「私、舞坂先輩のことが好きなんです」
その一言を飲み込むのにかなり時間がかかった。それになんとか飲み込めても理解はできない。中庭のど真ん中、オレと柚野は向かい合っている。
「えっと、何かの間違いじゃ……」
そう言いかけたが柚野の真剣な顔が嘘じゃないと言っていた。本気なのか?自分でいうのもなんだけど……オレだぞ?
「舞坂先輩は氷室先輩のことが好きだと思ってました」
「……どうして?」
「たまに廊下で2人を見かけるんです。氷室先輩といる時の先輩はいつもと違くて……コロコロ表情が変わる。楽しそうに笑ったり、不安そうに下を向いたり、嬉しそうに唇を噛み締めたり……きっと心が動いてるんだろうなって思ったんです」
自分では気付かなかった。そう見えるのか。
氷室くんを好きかと聞かれて、はい好きですと言い切れる自信はない。恋愛経験が乏しいオレには好きという気持ちがよくわからないし、考えようにも蝉の大合唱がオレの思考の邪魔をする。
柚野はオレの手を取った。握りしめられた手に伝わるのは優しいけど強い意志だった。
「でも違うなら、私にもチャンスがあるなら、」
柚野はそう区切ってから言った。
「私と付き合ってください」
◇
「マイマイ?おーいマイマイ!」
「うわっ、え?なに?」
「さっきからぼーっとしてどうした?」
勉強合宿当日。合宿場へ向かうバスに揺られながらオレは先週の出来事を思い出す。
人生初の告白はうれしさよりも戸惑いが勝った。
あの後、柚野はあたふたするオレを見て「返事はいつでも大丈夫ですよ、ずっと待ってますから」と穏やかに笑った。
さてどうするか。普通に考えてオレが柚野の告白を断る理由はない。天使みたいに優しくて優等生の柚野が地味で平々凡々なオレにお付き合いを申し込んでいるんだぞ!……でも付き合うと考えるとどうにも腑に落ちないのは、やっぱり氷室くんがいるからなのだろうか。
——「きっと心が動いてるんだろうなって思ったんです」
返事はいつでもいいと言ってくれた。ちゃんと考えて答えを出そう。よし!とりあえず今日は勉強に集中!
「天気が心配ですねぇ」
立花の言葉に意識が戻る。外はたしかに清々しい晴れというわけではなかった。オレはスマホを取り出して天気予報アプリを開く。
「雨は夜中に降るらしいからバーベキューはできそうだよ」
「そうですか、それは良かったです」
「なあ、てかなんで俺らこのバスなん?」
藍沢の指摘はオレも気になっていた。先生にこのバスに乗るよう言われたが、周りには腕に実行委員の腕章を付けた生徒しかいない。これは1年生から3年生までの実行委員が乗るバスではないか?明らかに浮いている。
「なんか僕たち完全に場違いですよね?」
「先生間違えたんじゃないか?」
「ありえるね」とオレも共感する。おかげでオレたちは一番後ろの席の隅で小さくなっている始末だ。
「あなたたち、普通科の人?」
どうやら到着したようでしばらく待機しているとすらっとした黒髪ロングの女子がオレたちの方へと向かってくる。美人だけど……気が強そうだ。シャキッとした雰囲気に思わず縮こまる。
「あ、はいそうですけど……」
「じゃあこれ、読んでおいてください」
渡された紙には『勉強合宿実行委員タイムスケジュール&役割表』という文字。
「あのー、実行委員じゃないですけど」
「分かっています。実行委員が足りてないので手伝ってください」
「な、なんでオレたちが……?」
「普通科だからです」
「え?」と顔を向けるとその女子は軽蔑の眼差しを投げ前へ戻っていった。どうやらオレたちに拒否権はないらしい。
「ちゃんとオレたちの役割も書いてある ……」
「しかも名前じゃなくて、『担当:普通科』って酷くないですか?」
「くっそー、みんなバカにしやがって!」
拳を握りしめヒートアップしそうな藍沢を宥めていると、バスを降りる合図が出た。
オレたちは早速段ボールを持たされる。外に出て見ると林間学校で行くキャンプ場って感じだ。この大きな建物にはおそらく宿泊部屋やホールなどがあるんだろう。あとは……木がいっぱい。ほとんど森だ。施設の入り口の看板には大きく『ようこそ香陵高校理数科のみなさま』と書いてあった。
「お!舞坂くんたちー!おはよ」
朝からさわやかな2人だ。伊月くんは手を振り、氷室くんは文庫本を片手にチラリとこちらを見た。
「おはよう、そっちのバスだったんだね」
「うん!それよりみんな聞いてよー!氷室がオレが持ってきたチョコパイ勝手に食べたの!」
「いっぱいあったんだからいいだろ。カバンに入りきらなくて落ちてたし」
「ねぇみんなどう思う?ひどくなーい?」
「はいはい、お仲がよろしいようで!」
2人のくだらない言い争いはいつものことだ。藍沢はめんどくさそうに受け流す。
「ていうかそれ何持ってるのー?ダンボール?」
「さあ?さっき怖そうな女に手伝えって渡された」
「怖そうな女?誰それ?」
「知らん!まったく俺は雑用係じゃねーっつうの!」
「まあまあ……あ!じゃあ俺たちは藍沢くんたちの荷物、部屋に運んどくよ」
「ええ」
伊月くんのありがたい提案に氷室くんは抗議の眼差しを向ける。
「じゃあよろしくな、ひーむろっ!」
藍沢はわざとらしく氷室くんの前にボストンバッグを置き、ウィンクをして去っていく。めっちゃうざそう。
「なんだあいつ……」
氷室くんはやれやれといった感じで本を閉じる。本の上から青いリボンがはみ出ているのが見えた。
しおり、使ってくれてるんだ……
込み上げるうれしさに緩む口元がバレないよう、遠くの木々に目を移す。おいそこの木!こんな顔してたなんて誰にも言わないでくれよ。
「カバン、持ってくぞ」
「あ、うん。ありがとう」
勉強会場はプレイルームという名のほぼ体育館だ。まさに体育館と同じくらいの広さで一面にちゃぶ台が並んでいる。ひとテーブル5,6人で座るらしい。
「プリントが終わるごとに前に提出し、次のプリントへどんどん移ってください。全部終わった人からバーベキューに参加できます」
「おい待ってくれよ」「こんなにたくさんなんて聞いてないですよぉ」「これほんとに普通科用の問題……?」
先生の言葉にオレたちは頭を抱える。前に並ぶ無数のプリントの数。しかも30ページくらいあるのが1セットとしてホチキスで留めてあり、それが……軽く50くらいか。
「終わるわけない!一生こっから出れない!」
放心状態のオレに伊月くんが肩をポンポンと叩く。
