「――よし、もうこれくらいでいいかな」
 僕はぴかぴかに磨き上げた座敷を見渡し、雑巾片手におおきく息をついた。

 しおさい亭は、建物の入り口を入ると左手にはカウンターと厨房、右手には靴を脱いで上がる二十畳ほどの小上がりの座敷がある。その座敷の方の雑巾がけも終わったし、窓ガラスもすべて拭き終わった。あとは部屋の隅に積み上げている座卓テーブルを並べれば開店準備は終わりだ。
 明日はいよいよ海開き。この海の家も僕たちも明日から始動だ。

「それにしても暑いな……」

 僕は首に巻いていたタオルで汗を拭いて、海の方向へ目をやった。海に面した窓は腰高から天井までの大きなガラス張りになっていて、遠くの水平線まで見渡すことが出来る。
 エメラルドグリーンとコバルトブルーが複雑に入り混じった海原は、今日も金色と銀色の宝石を巻き散らかしたかのようにきらきらと瞬いていた。

(――海に入ったら気持ちいいだろうな) 
 
 波が引いていくときの感覚を思い出し、足がムズムズし始める。だけど我慢。仕事が優先。
 今朝見たテレビの天気予報では、これから一週間晴れが続くと言っていた。明日にはきっと、海水浴客で浜辺は賑わうだろう。

「凪、そっちは終わったかい」

 厨房の掃除をしていたばあちゃんが、ひょいと店のほうに顔を出した。

「うん、もうすぐ終わる。そっちは?」
「業者さんが先週掃除していってくれたからね。どこもかしこもぴかぴかだよ」
「良かった、いつも掃除が大変だもんね。業者さん頼んでくれた叔父さんに感謝だね」

 僕がそう言うと、ばあちゃんは何が気に入らないのか、はぁとため息を付いた。

「掃除くらい自分で出来るんだけどねえ。お金を払って掃除してもらう贅沢が出来るほど、うちは金持ちじゃないんだよ。まったく豊ときたら……人の話をいつも聞かないで……そんなんだから嫁の来手(きて)がないんだよ……」

 いつもの文句が始まりかけたので、僕は慌てて遮った。

「叔父さんはばあちゃんのことを思って手配してくれたんだから、いいじゃない。楽だったでしょ?」
「それはそうだけど」
「ばあちゃんだって若くないんだから」
「何言ってんだい。あたしはまだ七十だよ。年寄扱いして」
「だけどこの前薬増えたんでしょ?」

 薬のことを口にすると、途端にばあちゃんはうんざりとした顔つきになってそっぽを向いた。

「……ああ、そうだ、忘れてた。冷蔵庫の中の拭き掃除もしなくちゃだね」
 などと言って、ばあちゃんは僕の返事も聞かずに厨房に戻っていってしまった。

 まったくばあちゃんは……。都合が悪くなるとすぐにこれだ。

 僕はやれやれと呆れていたが、いつまでも油を売ってはいられない。掃除が終わったら買い出しに行かないといけないのだ。

 気を取り直して「よしっ」と僕が座卓テーブルに手をかけたとき、表のほうからのんびりとした呼び声が聞こえてきた。

「お~い、(なぎ)~、ばあちゃん~、いるか~?」
 (ゆたか)叔父さんの声だ。
「なんだい、騒々しいね」
 とばあちゃんが厨房から戻ってきたそのとき、ちょうど叔父さんが店の入口から入ってきた。 

 趣味のサーフィンで真っ黒に日焼けした肌に、鍛え上げたがっしりとした身体を持つ豊叔父さんは、40の半ばも過ぎてはいるけど充分三十代後半でも通じる見た目をしている。ばあちゃんは『嫁の来手がない』なんていうけど、叔父さん本人に結婚する気がないだけで、実は女性客に結構モテていることを僕は知っていた。

「凪、喜べ! 今年のバイトのやつら連れてきたぞ」

 叔父さんは僕を見て笑顔を浮かべると、後ろを振り向いて「三人とも中に入ってくれ」と声をかけた。
 「はい」と返事が外から聞こえ、男の人たちが三人、ぞろぞろと店の中に入ってくる。

(うわぁ……っ)

 僕は思わず見惚れてしまった。
 三人とも、このあたりでは絶対に見かけないほどのイケメンさんだ。雰囲気もおしゃれであか抜けているし、それにみんな180センチ近くありそうな長身で体つきもしっかりしている。165センチのちびひょろで、田舎の人間丸出しの僕とは大違いだ。

「こっちはこの海の家の経営者のばあちゃん。んでこっちは孫の凪。しおさい亭は基本この二人が回してるから、昼時はしっかり手伝ってやってくれよ」

「よろしく頼むね。若い人が来てくれて助かるよ」
 ばあちゃんが三人に向かって話しかける。
 僕も彼らに向かって「よろしくお願いします」と頭を下げた。

「どうも~。俺、矢吹(やぶき)(れん)っす」

 いちばん最初に、ミルクティーみたいに綺麗な髪色をした人が口を開いた。
 明るそうな人だ。二重の目が印象的なくっきりとした顔立ちは少し派手な雰囲気があるけど、人懐っこい笑顔が素敵だ。僕と目が合うと、茶目っ気たっぷりにウィンクして寄こしてくれる。

