新学期から二ヶ月が経った。桜はいつのまにか散り、深緑の葉が生き生きと生い茂っている。
「よう、少年」
朝教室へ向かう廊下で藍沢が体当たりをする。
「いてっ、藍沢か……おはよ」
「今日来んの早くね?」
「今日の水やり当番オレと立花だから」
「ふーん、オレは日直……立花は?」
「遅刻だろ、どうせ」
オレは寝癖のついたままの髪をぐしゃぐしゃとかいた。朝の水やり当番の日は早い、眠い。
「さすがにもうこの様子にも慣れたな」
藍沢はそう言って横を見る。まだ朝7時だというのにこの教室だけは人がたくさんいて、みんなもれなくテキストを開いてシャーペンを走らせている。2年8組理数科はピリピリとした雰囲気が漂っている。
「オレたちの教室はまだ誰もいないのに……」
ここ香陵高校はひと学年300人ほどで1組から7組が普通科、8組のみ理数科だ。普通科の偏差値はド平均だが理数科は県内私立高校ではトップの偏差値を誇り、毎年入試の倍率が高い。それを突破した人たちなのだから当然といえば当然だけど……
「なんで俺らの教室理数科の隣なんだよ」
「7組だからね……」
「息が詰まるわー」
「おい、普通科。喋るなら自分たちの教室で喋ってくれ」
突然ドンと扉が開かれ理数科の生徒が顔を出す。眉間に皺がよっていて明らかに不愉快そうだ。パッと顔を上げる理数科の生徒たちの視線が痛い。
「あ?オレたちの名前は普通科じゃ、」
「い、いいから藍沢。早く行こ」
どの学年も普通科と理数科は仲が悪い。理数科は普通科をバカにしている節があるし、普通科は理数科をガリ勉だと非難する。
オレは身を乗り出す藍沢を左手で制止してそのまま教室に引きずり込んだ。理数科と揉めるなんて嫌だ。勝ち目なんかないんだし。
「感じ悪。なんだあれ」
藍沢は理数科の方向を睨む。
「じゃ、じゃあオレ部室行ってくるから」
廊下に出ると、進級してすぐにやった定期テストの結果が張り出されていたのが目に入った。オレは野次馬的な気持ちで立ち止まった。
「最高得点、350点満点中342点……氷室澄生」
始業式で代表として挨拶をしていた氷室という人は相変わらず天才らしい。理数科と教室は隣だけど、さっきみたいに絡まれるのが怖くてオレはいつも理数科の前を通る時は早歩きで、極力教室を見ないようにしている。
あの始業式の日から氷室の姿は見かけないけど、さっき教室にいたのかな。
校舎一階の隅がオレの所属する園芸部の部室だ。扉が重くて動かしづらい。踏んだって扉を開けるとガラス窓がギギギと嫌な音を立てながら動いた。
「おはようございます、先輩」
「おはよう柚野。あれ?今日の当番はオレと立花だけど」
「はい、でもどうせ立花先輩来ないと思って手伝いに来ました」
「ありがとな」
いえいえ、と首を振る柚野のボブ髪が揺れる。机の隙間からもひょこっともう1人顔を出すのが見えた。
「おはよーっす、先輩!」
「篠原か、おはよう」
部員が少なくて存続が怪しまれていた園芸部だったが柚野と篠原が入ってくれたおかげで廃部危機を脱した。オレに藍沢、立花、柚野、篠原。五人で学校内の花壇を運営している。
「先輩ー、どうします?次の花、何植えます?」
水やりが終わりしばらくダラダラしていると篠原が土を掘り起こしながら間延びした声で聞いた。
「んー、どうしようかな……」
「部長に聞いたら舞坂先輩に聞けって言われますし、立花先輩はなんでもいいって言いますし、もうマイマイ先輩が決めちゃっていいんじゃないっすか?」
藍沢……あいつ部長のくせに!
