」
「そう、なんですか……」
意外だった。あの千里くんにもそんな頃があったのか。
「だからと言って、凪くんにあんなことを言うのは良くないと思うけど」
本当にごめんね。ともう一度謝った蒼佑さんはとても優しい顔だ。その優しい雰囲気に癒されて、僕は少し肩の強張りが和らいだ。
「もう、いいです。別に怒ってもいませんし」
「凪くんは優しいね」
誰よりも優しい顔で笑いながら、蒼佑さんが言う。
「あんな態度取ってるから信じられないかもしれないけど、千里はここにくるのも本当に楽しみにしてたんだよ。凪くんとも仲良くしたいと思ってるだろうし」
そうなのだろうか。仲良くしたかったら、あんなに睨んでこないし、あんなことも言わないと思うけれど……。
「だから千里のこと嫌わないでやってくれないかな。凪くんさえよかったら、仲良くしてやって欲しい。もちろん無理のない範囲でいいから」
「……わかりました」
僕は小さく頷いた。年上の蒼佑さんに頼まれたら、そう答えるしかない。
だけど……と僕は思う。
仲良くすることは難しいかもしれない。一度『苦手だな』と思ったことをひっくり返すのはなかなか至難の業だ。
それに僕には、千里くんが僕と仲良くしたがっているとは到底思えなかった。
入浜海水浴場は毎日天候にも恵まれ、たくさんの家族連れが訪れている。
僕たちの海の家『しおさい亭』も連日大盛況だ。
「凪、ラーメン二丁出来たよ」
「はーい」
厨房からばあちゃんに声をかけられ、僕はカウンターへ取って返した。ラーメンをお盆に乗せ、小上がりになっている座敷に上がる。
「醤油ラーメン二つ、お待たせしました」
家族連れのお客さんの前にラーメンをお出しすると、三歳くらいの男の子が「わあい、美味しそう!」と歓声をあげた。
「熱いから気をつけてね」と子供用のフォークとスプーンと取り皿を渡す。男の子はお母さんに取り分けをしてもらい、嬉しそうに食べ始める。
僕はそんな楽しそうな親子の姿を眺め、頬を緩めた。
楽しそうに海の家で過ごしてくれているお客さんの姿を見ると、言葉に出来ないくらいに幸せな気持ちになる。僕にとって入浜の海も『しおさい亭』もかけがえのない大切な場所なのだ。
「会計お願いしま~す」
背後でお客さんの声が聞こえた。
立ち上がろうとしたが、「は~い!」と蓮さんが先に応えてくれた。蓮さんは空いた皿の回収を蒼佑さんに任せ、会計のレジの前に走っていく。
初日に蓮さんが「なんでも任せてもらっても大丈夫!」と自信満々に言っていたのは伊達ではなく、大学生二人組は即戦力だった。蓮さんと蒼佑さんとの連携もばっちり、お互いの仕事を補う動きはベテラン並みだ。
「あの~、お兄さんって大学生なんですか? かっこいい~」
そのとき、レジの方から女の人の弾んだ声が聞こえてきて、僕は思わず聞き耳を立ててしまった。ちらっと声の方を見れば、蓮さんが会計を済ませたお客さんに話しかけられている。
(わ……これって、ナンパだよね)
この海は家族連れが多く、あまりそういう光景を見たことがないので驚いてしまった。
二十代前半らしき女性客の顔には、明らかに蓮さんへの好意が浮かんでいるし、さりげなく蓮さんの肩なんかに触ったりしている。随分積極的だ。蓮さんの方も嫌がる様子もなく愛想よく答える。
「そうですよ~。お盆まではここでバイトしてるんで、良かったらまた食べに来てください。こんなに可愛い人なら大歓迎っす!」
にかっと爽やかに微笑めば、女性たちは一気に盛り上がる。
「え~また来ちゃいます!」
「ってかお仕事終わったら遊びません?」
「お、いいっすね! じゃ連絡先交換して――」
「駄目だよ、蓮」
すっと遮ったのは蒼佑さんだった。音もなく近づいた蒼佑さんは、蓮さんが手にしたスマホを取り上げると、女性客に向かって優しい笑顔を浮かべて話しかける。
「すみません、俺たちここの仕事終わったらペンションのほうの手伝いもあるんですよ。また食べに来てくださいね」
穏やかながら有無を言わせない口調に、女性客たちは早々に諦め、名残惜しそうに帰っていった。
「……蒼佑、邪魔すんなよ。せっかく綺麗なお姉さんと仲良くなれそうだったのに」
「何言ってんの、トラブルの元でしょ? しおさい亭にも豊さんにも迷惑がかかる。だめだよ、ああいうのは断らないと」
「別にいいじゃん、個人的に遊ぶだけなんだから。上手くやるからトラブルなんかにならねえよ」
「だめなものはだーめ」
