「先輩、最近元気ないっすねー」
「何かあったんですか?」
昼休み、部室でお弁当を食べていると後輩2人に問い詰められる。
「なんかやたらと部室いません?」
「そ、そうかなー?」
鋭すぎませんかこの子たち。どうやらオレの貼り付けの笑顔では誤魔化せないようだ。
「なるべく2年生の階にいたくないんだってさ」
「おい藍沢、余計なこと言うな」
「なんでですか?マイマイ先輩2年じゃないすか」
「理数科の天才に怪我させて、顔を合わせるのが怖くて逃げ回ってる」
「怪我!?」
篠原と柚野が同時に目を大きく開けた。
「いや、わざとじゃないんだって」
「というと?」
あーもう!頼むから忘れさせてくれ……
「バジルの種を職員室に持ってった日あっただろ?あの日階段でぶつかったんだよ」
「わざとじゃないならいいじゃないですか、先輩」
柚野はオレの肩に手を置く。
「立花先輩が来てれば転ばなかったかもですね」
「僕のせいですか?」
「だって俺らは2年の職員室入れないから手伝えなかったですし、立花先輩が朝来てれば2人で持ってけたじゃないすかー」
「ええー」
「まあまあ。誰も悪くないですよ。ほら、舞坂先輩もそう落ち込まないの」
柚野はいつも場をおさめてくれる平和の象徴だ。彼女がいるだけでたちまち空気が穏やかになる。歩く空気清浄機。オレたちは弁当をかきこんで部室の掃除に取り掛かる。
「そういえば先輩、新体力テストの結果どうでした?」
「……オレに聞かないでよ」
毎年6月に行われる新体力テスト。握力、上体起こし、ソフトボール投げ、50m走など全8種目を行い、総合得点でAからEまで評価される。運動が苦手なオレはほぼ全ての種目で平均以下、C判定だった。
「俺は去年よりは良かったぞー」
藍沢は平均の少し上。評価はギリAだったらしい。
「立花先輩ランキング載ってましたよね?」
体力テストの結果は、総合得点上位50位まで張り出されて表彰される。こう見えて立花は運動がめちゃめちゃできるのだ。去年はギリギリランキングに入れず悔しがっていた。
「篠原より低かったのが悔しいですけどね」
立花の言葉に篠原が「へへっ」と笑った。
「去年1位だった先輩は今年ライキング入ってなかったけどどうしたんすかね?」
「……え!?」
篠原の言葉にオレと藍沢、立花が顔を合わせる。
「し、篠原……今なんて?」
「え?だから去年1位だった先輩がランキング載ってなかったからどうしたのかなーって。2位の人とかなり点差があったんで今年も圧倒的1位かと思ってたんですけど」
「去年の1位って……」
「なんでしたっけ?たしか、氷室先輩?って人でした」
篠原はなにか問題があるのかと首を傾げる。
いやちょっと待てよ。新体力テストをやるのは6月の第2週ごろ、オレが氷室くんにぶつかったあの日はたしか……
——「遅刻届、6月7日……今日?」
オレのせいじゃないか!!
「先輩?どうしたんですか?」
「なんてことだ……」
オレはぽかんとする2人にぶつかった相手がその氷室くんであること、おそらくそのせいで新体力テストに参加できなかったことを告白した。
「氷室先輩ってあの氷王子すか!?」
「有名ですよね。なんでもできる完璧王子で、1年の女子も告白して玉砕した人が何人もいるとか聞いたことがあります」
「はぁー、どうすればいいんだろう」
氷室くんはきっと今回も1位になれたはず。全校生徒の前で表彰され、黄色い歓声を浴びていたはず。それにもし体力テストに参加してないのなら体育の成績はかなり低くなるだろう。氷室くんはオレを恨んでいるよな?オレはもうこの学校に通えなくなるのか!?