「そうだね……ん?なにこれ?」
オレは奥の棚を指差した。園芸部の教室は半分倉庫と化しており、先生やら生徒会やらが使わなくなった荷物を置いていく。ここはゴミ捨て場じゃない!そこには何に使ったのかよく分からないポールに捨てても良さそうな書類の束、木の板やプラスチックのカゴなどが折り重なって埃をかぶっている。
「ああ、このプラスチックコンテナを二年の職員室に持って行ってほしいそうです。今日の総合の授業で使うやつみたいですよ。300人分のバジルの種です」
「バジル……?」
「二年生は夏までバジルを育てるんだとか」
柚野は種の入った袋をしゃかしゃか振ってニコリと笑った。
「なるほど……なぜバジル?」
「さぁ?育てやすいんすかね。そうそう先輩、バジルにも花言葉があるんです、知ってます?」
篠原がマリーゴールドに水をやりながら言う。室内で育てているマリーゴールドは黄色、オレンジ、赤など部室を彩る。
「バジルの花言葉?いや、知らないけど……」
キーンコーンカーンコーン♪
教えて、と言う前にチャイムが鳴ってしまった。
「あ、予鈴だ。じゃ、先輩放課後に!」
時計は8時5分を指している。二人は手を振りながら部室を出て行った。
「よし、オレもいくか」
オレはカバンと300人分のバジルの種が入ったコンテナを抱えた。
「まったく、オレは便利屋じゃないっての」
朝のホームルームまであと数分。意外と重い荷物にぶつぶつ言いながらコンテナで視界が悪い中、駆け足で階段を降りていた。
ドタンっ!!
「うわぁっ!!」
嫌な予感がした。勢いよく階段を踏み外したオレは前を降りていたらしい男子に勢いよく全身でドンとぶつかり、大勢を崩す。
「痛っ……す、すいません!大丈……」
え?え!え!?
オレはぶつかった男子の脚の間にいて、前傾姿勢で両手を床についていた。ゆっくりと目を開けるとありえないほど整った顔が10cm先にある。
この人って……
こちらを睨みつける鋭い目、真っ黒な髪。着崩さずに着た制服。名札に刻まれている名前は……『氷室澄生』
や、やってしまった!!!!
「ほ、ほんとにすいません!あ、頭大丈夫ですか?」
「……は?」
ミスった!
「いや、違くて!頭大丈夫ですかっていうのはそういう意味じゃなくて、け、怪我とかしなかったっていう意味で、えっと……」
何言ってるんだオレは!
ひどい惨事だ……この学校の天才高校生を押し倒し、わけのわからないことを言い、頼まれた荷物をひっくり返す……
辺りを見渡すとバジルの種とコンテナ、教科書に授業ノート、筆箱、イヤホン、スマホ、植物図鑑や園芸辞典などものが散乱している。
こちらを睨みつけ続ける彼はただ無言でこちらを見つめる。彼の目に反射した自分の姿が映っていて瞳の中に囚われたみたいに動けなくなる。息切れすら覚える圧倒的な力。冷たい氷に刺されたようだ。
なに?この空間だけ冬?無音の空間にしばらく2人の視線が絡み合う。
「……邪魔なんだけど」
「え?」
彼は舌打ちをしてぐいっとオレを押し退けた。我に返ったオレは慌てて立ち上がり、踊り場の端に避ける。彼は不愉快そうに足元に落ちている種の袋数枚とカバンを拾ってオレに押し付けた後、わざとらしく足音を立てながら階段を降りていった。
終わった……
しばらく途方に暮れていたオレはきっと絶望の顔をしていただろう。辺りに転がっているものを一つずつ拾っていき園芸辞典に手を伸ばすと、偶然ページはバジルの項目を開いていた。
インド原産のシソ科の一年草。バジルの語源はバシレウスで王のハーブと呼ばれ、古代ギリシャでは神に捧げられてきた植物。そのためバジルが元気に育つと良いことが起こる前兆だと信じられてきた。
花言葉は「好意」「神聖」……『なんという幸運』
「いや、まさかね」
少女漫画じゃないんだから。オレが氷室に見合う絶世の美女ならきっと恋が始まっていただろうが現実はそう上手くできていない。オレは邪念を振り払うようにぶんぶん頭を振りながら教室へと走った。
◇
「今日から総合の時間はバジルを育てます」
六時間目。今まで自己紹介や進路調査をしていたこの総合の時間は今日から新しいテーマに入る。
校舎の中庭のあちこちに二年生が集まっている。それぞれ自分たちの組が書かれたプレートのところで育てるという。
「つまんな」「ただの葉っぱじゃん」「どうでもいいから帰りたいんだけど」「だるー」
そうかな?考えたくない進路を無理やり考えされられるよりマシだと思うけど。
