「私、舞坂先輩のことが好きなんです」
その一言を飲み込むのにかなり時間がかかった。それになんとか飲み込めても理解はできない。
「えっと、何かの間違いじゃ……」
そう言いかけたが柚野の真剣な顔が嘘じゃないと言っている。本気なのか?自分でいうのもなんだけど……俺だそ?
「舞坂先輩は氷室先輩のことが好きだと思ってました」
「……なんで」
「私、部活で会わない時も先輩のこと探しちゃうんです。それでたまに2人を見かけて……氷室先輩といる時の先輩はコロコロ表情が変わる。楽しそうに笑ったり、不安そうに下を向いたり、嬉しそうに唇を噛み締めたり……きっと心が動いてるんだろうなって思ったんです」
自分では気付かなかった。そう見えるのか。
氷室を好きかと聞かれて、はい好きですと言い切れる自信はない。恋愛経験が乏しい俺には好きという気持ちがよくわからないし、考えようにも蝉の大合唱が俺の思考の邪魔をする。
柚野は俺の手を取った。
「でも違うなら、私にもチャンスがあるなら、」
柚野はそう区切ってから言った。
「私と付き合ってください」
◇
「マイマイ?おーいマイマイ!」
「うわっ、え?なに?」
「さっきからぼーっとしてどうした?」
勉強合宿当日。合宿場へ向かうバスに揺られながら俺は先週の出来事を思い出す。
人生初の告白はうれしさよりも戸惑いが勝った。
あの後、柚野はあたふたする俺を見て「返事はいつでも大丈夫ですよ」と穏やかに笑った。
さてどうするか。普通に考えて俺が柚野の告白を断る理由はない。天使みたいに優しくて優等生の柚野が地味で平々凡々な俺にお付き合いを申し込んでいるんだぞ!
……でも付き合うと考えるとどうにも腑に落ちないのは、
——「きっと心が動いてるんだろうなって思ったんです」
氷室がいるから?まさか俺は本当に氷室を……
「天気が心配ですねぇ」
立花の言葉に意識が戻る。
見ると、外はたしかに清々しい晴れというわけではなかった。
「雨は夜中に降るって天気予報言ってたからバーベキューはできそうだよ」
「そうですか、それは良かったです」
「なあ、てかなんで俺らこのバスなん?」
藍沢の指摘は俺も気になっていた。
先生にこのバスに乗るよう言われたが、周りには腕に実行委員の腕章を付けた生徒しかいない。これは1年生から3年生までの実行委員が乗るバスではないか?明らかに浮いている。
「なんか僕たち完全に場違いですよね?」
「先生間違えたんじゃないか?」
「ありえるな」と俺も共感する。おかげで俺たちは一番後ろの席の隅で小さくなっている始末だ。
「あなたたち、普通科の人?」
どうやら到着したようでしばらく待機していると長い黒髪の女子が俺たちの方へと向かってくる。
美人だけど……気が強そうだ。シャキッとした雰囲気に思わず縮こまった。
「あ、はいそうですけど」
「じゃあこれ、読んでおいてください」
渡された紙には『勉強合宿実行委員タイムスケジュール&役割表』という文字。
「あのー、実行委員じゃないですけど」
「分かっています。実行委員が足りてないので手伝ってください」
「な、なんで俺たちが……?」
「普通科だからです」
「え?」と顔を向けるとその女子は軽蔑の眼差しを投げ前へ戻っていった。どうやら俺たちに拒否権はないらしい。
理数科はプライドが高くて人を見下してる、というかつて俺が持っていた偏見は遠からず当たっていたようだ。
「ちゃんと俺たちの役割も書いてあるな」
藍沢はポツンと呟いた。
「しかも名前じゃなくて、『担当:普通科』って酷くないですか?」
「ふん、みんなバカにしやがって!」
拳を握りしめヒートアップしそうな気持ちを落ち着かせると、バスを降りる合図が出た。
早速段ボールを持たされ、外に出て見ると緑の匂いがふわりと香る。林間学校で行くキャンプ場って感じだ。ほとんど森。この大きな建物にはおそらく宿泊部屋やホールなどがあるんだろう。
施設の入り口の看板には大きく『ようこそ香陵高校理数科のみなさま』とあった。
「お!舞坂くんたちー!おはよ〜」
朝からさわやかな2人だ。伊月くんは手を振り、氷室は文庫本を片手にチラリとこちらを見た。
「おはよ、2人はこっちのバスだったんだね」
「うん!それよりみんな聞いてよー!氷室、俺が持ってきたチョコパイ勝手に食べたの!」
「いっぱいあったんだからいいだろ。カバンに入りきらなくて落ちてたし」
「ねぇみんなどう思う?ひどくなーい?」
「はいはい、お仲がよろしいようで!」
2人のくだらない言い争いはいつものことだ。藍沢はめんどくさそうに受け流す。
「ていうかそれ何持ってるのー?ダンボール?」
「さあ?さっき怖そうな女に手伝えって渡された」
藍沢は不貞腐れたように言う。
「怖そうな女?誰それ?」
「知らん!まったく俺たちは雑用係じゃねーっつうの!」
「まあまあ……あ!じゃあ俺たちは藍沢くんたちの荷物、部屋に運んどくよ」
「え」
伊月くんのありがたい提案に氷室は抗議の眼差しを向ける。
「じゃあよろしくな、ひーむろっ!」
藍沢はわざとらしく氷室の前にボストンバッグを置き、ウィンクをして去っていく。
「なんだあいつ……」
氷室くんはやれやれといった感じで本を閉じた。本の上から青いリボンがはみ出ている。
しおり、使ってくれてるんだ……
込み上げるうれしさに緩む口元がバレないよう、みんなから顔を逸らす。
「おい」
「な、なに?」
「カバン、持ってくぞ」
「あ、うん。サンキュー……」
氷室は軽々しくかばんをもってロビーへ向かう。
よしよし落ち着け俺。深呼吸をしよう。
勉強会場はプレイルームという名のほぼ体育館だ。まさに体育館と同じくらいの広さで一面にちゃぶ台が並んでいる。ひとテーブル5,6人で座るらしい。
「プリントが終わるごとに前に提出し、次のプリントへどんどん移ってください。全部終わった人からバーベキューに参加できます」
「おい待ってくれよ」
「こんなにたくさんなんて聞いてないですよぉ」
2人の言葉と同時にプリントに目を落とす。
「これほんとに普通科用の問題……?」
俺たち普通科組は頭を抱えた。前に並ぶ無数のプリントは30ページくらいあるのが1セットとしてホチキスで留めてあり、それが……軽く50くらいか。
「終わるわけないし、一生こっから出れない!」
放心状態の俺に伊月くんが肩をポンポンと叩く。