「そんなことないってー!俺たちも終わったら手伝うからさー、ね?元気出して?」
「なんで俺も手伝うことになってんだよ」
「なんでって同じテーブルの仲間でしょー?それにどうせ氷室が一番早く終わるんだし、暇でしょ?」
「暇じゃない」
「てか伊月、理数科とは思えない髪色だけどお前勉強できんのかよ?」
藍沢はプリントをペラペラめくる。
「校則は茶髪までOKじゃん!でもそうだなー、たしかに勉強は普通かな?」
「じゃあ始めてくださいー」
先生の声にサッと空気が変わり、みんな一斉にペンを走らせた。
3時間ほどが経過した。
理数科の集中力は驚異的だ。みんなもれなく同じペースで問題を解き続けている。オレたちを含め普通科の面々はペンを置いたり、辺りを見渡していたり、わけもなく教科書をめくっていて、明らかにペースが落ちているのに。
意外だったのは伊月くんがかなり優秀だということ。本人は勉強は普通だと言っていたが理数科の中でも解くのが速い。普段チャラチャラしている彼のいつになく真剣な表情にオレは素直に尊敬の念を抱く。
氷室くん……メガネかけてる。オレがかけた日には陰キャ感に磨きがかかるだけだが、イケメンがかけるとなんとも色気のある雰囲気になるらしい。神様は不公平だ。
素早い手の動き、左右に反復する視線。薄暗いプレイルームなのになんとも神々しく氷室くんは光っていた。
「貴重品は持っていってください、バーベキュー場へはここから5分くらいです」
午後4時。ちらほらと終わる人が出てきて、時々楽しそうに外のバーベキュー場へと向かっていく声が聞こえてくる。全学年の理数科120人くらいの中で、もちろん氷室くんは1番に終わり、伊月くんは5番に終わっていた。いやめっちゃ優秀じゃん、伊月くん!
「どのくらい進んだー?」
「い、伊月……なんでこの量のプリントをやってそんな普通でいられるんだ……?」
「え?普通かなー?俺もけっこう疲れたよ」
「伊月くん、ここ教えてくれますか?」
「うん!もっちろん!」
「それが終わったら俺のも頼む……」
「はいはい」
藍沢と立花は一生懸命問題にかじりついている。オレはというと……
「なにこのグラフ……へ、平方完成……?いや、そんなわけないか……公式……代入する、のか……」
三途の川が見えています。
「おい」
「……!?は、はいっ!」
鋭い声に浮遊していた魂が戻る。
「どこが分からない?」
「え?ぜ、全部……」
「まじかよ」
氷室くんはオレが持っていたシャーペンを奪い取り、グラフに線を入れ公式をスラスラと書き込んだ。
「yを求めるんだからy=だ。aを求めるのはこの公式」
「……なるほど、分かったかも!」
「これで解けばいいんだよね」「そう」「できた!氷室くんの説明分かりやすい!」「はいはい、次の問題」「これは……こうだよね」「そう、できるじゃん」
いつのまにか楽しく問題を解いていた。氷室くんに「できるじゃん」と言われるとうれしくてどんどん手が進む。
オレは褒められて伸びるタイプなのかもしれない。
「うわー、やっと終わったー。マジ2人のおかげだわ」
バーベキュー場へ向かう道すがら藍沢は伸びをした。
「本当ですよぉ。氷室くんと伊月くんがいなかったらまだあのしめくさいプレイルームでしたよ」
「ええー?そんなに褒められると照れちゃうなー」
「へへっ」と伊月はわざとらしく頭を掻く。でもたしかにそうだ。氷室くんと伊月くんはとっくに終わっていたのに、代わる代わるオレたちの勉強をみてくれた。2人の助けがなかったら朝まで勉強コースだっただろう。
「氷室もサンキュー、見直したわ」
藍沢の言葉に氷室は眉をひそめる。
「見直した?」
「なんだよその顔。褒めてるんだぜ?俺はずっとお前を無口でスカした性格悪い奴だと思ってたんだ」
「ふんっ、それは偏見だな」
「だから見直したって言ってるだろ?素直に喜べ」
「お前に褒められてもうれしくない」
「まあまあ、みんな感謝してるってことですよぉ。さ、あと5分くらいでバーベキュー場に着きます。楽しみましょう!」
砂利道をオレたちは5人並んで歩いていく。
「じゃあみんな勉強会おつかれー!かんぱーい!」
勉強会が終わり、待ちに待ったバーベキューの時間だ。たくさんの生徒ががいくつかのグループに分かれて、テントの下でそれぞれ肉を焼いている。
「ジュースは本部のテントにあるみたいですよぉ」「オレ取ってくるよ」「おう、マイマイありがとなー」
この施設のバーベキュー場は1つだけではない。今いる所が一番大きいが、広場へと続く道を挟んだ隣とその奥にもいくつか小さなバーベキュー場がある。今も親子連れの人たちが何組か来ていて、盛り上がっていた。
「うわー俺がんばったわー、疲れた体にコーラが染みるなー」
藍沢はまるで仕事帰りのサラリーマンがお酒を飲むみたいに言う。
「藍沢くん途中で寝てたじゃないですか」
「だって、隣の氷室たちがありえない速さで問題解くんだもん。やる気なくすわー。てか、そういう立花も寝てただろ」
「僕は集中するために瞑想してただけですよ」
「まあまあー、舞坂くんも寝てたし、勉強なんてどうでもいいじゃん?」
伊月はそう言って肉を口に運ぶ。あんなはやくプリントを終わらせといてよく言うよ。
「オレは途中で数式に酔ってちょっと休んでただけ」
「えらそうだなマイマイ。いちばんプリント進んでなかったくせにー」
「はぁー?寝るよりマシだろ?」
「寝てた藍沢くんにプリント進んでなかった舞坂くん。普通科の中では僕が1番優秀ということですねぇ」
「そんなことない!」
「フッ」
火花を散らしていると氷室くんの声が割って入る。
「……なんだよ氷室」
「どんぐりの背比べだな」
「なんだと?」
「僕たちをバカにしましたね?」
「許せない!!」
オレたちの猛攻撃を気にすることなく、氷室くんは食事を続ける。伊月くんはその様子をみてケラケラ笑っていた。そんなこんなでしばらくみんなでバーベキューを楽しむ。
……くだらないことで過呼吸みたいに笑い転げる瞬間が、ずっと続いてほしいのに限られているこの時間が、その中に溶け込んでいる自分が、すべてが愛おしい。きっとこの日をオレは未来永劫思い出すことだろう。まさに青春の1ページ、そんな気がした。
「おい、そこに虫がいるぞ」
椎茸をかじっていると、氷室くんは俺の顔付近を指差した。次の瞬間、黒い物体が視界を通過する。
むし?ムシ?虫っっ!?