クラスメイトが口々に文句をいいながら手持ち無沙汰にペットボトルをいじる様子にオレは首をかしげた。
「はいまずはペットボトルを半分に切って、ここにある土を入れて下さい。それから配った種をまきます。はい、じゃあ始めてください。」
クラスメイトたちは一斉に入り乱れる。みんなバジルを育てるよりもお喋りできるのがうれしそうだった。
「おっしゃーマイマイ一緒にやろうぜ」
「部活で園芸やってるのにこの授業でも園芸ですか」
藍沢と立花が種を持ってやってきた。
この中庭にもいくつか花壇があり、オレたち園芸部が管理している。今咲いているのはチューリップとパンジーで春から育ててきたものだ。こうやってみると本当にきれいに咲いていて、毎日お世話をしてきたからか愛着がある。かわいい、また写真撮ろ。
「あそういえばお前、今日朝の水やりサボったろ」
オレパンジーを見て思い出し、立花を睨む。
「あ、ごめんごめん。電車に乗り遅れてしまってねぇ。ジュース奢るから許してくださいよ」
「柚野と篠原にも奢れよ」
「ついでに俺も!」
「藍沢くんは関係ないですよ」
「いいじゃんかー」
全く反省してなさそうな立花に若干イライラしながらもペットボトルに土を詰めていく。
「てかマイマイ、朝教室戻ったのめっちゃギリギリだったよな」
「あー、部室から戻る途中で事故って……」
「え、大丈夫ですか?」
「まあ怪我とかはしなかったしギリ教室間に合ったから良かったけど、ただ……」
「ただ……?」
「階段で下を降りてた人にぶつかったんだ」
「え?誰?女子?」
藍沢はなぜか目をキラキラしながら聞いてくる。ロマンスなんか始まんないよ。期待外れですまんな。
「そ、それがさ」
朝のことを思い出し、恥ずかしくて死にたくなる。恥ずかしいさに絶対にしてはいけないミスをしてしまった自責の念とでオレの心はぐちゃぐちゃだ。
「ぶつかったの……氷室くんなんだ」
しばらく沈黙が流れる。
「ええ!?」
「氷室ってあの氷室?」
「氷王子ですよね?」
オレは無言で頷くしかない。
藍沢と立花はやってしまったなこいつと言わんばかりに口をあんぐりと開けた。
「お、お前」
「舞坂くん……」
オレはため息をついて地面に腰を下ろした。やってしまったことはしょうがない。これから絶対に氷室くんの視界に入らないようさらに細々とダンゴムシのように生きていこう。
「ああ、だからか……ん?危ないっ!!」
立花が叫んだ。彼が大きな声を出すことは珍しい。なんだと声の方を見た瞬間、細かい砂のようなものが顔全体に降りかかった。目に入って痛い、なんだこれは?
「うっ」
「マイマイ大丈夫か?」
「大丈夫ですか?舞坂くん」
目を開けると制服が土にまみれて汚れている。飛んできたのは土か。
「井上たちだよ。さっきからペットボトルで叩いたり、土投げて遊んでる」
藍沢が遠くを指差した。
クラスメイトの井上は言っちゃ悪いが不真面目な生徒だ。校則ガン無視の制服スタイルに髪型、オレが絶対に関わりたくないタイプの不良である。
彼らは落ちていたテニスボールとペットボトルで野球みたいにして遊んでいるようだった。
「僕が注意してきましょうか?」
「いや、やめとけ。関わると面倒なことになる」
藍沢はオレについた土を払いながら言った。井上たちはオレのことを全く気にすることなく大きな笑い声を上げながらペットボトルを振り回す。
気にするのはやめよう、時間の無駄だ。そう思って作業に戻ろうとした時、「うぇーい!!」とはやしたてる声が聞こえてきた。
「……はッ!!」
見ると、井上は花壇の"中"で尻もちをついていた。遊びに夢中になるあまり、花壇に足を踏み入れたのに気付かずそのまま転んだのだろう。花壇の土はふかふかに手入れしてある。足を取られたんだ。
「おい!なんだよこれ!制服が汚れた!」
井上は不機嫌そうに花を潰した。
「ハハっおい、お花が可哀想だろ」「負けんな井上!!」「花に謝れ!」「気にすんな行けー」
「ハハハ!ダサすぎ。はい、お前一点負けな」
「もう一回だ小林!やるぞ!」
「うぇーい!!」「やれー井上!」「倒せー!」
井上たちは再び野球を始める。誰も花壇を気に留めるようすもない。何事もなかったようにギャーギャーと騒いでるその横でパンジーは引きちぎられて横たわっていた。突然住処を荒らされた花たちは何かを訴えるようにこちらを見つめているように見えた。
「許せないッ……」
オレは怒りのマグマが体を満たしていくのが分かった。オレたちが大切に大切に育てた花だ。それを踏み潰しといてなんで笑ってる?