 そんな蓮さんを、横に立った茶髪の男の人は横目で呆れたように見ていたが、僕とばあちゃんの方を向いて丁寧に頭を下げた。

「初めまして、春原(はるはら)蒼佑(そうすけ)です。よろしくお願いします」

 落ち着いた雰囲気の人だ。まっすぐ伸びた背筋や佇まいは凛としているが、微笑むと目じりが下がって途端に親しみやすい印象になる。蓮さんよりもさらに長身で、もしかしたら190センチくらいあるだろうか。まさに頼れるお兄さんといった感じ。

 そして三人目。
 彼は黒髪でしゅっとした綺麗な顔をしていた。緊張したような固い顔つきで床に目を落としていたが、自分に視線が集まるのに気が付いて顔を上げる。
 正面から目が合った。
「……っ」
 彼は僕の顔を見て驚いたようにわずかに目を見開いたが、すぐにぐっと口を引き結び、僕に鋭い視線を向けてきた。

(あれ……?)

 僕は目を瞬いた。すぐに視線は外されたけど、今、睨まれたような気がする。

(……気のせいだよね。だって初対面だし)
 そうは思うものの、何となく釈然としない。

 黒髪の彼は機嫌悪そうに黙り込んで床を見つめている。見かねたように、蓮さんが彼の肩を叩いた。

「ほら、千里(ちさと)、挨拶しないと」
 せっつかれて彼がようやく口を開いた。

「……相良(さがら)千里(ちさと)

 ただそれだけを言って、彼――千里くんは再びむすっと黙り込んでしまう。僕はすっかり面食らった。

 だって全然にこりともしないし、目つきも鋭いし、極めつけは耳にたくさんついたピアス。銀色にひかる金属のピアスは、片耳に三個ずつ……いや四個ずつついている。真っ黒の短髪で側頭部を刈り上げた今どきの髪形もTシャツの着こなしもあか抜けていて格好いいけど、なんとも気難しそうだ。

「あー……えっと、すんません。コイツ緊張してるみたいで」
 蓮さんが明るい声でフォローを入れる。
 蓮さんの話によると、どうやら三人は小さいころからの幼馴染らしい。蓮さんと蒼佑さんが大学二年生、千里くんが蓮さんたちの三つ年下で高校二年生。
 蒼佑さんも説明を加えてくれる。

「俺と蓮がここでバイトするって話したら、千里も『俺もやる』って言い出したので、俺たちが保護者がわりに連れてくることになったんですよ。凪くんは千里と同じ年だよね。良かったな、千里」

 蒼佑さんの言葉に、千里くんがちらりとこちらを見る。
 僕は緊張しながらも千里くんに微笑みかけてみた。でも千里くんは目を鋭く細め、それからさっと目をそらしてしまう。

(これって……やっぱり睨まれてるよね?)

 蓮さんの言う通り緊張しているだけかなとも思ったけど、千里くんは叔父さんやばあちゃん相手だとぎこちないながらも普通に受け答えをしている。だけど僕の方は見ようとしない。
 どうしてだろう。何か気に障るようなことをしちゃったのだろうか。

 同じ年だし仲良くなれたらいいなと思っていたけど、この様子だと友達になるのは難しいかもしれない。

「んじゃ明日からこいつら三人寄こすからな。しっかり指導してやるんだぞ、凪」
「あ、うん……」
 豊叔父さんに肩を叩かれて、僕はとりあえず頷いた。だけど正直すごく先行きが不安だ。

「俺と蒼佑は去年も他の海の家でバイトしてたから慣れてるよ! なんでも任せてね、凪ちゃん!」
 蓮さんが自信満々に胸を叩く。
(え、『凪《《ちゃん》》』って……)
 と一瞬思わなくもなかったけど、僕が何かいうより先に、蒼佑さんが呆れたような顔で口を開いた。

「蓮、そんなこと言うけど、ビールぶちまけて焼きそばひっくり返してたのは誰だっけ?」
「な、何言ってんだよ! んなことするわけねえだろ! 俺だって去年よりはレベルアップしてんだよ!」
「だといいけどねえ」

 息の合った会話に、思わず苦笑が漏れてしまった。蓮さんも蒼佑さんも面白い人だ。

 ふと千里くんの方を見ると、また目があった。しかし今度もさっと視線を逸らされてしまう。

(なんだろう。僕、何かやらかしたのかな)

 考えてみたけどわからない。どちらかと言えば相性の問題のような気もする。

(合わないなら、僕が我慢すればいいだけのことだよね。一か月のあいだだけだし……)
 そう胸の中でつぶやくと、少し落ち着いてきた。

 なんとか一か月、無事にしのげますように。
 僕はため息を押し殺し、心の中でそっと願った。