氷王子の心を溶かせ

「なんでこんな点数が低いんだぁー」
1週間前にやった定期テストが返却された。
「17点か……俺より低いな」
「ちゃんと勉強したはずなのに、藍沢より低いなんてー」
「僕は今回まあまあいけましたね」
オレたちは人通りの少ない3階の外の渡り廊下に座り、返された答案用紙を広げる。数学のテストは50点満点中オレは17点、藍沢は24点、立花は34点だった。最近数学の授業についていけてないとは思っていたがここまでとは。
「舞坂くん、この公式はここじゃないです。こっちの問題で使うんですよ」
「あ!こっちか!くそー」
「立花、この問題は分かるか」
「あー、ここは僕も間違っていたので分かりませんねぇ」
「教科書見ても分かんねー、なにこの問題」
「ん?こんなの授業でやってないって」
「その問題はやったぞーマイマイ」
「え?」
全く覚えがない。寝てたのかな。
はぁ、と深いため息をついて空を見上げた。雲ひとつない深い青色の空が吸い込まれそうなほどどこまでも続いている。
「気持ちいー!」
「おい、現実逃避するなよ」
オレは大きく手を頭の後ろに組んで目を瞑る。時折ビューと吹く風が心地良くてこのまま寝れそうだ。
「ああっ!」
突然の焦ったような声に目を開けると藍沢と立花がフェンスから身を乗り出して何かを目で追っていた。ふわふわと白いものが宙を舞う。
「ん?なにあれ」
「答案用紙だ……お前の」
「ふーん、え!?」
なんだって!?
「風で飛んでっちゃいましたね……」
オレは飛び起き、渡り廊下を駆け抜けて全力疾走で階段を降りていく。オレ史上最低得点の答案用紙、誰にも見られるわけにはいかない!
「ハァ、ハァ……なんでオレのだけ……」
答案用紙はまだ風に揺られて空を優雅に泳いでいた。もう少しで届きそうなのに、手を伸ばすとまた風に飛ばされる。もう走りつかれた。
「あっ」
運良く校舎の空いていた窓の隙間にオレの答案用紙が入っていくのが目に入った。よし、これでもう飛ばされることはない。早く行って誰かが拾う前に……
「イテッ!」
つまづいたらしく膝にズキっと痛みが走ったが、そんなことより今は答案用紙!立ち止まる影にオレは叫ぶ。
「あっそれオレのです!!」
「あれー?舞坂くんじゃーん」
「……伊月くん?」
オレンジジュースのパックを片手に、そして反対側の手には……オレの答案用紙。
伊月くんならまだいいか。さっさと返してもらってこの答案用紙はすぐに捨ててしまおう。
「あのー、それ返してもらっても……」
「伊月?どうした?」
!?
この声って……
「おー、氷室おかえり」
「なんだこれ?数IIB、17点……ひどいな」
「うわぁ!!」
オレはすぐに答案用紙を奪い取った。よりによって氷室くんに見られるとは……。
「へえー、舞坂くん勉強苦手なんだー?」
他の理数科の人たちとは違く、伊月には全く悪意や嫌味が感じられない。それゆえに怒ることもできない。
「おー伊月!」
後ろから聞き覚えのある声が飛んできた。オレのクラスの数学担当で理数科の担任の野田先生だ。とても数学を教えているとは思えないいわゆる熱血教師って感じの見た目である。なんて最悪なタイミング。
「こんにちはー。あ、先生たしか7組の数学の担当ですよね。これ舞坂くんです」
「ああ、知ってるよ。今回のテストの最低得点で……」
「先生!」
オレはシィー!と口元に人差し指を付ける。余計なことを言わないでくれ。
「あー、んんっ。でも舞坂、このままじゃお前赤点だぞ、どうするんだ」
「ど、どうしましょう……次のテストで何点取ればいいんですか?」
「何点取っても赤点な気がするがな」
「え!それは困ります。なんとか救済措置を……」
「救済措置といってもなぁ……あ、そうだ。これはどうだ?夏休みの勉強合宿に参加したら赤点を免除する」
「勉強合宿……え!?」
勉強合宿の正式名称は『理数科夏期特訓合宿』だ。毎年理数科は夏休みに2泊3日、近くの宿泊施設で文字通り勉強をする行事がある。もしかしてそれのこと!?
「あ、そうじゃんー!今年から希望者は普通科でも参加できるようになったんですよね!舞坂くんとお友達も来ればいいのに!なぁ氷室?」
「いや、ついていけないだろ」
「えーそうかなぁ?プリント解くだけじゃんー」
氷室くんの言う通りだ。まず理数科の伝統行事に普通科が参加することに理数科のやつらはいい顔をしないだろう。そして絶対に勉強についていけない。
「いや先生それは……」
「じゃあ赤点でいいのか」
くっそー、なんて鬼畜な先生だ。勉強合宿は絶対に行きたくない。でも赤点になるとオレは2週間の地獄の補習だ。どっちにしてもきつい!
いや、待て……どっちもきついなら期間は短い方がいいか……補習は2週間、勉強合宿なら2泊3日だけだ。
「わっ、かりました。行きます、合宿に。そしたら絶対に赤点は付かないんですよね?」
「そうだ、関心・意欲・態度の項目は満点にしといてやる」
「ありがとうございます!」
オレは大袈裟なくらい頭を下げた。
「あ、そうそう伊月、職員室に来てくれ」
「はーい」
伊月は「じゃーなー」と手を振って職員室へと消えていった。
「……」
「血がでてるぞ」
「え?」
氷室くんがオレの膝に目をやり、ぽつんと言う。さっき転んで擦りむいた所から血がダラダラと流れていた。
「うわぁ!本当だ。ど、どうしよ、とりあえず職員……じゃなくて保健室か。えっと、まずは血を……」
ハンカチで拭こうとポケットに手を入れるが、あいにく今日はカバンの中に入れっぱなしだったことを思い出す。
「……はぁ」
氷室くんは自分のポケットから紺のハンカチを取り出してオレの前に差し出した。使っていいのか……?
「あ、ありがとう」
「消毒した方がいい」