オレは「やめとけよ」と止める藍沢の手を振りほどいて井上たち輪へと向かった。
「井上!!」
大声は慣れないのか声が震えていた。オレの声に中庭にいた他クラスの人までも一斉にこちらを振り返るのが分かった。一気に注目の的になったオレは軽い息切れを覚えたがここでやめるわけにはいかない。
「あ?なんだよ」
井上は舌打ちをしながら近づいてきた。身長180cmの大きな図体に震える拳をギュッと握りなおす。
「……花壇を荒らしたろ」
思ったより声が出ない。
「は?聞こえねーよ」
小林やクラスメイトはバカにしたように笑った。
「パンジーを踏み潰したろ?」
「だから?」
だから……?オレはマグマが頭の最頂部に到達するのを感じた。バカなのかこいつ。
「なんか言うことないのかよ!」
語気を強めて言ったが、井上はハハッと嘲笑し反省する様子もない。オレは再び野球の構えをしようとする井上からペットボトルを奪い取った。
「おい!何なんだよ!ふざけんなよお前!!」
井上の怒りのスイッチが入ったようだ。鬼の形相でこちらへ向かってくる。小林とその周りにいた人たちがオレの周りを取り囲んだ。
これじゃもう逃げれないじゃないか。いや逃げない。いや、でも……
急に恐ろしくなった。クラスの端っこにいるオレが実質クラスを仕切っている不良集団に囲まれている図。オレはペットボトルを絶対に離すまいと胸に抱えた。
「ししゃってくんなよ陰キャが!」「黙っとけ!」
しばらくペットボトルの取り合いをしていたが、やはり体や力が大きなやつには勝てない。オレは平均の男子高校生より小柄だし、運動ができるわけでもない。オレは奪い取られた反動でドンと盛大に尻もちをついて転んだ。
「へっ、ざまあみやがれ」
井上たち集団はギャハハハと笑いながら再び野球をし始めた。悔しくて目の奥から温かいものが上がってくるのを必死に抑える。
一部始終を見ていた人たちも気まずそうに解散していた。うん、そうだよな。井上たちが間違っていたとしても誰もあいつらに言えない。下手したら自分が攻撃を受けるかもしれないのだから。
ごめん、オレは心の中で謝りながらぐちゃぐちゃになったパンジーを手で集め、靴跡のついた土を平らにならした。
藍沢と立花が駆け寄り肩に手を置く。気にするなと言っているような気がした。オレは唇を噛み締めたまま、溢れ出す怒りと悲しみが混じった複雑な感情を抑え込んだ。
バンっ!!!
「え?今度はなに?」「またケンカ?もうやめてよー」
突然の大きな音に咄嗟に振り返る。
「どうしたの?」「ねえちょっと待って、あれって……」
「おい」
そこにいる誰もが息を呑んだ。初夏の清々しい空気を一瞬で凍てつかせるこの声は……
「何やってんの」
氷室だ。
「ひ、氷室……俺は何もし、してない」
さっきまでの威勢はどこへやら氷室の冷たい視線に刺された井上は目を泳がせる。氷室が蹴り飛ばしたらしいバケツが井上の足にぶつかって止まった。
「さっきからくだらないことばっかしてんなよ。さっさと退け。そこは俺たちの場所だ」
井上たちの後ろには『8組理数科』のプレートが立っている。
「ヒィッ!!」
井上は後ろを振り返った瞬間情けない声を上げ、慌ただしく去ろうとするが次の瞬間、誰かが投げたらしいペットボトルを頭に受け、そのまま倒れた。ぱこんと乾いた音が中庭に響く。
「うわあ、ごめんごめん。そんなに強く当てるつもりじゃなかったんだけど、へへ」
頭をかきながら氷室の後ろから出てきたのは茶髪のくるくるヘアの男子。その後ろにたくさんの生徒が横並びになってこちらを見ていた。
「まって、理数科だよ全員」誰かのその一言で井上たち不良集団は青ざめる。周りのギャラリーは場違いにも氷室の登場に沸いていた。氷室は表情ひとつ変えることなく井上に近づく。
「ひ、氷室……これは、その、わ、悪かった」
「さすがは普通科だな、バカばっかり。いいからそこの花壇掃除しとけ。あとそいつにも謝っとけ」
氷室はオレを指差した。
「……は、はい」
氷室の命令を断れるはずもなく不良たちは花壇を掃除し始めた。幼稚園児がいたずらをして先生に怒られた後みたいな空気。
「ま、舞坂」
井上のオレを呼ぶ声は弱々しい。ほんとにさっきとおんなじ人?見上げると苦虫を噛み潰したような顔をした井上がぎこちなく頭を下げた。
「悪かった」
「え?ああ、うん」
せっかく謝ってくれたがオレは違うことを考えていた。
「マイマイ!?」
藍沢が呼ぶ声も遠くに聞こえる。なんでだろう?なんでオレは氷室を追いかけているんだ?ほとんど無意識に走り出していた。
「氷室くん!!」
人気のない廊下でやっと追いつき、呼び止める。氷室は眉間に皺を寄せ、めんどくさそうに振り向いた。
「ん?あれー?さっきの人じゃん」
ペットボトルを投げつけた茶髪の男子。胸元に目を落とすと『伊月瑠偉(いづきるい)』とある。なるほど同じクラスか、氷室くんの友達?
