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 空が紅色に染まっている。
 誰もいない波打ち際を無言で歩きながら、僕は目の前の千里くんの大きな背中を見あげた。

 蒼佑さんが千里くんの怒りを拳一つで収めてくれて、『蓮が無理やりキスをしようとして凪を泣かせていた』という千里くんのとんでもない誤解も無事に解けた後、僕と千里くんは大学生二人組に、「散歩でもしながらきちんと話しておいで」とこの浜辺に追いやられた。

 言われたとおりに浜辺を歩き始めたのはいいけど、千里くんは何も言わず、僕もまた何も言えずに、僕たちふたりは入浜の500メートルほどの波打ち際を、右へ左へとさっきからずっと行ったり来たりしているところだった。

「あの――」
 僕が上げた声に、千里くんが立ち止まった。そしてゆっくりと振り返る。
 目が合い、そしてどちらからともなく視線を逸らす。

 一瞬だけ合った視線に、胸が苦しくなった。
 千里くんの顔を正面から見たのは、ずいぶん久しぶりだったことに気が付く。
(そっか……ずっとすれ違ってたから) 
 僕は大きく深呼吸をしてから、口を開いた。
「ごめんなさい」

 僕の声は小さく震えるようで、波の音にかき消されそうなほどだった。
 拳を握り、さっきよりも大きな声を出す。

「ずっと変な態度を取ってて……ごめんなさい」

 千里くんはうんともいいえとも言わなかった。ただ俯き、足元の砂を見つめている。

(どうしよう、やっぱり怒ってるのかな……それはそうだよね……もう駄目なのかな……)
 と僕が俯きかけたそのとき。

「こっちこそ悪かった」
 千里くんがポツリと言った。
 え、と僕は千里くんの顔を見た。でも彼の横顔は固く、感情が伝わってこない。
「……ど、どうして千里くんが謝るの? 悪いのは僕なのに」

「この前お前に、その、無理やり、……キス、しただろ。悪かった。反省してる。凪はアイツのことが好きなのに、お前の気持ちを無視するようなことをして」

 キス、という単語を千里くんの声で聞いた瞬間、かあっと頬が熱くなった。
 あのときの彼の唇の熱と柔らかさを瞬時に思い出し、身体全体が火照ったようになる。

(――って、違う、そうじゃない)
 僕は慌てて自分自身につっこみを入れた。

 今、千里くんは『凪はアイツのことが好きなのに』と確かに言った。

「あの……千里くん? アイツって誰のこと?」
 一拍置いて千里くんが答える。
「……蓮のことだろ。好きなんだろ、蓮のことが」

 ああ、やっぱり誤解されてた。僕はあわてて首を振った。

「違う、蓮さんのことは尊敬してるけど、そういう意味で好きじゃない」
「えっ?」

 千里くんが驚いたように顔を上げた。

「好きなんじゃねえのか?」
「だから違うって」
「え……?」

 千里くんはそう言ったきり絶句した。素早く瞬きを繰り返す顔は動揺しているようにも見えたし、何かを熟考しているようにも思えた。

 僕は千里くんの顔を見つめながら、考えを巡らせる。

 千里くんは、僕が蓮さんを好きだと勘違いしていた。
 その上で千里くんは僕にキスをした。どうしてだろう。

『千里は凪のことが好きだから、俺に嫉妬してキスしたんだよ』という蓮さんの言葉をふと思い出した。

(それはわからない。わからないけど――) 

 僕は千里くんに向かって、足を踏みだした。一歩、二歩と近づく。

 千里くんの顔が、夕焼けを浴びて赤く染まっていた。
 前にカップルと追い払ってくれたときのことを思いだした。初めて千里くんのことが可愛いなと思って、この浜辺で握手をした。
 そして海の家で宿題を広げながらラムネを飲んだこと。初めてラムネを飲んだ千里くんがうまいと叫んで、僕の中に不思議な感情が生まれたこと。

 その感情は僕の中にゆっくりと根を張っていった。 

 ひんやりとした病院の廊下で千里くんのやさしさと熱を知り、そして二人きりのペンションの部屋で眠りにつくまでくだらない話をした。オープンキャンパスでは手を繋いで……。 

 引いては寄せる波のように、この入浜で過ごした千里くんとの思い出が、浮かんでは消える。

(ああ、僕、千里くんのことがすごく好きなんだな……)