頭を抱えたオレに篠原が手を伸ばす。
「おい壁ドンすんな、」
「先輩!逃げ回ってる場合じゃないですよ!今すぐ謝るべきです!」
「……え?」
「相手はあの氷王子なんですよね?許してもらわないと!早い方がいいっす!」
「え、え……」「ちょっと待って下さいよ」「なんで俺まで?」
「はいはい、行った行った」
オレたち2年生組は背中を押されてそのまま廊下へ追い出された。
5分後……
「おい、いるか?」
「いやー多分いないかな」
「ちょっと、ちゃんと見て下さいよ」
しゃがんで理数科の教室を覗き込む。教室には弁当を食べながら勉強している人ばかり、さすが理数科って感じだ。可能な限り見渡すけど氷室くんの姿はない。
「教室にはいないっぽい」
出直そうとしたその時、廊下の奥から女子たちの騒ぐ声が聞こえてきた。よくある光景だ。きっと先にいるのは……
「おいマイマイ、氷室だぞ!」
「え!?氷室くん!?」
こちらへ歩いてくる。オレは教室に入ってうずくまった。
「おい!なんで隠れるだよ!」
「だってむりだもん……」
やっぱりダメだ、怖すぎる。もう泣きたい。藍沢や立花に「はやく行け」と捲し立てられている間に5時間目前の予鈴が鳴った。あと5分で昼休みも終わりだ。
「も、もう行くしかないよな……?」
「こういうのは勢いだぞ、マイマイ」
勢いか……。背中を押されたオレは意を決して理数科へと走り、そのまま氷室くんが座る机へと向かった。教室中の人がなんだこいつと不愉快そうに見る視線が痛い。
「氷室くん……!」
机の前に立ち息切れするオレを氷室くんは怪訝そうに見つめた。そんな怖い目で見ないで。
「あの……これ」
机を一面埋めるほどの大量のお菓子やパン。お詫びの品として急いで購買で買ってきたものだ。
「ほ、本当にすいませんでした!!」
オレはそれだけ言って一目散に退散した。ずっとこの場にいたらおかしくなりそうだ。氷室くんが「なにが?」と口を開きかけた気がしたが、今さら足が止まらない。
「どうでしたか?」
「一応謝ってきたよ……」
教室へ戻り息を整える。これで合っているのかはわからない。もしかして逆に迷惑だったり……?一気に不安になってきた。
「ねえ、舞坂くんっているー?」
「は、はい!え……伊月くん?」
伊月くんはさっき氷室くんにあげたはずのメロンパンをかじっていた。能天気だな。そしてなんで君が食べている?
「やばい、伊月くんだよ!」「伊月くんがこの教室に……」「幸せすぎるー」
目を輝かせる女子たちに伊月くんはニコッと優しい笑みを向ける。氷室くんなんかより、よっぽど王子に見えるよ。白馬の王子。
「あーいたいた!これ!」
そう言って何かを投げつけた。受け取って見ると、さっき氷室くんにあげたクリームパンだった。え、なんで?
「氷室、カスタードは嫌いだってさ!」
それだけ言って伊月くんは去っていった。氷室くん、カスタード嫌いなんだ……
5時間目のチャイムが鳴ると、行き場を失ったクリームパンをさっとカバンに入れて前を向く。
◇
「ごめんなマイマイー」
「すいませんねぇ」
放課後。今日はバイトがあるらしく藍沢と立花は部室に寄らず帰るという。
「全然いいって!気をつけて帰ってー」
「じゃあなー」
今日は水やりだけだし休みでいっか。篠原と柚野にも「今日部活なしで!」とLINEしておいた。
「よっしゃー、やりますか!」
今部室で育てているのはペンタス。白、ピンク、赤、紫のいろんな色がある星型の花で柚野が形がかわいいと推していた。
水やりが終わりしばらく休憩していると、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。顧問の中村先生だろうか。
「どうぞー」
部長の藍沢はいないけど、まあいいか。
「先生どうもー。こんにち、わぁっ!!」
中村先生じゃ……ない。オレは目を疑った。
「ひ、氷室くん?」
なんだなんだ?オレを殺しにやってたとか?無言で近づいてくる氷室くんにどんどん後ずさりすると、やがて背中を壁にぶつけた。
「どうすればいい?」
「な、なにがですか……?」
「これ」
氷室くんの手には所々虫に食われてたバジルの苗があった。
バジルは葉が柔らかく香りが強いため虫を寄せ付けやすい。氷室くんは虫に食われた苗を見て対処法を聞きに園芸部を訪れたという。オレは胸を撫で下ろす。そうならそうとはやく言ってよ。心臓に悪い。
「ヨトウムシかな……食酢スプレーをつくるよ」
野菜の苗を育てる時は大体このスプレーで害虫対策をする。水と酢を50:1の割合で混ぜるだけで簡単に作ることができる。たしか去年トマトを育てた時に作ったような……オレは奥の棚にあった霧吹きと酢を手にし、早速スプレー作りに取り掛かる。
「お前園芸部だったんだな」
氷室くんは座って頬杖をつきながらオレの作業を見ていた。
「え、あー、うん」
「そんな緊張すんなよ、やりずらい」
「あ……ごめん」
無理に決まってる!もうすでに色々やらかしてるのにこれ以上失敗して迷惑をかけるのは許されない。とてつもないプレッシャーだ。
「……よし、できた」
「かければいいのか?」
「あ、それじゃちょっと近すぎるよ」
酢は酸性なので薄めていても直にかけすぎるとよくない。オレは氷室くんがスプレーを握る手を掴み、苗から30cmの距離に調節する。
「あっ」
無意識に触れてしまったことに気付き、オレは慌てて手を離した。おいおい気をつけろ!オレ!