「おい急に走るなって。待ってくれよ」
藍沢と立花が息を切らして追いつく。息を整えながらこの状況はなんだと困惑の表情だ。
「あの……ありがとう」
氷室くんにそう一言、それ以外の言葉は出てこなかった。本当はもっと何か言いたかったけど氷室くんを目の前に何も言えなくなる。氷室くんじゃなくても人と目を合わせると大体こうなるのは陰キャの特性だ。
数秒の沈黙がとても長く感じた。
「……それで?」
「え?ああ、えっと、それだけ。オレはただ、お礼を言いたくて」
「俺はお前に文句を言いたい」
「……へ?」
思わぬ回答にオレの頭の中は無数のはてなで埋め尽くされた。俺が井上に負けたから?ダサかったから?
考えを巡らせていると氷室はポケットの中から一枚の紙を取り出してオレの目の前に突きつけた。
「遅刻届、6月7日……今日?」
香陵高校の登校時間は朝8時15分である。その時間までに教室に入れなかった生徒は職員室に行き、遅刻届を記入して学年主任の先生に届け出なければならない。たとえ一秒でも遅れたらアウトだ。
氷室が遅刻?今日?ま、まさか……
オレは全身から血の気が引いていくのを感じた。朝の出来事がフラッシュバックする。
「お前のせいで遅刻した」
氷室は左足を前に出し裾を上げる。足首には湿布とテーピングが巻かれていた。
足を捻って保健室に行ったから遅刻したのか……
「あっ、あっ、えっ、と……」
なんてことをしてしまったんだオレは!!今すぐにでも自分をぶん殴りたい。この国宝級天才高校生に怪我をさせて、オレはなんてことを!
「これで俺の内申点が下がったらお前のせいだからな」
氷室はそう吐き捨て、教室へ帰っていった。口を開けたまま途方に暮れていると伊月が「おーい」とオレの前で手を振る。
「まあ、気にするなよ。氷室の成績じゃ1回の遅刻なんかどうってことないから」
そんなこと言われても……いやそんなんだろうけど!
「じゃ、またな。舞坂くんっ」
伊月はチラッと名札を見てからオレの肩をポンと叩いて去っていった。
「ま、マイマイ?大丈夫か?」
「え、あ、うん」
全然大丈夫じゃない。
「おかしいと思ったんですよ。今日朝職員室に行ったら氷室くんが遅刻届を書いてたんで」
遅刻常習犯の立花は氷室が遅刻してたの知ってたのか。
「おい立花!なんでそれをはやく言ってくれなかったんだよ」
「え?」
「氷室に怪我させたなんて知られたら確実に殺されるよ……社会的に」
「氷室のファンは多いからな」
「最悪だぁ……」
急に脚の力が抜けて床にぺたりと座り込んだ。
「強く生きろよ、マイマイ」
キーンコーンカーンコーン♪
まるでオレの学校生活の終了を告げるチャイムだ。
——オレたちの出会いは最悪だった。平凡だったオレの学校生活はこの日から徐々に崩れ始める。
【第一話】なんという……幸運!? 完
「よう、少年」
朝教室へ向かう廊下で藍沢が体当たりをする。
「いてっ、藍沢か……おはよ」
「今日来んの早くね?」
「今日の水やり当番オレと立花だから」
「ふーん、オレは日直……立花は?」
「遅刻だろ、どうせ」
オレは寝癖のついたままの髪をぐしゃぐしゃとかいた。朝の水やり当番の日は早い、眠い。
「さすがにもうこの様子にも慣れたな」
藍沢はそう言って横を見る。まだ朝7時だというのにこの教室だけは人がたくさんいて、みんなもれなくテキストを開いてシャーペンを走らせている。2年8組理数科はピリピリとした雰囲気が漂っている。
「オレたちの教室はまだ誰もいないのに……」
ここ香陵高校はひと学年300人ほどで1組から7組が普通科、8組のみ理数科だ。普通科の偏差値はド平均だが理数科は県内私立高校ではトップの偏差値を誇り、毎年入試の倍率が高い。それを突破した人たちなのだから当然といえば当然だけど……
「なんで俺らの教室理数科の隣なんだよ」
「7組だからね……」
「息が詰まるわー」