保健室で氷室くんは救急箱から消毒液とガーゼ、絆創膏を取り出し、手際よく手当てをしてくれた。無論、めっちゃめんどくさそうに。
なにか話しかけた方がいいのかな。気まづすぎるこの空間にただ時間だけが過ぎていく。氷室くんともっと話してみたいとは思ったけど……なんて話しかけたらいいんだ?
オレは彼のことを何も知らない。氷室くんに関してオレが知っていることはイケメンだとか天才だとか、みんなも知っているようなことだ。小さい頃どんな子だったのかとか将来の夢とかなんでそんな頭がいいのか……そんな内の情報をオレは知らない。カスタードが嫌いなことくらいか……。そのことが少しさみしい。
「よし終わった……行くぞ」
「ああ、うん。ありがとう」
オレはまだ少し痛む右足を庇いながら氷室くんの前を歩く。下を見ると絆創膏がシワなく綺麗に貼られていて、氷室が触れた場所が熱を帯びているように感じた。落ち着け落ち着け。
パチッ
「おっと」
壁に付いた手が偶然にも電気のスイッチに触れてしまったらしい。カーテンのしまった保健室は暗闇に包まれる。
「あ、ごめん……えっ?」
暗くなった瞬間、氷室がオレの背中の裾をギュッと掴んだ。その手が震えているのが背中越しに伝わってきてオレは固まる。こ、これはどういう……。
「……電気」
「あ、ああ。えっと、これか」
電気を付けると氷室は素早く手を離した。
「悪い……ちょっとつまづいただけだ」
「う、うん」
つまづいた?段差なんかあったっけ?
オレは不思議に思ったがそれ以上気にしないことにした。

「なあ、なんで俺たちまで?」
オレの次なるミッションは藍沢と立花を勉強合宿の道連れに……じゃなくて一緒に楽しもうと誘うことだ。
「お願いだよ、赤点回避にはこれしかないんだ」
「俺は赤点じゃないし、理数科と勉強合宿なんて絶対にごめんだね」
「悪いんですが僕もきついですね」
やはりイエスとは言ってくれない。そうだろうとは思っていたけど。
「オレ一人じゃ行けないよー」
「お願い!」と手を合わせるが二人はなかなか首を縦に振らなかった。
「とにかく俺は絶対に行かな、」
「おーい!」
ぴょんぴょん跳ねるような声。もう振り向かなくても誰だかわかる。
「はいどうぞ、これ合宿の申込書!」
伊月はなんの躊躇いもなく教室に入ってきてドンと机に紙を叩きつけた。
「あ、ありが……ん?」
よく見ると同じプリントが……3枚?
「じゃあ、これ野田先生に渡してね!今週末締め切りだよー!じゃ!」
「お、おいお前」
「ん?」
藍沢は意義ありとばかりに伊月くんを呼び止める。
「これ3枚あるけど……なんでだ?」
「なんでって、3人でしょ?」
伊月くんはコテンと首を傾げる。
「ぼ、僕たちは行きませんよ!?」
「え?そうなの!?俺先生に言っちゃったよ、3人行きますよーって」
「はあ!?」
藍沢と立花の声が重なる。ナイスだ!ナイスすぎるよ伊月くん!
「いいじゃーん!俺、氷室と二人部屋だとつまんないし。藍沢くんに立花くんだよね?絶対楽しいって!じゃ、申込書よろしくぅー!」
伊月くんが去っていった方向を見つめ、藍沢と立花は絶望の表情を浮かべる。オレは心の中でガッツポーズをした。