「んんっ。こ、このくらいで」
「おう」
「氷室くんの苗に虫がいるなら、近くの他の苗にもいるかも。理数科の苗全体にかけた方がいいかもね……」
出過ぎた真似だっただろうか?チラリと顔を伺うと氷室くんは「そうだな」と頷き立ち上がった。
中庭の理数科のプレートの前。種を植えた時あんなに騒がしかったこの中庭も今日は人がいない。穏やかで優しい空気が漂っていて、向こうのグラウンドでやっている部活の掛け声が時々遠くに聞こえてくる。
「あの花は?」
「ペチュニアだよ。四月に植えたんだ」
濃い紫に薄い紫、そして、白。ひとつひとつの花が重なることなくギチギチに咲き乱れている。
氷室くんは「へぇー」と言いながら花壇の前に腰を下ろした。
「きれいだな」
「そうでしょ!ここに植えてあるやつは紫系の色で統一してるんだ。で、あっちにある花壇にはピンク系でその奥は赤と紫と白が混ざった花が植えてあってそれでー、あっ……」
なに興奮しているんだ。オレは急に恥ずかしくなって下を向いた。
「ごめん。園芸部以外の人に花壇の花褒められたの初めてで……なんかうれしくって」
「たしかにお前のクラスには花に情緒を感じるやつはいなそうだ。花壇を踏み荒らすやつがいるぐらいだしな」
「あの時は本当にありがとう。それと、怪我のこと……ごめん。オレのせいで新体力テスト参加出来なかったんだよね」
氷室くんは目を細める。
「別にお前のせいじゃない」
「え?」
「たしかに怪我はしたけど、俺はあんな軽い捻挫じゃ点数下がんねぇよ」
「じゃあなんで……」
「怪我を言い訳にしてサボっただけだ。だるかったからな」
「それだけ?」
「ああ。そうすりゃ他のやつの順位がひとつずつ上がるし、俺も楽できて一石二鳥だ」
「……氷室くんもサボりたいって思うんだね」
「は?」
共通点なんてない、違う次元にいる人だと思ってた氷室くんが急に近くに感じた。
「オレは運動全然ダメでさ。毎年体力テストの時期は憂うつなんだ。恥ずかしいし、できればやりたくないって思いながらやってる」
自虐混じりに言うオレに氷室くんは「そうか」と一言、笑いはしなかった。
「でも氷室くんはなんでもできるから、オレとは違って楽しんでやってるのかなって思ってた。だからなんかオレたちと同じ感覚っていうか、普通だなーって……」
言っている途中でハッとする。氷室くんが普通だなんてオレはなんてことを!