すっぱりと言い切ると、蒼佑さんは踵を返し仕事に戻っていった。
蓮さんはそんな蒼佑さんの後姿を見つめ、「なんだよ……」と口をとがらせている。拗ねたような顔だけど、それがまたとても可愛く見えてきて、僕は微笑ましい気持ちになった。
蓮さんと蒼佑さんはしょっちゅう言い合いはするものの、喧嘩するほど仲が良いってやつだと思う。少しやんちゃなところのある蓮さんのことを、蒼佑さんは放っておかないようだし、蓮さんも蓮さんで文句はいいつつも、蒼佑さんのことを信頼しているみたいだ。本当にいいコンビだと思う。
仲の良い二人の様子を見てにこにこしていると、突然厨房のほうから、がっしゃーんと派手な音が聞こえてきた。
「え、何……?」
急いで厨房に向かった僕は、中の光景を見て言葉を失った。
厨房の調理台近くの床に冷やし中華がひっくり返っていて、その前で千里くんが固い顔で固まっている。状況から見るに、どうやら千里くんが皿を落としてしまったらしい。コンロの前に陣取ったばあちゃんが「あ~あ、何やってんだい」とばかりに呆れたように横目で見ている。
「ち、千里くん……? 大丈夫?」
千里くんがはっと我に返ったように僕のことを見た。でもぐっと強い視線でにらむように一瞥しただけで、すぐに視線を逸らされてしまう。
(――あれ。これって、また睨まれた……?)
なんて思わなくもなかったけど、僕はなんとか気を取り直し、千里くんに話しかけた。
「あの……怪我とかない?」
俯いたまま千里くんが頷く。
「それなら良かった。片付け手伝うね」
バケツとちりとりと雑巾を持ってくると、千里くんに無言で奪われた。
「俺、自分でやるから」
「え、手伝うよ? 二人でやった方が早くない?」
「いや、いい」
千里くんはそっけなくそう言うと、しゃがみ込んで片付けを始めた。僕は困惑しながら千里くんの後姿を見つめた。
(これって、放っておいていいのかな……?)
千里くん本人の希望でばあちゃんの調理の補佐に入ってもらったけど、どうやら厨房の仕事は初めてらしく、うまくこなせていないのは明らかだ。せっかちなばあちゃんはいらいらしているようだし、このままだとばあちゃんの嫌味と毒舌が炸裂するのも時間の問題のように思える。
「……あのさ、千里くん、よかったら僕と交換する? 僕が厨房に入るから、接客のほうをお願い出来るとありがたいな」
千里くんははっと顔を上げ、思いっきり眉をしかめた。
(……怖っ)
僕はいそいで口をつぐんだ。店での接客のほうが楽かもしれないと思って提案したことだけど、千里くんの気に障っていまったらしい。
どうしようかと困っていると、ばあちゃんが助け舟を出してくれた。
「こっちはあたし一人で大丈夫だから、千里くんと凪は店の方に行っといで」
ばあちゃんの言葉を聞いた千里くんが、眉を寄せて口を開きかける。でもばあちゃんがもう一言を付け加える方が早かった。
「もうお客さん引いてきただろ? 昼どきも過ぎたし、もうあたしだけで捌ききれるよ。ほら、行きな」
「……わかりました」
床を片付け終わった千里くんが仕方なさそうに頷いた。項垂れるようにして立ち上がり、厨房を出て行く。
その背中が意気消沈しているようだったが、声をかけるのを躊躇してしまう。きっと僕なんかがフォローの言葉を言っても、千里くんは喜ばないどころかむかつくだけかもしれない。
ため息を飲み込んで、僕は千里くんを追って厨房を出る。千里くんは出入り口の近くで僕を待っていた。
「何すればいい?」
不機嫌な声だ。僕とは視線を合わせようともしない。「それじゃあ、空いてるお皿さげてください」と言うと、小さく頷いて大股で座敷の方へ歩いていく。
「……はぁ」
さっきは我慢できたため息が今度は我慢できなかった。
初日からとげとげしかった千里くんの態度は、海の家で一緒に働き始めてから数日経っても和らぐことはなかった。
話しかけてもそっけない返答ばかり。
しゃべるときも視線が合わない。
かといって全くこちらに対する興味がないのかと思えばどうやらそうではないらしく、よく千里くんからの視線を感じる。でも振り向いてみても、睨まれるか視線を逸らされて終わりなのだ。
豊叔父さんやばあちゃんとは普通にコミュニケーションが取れているようなので、目つきが悪いとか、人見知りだとかそういう話ではないみたいだ。
そっけないのも僕限定。気に入らないのも僕限定ってことかな。ああ、なんて理不尽な……!