「そんなことないってー!俺たちも終わったら手伝うからさー、ね?元気出して?」
「なんで俺も手伝うことになってんだよ」
伊月くんの言葉にまたもや氷室くんは不満そうに言う。
「なんでって同じテーブルの仲間でしょー?それにどうせ氷室が一番早く終わるんだし、暇でしょ?」
「暇じゃない」
「てか伊月、理数科とは思えない髪色だけどお前勉強できんのかよ?」
藍沢はプリントをペラペラめくりながら聞いた。
「校則は茶髪までOKじゃん!でもそうだなー、たしかに勉強は普通かな?」
「じゃあ始めてくださいー」
先生の声にサッと空気が変わり、みんな一斉にペンを走らせた。
3時間ほどが経過した。
理数科の集中力は驚異的だ。みんなもれなく同じペースで問題を解き続けている。俺たちを含め普通科の面々はペンを置いたり、辺りを見渡していたり、わけもなく教科書をめくっていて、明らかにペースが落ちているのに。
意外だったのは伊月くんがかなり優秀だということ。勉強は普通と言っていたが理数科の中でも解くのが速い。普段の彼からは想像できない、いつになく真剣な表情に俺は素直に尊敬の念を抱く。
氷室は……メガネかけてる。俺がかけた日には陰キャ感に磨きがかかるだけだが、イケメンがかけるとなんとも色気のある雰囲気になるらしい。神様は不公平だ。
素早い手の動き、左右に反復する視線。薄暗いプレイルームなのになんとも神々しく氷室は光っていた。
「貴重品は持っていってください、バーベキュー場へはここから10分くらいです」
午後4時。ちらほらと終わる人が出てきて、時々楽しそうに外のバーベキュー場へと向かっていく声が聞こえてくる。
全学年の理数科120人くらいの中で、もちろん氷室は1番に終わり、伊月くんは5番に終わっていた。
いやめっちゃ優秀じゃん、伊月くん!
「どのくらい進んだー?」
「い、伊月……なんでこの量のプリントをやってそんな普通でいられるんだ……?」
「え?普通かなー?俺もけっこう疲れたよ」
「伊月くん、ここ教えてくれますか?」
「うん!もっちろん!」
「それが終わったら俺のも頼む……」
「はいはい」
藍沢と立花は一生懸命問題にかじりついている。
俺はというと……
「なにこのグラフ……へ、平方完成……?いや、そんなわけないか……公式……代入する、のか……」
三途の川が見えています。
「おい」
「……!?は、はいっ!」
鋭い声に浮遊していた魂が戻る。
「どこが分からない?」
「え?ぜ、全部……」
「まじかよ」
氷室は俺が持っていたシャーペンを奪い取り、グラフに線を入れ公式をスラスラと書き込んだ。
「yを求めるんだからy=だ。aを求めるのはこの公式」
「……なるほど、分かったかも!」
「これで解けばいいんだよね」
「そう」
「できた!氷室の説明分かりやすい!すばらしい!」
「はいはい、次の問題」
「これは……こうだよね」
「そう、できるじゃん」
いつのまにか楽しく問題を解いていた。氷室に「できるじゃん」と言われるとうれしくてどんどん手が進む。
俺は褒められて伸びるタイプなのかもしれない。
「うわー、やっと終わったー。マジ2人のおかげだわ」
バーベキュー場へ向かう道すがら藍沢は伸びをした。
「本当ですよぉ。氷室くんと伊月くんがいなかったらまだあのしめくさいプレイルームでしたよ」
「ええー?そんなに褒められると照れちゃうなー」
「へへっ」と伊月はわざとらしく頭を掻く。
でもたしかにそうだ。2人ははとっくに終わっていたのに、代わる代わる俺たちの勉強をみてくれた。2人の助けがなかったら朝まで勉強コースだっただろう。
「氷室もサンキュー、伊月と違って休憩ひとつ許さない鬼教師だったけど、意外と分かりやすかったぜ」
藍沢の毒入りの言葉に氷室は眉をひそめる。
「あ?」
「なんだよその顔。褒めてるんだぜ?素直に喜べ」
「お前に褒められてもうれしくない」
「まあまあ、みんな感謝してるってことですよぉ。さ、あと5分くらいでバーベキュー場に着きます。楽しみましょう!」
砂利道を俺たちは5人並んで歩いていく。
「じゃあみんな勉強会おつかれー!かんぱーい!」
勉強会が終わり、待ちに待ったバーベキューの時間だ。
たくさんの生徒ががいくつかのグループに分かれて、テントの下でそれぞれ肉を焼いている。
「ジュースは本部のテントにあるみたいですよぉ」
「取ってくるよ」
「おう、マイマイありがとなー」
この施設のバーベキュー場は1つだけではない。今いる所が1番大きいが、広場へと続く道を挟んだ隣とその奥にもいくつか小さなバーベキュー場がある。今も親子連れの人たちが何組か来ていて、盛り上がっていた。
「うわー俺がんばったわー、疲れた体にコーラが染みるなー」
藍沢はまるで仕事帰りのサラリーマンがお酒を飲むみたいに言う。
「藍沢くん途中で寝てたじゃないですか」
「だって、隣の氷室たちがありえない速さで問題解くんだもん。やる気なくすわー。てか、そういう立花も寝てただろ」
「僕は集中するために瞑想してただけですよ」
「まあまあー、舞坂くんも寝てたし、勉強なんてどうでもいいじゃん?」
伊月はそう言って肉を口に運ぶ。あんなはやくプリントを終わらせといてよく言うよ。
「俺は途中で数式に酔ってちょっと休んでただけ」
「えらそうだなマイマイ。いちばんプリント進んでなかったくせにー」
「はぁー?寝るよりマシだろ?」
「寝てた藍沢くんにプリント進んでなかった舞坂くん。普通科の中では僕が1番優秀ということですねぇ」
「そんなことない!」
「ふっ」
火花を散らしていると氷室の声が割って入る。
「……なんだよ氷室」
「どんぐりの背比べだな」
「はあー?」
「なんだと?」
「僕たちをバカにしましたね?」
俺たちの猛攻撃を気にすることなく、氷室は野菜を焼き続ける。伊月くんはその様子をみてケラケラ笑っていた。そんなこんなでしばらくみんなでバーベキューをする。
……楽しい
みんなの輪に自然に溶け込んでいる自分、みんなと一緒にいる自分。俺は初めて自分を好きなれると思った。
きっとこの日を俺は未来永劫思い出すことだろう。まさに青春の1ページ、そんな気がした。
「おい、そこに虫がいるぞ」
椎茸をかじっていると、氷室は俺の顔付近を指差した。
次の瞬間、黒い物体が視界を通過する。
むし?ムシ?虫っっ!?