「ふっ……ははっ」
少しの沈黙の後に氷室くんは「なんだそれ」とわずかに口元を緩ませた。
「…………笑った」
「は?」
「……氷室くんが笑った!」
初めて氷室くんの笑顔を見た。いつも無表情で感情が読み取れない彼の少しこちらを見下すような、だけど優しく包まれるような笑顔。目を合わせていたらその破壊力にきっとオレはどうにかなっていただろう。
オレの視線に気付くと氷室くんはすぐにいつもの氷のような冷たい表情に戻った。さっきまでの笑顔の面影はどこにもない。
「スプレー……助かった」
氷室くんはさっとカバンをもって立ち上がり、「じゃ」と駐輪場の方へと消えていく。
「氷室、くん……」
夕暮れどきの生ぬるい風が吹く。ペチュニアの花が気持ちよさそうになびいていた。
◇
「今からAチームとCチームの試合やるぞー。Bチームは休憩なー」
あれから数日後の体育の授業。キュッキュッと体育館シューズが嫌な音を立て、バレーボールが弾む音が地面に響く。お昼の後の運動は地味にきつい。オレ球技苦手だし。
「おい舞坂!横だ、パスっ!」
「……わぁ!!」
飛んできた球にギリギリまで気付かず、ボールが側頭部に直撃した。視界が揺らぐ。
「舞坂集中しろ!」「なにやってんだ!」
チームメイトの怒号にオレは気合を入れ直す。個人戦にしてほしいと切に願いながら飛び交う球を必死に目で追っていると、相手チームのアタックがオレのいる位置へと飛んできた。きっとチームの弱点がオレであると知っているのだろう。待ってくれ、レシーブの構えを……
「舞坂いけー!」「繋げー!」
……見事に空振った。
「おいマジかよ」「負けたじゃんかー」
「はい、チーム交代ー、次のチーム入って!」
「舞坂くんお疲れ。さっきぶつけてた所大丈夫ですか?」
「立花……うん、大丈夫。いつもこんな感じだし」
醜態を晒すのには慣れている。そのことを恥ずかしいと思わなくなった時、それにとって代わった感情は諦めだった。チームのプラスにはなれなくても足を引っ張ることは避けたかったけどね。
「少し休んだ方がいいですよ。ここ赤くなってますから」
「立花ー、次俺たち試合だぞー」
「はーい」
立花のいるチームはトーナメントを順調に勝ち上がっているらしい。立花は「絶対勝つぞー!」と円陣を組んだ後、「任せたぞ」という声に拳を挙げていた。普段あまり目立つことのない立花だけど、体育の時はみんなに頼りにされ輪の中心にいる。
「よっしゃー勝ったぜ!マイマイ、オレのアタックどうだったよ?」
「え?あー、ごめん見てなかったわ」
「あん?」
「藍沢、さっきマジナイスだったわ!」
「へへ、だろ?」
「だろ?じゃねーよ、ちょっとは謙遜しろ!次も頼むぞー」
「ういー」
藍沢は特別運動が出来るわけではないが、持ち前の愛嬌でみんなと仲良くなれる明るい性格だ。ムードメーカーというのか。
「マイマイ、次はちゃんと見てろよな!」
「わかったよ」
「じゃあ行くわ!」
……みんな輝いてていいな。
藍沢や立花を見てそう思う。普段オレたちは教室の隅で固まって過ごしている仲間だけど、時々2人が遠くに感じる。みんなそれぞれ輝ける場所と自分を証明する武器を持っている。奥のコートに目を移す。あの不良の井上だってやっている事はバカだけど人をまとめられる、それだって才能だ。
でもオレはどうだろうか?オレのもつ武器ってなんだ?オレには運動も勉強も人に誇れることは何もない。輝くみんなのずっと後ろにオレはひとり立っている。すごい、すごいと言いながら、追いつくことはないけれど。
みんながたまらなくうらやましくて恨めしい。
——だから、無数の武器を持っている眩しい一等星を見ると手を伸ばしたくなるのかもしれない。
次の試合を待っている間、オレはぼーっとグラウンドを見つめる。そこでは理数科が同じく体育の授業でサッカーをやっていた。
「うわー、負けたわ。マイマイ試合は?」
「何見てるんですか?」
試合を終えたらしい藍沢と立花が汗を拭いて戻ってくると、オレの見る方に視線を向けた。
「ねえ、氷室くんってかっこいいよね……?」
「……は?」
藍沢と立花は同時に口をぽかんと開ける。
「ん?ま、まあ顔はイケメン……だよな?」
「まあ氷とついても王子と呼ばれてるくらいですからね……?」
何を言っているんだ、という感じで2人は顔を合わせる。やっぱりオレがおかしいんだよな……?
「パスパス!」「おっけー氷室シュートだ」
「いけっ!」「ナイスぅ〜!」
氷室がゴールを決め、チームメイトとハイタッチをして交代した。
体育着、濡れた前髪、水を飲んで湿った唇、首元をスッと流れる汗……なぜか目が離せない。
「最近、オレの目おかしいんだ。氷室くんの周りだけ輝いて見える。キラキラが周りに……なんで?……変なんだ……目薬、いや病院行った方がいいかな……」
「おーい、マイマイ?大丈夫か?」
「舞坂くん!しっかりして下さいよ!」
魂を吸い取られたみたいにぼーっとするオレに正気を取り戻せとばかりに藍沢が大きく肩を揺する。立花はオレの目の前でぶんぶん手を振った。
本当に、なんで?もっと近づきたいと思うのはなんで?