「おい、普通科。喋るなら自分たちの教室で喋ってくれ」
突然ドンと扉が開かれ理数科の生徒が顔を出す。眉間に皺がよっていて明らかに不愉快そうだ。パッと顔を上げる理数科の生徒たちの視線が痛い。
「あ?オレたちの名前は普通科じゃ、」
「い、いいから藍沢。早く行こ」
どの学年も普通科と理数科は仲が悪い。理数科は普通科をバカにしている節があるし、普通科は理数科をガリ勉だと非難する。
オレは身を乗り出す藍沢を左手で制止してそのまま教室に引きずり込んだ。理数科と揉めるなんて嫌だ。勝ち目なんかないんだし。
「感じ悪。なんだあれ」
藍沢は理数科の方向を睨む。
「じゃ、じゃあオレ部室行ってくるから」
廊下に出ると、進級してすぐにやった定期テストの結果が張り出されていたのが目に入った。オレは野次馬的な気持ちで立ち止まった。
「最高得点、350点満点中342点……氷室澄生」
始業式で代表として挨拶をしていた氷室という人は相変わらず天才らしい。理数科と教室は隣だけど、さっきみたいに絡まれるのが怖くてオレはいつも理数科の前を通る時は早歩きで、極力教室を見ないようにしている。
あの始業式の日から氷室の姿は見かけないけど、さっき教室にいたのかな。
校舎一階の隅がオレの所属する園芸部の部室だ。扉が重くて動かしづらい。踏んだって扉を開けるとガラス窓がギギギと嫌な音を立てながら動いた。
「おはようございます、先輩」
「おはよう柚野。あれ?今日の当番はオレと立花だけど」
「はい、でもどうせ立花先輩来ないと思って手伝いに来ました」
「ありがとな」
いえいえ、と首を振る柚野のボブ髪が揺れる。机の隙間からもひょこっともう1人顔を出すのが見えた。
「おはよーっす、先輩!」
「篠原か、おはよう」
部員が少なくて存続が怪しまれていた園芸部だったが柚野と篠原が入ってくれたおかげで廃部危機を脱した。オレに藍沢、立花、柚野、篠原。五人で学校内の花壇を運営している。
「先輩ー、どうします?次の花、何植えます?」
水やりが終わりしばらくダラダラしていると篠原が土を掘り起こしながら間延びした声で聞いた。
「んー、どうしようかな……」
「部長に聞いたら舞坂先輩に聞けって言われますし、立花先輩はなんでもいいって言いますし、もうマイマイ先輩が決めちゃっていいんじゃないっすか?」
藍沢……あいつ部長のくせに!
「そうだね……ん?なにこれ?」
オレは奥の棚を指差した。園芸部の教室は半分倉庫と化しており、先生やら生徒会やらが使わなくなった荷物を置いていく。ここはゴミ捨て場じゃない!そこには何に使ったのかよく分からないポールに捨てても良さそうな書類の束、木の板やプラスチックのカゴなどが折り重なって埃をかぶっている。
「ああ、このプラスチックコンテナを二年の職員室に持って行ってほしいそうです。今日の総合の授業で使うやつみたいですよ。300人分のバジルの種です」
「バジル……?」
「二年生は夏までバジルを育てるんだとか」
柚野は種の入った袋をしゃかしゃか振ってニコリと笑った。
「なるほど……なぜバジル?」
「さぁ?育てやすいんすかね。そうそう先輩、バジルにも花言葉があるんです、知ってます?」
篠原がマリーゴールドに水をやりながら言う。室内で育てているマリーゴールドは黄色、オレンジ、赤など部室を彩る。
「バジルの花言葉?いや、知らないけど……」
キーンコーンカーンコーン♪
教えて、と言う前にチャイムが鳴ってしまった。
「あ、予鈴だ。じゃ、先輩放課後に!」
時計は8時5分を指している。二人は手を振りながら部室を出て行った。
「よし、オレもいくか」
オレはカバンと300人分のバジルの種が入ったコンテナを抱えた。
「まったく、オレは便利屋じゃないっての」
朝のホームルームまであと数分。意外と重い荷物にぶつぶつ言いながらコンテナで視界が悪い中、駆け足で階段を降りていた。
ドタンっ!!