「うわぁっっ!!」
虫にビビって避けた拍子に机の脚に足をぶつけた。衝撃が足にジーンと響く。
「痛った!!」
パシャンっ
続いて机の上にあったオレンジジュースがこぼれて、服にかかった。次から次へと大惨事、恥ずかしい。
「おわっ!ご、ごめん」
「おい大丈夫か?」
「あ、うん、大丈夫大丈夫。軽くかかっただけだから」
氷室くんは「まったく……」と立花から受け取ったティッシュでオレのジャージを拭く。ふわりと髪からいい匂いがした。
距離が……近いな。
「他は濡れてないか?」
「おおっ、あ、うん」
覗き込まれてオレはサッと距離をとる。危ない危ない。
「舞坂くんー?大丈夫ー?」
伊月がどっかから大量のウエットテッシュを持ってきてくれたようだ。優しさに心があったまる。
午後7時前。空が藍色に染まってきた。
「おいマイマイ、あれさっきの」
「ん?うわほんとだ」
藍沢は小声で遠くを指差す。見ると朝のバスにいた気の強そうな女子がこちらに歩いてくる。やっぱ理数科は理数科だよな。氷室くんほどではないけどそれでも冷たい感じがして怖い。伊月くんの肩を持って後ろに隠れると「なになに?どうしたの?」と伊月くんは不思議そうな顔をする。
「あれだよ!朝言ってた怖そうな女!」
「あれ?綾瀬さんじゃん、やっほー!こっちこっち!」
伊月くんは振り向き、無邪気に手を振る。
「紹介するね!こちら綾瀬百合さん。うちのクラスの委員長だよー」
「よろしく」
「あ、よろしくお願いします……」
オレたち普通科組は小さく頭を下げる。
「で、綾瀬さんどうしたのー?」
「普通科の子たちに用があるの。借りても?」
「うん!いいよー」
「じゃあ3人は奥の広場に来てください」
指示を受け綾瀬さんに連なっていくと彼女はなぜか氷室くんの前で足を止める。
「今年も氷室くんがプリント1番に終わったのね」
「まあ」
「先生も褒めてたし、本当にすごい」
「……どうも」
それだけ言って綾瀬さんは再び歩きだした。なに今の?
氷室くんは残った炭でマシュマロを焼いていて、特になんとも思ってなさそうだった。
「それで、えっと、オレたちは何を?」
バーベキュー場から5分ほどの広場に着くと、実行委員たちが忙しそうに行き交っていた。
「この後の実行委員企画のイベントなんですが、雨雲が近づいてるみたいで中止になりました」
「そ、そうですか……」
「それでここにある荷物をいったん近くの仮小屋に移すことになったのでお願いします」
「はあ」
「では、私は向こうにいるので何かあったら呼んでください」
「……ちぇっ。こき使いやがって!」
「ちょっと藍沢、聞こえるって」
「僕と藍沢くんでこっちやるので、舞坂くんは奥の方お願いしてもいいですか」
オレたちは言われた通り、スピーカーやマイクなどの電子機器を優先的に道の反対側の仮小屋へと運んでいた。
ここ芝生の広場は、大きなキャンプ施設の最も奥に位置し、施設の入り口へ向かって10分ほど歩くとさっきいたバーベキュー場へ、さらに5分ほど歩くと入口入ってすぐの宿泊施設に着く。
「よいしょっと……う、わぁ!」
やばい、転ぶ。この際オレはいいからせめてスピーカーだけでも守らなければ……
覚悟を決めて目をつぶったけど衝撃波はこない。あれ?
「……は!よかったー!両手が空いてて!君だいじょうぶ?」
「え?あ、ありがとうございます」
小柄の可愛いらしい女の子。腕には実行委員の腕章を付けていた。
「気をつけてね!これ意外に重いから」
小動物みたい……。揺れるポニーテールを見送り、オレは再びスピーカーを持ち上げた。
「濡れるとダメなやつはひと通り運び終わったので、雨が降る前に宿泊施設に戻りましょう」
かれこれ20分ほど仮小屋と広場を往復していた。気付くと空は厚い雲に覆い尽くされ、急に肌寒く感じる。
「お疲れ様です、舞坂くん……大丈夫ですか?」
「……おつかれ」
「マイマイ顔死んでるぞ」
普段使わない筋肉をフル活動して体が悲鳴を上げている。明日は筋肉痛間違いない。
「あ、そうそう。伊月くんから連絡です。バーベキュー場の人たちは先にみんな宿泊施設に戻ったみたいです」
スマホを開くと氷室くんと肩を組んでピースをする伊月くんの写真が送られていた。氷室くんの顔、笑える。絶対無理やり撮ったでしょ。
「……まもなく雨が降ります、だって」
天気予報は外れたようだ。夜中に降るって言ってたのに。
「マジか、施設まで走る?」
「いいですねぇ」
正気か?こんなに動いてまだ走る体力が残っているのか。
「オレはゆっくり行くよ」
2人は「お先!」とロケットの如く走り出した。
山の天気は変わりやすい。
芝生の広場からもう少しでバーベキュー場に着くという所で急に雨がザーッと降り出した。
「うわー」「寒っ」「傘持ってきててよかったー」
事前に雨が降るのではと思われていたので、みんな傘を差して早足でバーベキュー場を通り過ぎ、そのまま宿泊施設へと向かう。次第に風も強くなってきた。
「……最悪」
オレは不運の申し子か。なんでこのタイミングで傘が!