「うわぁ!!」
虫にビビって避けた拍子に机の脚に足をぶつけた。衝撃が足にジーンと響く。
「痛った!!」
パシャンっ
続いて机の上にあったオレンジジュースがこぼれて、服にかかった。
次から次へと大惨事、またやってしまったか。
「おわっ!ご、ごめん」
「おい大丈夫か?」
「あ、うん、大丈夫大丈夫。軽くかかっただけだから」
氷室は「まったく……」と立花から受け取ったティッシュで俺のジャージを拭く。ふわりと髪からいい匂いがした。
距離が……近いな。
「他は濡れてないか?」
「おおっ、あ、うん」
覗き込まれてサッと距離をとる。危ない危ない。
「舞坂くんー?大丈夫ー?」
伊月くんがどっかから大量のウエットテッシュを持ってきてくれたようだ。優しさに心があったまった。
午後7時前。空が藍色に染まってきた。
「おいマイマイ、あれさっきの」
「ん?うわほんとだ」
藍沢は小声で遠くを指差す。見ると朝のバスにいた気の強そうな女子がこちらに歩いてくる。
伊月くんの肩を持って後ろに隠れると「なになに?どうしたの?」と伊月くんは不思議そうな顔をした。
「あれだよ!朝言ってた怖そうな女!」
「あれ?綾瀬さんじゃん、やっほー!こっちこっち!」
伊月くんは振り向き、無邪気に手を振る。
「紹介するね!こちら綾瀬百合さん。うちのクラスの委員長だよー」
「よろしく」
「あ、よろしくお願いします……」
俺たちは小さく頭を下げる。
「で、綾瀬さんどうしたのー?」
「普通科の子たちに用があるの。借りても?」
「うん!いいよー」
「じゃあ3人は奥の広場に来てください」
指示を受け綾瀬さんに連なっていくと彼女はなぜか氷室の前で足を止める。
「今年も氷室くんがプリント1番に終わったのね」
「まあ」
「やっぱり。悔しいけどさすがね」
「……どうも」
それだけ言って綾瀬さんは再び歩きだした。
なに今の?
氷室は残った炭でマシュマロを焼いていて、特になんとも思ってなさそうだった。
「それで、えっと、俺たちは何を?」
バーベキュー場から5分ほどの広場に着くと、実行委員たちが忙しそうに行き交っていた。
「この後の実行委員企画のイベントなんですが、雨雲が近づいてるみたいで中止になりました」
「そう、ですか」
「それでここにある荷物をいったん近くの仮小屋に移すことになったのでお願いします」
「はあ」
「では、私は向こうにいるので何かあったら呼んでください」
「……ちぇっ。こき使いやがって」
「ちょっと藍沢、聞こえるって」
藍沢を宥めつつ、俺たちは言われた通りにスピーカーやマイクなどの電子機器を優先的に道の反対側の仮小屋へと運んでいた。
ここ芝生の広場は、大きなキャンプ施設の最も奥に位置し、施設の入り口へ向かって5分ほど歩くとさっきいたバーベキュー場へ、さらに10分ほど歩くと入口入ってすぐの宿泊施設に着く。
「よいしょっと……う、わぁ!」
やばい、転ぶ。
せめてスピーカーだけでも守らなければ……
スピーカーを胸に抱え、覚悟を決めて目をつぶったけど衝撃波はこない。
あれ?
「……は!よかったー!両手が空いてて!君だいじょうぶ?」
「え?あ、ありがとうございます」
小動物のような小柄の可愛いらしい女の子。腕には実行委員の腕章を付けていた。
「気をつけてね!これ意外に重いから」
俺はそれだけ言って去っていく揺れるポニーテールを見送った。
「濡れるとダメなやつはひと通り運び終わったので、雨が降る前に宿泊施設に戻りましょう」
かれこれ20分ほど仮小屋と広場を往復していた。気付くと空は厚い雲に覆い尽くされ、急に肌寒く感じる。
「お疲れ様です、舞坂くん……大丈夫ですか?」
「……おつかれ」
「マイマイ顔死んでるぞ」
普段使わない筋肉をフル活動して体が悲鳴を上げている。明日は筋肉痛間違いない。
「あ、そうそう。伊月くんから連絡です。バーベキュー場の人たちは先にみんな宿泊施設に戻ったみたいです」
スマホを開くとグループLINEに氷室と肩を組んでピースをする伊月くんの写真が送られていた。
伊月くん、絶対無理やり撮ったでしょ。
氷室のうざそうな顔を見て俺は思わず吹き出した。
「……まもなく雨が降ります、だって」
天気予報は外れたようだ。夜中に降るって言ってたのに。
「マジか、施設まで走る?」
「いいですねぇ」
正気か?こんなに動いてまだ走る体力が残っているのか。
「俺はゆっくり行くよ」
2人は「お先!」とロケットの如く走り出した。
山の天気は変わりやすい。
芝生の広場からもう少しでバーベキュー場に着くという所で急に雨がザーッと降り出した。
「うわっ寒っ!」
「傘持ってきててよかったー」
「早く帰ろう」
事前に雨が降るのではと思われていたので、みんな傘を差して早足でバーベキュー場を通り過ぎ、そのまま宿泊施設へと向かう。次第に風も吹き始める。
「……最悪」
俺は不運の申し子か。なんでこのタイミングで傘が!