若干しょんぼりとして店の方に戻ってみると、食事のお客さんはほとんど帰っていた。座敷に十ほど並んだ座卓テーブルの海側の一番奥の席で、おばあちゃんと孫らしき男の子がのんびりとかき氷を食べている。時計を見るともう一時半。ばあちゃんの言うとおり、もうお客さんは入ってこなさそうだ。
お客さんが帰った後のテーブルの片付けは千里くんに任せて、僕がレジ前に立った。ランチタイムの売り上げを計算し、少なくなった小銭をレジに出していると、蓮さんがこちらにやってくる。
「やっと落ち着いてきたね」
「ですね。お疲れ様です」
蓮さんは疲れた〜とレジ横のカウンターに突っ伏すと、顔だけをあげ、笑顔でこちらを見上げてくる。
「俺こっちに来てから、すげー日焼けしたよ。見て、色の差やばいよね」
蓮さんがTシャツの袖を捲って見せてきた。上腕部分の肌がくっきりと二色に分かれている。
「ほんとだ……焼けましたねえ。というか、僕も負けてませんよ」
Tシャツの裾を捲り掛けたが、僕の場合は年中日焼けしていて分かりにくいかもしれないと思い直し、着ていたハーフパンツの腰の部分を少しだけずらして見せた。
「わー、ほんとだ。ってか腰、白っ!」と蓮さんが驚いたような声を上げる。
「あ、そういえば凪ちゃんって、この近くに住んでるって聞いてけど、家どのへん?」
「あ、……はい。そこの坂道のぼって左に曲がってすぐそこにあるんですけど――」
『凪ちゃん』
話を続けながらも、蓮さんのその呼び方に、僕はまた一瞬だけモヤっとしてしまった。初日から蓮さんは僕のことを『凪ちゃん』と呼ぶ。それが実は引っかっていたのだ。
確かに僕は身長も小さいし、友達からも女顔だとよく言われるけど、立派な高校二年の男だ。ちゃん呼びは勘弁して欲しい。
……とは思うものの、僕にそんなことを言い出す勇気があるはずもなく、ひたすら気にしないようにしていた。だってわざわざ言い出して空気を悪くしてもしょうがないし――。
「蓮」
そのとき唐突に声を掛けられ、僕と蓮さんは顔を上げた。千里くんがお盆を持ったままこちらを見ている。
「ん、何? 千里」
「その『凪ちゃん』っての辞めろよ」
「え?」
千里くんはちらっと僕の方に視線をよこしてから、蓮さんを睨みつけるように見た。
「馴れ馴れしいし、おかしいだろ。男だぞ」
「そりゃ凪ちゃんは男だけど……」
蓮さんは戸惑った顔をしていたけど、急にはっとして俺の顔を見た。
「もしかしてちゃん付で呼ばれるの嫌だった!?」
「あー……いえ、僕は」
確かに嫌だったけど、嫌だと言ってしまえば角が立つ。なんとも言えずに困っていると、千里くんがはっきりと言った。
「嫌に決まってんだろうが。高2の男だぞ」
「そっか、よく考えてみりゃそうだよな……。ごめん、凪くん!」
「あ、いえ。大丈夫です! ほんとに」
気にしないでくださいと笑顔で答えると、千里くんが今度は僕の方にぎろりと鋭い視線を寄こしてきた。
「お前もお前だ。なんで嫌だって言わねえんだ」
「……え……」
僕は驚きに思わず息を止めた。急所に尖ったものを突き付けられたように、胸のあたりがひやりとしたのだ。そんな僕に構いもせず、千里くんは容赦ない言葉を続ける。
「嫌なことは嫌って言えよ。言いたいこと呑み込んで我慢してても、ずっとそのままだろ」