「傘、ないの?」
実行委員の群れのかなり後ろを1人歩いていたオレは、突然の声に足が止まる。
「あれ?さっきの普通科の子でしょ!」
ポニーテールの彼女はぼっちなオレを気にかけて来てくれたらしい。
「あ、傘が壊れちゃって……ボロい折りたたみなんでしょうがないですね」
「入ってきなよ、濡れちゃうよ」
「ありがとうございます……」オレは控えめに傘に入れてもらう事にした。
風が強く、顔に雨が当たる。音がうるさくて、前の集団の会話も聞こえずらくなってきた。
「何年生?名前は?」
「2年の……舞坂広です」
「じゃあタメだね!敬語はなしで!私は藤田雫ね。よろしく!」
「よろしく」と小さく頭を下げる。
「舞坂くんってさ、最近うちのクラスの子と仲いいでしょ?」
「まあ……そこそこだよ」
この子も氷室くんのファンなのか……?下手なことは言わない方がいいな。
「そこそこなの!?瑠偉が聞いたら悲しむなーははっ」
「瑠偉……ああ、伊月くん?」
「そうそう、私の彼氏ね」
「へぇ……ええ!?」
「あれ?聞いてなかったの?」
たしかに雰囲気が似ていると思った。藤田さんは驚くオレを見て「ああ見えて照れ屋だからな瑠偉は」とケラケラ笑っていた。
「それよりさー?舞坂くんって氷室くんのこと好きでしょ?」
「はあ!?」
「お、その反応は当たりだなー?わかっちゃうんだなー私には」
ふふんと鼻を鳴らす藤田さんはオレをキラキラした目で見る。元気だな、この子。
「け、結構雨がすごいね。豪雨レベルになるかも……なんて!ははは……」
「ちょっと話逸らさないでよー!」
オレたちが宿泊施設へ到着した頃には、本当に豪雨レベルの雨と風。雷も鳴っていた。歩いて来た道を振り返って見ると、真っ暗闇の中に木がザワザワと揺れていて恐ろしい。
「舞坂くんおかえりー!あれ?雫もいるじゃん!」
先に戻っていた伊月くんはオレたちにタオルを手渡して言った。
「舞坂くんと仲良くなったのー!ね?」
「あ、うん。藤田さんの傘に入れてもらって」
伊月くんは「へぇー」と笑みを浮かべる。こう見るとやっぱり似ている2人。セットで見るとしっくりくるな。
「藤田さんってなんか距離があるなー、友達なんだしこれからは雫で!また恋バナしよ!」
藤田さん……雫はオレと伊月くんに手を振り、女子棟へ走っていった。
「ごめんね舞坂くん、あいつちょっと猪突猛進なとこあるからさー」
そう言いながらも伊月くんは心底うれしそうだった。全くカップルというやつは……!
「おー!マイマイ!やっと来たー」
「遅いですよぉ」
藍沢と立花も濡れた髪をタオルで拭いていた。ん……?
「あれ?氷室くんは?」
「え、マイマイ氷室に会ってないのか……?」
嫌な予感がした。
「いや、会ってないけど……」
さっと空気が変わり、みんなの表情が曇る。なに?どういうことだ?氷室くんが……いない?
「舞坂くんが着く10分くらい前に氷室、バーベキュー場に忘れ物があるからって取り行ったんだ」
説明する伊月くんの顔からみるみる笑顔が消えていく。まさかこの雨の中?そんな大切な忘れ物なのか?
「たぶん戻ってくる舞坂くんと合流できるから、一緒に帰ってくるって言ってたけど……」
そんなはずはない。オレはバーベキュー場を通ったけど見渡す限り人はいなかった。
「もしかして……迷子?」
「伊月!」
野田先生が走ってこっちへ向かってくる。
「さっき点呼をとったんだが、1人足りない。何か知ってるか?」
「氷室です。忘れ物を取りに行ったんですが……」
「氷室が……?この豪雨の中じゃ我々も探しには行けない。救助を要請するからお前らは部屋で待っていろ。20分くらいで着く」
「わかりました」
20分?20分もかかるのか?
ポケットからスマホを取り出す。雨雲レーダーを見ると、10分後にさらに激しい雨とある。
まずい、間に合わない。
20分も何もせず救助を待つだけなのか。
氷室くんはこの豪雨の中、どこかで迷って助けを求めてるかもしれないのに?
「氷室のやつ……大丈夫か?こんな真っ暗闇なのに」
暗闇という言葉が脳内にこびりつく。
真っ暗闇……暗闇……暗い所……
—— 「……電気」
——「悪い……ちょっとつまづいただけだ」
あの時感じていた違和感が蘇る。絡まっていた糸が解けるようにあることが頭に浮かんできた。
氷室くんは、暗闇が苦手……?
心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
暗い外。激しく音を立てる風、強く打ち付ける雨。時折光る雷。
オレに何かできるだろうか。氷室くんのために何か……
——「くだらないことばっかしてんなよ。さっさと退け。そこは俺たちの場所だ」
あの日、中庭に颯爽と現れた氷室くんはまさにヒーローそのものだった。
もうずいぶん前に諦めた、消えかけの夢。誰にも負けない武器を持って輝く夢。オレの中にもまだ……まだある……
オレだってヒーローになれるかもしれない。
雨と風は次第に強くなっている。窓には葉っぱや小さな木の枝が当たって、時折バチバチと音を立てていた。
「連絡だ。班長の指示に従って全員、宿泊部屋に戻れ」
3年の先輩が生徒たちに伝える声が遠くに聞こえる。
オレは窓に反射して映る自分を見つめた。
氷室くんを、助けたい。
今この瞬間、オレが勇気を出す時だ。
その一言を飲み込むのにかなり時間がかかった。それになんとか飲み込めても理解はできない。中庭のど真ん中、オレと柚野は向かい合っている。
「えっと、何かの間違いじゃ……」
そう言いかけたが柚野の真剣な顔が嘘じゃないと言っていた。本気なのか?自分でいうのもなんだけど……オレだぞ?