「傘、ないの?」
実行委員の群れのかなり後ろを1人歩いていた俺は、突然の声に足が止まる。
「あれ?さっきの普通科の子でしょ!」
ポニーテールの彼女はぼっちな俺を気にかけて来てくれたらしい。
「あ、傘が壊れちゃって……ボロい折りたたみなんでしょうがないですね」
「入ってきなよ、濡れちゃうよ」
「ありがとうございます……」と俺は控えめに傘に入れてもらう事にした。
「君、名前は?」
「……舞坂広です」
「2年生でしょ?タメだね!敬語はなしで!私は藤田雫ね。よろしく!」
「よろしく」と小さく頭を下げる。
「舞坂くんってさ、最近うちのクラスの子と仲いいでしょ?」
「まあ……そこそこ」
この子も氷室のファンなのか?下手なことは言わない方がいいな。
「そこそこなの!?瑠偉が聞いたら悲しむなーははっ」
「瑠偉……ああ、伊月くん?」
「そうそう、私の彼氏ね」
「へぇ……ええ!?」
「あれ?聞いてなかったの?」
たしかに雰囲気が似ていると思った。藤田さんは驚く俺を見て「言ってなかったのね。ああ見えて照れ屋だからなー瑠偉は」とケラケラ笑っていた。
「それよりさー?舞坂くんって氷室くんのことどう思ってるの?」
「はあ!?」
「お、その反応は何かあるなー?わかっちゃうんだなー私には」
ふふんと鼻を鳴らす藤田さんは俺をキラキラした目で見る。元気だな、この子。
「け、結構雨がすごいね。豪雨レベルになるかも……なんて!ははは……」
「ちょっと話逸らさないでよー!」
俺たちが宿泊施設へ到着した頃には、本当に豪雨レベルの雨と風。雷も鳴っていた。歩いて来た道を振り返って見ると、真っ暗闇の中に木がザワザワと揺れていて恐ろしい。
「舞坂くんおかえりー!あれ?雫もいるじゃん!」
先に戻っていた伊月くんは俺たちにタオルを手渡して言った。
「舞坂くんと仲良くなったのー!ね?」
「あ、うん。藤田さんの傘に入れてもらって」
伊月くんは「へぇー」と笑みを浮かべる。こう見るとやっぱり似ている2人。セットで見るとしっくりくるな。
「藤田さんって呼び方なんか距離があるなー、友達なんだしこれからは雫で!また恋バナしよ!」
藤田さん、じゃなくて雫は俺たちにに手を振り、女子棟へ走っていった。
「ごめんね舞坂くん、あいつちょっと猪突猛進なとこあるからさー」
そう言いながらも伊月くんは心底うれしそうだった。 全くカップルというやつは……!
「おー!マイマイ!やっと来たー」
「遅いですよぉ」
藍沢と立花が濡れた髪をタオルで拭きながらやってくる。
ん……?
「あれ?氷室は?」
「え、マイマイ氷室に会ってないのか?」
嫌な予感がした。
「いや、会ってないけど……」
さっと空気が変わり、みんなの表情が曇る。
なに?どういうことだ?氷室が……いない?
「舞坂くんが着く10分くらい前に氷室、バーベキュー場に忘れ物があるからって取り行ったんだ」
説明する伊月くんの顔からみるみる笑顔が消えていく。
まさかこの雨の中?そんな大切な忘れ物なのか?
「たぶん戻ってくる舞坂くんと合流できるから、一緒に帰ってくるって言ってたけど……」
そんなはずはない。バーベキュー場を通ったけど見渡す限り人はいなかった。
「もしかして……迷子?」
「伊月!」
野田先生が走ってこっちへ向かってくる。
「さっき点呼をとったんだが、1人足りない。何か知ってるか?」
「氷室です。忘れ物を取りに行ったんですが……」
「氷室が……?この豪雨の中じゃ我々も探しには行けない。救助を要請するからお前らは部屋で待ってろ、20分くらいで着く」
「わかりました」
20分?20分もかかるのか?
ポケットからスマホを取り出す。雨雲レーダーを見ると、10分後にさらに激しい雨とある。
20分も何もできないのか。
氷室はこの豪雨の中、どこかで迷って助けを求めてるかもしれないのに?
「氷室のやつ……大丈夫か?こんな真っ暗闇なのに」
暗闇という言葉が脳内にこびりつく。
真っ暗闇……暗闇……暗い所……
—— 「……電気」
——「悪い……ちょっとつまづいただけだ」
あの時感じていた違和感が蘇る。絡まっていた糸が解けるようにあることが頭に浮かんできた。
氷室は、暗闇が苦手……?
心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
暗い外。激しく音を立てる風、強く打ち付ける雨。時折光る雷。
俺に何かできるだろうか。氷室のために何か……
—— 「そのくだらない遊びいつ終わんの?さっさと退け、そこは俺らの場所だ」
あの日、中庭に颯爽と現れた氷室はまさにヒーローそのものだった。
もうずいぶん前に諦めた、消えかけの夢。自分の存在を証明する武器を持って輝く夢。
俺にだって……俺だって……
窓には風で飛んできた葉っぱや小さな木の枝が当たり時折バチバチと音を立てていた。
「施設にいる皆さん、班長の指示に従って全員宿泊部屋に戻ってください」
館内放送の声が遠くに聞こえる。
俺は窓に反射して映る自分を見つめた。
氷室を、助けたい。
今この瞬間、俺が勇気を出す時だ。
【第4話】勉強合宿・前編 完
その一言を飲み込むのにかなり時間がかかった。それになんとか飲み込めても理解はできない。
「えっと、何かの間違いじゃ……」
そう言いかけたが柚野の真剣な顔が嘘じゃないと言っている。本気なのか?自分でいうのもなんだけど……俺だそ?