もう認めるしかないのか。
オレは氷室くんのことがす……いや、
氷室くんのことが気になってしょうがないんだ、と。
太陽の光を受けて水滴が残るペチュニアの白い花びらがキラリと光った。花言葉は『淡い恋』である。
「何かあったんですか?」
昼休み、部室でお弁当を食べていると後輩2人に問い詰められる。
「なんかやたらと部室いません?」
「そ、そうかなー?」
鋭すぎませんかこの子たち。どうやらオレの貼り付けの笑顔では誤魔化せないようだ。
「なるべく2年生の階にいたくないんだってさ」
「おい藍沢、余計なこと言うな」
「なんでですか?マイマイ先輩2年じゃないすか」
「理数科の天才に怪我させて、顔を合わせるのが怖くて逃げ回ってる」
「怪我!?」
篠原と柚野が同時に目を大きく開けた。
「いや、わざとじゃないんだって」
「というと?」
あーもう!頼むから忘れさせてくれ……
「バジルの種を職員室に持ってった日あっただろ?あの日階段でぶつかったんだよ」
「わざとじゃないならいいじゃないですか、先輩」
柚野はオレの肩に手を置く。
「立花先輩が来てれば転ばなかったかもですね」
「僕のせいですか?」
「だって俺らは2年の職員室入れないから手伝えなかったですし、立花先輩が朝来てれば2人で持ってけたじゃないすかー」
「ええー」
「まあまあ。誰も悪くないですよ。ほら、舞坂先輩もそう落ち込まないの」
柚野はいつも場をおさめてくれる平和の象徴だ。彼女がいるだけでたちまち空気が穏やかになる。歩く空気清浄機。オレたちは弁当をかきこんで部室の掃除に取り掛かる。
「そういえば先輩、新体力テストの結果どうでした?」
「……オレに聞かないでよ」
毎年6月に行われる新体力テスト。握力、上体起こし、ソフトボール投げ、50m走など全8種目を行い、総合得点でAからEまで評価される。運動が苦手なオレはほぼ全ての種目で平均以下、C判定だった。
「俺は去年よりは良かったぞー」
藍沢は平均の少し上。評価はギリAだったらしい。
「立花先輩ランキング載ってましたよね?」
体力テストの結果は、総合得点上位50位まで張り出されて表彰される。こう見えて立花は運動がめちゃめちゃできるのだ。去年はギリギリランキングに入れず悔しがっていた。
「篠原より低かったのが悔しいですけどね」
立花の言葉に篠原が「へへっ」と笑った。
「去年1位だった先輩は今年ライキング入ってなかったけどどうしたんすかね?」
「……え!?」
篠原の言葉にオレと藍沢、立花が顔を合わせる。
「し、篠原……今なんて?」
「え?だから去年1位だった先輩がランキング載ってなかったからどうしたのかなーって。2位の人とかなり点差があったんで今年も圧倒的1位かと思ってたんですけど」
「去年の1位って……」
「なんでしたっけ?たしか、氷室先輩?って人でした」
篠原はなにか問題があるのかと首を傾げる。
いやちょっと待てよ。新体力テストをやるのは6月の第2週ごろ、オレが氷室くんにぶつかったあの日はたしか……
——「遅刻届、6月7日……今日?」
オレのせいじゃないか!!
「先輩?どうしたんですか?」
「なんてことだ……」
オレはぽかんとする2人にぶつかった相手がその氷室くんであること、おそらくそのせいで新体力テストに参加できなかったことを告白した。
「氷室先輩ってあの氷王子すか!?」
「有名ですよね。なんでもできる完璧王子で、1年の女子も告白して玉砕した人が何人もいるとか聞いたことがあります」
「はぁー、どうすればいいんだろう」
氷室くんはきっと今回も1位になれたはず。全校生徒の前で表彰され、黄色い歓声を浴びていたはず。それにもし体力テストに参加してないのなら体育の成績はかなり低くなるだろう。氷室くんはオレを恨んでいるよな?オレはもうこの学校に通えなくなるのか!?