「舞坂先輩は氷室先輩のことが好きだと思ってました」
「……どうして?」
「たまに廊下で2人を見かけるんです。氷室先輩といる時の先輩はいつもと違くて……コロコロ表情が変わる。楽しそうに笑ったり、不安そうに下を向いたり、嬉しそうに唇を噛み締めたり……きっと心が動いてるんだろうなって思ったんです」
自分では気付かなかった。そう見えるのか。
氷室くんを好きかと聞かれて、はい好きですと言い切れる自信はない。恋愛経験が乏しいオレには好きという気持ちがよくわからないし、考えようにも蝉の大合唱がオレの思考の邪魔をする。
柚野はオレの手を取った。握りしめられた手に伝わるのは優しいけど強い意志だった。
「でも違うなら、私にもチャンスがあるなら、」
柚野はそう区切ってから言った。
「私と付き合ってください」
◇
「マイマイ?おーいマイマイ!」
「うわっ、え?なに?」
「さっきからぼーっとしてどうした?」
勉強合宿当日。合宿場へ向かうバスに揺られながらオレは先週の出来事を思い出す。
人生初の告白はうれしさよりも戸惑いが勝った。
あの後、柚野はあたふたするオレを見て「返事はいつでも大丈夫ですよ、ずっと待ってますから」と穏やかに笑った。
さてどうするか。普通に考えてオレが柚野の告白を断る理由はない。天使みたいに優しくて優等生の柚野が地味で平々凡々なオレにお付き合いを申し込んでいるんだぞ!……でも付き合うと考えるとどうにも腑に落ちないのは、やっぱり氷室くんがいるからなのだろうか。
——「きっと心が動いてるんだろうなって思ったんです」
返事はいつでもいいと言ってくれた。ちゃんと考えて答えを出そう。よし!とりあえず今日は勉強に集中!
「天気が心配ですねぇ」
立花の言葉に意識が戻る。外はたしかに清々しい晴れというわけではなかった。オレはスマホを取り出して天気予報アプリを開く。
「雨は夜中に降るらしいからバーベキューはできそうだよ」
「そうですか、それは良かったです」
「なあ、てかなんで俺らこのバスなん?」
藍沢の指摘はオレも気になっていた。先生にこのバスに乗るよう言われたが、周りには腕に実行委員の腕章を付けた生徒しかいない。これは1年生から3年生までの実行委員が乗るバスではないか?明らかに浮いている。
「なんか僕たち完全に場違いですよね?」
「先生間違えたんじゃないか?」
「ありえるね」とオレも共感する。おかげでオレたちは一番後ろの席の隅で小さくなっている始末だ。
「あなたたち、普通科の人?」
どうやら到着したようでしばらく待機しているとすらっとした黒髪ロングの女子がオレたちの方へと向かってくる。美人だけど……気が強そうだ。シャキッとした雰囲気に思わず縮こまる。
「あ、はいそうですけど……」
「じゃあこれ、読んでおいてください」
渡された紙には『勉強合宿実行委員タイムスケジュール&役割表』という文字。
「あのー、実行委員じゃないですけど」
「分かっています。実行委員が足りてないので手伝ってください」
「な、なんでオレたちが……?」
「普通科だからです」
「え?」と顔を向けるとその女子は軽蔑の眼差しを投げ前へ戻っていった。どうやらオレたちに拒否権はないらしい。
「ちゃんとオレたちの役割も書いてある ……」
「しかも名前じゃなくて、『担当:普通科』って酷くないですか?」
「くっそー、みんなバカにしやがって!」
拳を握りしめヒートアップしそうな藍沢を宥めていると、バスを降りる合図が出た。
オレたちは早速段ボールを持たされる。外に出て見ると林間学校で行くキャンプ場って感じだ。この大きな建物にはおそらく宿泊部屋やホールなどがあるんだろう。あとは……木がいっぱい。ほとんど森だ。施設の入り口の看板には大きく『ようこそ香陵高校理数科のみなさま』と書いてあった。
「お!舞坂くんたちー!おはよ」
朝からさわやかな2人だ。伊月くんは手を振り、氷室くんは文庫本を片手にチラリとこちらを見た。
「おはよう、そっちのバスだったんだね」
「うん!それよりみんな聞いてよー!氷室がオレが持ってきたチョコパイ勝手に食べたの!」
「いっぱいあったんだからいいだろ。カバンに入りきらなくて落ちてたし」
「ねぇみんなどう思う?ひどくなーい?」
「はいはい、お仲がよろしいようで!」
2人のくだらない言い争いはいつものことだ。藍沢はめんどくさそうに受け流す。
「ていうかそれ何持ってるのー?ダンボール?」
「さあ?さっき怖そうな女に手伝えって渡された」
「怖そうな女?誰それ?」
「知らん!まったく俺は雑用係じゃねーっつうの!」
「まあまあ……あ!じゃあ俺たちは藍沢くんたちの荷物、部屋に運んどくよ」
「ええ」
伊月くんのありがたい提案に氷室くんは抗議の眼差しを向ける。
「じゃあよろしくな、ひーむろっ!」
藍沢はわざとらしく氷室くんの前にボストンバッグを置き、ウィンクをして去っていく。めっちゃうざそう。
「なんだあいつ……」
氷室くんはやれやれといった感じで本を閉じる。本の上から青いリボンがはみ出ているのが見えた。
しおり、使ってくれてるんだ……
込み上げるうれしさに緩む口元がバレないよう、遠くの木々に目を移す。おいそこの木!こんな顔してたなんて誰にも言わないでくれよ。
「カバン、持ってくぞ」
「あ、うん。ありがとう」
勉強会場はプレイルームという名のほぼ体育館だ。まさに体育館と同じくらいの広さで一面にちゃぶ台が並んでいる。ひとテーブル5,6人で座るらしい。
「プリントが終わるごとに前に提出し、次のプリントへどんどん移ってください。全部終わった人からバーベキューに参加できます」
「おい待ってくれよ」「こんなにたくさんなんて聞いてないですよぉ」「これほんとに普通科用の問題……?」
先生の言葉にオレたちは頭を抱える。前に並ぶ無数のプリントの数。しかも30ページくらいあるのが1セットとしてホチキスで留めてあり、それが……軽く50くらいか。
「終わるわけない!一生こっから出れない!」
放心状態のオレに伊月くんが肩をポンポンと叩く。
「そんなことないってー!俺たちも終わったら手伝うからさー、ね?元気出して?」
「なんで俺も手伝うことになってんだよ」