「舞坂先輩は氷室先輩のことが好きだと思ってました」
「……なんで」
「私、部活で会わない時も先輩のこと探しちゃうんです。それでたまに2人を見かけて……氷室先輩といる時の先輩はコロコロ表情が変わる。楽しそうに笑ったり、不安そうに下を向いたり、嬉しそうに唇を噛み締めたり……きっと心が動いてるんだろうなって思ったんです」
自分では気付かなかった。そう見えるのか。
氷室を好きかと聞かれて、はい好きですと言い切れる自信はない。恋愛経験が乏しい俺には好きという気持ちがよくわからないし、考えようにも蝉の大合唱が俺の思考の邪魔をする。
柚野は俺の手を取った。
「でも違うなら、私にもチャンスがあるなら、」
柚野はそう区切ってから言った。
「私と付き合ってください」
◇
「マイマイ?おーいマイマイ!」
「うわっ、え?なに?」
「さっきからぼーっとしてどうした?」
勉強合宿当日。合宿場へ向かうバスに揺られながら俺は先週の出来事を思い出す。
人生初の告白はうれしさよりも戸惑いが勝った。
あの後、柚野はあたふたする俺を見て「返事はいつでも大丈夫ですよ」と穏やかに笑った。
さてどうするか。普通に考えて俺が柚野の告白を断る理由はない。天使みたいに優しくて優等生の柚野が地味で平々凡々な俺にお付き合いを申し込んでいるんだぞ!
……でも付き合うと考えるとどうにも腑に落ちないのは、
——「きっと心が動いてるんだろうなって思ったんです」
氷室がいるから?まさか俺は本当に氷室を……
「天気が心配ですねぇ」
立花の言葉に意識が戻る。
見ると、外はたしかに清々しい晴れというわけではなかった。
「雨は夜中に降るって天気予報言ってたからバーベキューはできそうだよ」
「そうですか、それは良かったです」
「なあ、てかなんで俺らこのバスなん?」
藍沢の指摘は俺も気になっていた。
先生にこのバスに乗るよう言われたが、周りには腕に実行委員の腕章を付けた生徒しかいない。これは1年生から3年生までの実行委員が乗るバスではないか?明らかに浮いている。
「なんか僕たち完全に場違いですよね?」
「先生間違えたんじゃないか?」
「ありえるな」と俺も共感する。おかげで俺たちは一番後ろの席の隅で小さくなっている始末だ。
「あなたたち、普通科の人?」
どうやら到着したようでしばらく待機していると長い黒髪の女子が俺たちの方へと向かってくる。
美人だけど……気が強そうだ。シャキッとした雰囲気に思わず縮こまった。
「あ、はいそうですけど」
「じゃあこれ、読んでおいてください」
渡された紙には『勉強合宿実行委員タイムスケジュール&役割表』という文字。
「あのー、実行委員じゃないですけど」
「分かっています。実行委員が足りてないので手伝ってください」
「な、なんで俺たちが……?」
「普通科だからです」
「え?」と顔を向けるとその女子は軽蔑の眼差しを投げ前へ戻っていった。どうやら俺たちに拒否権はないらしい。
理数科はプライドが高くて人を見下してる、というかつて俺が持っていた偏見は遠からず当たっていたようだ。
「ちゃんと俺たちの役割も書いてあるな」
藍沢はポツンと呟いた。
「しかも名前じゃなくて、『担当:普通科』って酷くないですか?」
「ふん、みんなバカにしやがって!」
拳を握りしめヒートアップしそうな気持ちを落ち着かせると、バスを降りる合図が出た。
早速段ボールを持たされ、外に出て見ると緑の匂いがふわりと香る。林間学校で行くキャンプ場って感じだ。ほとんど森。この大きな建物にはおそらく宿泊部屋やホールなどがあるんだろう。
施設の入り口の看板には大きく『ようこそ香陵高校理数科のみなさま』とあった。
「お!舞坂くんたちー!おはよ〜」
朝からさわやかな2人だ。伊月くんは手を振り、氷室は文庫本を片手にチラリとこちらを見た。
「おはよ、2人はこっちのバスだったんだね」
「うん!それよりみんな聞いてよー!氷室、俺が持ってきたチョコパイ勝手に食べたの!」
「いっぱいあったんだからいいだろ。カバンに入りきらなくて落ちてたし」
「ねぇみんなどう思う?ひどくなーい?」
「はいはい、お仲がよろしいようで!」
2人のくだらない言い争いはいつものことだ。藍沢はめんどくさそうに受け流す。
「ていうかそれ何持ってるのー?ダンボール?」
「さあ?さっき怖そうな女に手伝えって渡された」
藍沢は不貞腐れたように言う。
「怖そうな女?誰それ?」
「知らん!まったく俺たちは雑用係じゃねーっつうの!」
「まあまあ……あ!じゃあ俺たちは藍沢くんたちの荷物、部屋に運んどくよ」
「え」
伊月くんのありがたい提案に氷室は抗議の眼差しを向ける。
「じゃあよろしくな、ひーむろっ!」
藍沢はわざとらしく氷室の前にボストンバッグを置き、ウィンクをして去っていく。
「なんだあいつ……」
氷室くんはやれやれといった感じで本を閉じた。本の上から青いリボンがはみ出ている。
しおり、使ってくれてるんだ……
込み上げるうれしさに緩む口元がバレないよう、みんなから顔を逸らす。
「おい」
「な、なに?」
「カバン、持ってくぞ」
「あ、うん。サンキュー……」
氷室は軽々しくかばんをもってロビーへ向かう。
よしよし落ち着け俺。深呼吸をしよう。
勉強会場はプレイルームという名のほぼ体育館だ。まさに体育館と同じくらいの広さで一面にちゃぶ台が並んでいる。ひとテーブル5,6人で座るらしい。
「プリントが終わるごとに前に提出し、次のプリントへどんどん移ってください。全部終わった人からバーベキューに参加できます」
「おい待ってくれよ」
「こんなにたくさんなんて聞いてないですよぉ」
2人の言葉と同時にプリントに目を落とす。
「これほんとに普通科用の問題……?」
俺たち普通科組は頭を抱えた。前に並ぶ無数のプリントは30ページくらいあるのが1セットとしてホチキスで留めてあり、それが……軽く50くらいか。
「終わるわけないし、一生こっから出れない!」
放心状態の俺に伊月くんが肩をポンポンと叩く。
「そんなことないってー!俺たちも終わったら手伝うからさー、ね?元気出して?」
「なんで俺も手伝うことになってんだよ」