頭を抱えたオレに篠原が手を伸ばす。
「おい壁ドンすんな、」
「先輩!逃げ回ってる場合じゃないですよ!今すぐ謝るべきです!」
「……え?」
「相手はあの氷王子なんですよね?許してもらわないと!早い方がいいっす!」
「え、え……」「ちょっと待って下さいよ」「なんで俺まで?」
「はいはい、行った行った」
オレたち2年生組は背中を押されてそのまま廊下へ追い出された。
5分後……
「おい、いるか?」
「いやー多分いないかな」
「ちょっと、ちゃんと見て下さいよ」
しゃがんで理数科の教室を覗き込む。教室には弁当を食べながら勉強している人ばかり、さすが理数科って感じだ。可能な限り見渡すけど氷室くんの姿はない。
「教室にはいないっぽい」
出直そうとしたその時、廊下の奥から女子たちの騒ぐ声が聞こえてきた。よくある光景だ。きっと先にいるのは……
「おいマイマイ、氷室だぞ!」
「え!?氷室くん!?」
こちらへ歩いてくる。オレは教室に入ってうずくまった。
「おい!なんで隠れるだよ!」
「だってむりだもん……」
やっぱりダメだ、怖すぎる。もう泣きたい。藍沢や立花に「はやく行け」と捲し立てられている間に5時間目前の予鈴が鳴った。あと5分で昼休みも終わりだ。
「も、もう行くしかないよな……?」
「こういうのは勢いだぞ、マイマイ」
勢いか……。背中を押されたオレは意を決して理数科へと走り、そのまま氷室くんが座る机へと向かった。教室中の人がなんだこいつと不愉快そうに見る視線が痛い。
「氷室くん……!」
机の前に立ち息切れするオレを氷室くんは怪訝そうに見つめた。そんな怖い目で見ないで。
「あの……これ」
机を一面埋めるほどの大量のお菓子やパン。お詫びの品として急いで購買で買ってきたものだ。
「ほ、本当にすいませんでした!!」
オレはそれだけ言って一目散に退散した。ずっとこの場にいたらおかしくなりそうだ。氷室くんが「なにが?」と口を開きかけた気がしたが、今さら足が止まらない。
「どうでしたか?」
「一応謝ってきたよ……」
教室へ戻り息を整える。これで合っているのかはわからない。もしかして逆に迷惑だったり……?一気に不安になってきた。
「ねえ、舞坂くんっているー?」
「は、はい!え……伊月くん?」
伊月くんはさっき氷室くんにあげたはずのメロンパンをかじっていた。能天気だな。そしてなんで君が食べている?
「やばい、伊月くんだよ!」「伊月くんがこの教室に……」「幸せすぎるー」
目を輝かせる女子たちに伊月くんはニコッと優しい笑みを向ける。氷室くんなんかより、よっぽど王子に見えるよ。白馬の王子。
「あーいたいた!これ!」
そう言って何かを投げつけた。受け取って見ると、さっき氷室くんにあげたクリームパンだった。え、なんで?
「氷室、カスタードは嫌いだってさ!」
それだけ言って伊月くんは去っていった。氷室くん、カスタード嫌いなんだ……
5時間目のチャイムが鳴ると、行き場を失ったクリームパンをさっとカバンに入れて前を向く。
◇
「ごめんなマイマイー」
「すいませんねぇ」
放課後。今日はバイトがあるらしく藍沢と立花は部室に寄らず帰るという。
「全然いいって!気をつけて帰ってー」
「じゃあなー」
今日は水やりだけだし休みでいっか。篠原と柚野にも「今日部活なしで!」とLINEしておいた。
「よっしゃー、やりますか!」
今部室で育てているのはペンタス。白、ピンク、赤、紫のいろんな色がある星型の花で柚野が形がかわいいと推していた。
水やりが終わりしばらく休憩していると、コンコンと扉をノックする音が聞こえた。顧問の中村先生だろうか。
「どうぞー」
部長の藍沢はいないけど、まあいいか。
「先生どうもー。こんにち、わぁっ!!」
中村先生じゃ……ない。オレは目を疑った。
「ひ、氷室くん?」
なんだなんだ?オレを殺しにやってたとか?無言で近づいてくる氷室くんにどんどん後ずさりすると、やがて背中を壁にぶつけた。
「どうすればいい?」
「な、なにがですか……?」
「これ」
氷室くんの手には所々虫に食われてたバジルの苗があった。
バジルは葉が柔らかく香りが強いため虫を寄せ付けやすい。氷室くんは虫に食われた苗を見て対処法を聞きに園芸部を訪れたという。オレは胸を撫で下ろす。そうならそうとはやく言ってよ。心臓に悪い。
「ヨトウムシかな……食酢スプレーをつくるよ」
野菜の苗を育てる時は大体このスプレーで害虫対策をする。水と酢を50:1の割合で混ぜるだけで簡単に作ることができる。たしか去年トマトを育てた時に作ったような……オレは奥の棚にあった霧吹きと酢を手にし、早速スプレー作りに取り掛かる。
「お前園芸部だったんだな」
氷室くんは座って頬杖をつきながらオレの作業を見ていた。
「え、あー、うん」
「そんな緊張すんなよ、やりずらい」
「あ……ごめん」
無理に決まってる!もうすでに色々やらかしてるのにこれ以上失敗して迷惑をかけるのは許されない。とてつもないプレッシャーだ。
「……よし、できた」
「かければいいのか?」
「あ、それじゃちょっと近すぎるよ」
酢は酸性なので薄めていても直にかけすぎるとよくない。オレは氷室くんがスプレーを握る手を掴み、苗から30cmの距離に調節する。
「あっ」
無意識に触れてしまったことに気付き、オレは慌てて手を離した。おいおい気をつけろ!オレ!