「なんでって同じテーブルの仲間でしょー?それにどうせ氷室が一番早く終わるんだし、暇でしょ?」
「暇じゃない」
「てか伊月、理数科とは思えない髪色だけどお前勉強できんのかよ?」
藍沢はプリントをペラペラめくる。
「校則は茶髪までOKじゃん!でもそうだなー、たしかに勉強は普通かな?」
「じゃあ始めてくださいー」
先生の声にサッと空気が変わり、みんな一斉にペンを走らせた。
3時間ほどが経過した。
理数科の集中力は驚異的だ。みんなもれなく同じペースで問題を解き続けている。オレたちを含め普通科の面々はペンを置いたり、辺りを見渡していたり、わけもなく教科書をめくっていて、明らかにペースが落ちているのに。
意外だったのは伊月くんがかなり優秀だということ。本人は勉強は普通だと言っていたが理数科の中でも解くのが速い。普段チャラチャラしている彼のいつになく真剣な表情にオレは素直に尊敬の念を抱く。
氷室くん……メガネかけてる。オレがかけた日には陰キャ感に磨きがかかるだけだが、イケメンがかけるとなんとも色気のある雰囲気になるらしい。神様は不公平だ。
素早い手の動き、左右に反復する視線。薄暗いプレイルームなのになんとも神々しく氷室くんは光っていた。
「貴重品は持っていってください、バーベキュー場へはここから5分くらいです」
午後4時。ちらほらと終わる人が出てきて、時々楽しそうに外のバーベキュー場へと向かっていく声が聞こえてくる。全学年の理数科120人くらいの中で、もちろん氷室くんは1番に終わり、伊月くんは5番に終わっていた。いやめっちゃ優秀じゃん、伊月くん!
「どのくらい進んだー?」
「い、伊月……なんでこの量のプリントをやってそんな普通でいられるんだ……?」
「え?普通かなー?俺もけっこう疲れたよ」
「伊月くん、ここ教えてくれますか?」
「うん!もっちろん!」
「それが終わったら俺のも頼む……」
「はいはい」
藍沢と立花は一生懸命問題にかじりついている。オレはというと……
「なにこのグラフ……へ、平方完成……?いや、そんなわけないか……公式……代入する、のか……」
三途の川が見えています。
「おい」
「……!?は、はいっ!」
鋭い声に浮遊していた魂が戻る。
「どこが分からない?」
「え?ぜ、全部……」
「まじかよ」
氷室くんはオレが持っていたシャーペンを奪い取り、グラフに線を入れ公式をスラスラと書き込んだ。
「yを求めるんだからy=だ。aを求めるのはこの公式」
「……なるほど、分かったかも!」
「これで解けばいいんだよね」「そう」「できた!氷室くんの説明分かりやすい!」「はいはい、次の問題」「これは……こうだよね」「そう、できるじゃん」
いつのまにか楽しく問題を解いていた。氷室くんに「できるじゃん」と言われるとうれしくてどんどん手が進む。
オレは褒められて伸びるタイプなのかもしれない。
「うわー、やっと終わったー。マジ2人のおかげだわ」
バーベキュー場へ向かう道すがら藍沢は伸びをした。
「本当ですよぉ。氷室くんと伊月くんがいなかったらまだあのしめくさいプレイルームでしたよ」
「ええー?そんなに褒められると照れちゃうなー」
「へへっ」と伊月はわざとらしく頭を掻く。でもたしかにそうだ。氷室くんと伊月くんはとっくに終わっていたのに、代わる代わるオレたちの勉強をみてくれた。2人の助けがなかったら朝まで勉強コースだっただろう。
「氷室もサンキュー、見直したわ」
藍沢の言葉に氷室は眉をひそめる。
「見直した?」
「なんだよその顔。褒めてるんだぜ?俺はずっとお前を無口でスカした性格悪い奴だと思ってたんだ」
「ふんっ、それは偏見だな」
「だから見直したって言ってるだろ?素直に喜べ」
「お前に褒められてもうれしくない」
「まあまあ、みんな感謝してるってことですよぉ。さ、あと5分くらいでバーベキュー場に着きます。楽しみましょう!」
砂利道をオレたちは5人並んで歩いていく。
「じゃあみんな勉強会おつかれー!かんぱーい!」
勉強会が終わり、待ちに待ったバーベキューの時間だ。たくさんの生徒ががいくつかのグループに分かれて、テントの下でそれぞれ肉を焼いている。
「ジュースは本部のテントにあるみたいですよぉ」「オレ取ってくるよ」「おう、マイマイありがとなー」
この施設のバーベキュー場は1つだけではない。今いる所が一番大きいが、広場へと続く道を挟んだ隣とその奥にもいくつか小さなバーベキュー場がある。今も親子連れの人たちが何組か来ていて、盛り上がっていた。
「うわー俺がんばったわー、疲れた体にコーラが染みるなー」
藍沢はまるで仕事帰りのサラリーマンがお酒を飲むみたいに言う。
「藍沢くん途中で寝てたじゃないですか」
「だって、隣の氷室たちがありえない速さで問題解くんだもん。やる気なくすわー。てか、そういう立花も寝てただろ」
「僕は集中するために瞑想してただけですよ」
「まあまあー、舞坂くんも寝てたし、勉強なんてどうでもいいじゃん?」
伊月はそう言って肉を口に運ぶ。あんなはやくプリントを終わらせといてよく言うよ。
「オレは途中で数式に酔ってちょっと休んでただけ」
「えらそうだなマイマイ。いちばんプリント進んでなかったくせにー」
「はぁー?寝るよりマシだろ?」
「寝てた藍沢くんにプリント進んでなかった舞坂くん。普通科の中では僕が1番優秀ということですねぇ」
「そんなことない!」
「フッ」
火花を散らしていると氷室くんの声が割って入る。
「……なんだよ氷室」
「どんぐりの背比べだな」
「なんだと?」
「僕たちをバカにしましたね?」
「許せない!!」
オレたちの猛攻撃を気にすることなく、氷室くんは食事を続ける。伊月くんはその様子をみてケラケラ笑っていた。そんなこんなでしばらくみんなでバーベキューを楽しむ。
……くだらないことで過呼吸みたいに笑い転げる瞬間が、ずっと続いてほしいのに限られているこの時間が、その中に溶け込んでいる自分が、すべてが愛おしい。きっとこの日をオレは未来永劫思い出すことだろう。まさに青春の1ページ、そんな気がした。
「おい、そこに虫がいるぞ」
椎茸をかじっていると、氷室くんは俺の顔付近を指差した。次の瞬間、黒い物体が視界を通過する。
むし?ムシ?虫っっ!?