「え……これは、ど、どういう……」
週明けの放課後、いつも通り部室に行くととても授業終わりとは思えないハツラツな声が飛んできた。
「やっほー!舞坂くん来るの遅いよ〜」
「伊月くん?なんで……」
奥の影に目を向ける。手を振る伊月の後ろには……
「ひ、氷室くんも!?」
「マイマイ?何してんの?」
「はやく入ってくださいよぉ」
入り口で固まっていると後ろにいた藍沢たちに背中を押された。2人も部室に入るなり、目の前のわけのわからない光景にオレと同じように固まる。
「うおっ、なんだ?」
「親睦会でもどうかなーって!とりあえず座ってよ!」

……親睦会とは程遠い雰囲気の中にオレはいる。
「それにしても驚いたっす、先輩が勉強合宿に参加するなんて」
篠原の話によると、オレたちが来る少し前に伊月くんが大量のお菓子とジュースを抱えてやって来たんだとか。
「オレは行きたくて行くわけじゃ、」
「そうでしょ〜!まさか本当に参加してくれるなんて!いきなり合宿じゃあれだからまずはお互いの仲を深めてー」
「急に来られても困る」
藍沢が不機嫌そうに言った。勝手に勉強合宿に参加させられたことをまだ根に持っているのだろう。
「ちょっと藍沢、そんな言い方……」
「えーでも柚野ちゃんに聞いたら今日は水やりだけって言ってたし、俺たちが手伝ってもう終わらせたからさ!」
「そういうことじゃ、」
「部長。いいじゃないですか。こんな優秀な先輩たちと話せる機会なんてなかなかないですし」
「そうですよ!来てくれてうれしいっす!」
なぜ後輩2人はノリノリなんだ。
「ここは園芸部の部室だ。部外者は立ち入り禁、」
カタン
藍沢の言葉を遮って無言で立ち上がったのは氷室くんだった。さっきまで部室の棚に置いてあった『世界の花図鑑』をパラパラめくっていて、だるそうな表情から伊月に無理やり連れてこられた様子が容易に想像できる。
「ほら言ったろ、時間の無駄だ。俺は帰る」
「おい氷室、ちょっと待っ、」
「待って!」
咄嗟にオレは両手で氷室の腕を掴んでいた。
「なに」
「……まだ帰らないで」
「……」
「ほ、ほら!せっかくこうやって来てくれたんだし、オレはもっと2人と仲良くなりたい、からさ!」
「ハハハ」とオレの空笑いが響く。
穴があったら入りたいとはまさにこの事だ。いや、穴があったらなんてもんじゃない。穴を掘ってでも入りたい。
「そ、そうだよね伊月くん?」
「え?あー、うん!そうそう!どうかな?」
伊月くんはオレの雑なパスをなんとか繋いでくれた。
「……まあ、マイマイがそこまで言うなら」

「バーベキューに花火!?おい、なんでそれをはやく言わないんだよ!」
「だってその方がサプライズ感があっていいかなーって。言っちゃうとつまんないじゃーん」
「つまるつまんないの話じゃねぇだろ」
「アハっ、ごめんごめん」
しばらくすると藍沢と伊月くんは仲良くなっていた。人たらし同士が打ち解けるのに時間はいらないらしい。
「それならたしかに楽しいそうですねぇ」
「急にやる気でてきたわ」
藍沢も立花もやる気になってくれたし、何より喧嘩にならなくてよかったー!
「氷室くん」
安心したこところでオレはポケットから借りていたハンカチとあるものを取り出す。
「その……色々迷惑かけちゃったお詫びに、これ」
「なんだこれ」
「しおりだよ。押し花で作ったんだ」
氷室はまじまじとそれを見る。手芸部にラミネートフィルムやリボンを借りて部活終わりに作った結構自信作だ。
「……ありがとな」
「お、四葉のクローバーにパンジーっすか!たしか花言葉は……」
「ああっ!篠原、そこにあるクッキーとって」
「え?あ、はい」
何を言おうとしていたのだ篠原!
「なるほど、マイマイがおととい一日中中庭にいたのってクローバー探してたからなのか」
「昼休みギリギリまでいて5時間目遅刻してましたよねぇ」
「なんか舞坂くんかわいい〜」
はやしたてられるのに慣れないオレはうれしさと恥ずかしさで下を向いた。受け取ってくれた、それだけでもう今日はお腹いっぱいだ。横を見ると氷室くんは大事そうにしおりをカバンにしまう。
「じゃあ俺電車だから」
「そうなんすね!じゃあ氷室先輩、また来て下さい!」
篠原は手を振って「僕もそろそろ帰りますね」と支度を始めた。柚野もぺこりとお辞儀をして片付け始める。
「ねえ伊月くん」
「ん?」
「大丈夫かな、氷室くん。あんまこういう親睦会的なの好きじゃなさそうだったから……」
「そんなことないよ。ああ見えて氷室はわいわいしたり楽しい事が好きなんだ」
伊月くんはいつになく真剣な顔だった。
「なら良いけど……」
早く帰りたいとか思ってなかったかな?めんどくさいって思ってなかったかな?
そんな不安が溶けて、オレは肺に溜まっていた空気を一気に吐き出した。
勉強合宿が楽しみでたまらない。