「うわぁっ!!」
嫌な予感がした。勢いよく階段を踏み外したオレは前を降りていたらしい男子に勢いよく全身でドンとぶつかり、大勢を崩す。
「痛っ……す、すいません!大丈……」
え?え!え!?
オレはぶつかった男子の脚の間にいて、前傾姿勢で両手を床についていた。ゆっくりと目を開けるとありえないほど整った顔が10cm先にある。
この人って……
こちらを睨みつける鋭い目、真っ黒な髪。着崩さずに着た制服。名札に刻まれている名前は……『氷室澄生』
や、やってしまった!!!!
「ほ、ほんとにすいません!あ、頭大丈夫ですか?」
「……は?」
ミスった!
「いや、違くて!頭大丈夫ですかっていうのはそういう意味じゃなくて、け、怪我とかしなかったっていう意味で、えっと……」
何言ってるんだオレは!
ひどい惨事だ……この学校の天才高校生を押し倒し、わけのわからないことを言い、頼まれた荷物をひっくり返す……
辺りを見渡すとバジルの種とコンテナ、教科書に授業ノート、筆箱、イヤホン、スマホ、植物図鑑や園芸辞典などものが散乱している。
こちらを睨みつけ続ける彼はただ無言でこちらを見つめる。彼の目に反射した自分の姿が映っていて瞳の中に囚われたみたいに動けなくなる。息切れすら覚える圧倒的な力。冷たい氷に刺されたようだ。
なに?この空間だけ冬?無音の空間にしばらく2人の視線が絡み合う。
「……邪魔なんだけど」
「え?」
彼は舌打ちをしてぐいっとオレを押し退けた。我に返ったオレは慌てて立ち上がり、踊り場の端に避ける。彼は不愉快そうに足元に落ちている種の袋数枚とカバンを拾ってオレに押し付けた後、わざとらしく足音を立てながら階段を降りていった。
終わった……
しばらく途方に暮れていたオレはきっと絶望の顔をしていただろう。辺りに転がっているものを一つずつ拾っていき園芸辞典に手を伸ばすと、偶然ページはバジルの項目を開いていた。
インド原産のシソ科の一年草。バジルの語源はバシレウスで王のハーブと呼ばれ、古代ギリシャでは神に捧げられてきた植物。そのためバジルが元気に育つと良いことが起こる前兆だと信じられてきた。
花言葉は「好意」「神聖」……『なんという幸運』
「いや、まさかね」
少女漫画じゃないんだから。オレが氷室に見合う絶世の美女ならきっと恋が始まっていただろうが現実はそう上手くできていない。オレは邪念を振り払うようにぶんぶん頭を振りながら教室へと走った。
◇
「今日から総合の時間はバジルを育てます」
六時間目。今まで自己紹介や進路調査をしていたこの総合の時間は今日から新しいテーマに入る。
校舎の中庭のあちこちに二年生が集まっている。それぞれ自分たちの組が書かれたプレートのところで育てるという。
「つまんな」「ただの葉っぱじゃん」「どうでもいいから帰りたいんだけど」「だるー」
そうかな?考えたくない進路を無理やり考えされられるよりマシだと思うけど。
クラスメイトが口々に文句をいいながら手持ち無沙汰にペットボトルをいじる様子にオレは首をかしげた。
「はいまずはペットボトルを半分に切って、ここにある土を入れて下さい。それから配った種をまきます。はい、じゃあ始めてください。」
クラスメイトたちは一斉に入り乱れる。みんなバジルを育てるよりもお喋りできるのがうれしそうだった。
「おっしゃーマイマイ一緒にやろうぜ」
「部活で園芸やってるのにこの授業でも園芸ですか」
藍沢と立花が種を持ってやってきた。
この中庭にもいくつか花壇があり、オレたち園芸部が管理している。今咲いているのはチューリップとパンジーで春から育ててきたものだ。こうやってみると本当にきれいに咲いていて、毎日お世話をしてきたからか愛着がある。かわいい、また写真撮ろ。
「あそういえばお前、今日朝の水やりサボったろ」
オレパンジーを見て思い出し、立花を睨む。
「あ、ごめんごめん。電車に乗り遅れてしまってねぇ。ジュース奢るから許してくださいよ」
「柚野と篠原にも奢れよ」
「ついでに俺も!」
「藍沢くんは関係ないですよ」
「いいじゃんかー」
全く反省してなさそうな立花に若干イライラしながらもペットボトルに土を詰めていく。
「てかマイマイ、朝教室戻ったのめっちゃギリギリだったよな」