伊月くんの言葉にまたもや氷室くんは不満そうに言う。
「なんでって同じテーブルの仲間でしょー?それにどうせ氷室が一番早く終わるんだし、暇でしょ?」
「暇じゃない」
「てか伊月、理数科とは思えない髪色だけどお前勉強できんのかよ?」
藍沢はプリントをペラペラめくりながら聞いた。
「校則は茶髪までOKじゃん!でもそうだなー、たしかに勉強は普通かな?」
「じゃあ始めてくださいー」
先生の声にサッと空気が変わり、みんな一斉にペンを走らせた。
3時間ほどが経過した。
理数科の集中力は驚異的だ。みんなもれなく同じペースで問題を解き続けている。俺たちを含め普通科の面々はペンを置いたり、辺りを見渡していたり、わけもなく教科書をめくっていて、明らかにペースが落ちているのに。
意外だったのは伊月くんがかなり優秀だということ。勉強は普通と言っていたが理数科の中でも解くのが速い。普段の彼からは想像できない、いつになく真剣な表情に俺は素直に尊敬の念を抱く。
氷室は……メガネかけてる。俺がかけた日には陰キャ感に磨きがかかるだけだが、イケメンがかけるとなんとも色気のある雰囲気になるらしい。神様は不公平だ。
素早い手の動き、左右に反復する視線。薄暗いプレイルームなのになんとも神々しく氷室は光っていた。
「貴重品は持っていってください、バーベキュー場へはここから10分くらいです」
午後4時。ちらほらと終わる人が出てきて、時々楽しそうに外のバーベキュー場へと向かっていく声が聞こえてくる。
全学年の理数科120人くらいの中で、もちろん氷室は1番に終わり、伊月くんは5番に終わっていた。
いやめっちゃ優秀じゃん、伊月くん!
「どのくらい進んだー?」
「い、伊月……なんでこの量のプリントをやってそんな普通でいられるんだ……?」
「え?普通かなー?俺もけっこう疲れたよ」
「伊月くん、ここ教えてくれますか?」
「うん!もっちろん!」
「それが終わったら俺のも頼む……」
「はいはい」
藍沢と立花は一生懸命問題にかじりついている。
俺はというと……
「なにこのグラフ……へ、平方完成……?いや、そんなわけないか……公式……代入する、のか……」
三途の川が見えています。
「おい」
「……!?は、はいっ!」
鋭い声に浮遊していた魂が戻る。
「どこが分からない?」
「え?ぜ、全部……」
「まじかよ」
氷室は俺が持っていたシャーペンを奪い取り、グラフに線を入れ公式をスラスラと書き込んだ。
「yを求めるんだからy=だ。aを求めるのはこの公式」
「……なるほど、分かったかも!」
「これで解けばいいんだよね」
「そう」
「できた!氷室の説明分かりやすい!すばらしい!」
「はいはい、次の問題」
「これは……こうだよね」
「そう、できるじゃん」
いつのまにか楽しく問題を解いていた。氷室に「できるじゃん」と言われるとうれしくてどんどん手が進む。
俺は褒められて伸びるタイプなのかもしれない。
「うわー、やっと終わったー。マジ2人のおかげだわ」
バーベキュー場へ向かう道すがら藍沢は伸びをした。
「本当ですよぉ。氷室くんと伊月くんがいなかったらまだあのしめくさいプレイルームでしたよ」
「ええー?そんなに褒められると照れちゃうなー」
「へへっ」と伊月はわざとらしく頭を掻く。
でもたしかにそうだ。2人ははとっくに終わっていたのに、代わる代わる俺たちの勉強をみてくれた。2人の助けがなかったら朝まで勉強コースだっただろう。
「氷室もサンキュー、伊月と違って休憩ひとつ許さない鬼教師だったけど、意外と分かりやすかったぜ」
藍沢の毒入りの言葉に氷室は眉をひそめる。
「あ?」
「なんだよその顔。褒めてるんだぜ?素直に喜べ」
「お前に褒められてもうれしくない」
「まあまあ、みんな感謝してるってことですよぉ。さ、あと5分くらいでバーベキュー場に着きます。楽しみましょう!」
砂利道を俺たちは5人並んで歩いていく。
「じゃあみんな勉強会おつかれー!かんぱーい!」
勉強会が終わり、待ちに待ったバーベキューの時間だ。
たくさんの生徒ががいくつかのグループに分かれて、テントの下でそれぞれ肉を焼いている。
「ジュースは本部のテントにあるみたいですよぉ」
「取ってくるよ」
「おう、マイマイありがとなー」
この施設のバーベキュー場は1つだけではない。今いる所が1番大きいが、広場へと続く道を挟んだ隣とその奥にもいくつか小さなバーベキュー場がある。今も親子連れの人たちが何組か来ていて、盛り上がっていた。
「うわー俺がんばったわー、疲れた体にコーラが染みるなー」
藍沢はまるで仕事帰りのサラリーマンがお酒を飲むみたいに言う。
「藍沢くん途中で寝てたじゃないですか」
「だって、隣の氷室たちがありえない速さで問題解くんだもん。やる気なくすわー。てか、そういう立花も寝てただろ」
「僕は集中するために瞑想してただけですよ」
「まあまあー、舞坂くんも寝てたし、勉強なんてどうでもいいじゃん?」
伊月はそう言って肉を口に運ぶ。あんなはやくプリントを終わらせといてよく言うよ。
「俺は途中で数式に酔ってちょっと休んでただけ」
「えらそうだなマイマイ。いちばんプリント進んでなかったくせにー」
「はぁー?寝るよりマシだろ?」
「寝てた藍沢くんにプリント進んでなかった舞坂くん。普通科の中では僕が1番優秀ということですねぇ」
「そんなことない!」
「ふっ」
火花を散らしていると氷室の声が割って入る。
「……なんだよ氷室」
「どんぐりの背比べだな」
「はあー?」
「なんだと?」
「僕たちをバカにしましたね?」
俺たちの猛攻撃を気にすることなく、氷室は野菜を焼き続ける。伊月くんはその様子をみてケラケラ笑っていた。そんなこんなでしばらくみんなでバーベキューをする。
……楽しい
みんなの輪に自然に溶け込んでいる自分、みんなと一緒にいる自分。俺は初めて自分を好きなれると思った。
きっとこの日を俺は未来永劫思い出すことだろう。まさに青春の1ページ、そんな気がした。
「おい、そこに虫がいるぞ」
椎茸をかじっていると、氷室は俺の顔付近を指差した。
次の瞬間、黒い物体が視界を通過する。
むし?ムシ?虫っっ!?