千里くんは怒ったようにそう言うと、空いた皿を下げに厨房の方へとさっさと歩いていった。
「おい千里っ、ちょっと待てよ! なんだよ、その言い方は!」
蓮さんが怒ったような顔で千里くんを追いかけていく。
ひとり取り残された僕は、茫然とふたりの後姿を見つめることしかできなかった。
(え、なに、今のって――)
千里くんに言われた言葉を反芻すると、今になってじわじわとショックが胸の中に広がっていく。
千里くんの瞳が映していたのは、間違いなく怒りだった。あんな言い方をされるほどに、彼をイライラさせてしまっていたのか。
「――凪くん」
「えっ」
突然横からそっと伺うような小さな声がして、僕ははっと我に返った。蒼佑さんが申し訳なさそうな顔をしながら僕の側にやって来る。
「千里がきついこと言ってごめんね」
千里くんたちとの会話を聞いていたのだろう。僕は慌てて首を振った。
「いえっ、そんな蒼佑さんが謝ることでは……! ……それに、たぶん僕が悪いので」
ようやく千里くんのそっけない態度や鋭い視線の理由が分かった気がした。僕のはっきりしないところが、今までずっと千里くんを苛立たせていたのだ。
「凪くんが悪いわけないよ。そんなこと言わないで」
「でも……」
さっきはきつい言い方の方に驚いてしまったけど、よくよく考えれば千里くんの言っていることはもっともだとも思う。出来る出来ないの問題はあるけど、正論だ。
僕が何も言えないでいると、蒼佑さんは困ったように大きなため息を吐いた。そして「千里を庇うっていうわけじゃないんだけどね」と前置きをして、小さな声で話し始めた。
「千里ね、今はあんな感じなんだけど、昔は本当に大人しくて言いたいことは何にも言えないような子供だったんだよね。ご両親が厳しい人だったから仕方ないんだけど……。いつも言いたいことをのみ込んで、俯いてばかりいたから、俺も蓮も結構心配してたんだよ。でも小学校に入ってしばらくした頃から段々強くなっていって、今では強くなりすぎちゃった感じではあるけど」
「そう、なんですか……」
意外だった。あの千里くんにもそんな頃があったのか。
「だからと言って、凪くんにあんなことを言うのは良くないと思うけど」
本当にごめんね。ともう一度謝った蒼佑さんはとても優しい顔だ。その優しい雰囲気に癒されて、僕は少し肩の強張りが和らいだ。
「もう、いいです。別に怒ってもいませんし」
「凪くんは優しいね」
誰よりも優しい顔で笑いながら、蒼佑さんが言う。
「あんな態度取ってるから信じられないかもしれないけど、千里はここにくるのも本当に楽しみにしてたんだよ。凪くんとも仲良くしたいと思ってるだろうし」
そうなのだろうか。仲良くしたかったら、あんなに睨んでこないし、あんなことも言わないと思うけれど……。
「だから千里のこと嫌わないでやってくれないかな。凪くんさえよかったら、仲良くしてやって欲しい。もちろん無理のない範囲でいいから」
「……わかりました」
僕は小さく頷いた。年上の蒼佑さんに頼まれたら、そう答えるしかない。
だけど……と僕は思う。
仲良くすることは難しいかもしれない。一度『苦手だな』と思ったことをひっくり返すのはなかなか至難の業だ。
それに僕には、千里くんが僕と仲良くしたがっているとは到底思えなかった。