「うわぁっっ!!」
虫にビビって避けた拍子に机の脚に足をぶつけた。衝撃が足にジーンと響く。
「痛った!!」
パシャンっ
続いて机の上にあったオレンジジュースがこぼれて、服にかかった。次から次へと大惨事、恥ずかしい。
「おわっ!ご、ごめん」
「おい大丈夫か?」
「あ、うん、大丈夫大丈夫。軽くかかっただけだから」
氷室くんは「まったく……」と立花から受け取ったティッシュでオレのジャージを拭く。ふわりと髪からいい匂いがした。
距離が……近いな。
「他は濡れてないか?」
「おおっ、あ、うん」
覗き込まれてオレはサッと距離をとる。危ない危ない。
「舞坂くんー?大丈夫ー?」
伊月がどっかから大量のウエットテッシュを持ってきてくれたようだ。優しさに心があったまる。
午後7時前。空が藍色に染まってきた。
「おいマイマイ、あれさっきの」
「ん?うわほんとだ」
藍沢は小声で遠くを指差す。見ると朝のバスにいた気の強そうな女子がこちらに歩いてくる。やっぱ理数科は理数科だよな。氷室くんほどではないけどそれでも冷たい感じがして怖い。伊月くんの肩を持って後ろに隠れると「なになに?どうしたの?」と伊月くんは不思議そうな顔をする。
「あれだよ!朝言ってた怖そうな女!」
「あれ?綾瀬さんじゃん、やっほー!こっちこっち!」
伊月くんは振り向き、無邪気に手を振る。
「紹介するね!こちら綾瀬百合さん。うちのクラスの委員長だよー」
「よろしく」
「あ、よろしくお願いします……」
オレたち普通科組は小さく頭を下げる。
「で、綾瀬さんどうしたのー?」
「普通科の子たちに用があるの。借りても?」
「うん!いいよー」
「じゃあ3人は奥の広場に来てください」
指示を受け綾瀬さんに連なっていくと彼女はなぜか氷室くんの前で足を止める。
「今年も氷室くんがプリント1番に終わったのね」
「まあ」
「先生も褒めてたし、本当にすごい」
「……どうも」
それだけ言って綾瀬さんは再び歩きだした。なに今の?
氷室くんは残った炭でマシュマロを焼いていて、特になんとも思ってなさそうだった。
「それで、えっと、オレたちは何を?」
バーベキュー場から5分ほどの広場に着くと、実行委員たちが忙しそうに行き交っていた。
「この後の実行委員企画のイベントなんですが、雨雲が近づいてるみたいで中止になりました」
「そ、そうですか……」
「それでここにある荷物をいったん近くの仮小屋に移すことになったのでお願いします」
「はあ」
「では、私は向こうにいるので何かあったら呼んでください」
「……ちぇっ。こき使いやがって!」
「ちょっと藍沢、聞こえるって」
「僕と藍沢くんでこっちやるので、舞坂くんは奥の方お願いしてもいいですか」
オレたちは言われた通り、スピーカーやマイクなどの電子機器を優先的に道の反対側の仮小屋へと運んでいた。
ここ芝生の広場は、大きなキャンプ施設の最も奥に位置し、施設の入り口へ向かって10分ほど歩くとさっきいたバーベキュー場へ、さらに5分ほど歩くと入口入ってすぐの宿泊施設に着く。
「よいしょっと……う、わぁ!」
やばい、転ぶ。この際オレはいいからせめてスピーカーだけでも守らなければ……
覚悟を決めて目をつぶったけど衝撃波はこない。あれ?
「……は!よかったー!両手が空いてて!君だいじょうぶ?」
「え?あ、ありがとうございます」
小柄の可愛いらしい女の子。腕には実行委員の腕章を付けていた。
「気をつけてね!これ意外に重いから」
小動物みたい……。揺れるポニーテールを見送り、オレは再びスピーカーを持ち上げた。
「濡れるとダメなやつはひと通り運び終わったので、雨が降る前に宿泊施設に戻りましょう」
かれこれ20分ほど仮小屋と広場を往復していた。気付くと空は厚い雲に覆い尽くされ、急に肌寒く感じる。
「お疲れ様です、舞坂くん……大丈夫ですか?」
「……おつかれ」
「マイマイ顔死んでるぞ」
普段使わない筋肉をフル活動して体が悲鳴を上げている。明日は筋肉痛間違いない。
「あ、そうそう。伊月くんから連絡です。バーベキュー場の人たちは先にみんな宿泊施設に戻ったみたいです」
スマホを開くと氷室くんと肩を組んでピースをする伊月くんの写真が送られていた。氷室くんの顔、笑える。絶対無理やり撮ったでしょ。
「……まもなく雨が降ります、だって」
天気予報は外れたようだ。夜中に降るって言ってたのに。
「マジか、施設まで走る?」
「いいですねぇ」
正気か?こんなに動いてまだ走る体力が残っているのか。
「オレはゆっくり行くよ」
2人は「お先!」とロケットの如く走り出した。
山の天気は変わりやすい。
芝生の広場からもう少しでバーベキュー場に着くという所で急に雨がザーッと降り出した。
「うわー」「寒っ」「傘持ってきててよかったー」
事前に雨が降るのではと思われていたので、みんな傘を差して早足でバーベキュー場を通り過ぎ、そのまま宿泊施設へと向かう。次第に風も強くなってきた。
「……最悪」
オレは不運の申し子か。なんでこのタイミングで傘が!