「んんっ。こ、このくらいで」
「おう」
「氷室くんの苗に虫がいるなら、近くの他の苗にもいるかも。理数科の苗全体にかけた方がいいかもね……」
出過ぎた真似だっただろうか?チラリと顔を伺うと氷室くんは「そうだな」と頷き立ち上がった。
中庭の理数科のプレートの前。種を植えた時あんなに騒がしかったこの中庭も今日は人がいない。穏やかで優しい空気が漂っていて、向こうのグラウンドでやっている部活の掛け声が時々遠くに聞こえてくる。
「あの花は?」
「ペチュニアだよ。四月に植えたんだ」
濃い紫に薄い紫、そして、白。ひとつひとつの花が重なることなくギチギチに咲き乱れている。
氷室くんは「へぇー」と言いながら花壇の前に腰を下ろした。
「きれいだな」
「そうでしょ!ここに植えてあるやつは紫系の色で統一してるんだ。で、あっちにある花壇にはピンク系でその奥は赤と紫と白が混ざった花が植えてあってそれでー、あっ……」
なに興奮しているんだ。オレは急に恥ずかしくなって下を向いた。
「ごめん。園芸部以外の人に花壇の花褒められたの初めてで……なんかうれしくって」
「たしかにお前のクラスには花に情緒を感じるやつはいなそうだ。花壇を踏み荒らすやつがいるぐらいだしな」
「あの時は本当にありがとう。それと、怪我のこと……ごめん。オレのせいで新体力テスト参加出来なかったんだよね」
氷室くんは目を細める。
「別にお前のせいじゃない」
「え?」
「たしかに怪我はしたけど、俺はあんな軽い捻挫じゃ点数下がんねぇよ」
「じゃあなんで……」
「怪我を言い訳にしてサボっただけだ。だるかったからな」
「それだけ?」
「ああ。そうすりゃ他のやつの順位がひとつずつ上がるし、俺も楽できて一石二鳥だ」
「……氷室くんもサボりたいって思うんだね」
「は?」
共通点なんてない、違う次元にいる人だと思ってた氷室くんが急に近くに感じた。
「オレは運動全然ダメでさ。毎年体力テストの時期は憂うつなんだ。恥ずかしいし、できればやりたくないって思いながらやってる」
自虐混じりに言うオレに氷室くんは「そうか」と一言、笑いはしなかった。
「でも氷室くんはなんでもできるから、オレとは違って楽しんでやってるのかなって思ってた。だからなんかオレたちと同じ感覚っていうか、普通だなーって……」
言っている途中でハッとする。氷室くんが普通だなんてオレはなんてことを!