「うわぁ!!」
虫にビビって避けた拍子に机の脚に足をぶつけた。衝撃が足にジーンと響く。
「痛った!!」
パシャンっ
続いて机の上にあったオレンジジュースがこぼれて、服にかかった。
次から次へと大惨事、またやってしまったか。
「おわっ!ご、ごめん」
「おい大丈夫か?」
「あ、うん、大丈夫大丈夫。軽くかかっただけだから」
氷室は「まったく……」と立花から受け取ったティッシュで俺のジャージを拭く。ふわりと髪からいい匂いがした。
距離が……近いな。
「他は濡れてないか?」
「おおっ、あ、うん」
覗き込まれてサッと距離をとる。危ない危ない。
「舞坂くんー?大丈夫ー?」
伊月くんがどっかから大量のウエットテッシュを持ってきてくれたようだ。優しさに心があったまった。
午後7時前。空が藍色に染まってきた。
「おいマイマイ、あれさっきの」
「ん?うわほんとだ」
藍沢は小声で遠くを指差す。見ると朝のバスにいた気の強そうな女子がこちらに歩いてくる。
伊月くんの肩を持って後ろに隠れると「なになに?どうしたの?」と伊月くんは不思議そうな顔をした。
「あれだよ!朝言ってた怖そうな女!」
「あれ?綾瀬さんじゃん、やっほー!こっちこっち!」
伊月くんは振り向き、無邪気に手を振る。
「紹介するね!こちら綾瀬百合さん。うちのクラスの委員長だよー」
「よろしく」
「あ、よろしくお願いします……」
俺たちは小さく頭を下げる。
「で、綾瀬さんどうしたのー?」
「普通科の子たちに用があるの。借りても?」
「うん!いいよー」
「じゃあ3人は奥の広場に来てください」
指示を受け綾瀬さんに連なっていくと彼女はなぜか氷室の前で足を止める。
「今年も氷室くんがプリント1番に終わったのね」
「まあ」
「やっぱり。悔しいけどさすがね」
「……どうも」
それだけ言って綾瀬さんは再び歩きだした。
なに今の?
氷室は残った炭でマシュマロを焼いていて、特になんとも思ってなさそうだった。
「それで、えっと、俺たちは何を?」
バーベキュー場から5分ほどの広場に着くと、実行委員たちが忙しそうに行き交っていた。
「この後の実行委員企画のイベントなんですが、雨雲が近づいてるみたいで中止になりました」
「そう、ですか」
「それでここにある荷物をいったん近くの仮小屋に移すことになったのでお願いします」
「はあ」
「では、私は向こうにいるので何かあったら呼んでください」
「……ちぇっ。こき使いやがって」
「ちょっと藍沢、聞こえるって」
藍沢を宥めつつ、俺たちは言われた通りにスピーカーやマイクなどの電子機器を優先的に道の反対側の仮小屋へと運んでいた。
ここ芝生の広場は、大きなキャンプ施設の最も奥に位置し、施設の入り口へ向かって5分ほど歩くとさっきいたバーベキュー場へ、さらに10分ほど歩くと入口入ってすぐの宿泊施設に着く。
「よいしょっと……う、わぁ!」
やばい、転ぶ。
せめてスピーカーだけでも守らなければ……
スピーカーを胸に抱え、覚悟を決めて目をつぶったけど衝撃波はこない。
あれ?
「……は!よかったー!両手が空いてて!君だいじょうぶ?」
「え?あ、ありがとうございます」
小動物のような小柄の可愛いらしい女の子。腕には実行委員の腕章を付けていた。
「気をつけてね!これ意外に重いから」
俺はそれだけ言って去っていく揺れるポニーテールを見送った。
「濡れるとダメなやつはひと通り運び終わったので、雨が降る前に宿泊施設に戻りましょう」
かれこれ20分ほど仮小屋と広場を往復していた。気付くと空は厚い雲に覆い尽くされ、急に肌寒く感じる。
「お疲れ様です、舞坂くん……大丈夫ですか?」
「……おつかれ」
「マイマイ顔死んでるぞ」
普段使わない筋肉をフル活動して体が悲鳴を上げている。明日は筋肉痛間違いない。
「あ、そうそう。伊月くんから連絡です。バーベキュー場の人たちは先にみんな宿泊施設に戻ったみたいです」
スマホを開くとグループLINEに氷室と肩を組んでピースをする伊月くんの写真が送られていた。
伊月くん、絶対無理やり撮ったでしょ。
氷室のうざそうな顔を見て俺は思わず吹き出した。
「……まもなく雨が降ります、だって」
天気予報は外れたようだ。夜中に降るって言ってたのに。
「マジか、施設まで走る?」
「いいですねぇ」
正気か?こんなに動いてまだ走る体力が残っているのか。
「俺はゆっくり行くよ」
2人は「お先!」とロケットの如く走り出した。
山の天気は変わりやすい。
芝生の広場からもう少しでバーベキュー場に着くという所で急に雨がザーッと降り出した。
「うわっ寒っ!」
「傘持ってきててよかったー」
「早く帰ろう」
事前に雨が降るのではと思われていたので、みんな傘を差して早足でバーベキュー場を通り過ぎ、そのまま宿泊施設へと向かう。次第に風も吹き始める。
「……最悪」
俺は不運の申し子か。なんでこのタイミングで傘が!