 それなのに、この人は、明後日には僕の前からいなくなる? もう会えなくなる? 
 僕は震える声で聞いた。

「ねえ、なんで僕にキスしたの?」

 千里くんがゆっくりと顔を上げた。そして目を細める。

「そんなの……わかるだろ」
「わからないよ。だって千里くん、好きな女の子がいるんでしょう?」

 僕の言葉に、千里くんは「え?」と、眉を寄せた。

「千里くんの友達の――涌井くんが言ってたよ。『千里は最近好きな子が出来た』って。涌井くんたちはその子を見に来たとも言ってた」 

 はっと千里くんが息を呑んだ。

「それは――!」
 言いかけて、そのまま千里くんは黙り込んだ。

「それは、何?」
 僕が問いかけると、千里くんはまた口を開きかけ、そして閉じる。

 千里くんの喉が大きく上下する。こめかみを汗が伝う。銀色のピアスが四つ並んだ耳たぶが、燃えるような赤色に染まる。

 何か大きなものの訪れを祈るような気持ちで、僕は千里くんのことを見つめる。

「――言って、千里くん」

 僕の言葉に、千里くんがすう、と大きく息を吸い込んだのが見えた。

「俺はお前が好きだ」

 波の音の隙間に千里くんの声が響いた。
 
「この海で溺れかけてお前に助けてもらったとき、目の前に天使がいる、ってマジで思った。それくらいあんときのお前は綺麗で――男だってわかって、中身がぜんぜん天使っぽくないってわかっても、すげえ惹かれた。……たぶんあれが俺の初恋だった」

 俯き気味に、言葉を選びながら、千里くんは訥々と話し続けた。

「だから蓮たちが入浜でバイトするって聞いた時、飛びついた。またお前に会えるかも、って期待し。でも実際に会ったら緊張しすぎてわけわかんなくなるし、お前も変わりすぎててびっくりしたし――でも気づいたらすげえ好きになってて……」

 ふう、と息を吐いて千里くんが目を上げる。

「昔のお前にも、今のお前にも、どっちにも惚れた。――好きだ」

 千里くんははっきりと言った。覚悟を決めたような強いまなざしで僕を見据える。

「お前が他の誰を好きでも、俺は凪のことが好きだ。男でも関係ねえ。男だってわかってても、二回も惚れたんだ。好きで好きでしょうがないんだよ」

 信じられない。
 千里くんも僕のことを好きだなんて。
 嬉しい。胸が熱い。胸が痛むほど、嬉しい。

「ぼ、僕……」

 僕も好きだ、と唇が勝手に形を作りかけて、そのまま息が止まった。
 あとは声を出すだけなのに、息がどうしても吐きだせない。

 怖い。
 自分をさらけ出すのが怖い。
 もう戻れない場所に足を踏み入れるの震えるほど怖い。

 ――だけど、僕はもう、自分の心の声を知っている。

 それが世間一般に言う普通とかけ離れていることは知っているし、ばあちゃんや父さんの言う『正しい道』なのかはどれだけ考えてもわからないけど、それでも僕は、僕の心の叫びにしたがって、未来を決める。

「……僕も……好き」

 震えながら口を開くと、千里くんの瞳が大きく見開かれる。

「ほんとか?」
「うん……」

 こくりと頷いた瞬間、千里くんに強く抱きしめられた。

「マジか……」

 千里くんの声も震えていた。僕の身体を包み込んでくれている腕も震えていた。そうか、と思った。千里くんも僕と同じように怖かったのだ。

「俺、絶対、嫌われたと思ってた……」
「……嫌うなんてこと、あるわけないよ」
「でも無理やりキスしたし」
「……あ、あれは……その……べつに、嫌じゃなかった」

 僕がしどろもどろになりながら答えると、千里くんがばっと僕の身体を離した。そして顔を覗き込んでくる。

「マジで? ほんとに?」
「う、うん」
「じゃあ、もう一回してもいい?」
「えっ」
「キス、してもいい?」
 千里くんに懇願されるように見つめられ、身体の奥が甘く疼いた。初めて感じる情感に、僕はうろたえた。

「い……いいよ。……しても」

 うろたえたあまり、思いのほか偉そうな言い方になってしまった。千里くんも同じことを思ったのか微妙な顔つきになる。

「さっきからちょっと思ってたんだけど――なんかお前、昔のわがまま女王に戻ってねえ?」
「……キスするの辞める?」
「いえ、したいです、ごめんなさい」
「許してやろう」

 わざと偉そうに言うと、千里くんは小さく笑った。

 大きく熱い手のひらがそっと僕の頬に触れる。優しく顔を持ち上げられ、千里くんが顔を寄せてくる。鼓動が駆けるように速くなっていく。

 海からの風が吹いて、唇よりも先に彼の匂いが鼻先に届く。制汗剤と汗のにおい。海によく似たその匂いを感じながら、僕はそっと目を閉じた。