「ふっ……ははっ」
少しの沈黙の後に氷室くんは「なんだそれ」とわずかに口元を緩ませた。
「…………笑った」
「は?」
「……氷室くんが笑った!」
初めて氷室くんの笑顔を見た。いつも無表情で感情が読み取れない彼の少しこちらを見下すような、だけど優しく包まれるような笑顔。目を合わせていたらその破壊力にきっとオレはどうにかなっていただろう。
オレの視線に気付くと氷室くんはすぐにいつもの氷のような冷たい表情に戻った。さっきまでの笑顔の面影はどこにもない。
「スプレー……助かった」
氷室くんはさっとカバンをもって立ち上がり、「じゃ」と駐輪場の方へと消えていく。
「氷室、くん……」
夕暮れどきの生ぬるい風が吹く。ペチュニアの花が気持ちよさそうになびいていた。
◇
「今からAチームとCチームの試合やるぞー。Bチームは休憩なー」
あれから数日後の体育の授業。キュッキュッと体育館シューズが嫌な音を立て、バレーボールが弾む音が地面に響く。お昼の後の運動は地味にきつい。オレ球技苦手だし。
「おい舞坂!横だ、パスっ!」
「……わぁ!!」
飛んできた球にギリギリまで気付かず、ボールが側頭部に直撃した。視界が揺らぐ。
「舞坂集中しろ!」「なにやってんだ!」
チームメイトの怒号にオレは気合を入れ直す。個人戦にしてほしいと切に願いながら飛び交う球を必死に目で追っていると、相手チームのアタックがオレのいる位置へと飛んできた。きっとチームの弱点がオレであると知っているのだろう。待ってくれ、レシーブの構えを……
「舞坂いけー!」「繋げー!」
……見事に空振った。
「おいマジかよ」「負けたじゃんかー」
「はい、チーム交代ー、次のチーム入って!」
「舞坂くんお疲れ。さっきぶつけてた所大丈夫ですか?」
「立花……うん、大丈夫。いつもこんな感じだし」
醜態を晒すのには慣れている。そのことを恥ずかしいと思わなくなった時、それにとって代わった感情は諦めだった。チームのプラスにはなれなくても足を引っ張ることは避けたかったけどね。
「少し休んだ方がいいですよ。ここ赤くなってますから」
「立花ー、次俺たち試合だぞー」
「はーい」
立花のいるチームはトーナメントを順調に勝ち上がっているらしい。立花は「絶対勝つぞー!」と円陣を組んだ後、「任せたぞ」という声に拳を挙げていた。普段あまり目立つことのない立花だけど、体育の時はみんなに頼りにされ輪の中心にいる。
「よっしゃー勝ったぜ!マイマイ、オレのアタックどうだったよ?」
「え?あー、ごめん見てなかったわ」
「あん?」
「藍沢、さっきマジナイスだったわ!」
「へへ、だろ?」
「だろ?じゃねーよ、ちょっとは謙遜しろ!次も頼むぞー」
「ういー」
藍沢は特別運動が出来るわけではないが、持ち前の愛嬌でみんなと仲良くなれる明るい性格だ。ムードメーカーというのか。
「マイマイ、次はちゃんと見てろよな!」
「わかったよ」
「じゃあ行くわ!」
……みんな輝いてていいな。
藍沢や立花を見てそう思う。普段オレたちは教室の隅で固まって過ごしている仲間だけど、時々2人が遠くに感じる。みんなそれぞれ輝ける場所と自分を証明する武器を持っている。奥のコートに目を移す。あの不良の井上だってやっている事はバカだけど人をまとめられる、それだって才能だ。
でもオレはどうだろうか?オレのもつ武器ってなんだ?オレには運動も勉強も人に誇れることは何もない。輝くみんなのずっと後ろにオレはひとり立っている。すごい、すごいと言いながら、追いつくことはないけれど。
みんながたまらなくうらやましくて恨めしい。
——だから、無数の武器を持っている眩しい一等星を見ると手を伸ばしたくなるのかもしれない。
次の試合を待っている間、オレはぼーっとグラウンドを見つめる。そこでは理数科が同じく体育の授業でサッカーをやっていた。
「うわー、負けたわ。マイマイ試合は?」
「何見てるんですか?」
試合を終えたらしい藍沢と立花が汗を拭いて戻ってくると、オレの見る方に視線を向けた。
「ねえ、氷室くんってかっこいいよね……?」
「……は?」
藍沢と立花は同時に口をぽかんと開ける。
「ん?ま、まあ顔はイケメン……だよな?」
「まあ氷とついても王子と呼ばれてるくらいですからね……?」
何を言っているんだ、という感じで2人は顔を合わせる。やっぱりオレがおかしいんだよな……?
「パスパス!」「おっけー氷室シュートだ」
「いけっ!」「ナイスぅ〜!」
氷室がゴールを決め、チームメイトとハイタッチをして交代した。
体育着、濡れた前髪、水を飲んで湿った唇、首元をスッと流れる汗……なぜか目が離せない。
「最近、オレの目おかしいんだ。氷室くんの周りだけ輝いて見える。キラキラが周りに……なんで?……変なんだ……目薬、いや病院行った方がいいかな……」
「おーい、マイマイ?大丈夫か?」
「舞坂くん!しっかりして下さいよ!」
魂を吸い取られたみたいにぼーっとするオレに正気を取り戻せとばかりに藍沢が大きく肩を揺する。立花はオレの目の前でぶんぶん手を振った。
本当に、なんで?もっと近づきたいと思うのはなんで?
もう認めるしかないのか。
オレは氷室くんのことがす……いや、
氷室くんのことが気になってしょうがないんだ、と。
太陽の光を受けて水滴が残るペチュニアの白い花びらがキラリと光った。花言葉は『淡い恋』である。