「明日から夏休みですが、みなさん怪我や病気に気をつけてくださいね。宿題も早めに終わらせるように」
「はーい」
「それからみんなバジル持って帰って下さいねー。一応授業は終わりますけど何回でも葉を摘むことができますからお家でも育ててみて下さい」
「はいはーい」
いいからはやく帰らせてくれとクラスメイトたちは適当に返事をして帰っていく。明日から夏休み。そして1週間後はいよいよ勉強合宿だ。
「今日の当番は舞坂くんと柚野ですよね?」
「うんそうだよー」
「夏休み中の当番表送ったからお前忘れんなよ」
「はいはい部長、分かってますって」
カバンとバジルの苗を持ち、オレは部室へ藍沢と立花は靴箱へと向かう。
「お、伊月に氷室じゃん!やっほー」
藍沢は反対から歩いてきた2人に手を振る。
オレたちはあの親睦会からたまに一緒にお昼を食べたり廊下であったら話をしたりする仲になった。ほぼコミュ力の塊である藍沢と伊月くんのおかげだけど。
「やっほー!これから部活ー?」
「今日はマイマイだけだ。俺と立花はそのまま帰る」
「伊月くんたちも帰るんですか?」
「俺らも帰るよー」
「じゃあ途中まで一緒に帰ろーぜー」
少し前までは想像もできなかった光景。オレたちにとって理数科の人間は、頭は良いけどその分プライドが高く、いけ好かない奴らだった。なるべく関わらない、関わりたくない。少しの尊敬と畏怖、そして反発の対象。それが今は仲良く一緒に帰るまでになった。俺たちの関係はいつから変わっていったのだろう。
「勉強合宿楽しみだね」
「……そうだな」
オレの言葉に氷室くんはぶっきらぼうに答えた。
——「痛っ……す、すいません!大丈……」
この日から?バジルの種が入ったダンボールを運んでて氷室くんにぶつかったあの日。その日を境にオレの日常は変わっていったような気がする。そうやって出会えたこと、なんという幸運だろう。
「じゃあなー、マイマイ」
「水やり頼みますねぇ」
「また勉強合宿で!」
手を振り去るみんなの背中をオレはしばらく眺めていた。

「先輩、お疲れ様です」
「お疲れ。柚野先来てたんだ」
部室に着くと柚野はオレに気付いてニコッと笑う。
「ホース出しといたので外からやりましょうか」
柚野すみれ。彼女は普通科だが定期テストで理数科にも引けを取らないほど頭がいいらしい。それに加え控えめな性格でモテるのだと篠原が言っていた。
「ひまわりがきれいに咲きましたね」
今が一番の見頃だろう。太陽に向かって真っ直ぐに伸びている。セミの声がBGMになってザ・夏みたいなワンシーン。
「そうだね……去年よりもたくさん咲いてる。オレたちの愛が届いたのかな」
「フフっ。だといいですけど」
「あ!見てこれ!めっちゃおっきい!」
ひときわ背の高いひまわりを指差すと柚野は「子どもみたい」と笑う。年下の女の子の前で恥ずかしい。
「舞坂先輩」
不意に柚野が呼ぶ声に振り返る。その音には少しさみしさが含まれていた。
「ん?どうした?」
「先輩好きな人いますか?」
「……え?」
「舞坂先輩は氷室先輩のことが好きなんですか?」
「ひ、氷室!?いや、そんなんじゃ……氷室くんとはただ仲良くなりたいだけで……」
「そうですか。よかったです」
「よかった……?」
なんで氷室くん?それによかったって……なに?
意味がわからなすぎてオレは言葉の続きを待つ。柚野は何か覚悟を決めたようにパッと顔を上げた。

「私、舞坂先輩のことが好きなんです」