「傘、ないの?」
実行委員の群れのかなり後ろを1人歩いていた俺は、突然の声に足が止まる。
「あれ?さっきの普通科の子でしょ!」
ポニーテールの彼女はぼっちな俺を気にかけて来てくれたらしい。
「あ、傘が壊れちゃって……ボロい折りたたみなんでしょうがないですね」
「入ってきなよ、濡れちゃうよ」
「ありがとうございます……」と俺は控えめに傘に入れてもらう事にした。
「君、名前は?」
「……舞坂広です」
「2年生でしょ?タメだね!敬語はなしで!私は藤田雫ね。よろしく!」
「よろしく」と小さく頭を下げる。
「舞坂くんってさ、最近うちのクラスの子と仲いいでしょ?」
「まあ……そこそこ」
この子も氷室のファンなのか?下手なことは言わない方がいいな。
「そこそこなの!?瑠偉が聞いたら悲しむなーははっ」
「瑠偉……ああ、伊月くん?」
「そうそう、私の彼氏ね」
「へぇ……ええ!?」
「あれ?聞いてなかったの?」
たしかに雰囲気が似ていると思った。藤田さんは驚く俺を見て「言ってなかったのね。ああ見えて照れ屋だからなー瑠偉は」とケラケラ笑っていた。
「それよりさー?舞坂くんって氷室くんのことどう思ってるの?」
「はあ!?」
「お、その反応は何かあるなー?わかっちゃうんだなー私には」
ふふんと鼻を鳴らす藤田さんは俺をキラキラした目で見る。元気だな、この子。
「け、結構雨がすごいね。豪雨レベルになるかも……なんて!ははは……」
「ちょっと話逸らさないでよー!」
俺たちが宿泊施設へ到着した頃には、本当に豪雨レベルの雨と風。雷も鳴っていた。歩いて来た道を振り返って見ると、真っ暗闇の中に木がザワザワと揺れていて恐ろしい。
「舞坂くんおかえりー!あれ?雫もいるじゃん!」
先に戻っていた伊月くんは俺たちにタオルを手渡して言った。
「舞坂くんと仲良くなったのー!ね?」
「あ、うん。藤田さんの傘に入れてもらって」
伊月くんは「へぇー」と笑みを浮かべる。こう見るとやっぱり似ている2人。セットで見るとしっくりくるな。
「藤田さんって呼び方なんか距離があるなー、友達なんだしこれからは雫で!また恋バナしよ!」
藤田さん、じゃなくて雫は俺たちにに手を振り、女子棟へ走っていった。
「ごめんね舞坂くん、あいつちょっと猪突猛進なとこあるからさー」
そう言いながらも伊月くんは心底うれしそうだった。 全くカップルというやつは……!
「おー!マイマイ!やっと来たー」
「遅いですよぉ」
藍沢と立花が濡れた髪をタオルで拭きながらやってくる。
ん……?
「あれ?氷室は?」
「え、マイマイ氷室に会ってないのか?」
嫌な予感がした。
「いや、会ってないけど……」
さっと空気が変わり、みんなの表情が曇る。
なに?どういうことだ?氷室が……いない?
「舞坂くんが着く10分くらい前に氷室、バーベキュー場に忘れ物があるからって取り行ったんだ」
説明する伊月くんの顔からみるみる笑顔が消えていく。
まさかこの雨の中?そんな大切な忘れ物なのか?
「たぶん戻ってくる舞坂くんと合流できるから、一緒に帰ってくるって言ってたけど……」
そんなはずはない。バーベキュー場を通ったけど見渡す限り人はいなかった。
「もしかして……迷子?」
「伊月!」
野田先生が走ってこっちへ向かってくる。
「さっき点呼をとったんだが、1人足りない。何か知ってるか?」
「氷室です。忘れ物を取りに行ったんですが……」
「氷室が……?この豪雨の中じゃ我々も探しには行けない。救助を要請するからお前らは部屋で待ってろ、20分くらいで着く」
「わかりました」
20分?20分もかかるのか?
ポケットからスマホを取り出す。雨雲レーダーを見ると、10分後にさらに激しい雨とある。
20分も何もできないのか。
氷室はこの豪雨の中、どこかで迷って助けを求めてるかもしれないのに?
「氷室のやつ……大丈夫か?こんな真っ暗闇なのに」
暗闇という言葉が脳内にこびりつく。
真っ暗闇……暗闇……暗い所……
—— 「……電気」
——「悪い……ちょっとつまづいただけだ」
あの時感じていた違和感が蘇る。絡まっていた糸が解けるようにあることが頭に浮かんできた。
氷室は、暗闇が苦手……?
心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
暗い外。激しく音を立てる風、強く打ち付ける雨。時折光る雷。
俺に何かできるだろうか。氷室のために何か……
—— 「そのくだらない遊びいつ終わんの?さっさと退け、そこは俺らの場所だ」
あの日、中庭に颯爽と現れた氷室はまさにヒーローそのものだった。
もうずいぶん前に諦めた、消えかけの夢。自分の存在を証明する武器を持って輝く夢。
俺にだって……俺だって……
窓には風で飛んできた葉っぱや小さな木の枝が当たり時折バチバチと音を立てていた。
「施設にいる皆さん、班長の指示に従って全員宿泊部屋に戻ってください」
館内放送の声が遠くに聞こえる。
俺は窓に反射して映る自分を見つめた。
氷室を、助けたい。
今この瞬間、俺が勇気を出す時だ。
【第4話】勉強合宿・前編 完