「傘、ないの?」
実行委員の群れのかなり後ろを1人歩いていたオレは、突然の声に足が止まる。
「あれ?さっきの普通科の子でしょ!」
ポニーテールの彼女はぼっちなオレを気にかけて来てくれたらしい。
「あ、傘が壊れちゃって……ボロい折りたたみなんでしょうがないですね」
「入ってきなよ、濡れちゃうよ」
「ありがとうございます……」オレは控えめに傘に入れてもらう事にした。
風が強く、顔に雨が当たる。音がうるさくて、前の集団の会話も聞こえずらくなってきた。
「何年生?名前は?」
「2年の……舞坂広です」
「じゃあタメだね!敬語はなしで!私は藤田雫ね。よろしく!」
「よろしく」と小さく頭を下げる。
「舞坂くんってさ、最近うちのクラスの子と仲いいでしょ?」
「まあ……そこそこだよ」
この子も氷室くんのファンなのか……?下手なことは言わない方がいいな。
「そこそこなの!?瑠偉が聞いたら悲しむなーははっ」
「瑠偉……ああ、伊月くん?」
「そうそう、私の彼氏ね」
「へぇ……ええ!?」
「あれ?聞いてなかったの?」
たしかに雰囲気が似ていると思った。藤田さんは驚くオレを見て「ああ見えて照れ屋だからな瑠偉は」とケラケラ笑っていた。
「それよりさー?舞坂くんって氷室くんのこと好きでしょ?」
「はあ!?」
「お、その反応は当たりだなー?わかっちゃうんだなー私には」
ふふんと鼻を鳴らす藤田さんはオレをキラキラした目で見る。元気だな、この子。
「け、結構雨がすごいね。豪雨レベルになるかも……なんて!ははは……」
「ちょっと話逸らさないでよー!」
オレたちが宿泊施設へ到着した頃には、本当に豪雨レベルの雨と風。雷も鳴っていた。歩いて来た道を振り返って見ると、真っ暗闇の中に木がザワザワと揺れていて恐ろしい。
「舞坂くんおかえりー!あれ?雫もいるじゃん!」
先に戻っていた伊月くんはオレたちにタオルを手渡して言った。
「舞坂くんと仲良くなったのー!ね?」
「あ、うん。藤田さんの傘に入れてもらって」
伊月くんは「へぇー」と笑みを浮かべる。こう見るとやっぱり似ている2人。セットで見るとしっくりくるな。
「藤田さんってなんか距離があるなー、友達なんだしこれからは雫で!また恋バナしよ!」
藤田さん……雫はオレと伊月くんに手を振り、女子棟へ走っていった。
「ごめんね舞坂くん、あいつちょっと猪突猛進なとこあるからさー」
そう言いながらも伊月くんは心底うれしそうだった。全くカップルというやつは……!
「おー!マイマイ!やっと来たー」
「遅いですよぉ」
藍沢と立花も濡れた髪をタオルで拭いていた。ん……?
「あれ?氷室くんは?」
「え、マイマイ氷室に会ってないのか……?」
嫌な予感がした。
「いや、会ってないけど……」
さっと空気が変わり、みんなの表情が曇る。なに?どういうことだ?氷室くんが……いない?
「舞坂くんが着く10分くらい前に氷室、バーベキュー場に忘れ物があるからって取り行ったんだ」
説明する伊月くんの顔からみるみる笑顔が消えていく。まさかこの雨の中?そんな大切な忘れ物なのか?
「たぶん戻ってくる舞坂くんと合流できるから、一緒に帰ってくるって言ってたけど……」
そんなはずはない。オレはバーベキュー場を通ったけど見渡す限り人はいなかった。
「もしかして……迷子?」
「伊月!」
野田先生が走ってこっちへ向かってくる。
「さっき点呼をとったんだが、1人足りない。何か知ってるか?」
「氷室です。忘れ物を取りに行ったんですが……」
「氷室が……?この豪雨の中じゃ我々も探しには行けない。救助を要請するからお前らは部屋で待っていろ。20分くらいで着く」
「わかりました」
20分?20分もかかるのか?
ポケットからスマホを取り出す。雨雲レーダーを見ると、10分後にさらに激しい雨とある。
まずい、間に合わない。
20分も何もせず救助を待つだけなのか。
氷室くんはこの豪雨の中、どこかで迷って助けを求めてるかもしれないのに?
「氷室のやつ……大丈夫か?こんな真っ暗闇なのに」
暗闇という言葉が脳内にこびりつく。
真っ暗闇……暗闇……暗い所……
—— 「……電気」
——「悪い……ちょっとつまづいただけだ」
あの時感じていた違和感が蘇る。絡まっていた糸が解けるようにあることが頭に浮かんできた。
氷室くんは、暗闇が苦手……?
心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
暗い外。激しく音を立てる風、強く打ち付ける雨。時折光る雷。
オレに何かできるだろうか。氷室くんのために何か……
——「くだらないことばっかしてんなよ。さっさと退け。そこは俺たちの場所だ」
あの日、中庭に颯爽と現れた氷室くんはまさにヒーローそのものだった。
もうずいぶん前に諦めた、消えかけの夢。誰にも負けない武器を持って輝く夢。オレの中にもまだ……まだある……
オレだってヒーローになれるかもしれない。
雨と風は次第に強くなっている。窓には葉っぱや小さな木の枝が当たって、時折バチバチと音を立てていた。
「連絡だ。班長の指示に従って全員、宿泊部屋に戻れ」
3年の先輩が生徒たちに伝える声が遠くに聞こえる。
オレは窓に反射して映る自分を見つめた。
氷室くんを、助けたい。
今この瞬間、オレが勇気を出す時だ。