「あー、部室から戻る途中で事故って……」
「え、大丈夫ですか?」
「まあ怪我とかはしなかったしギリ教室間に合ったから良かったけど、ただ……」
「ただ……?」
「階段で下を降りてた人にぶつかったんだ」
「え?誰?女子?」
藍沢はなぜか目をキラキラしながら聞いてくる。ロマンスなんか始まんないよ。期待外れですまんな。
「そ、それがさ」
朝のことを思い出し、恥ずかしくて死にたくなる。恥ずかしいさに絶対にしてはいけないミスをしてしまった自責の念とでオレの心はぐちゃぐちゃだ。
「ぶつかったの……氷室くんなんだ」
しばらく沈黙が流れる。
「ええ!?」
「氷室ってあの氷室?」
「氷王子ですよね?」
オレは無言で頷くしかない。
藍沢と立花はやってしまったなこいつと言わんばかりに口をあんぐりと開けた。
「お、お前」
「舞坂くん……」
オレはため息をついて地面に腰を下ろした。やってしまったことはしょうがない。これから絶対に氷室くんの視界に入らないようさらに細々とダンゴムシのように生きていこう。
「ああ、だからか……ん?危ないっ!!」
立花が叫んだ。彼が大きな声を出すことは珍しい。なんだと声の方を見た瞬間、細かい砂のようなものが顔全体に降りかかった。目に入って痛い、なんだこれは?
「うっ」
「マイマイ大丈夫か?」
「大丈夫ですか?舞坂くん」
目を開けると制服が土にまみれて汚れている。飛んできたのは土か。
「井上たちだよ。さっきからペットボトルで叩いたり、土投げて遊んでる」
藍沢が遠くを指差した。
クラスメイトの井上は言っちゃ悪いが不真面目な生徒だ。校則ガン無視の制服スタイルに髪型、オレが絶対に関わりたくないタイプの不良である。
彼らは落ちていたテニスボールとペットボトルで野球みたいにして遊んでいるようだった。
「僕が注意してきましょうか?」
「いや、やめとけ。関わると面倒なことになる」
藍沢はオレについた土を払いながら言った。井上たちはオレのことを全く気にすることなく大きな笑い声を上げながらペットボトルを振り回す。
気にするのはやめよう、時間の無駄だ。そう思って作業に戻ろうとした時、「うぇーい!!」とはやしたてる声が聞こえてきた。
「……はッ!!」
見ると、井上は花壇の"中"で尻もちをついていた。遊びに夢中になるあまり、花壇に足を踏み入れたのに気付かずそのまま転んだのだろう。花壇の土はふかふかに手入れしてある。足を取られたんだ。
「おい!なんだよこれ!制服が汚れた!」
井上は不機嫌そうに花を潰した。
「ハハっおい、お花が可哀想だろ」「負けんな井上!!」「花に謝れ!」「気にすんな行けー」
「ハハハ!ダサすぎ。はい、お前一点負けな」
「もう一回だ小林!やるぞ!」
「うぇーい!!」「やれー井上!」「倒せー!」
井上たちは再び野球を始める。誰も花壇を気に留めるようすもない。何事もなかったようにギャーギャーと騒いでるその横でパンジーは引きちぎられて横たわっていた。突然住処を荒らされた花たちは何かを訴えるようにこちらを見つめているように見えた。
「許せないッ……」
オレは怒りのマグマが体を満たしていくのが分かった。オレたちが大切に大切に育てた花だ。それを踏み潰しといてなんで笑ってる?
オレは「やめとけよ」と止める藍沢の手を振りほどいて井上たち輪へと向かった。
「井上!!」
大声は慣れないのか声が震えていた。オレの声に中庭にいた他クラスの人までも一斉にこちらを振り返るのが分かった。一気に注目の的になったオレは軽い息切れを覚えたがここでやめるわけにはいかない。
「あ?なんだよ」
井上は舌打ちをしながら近づいてきた。身長180cmの大きな図体に震える拳をギュッと握りなおす。
「……花壇を荒らしたろ」
思ったより声が出ない。
「は?聞こえねーよ」
小林やクラスメイトはバカにしたように笑った。
「パンジーを踏み潰したろ?」
「だから?」
だから……?オレはマグマが頭の最頂部に到達するのを感じた。バカなのかこいつ。
「なんか言うことないのかよ!」
語気を強めて言ったが、井上はハハッと嘲笑し反省する様子もない。オレは再び野球の構えをしようとする井上からペットボトルを奪い取った。
「おい!何なんだよ!ふざけんなよお前!!」
井上の怒りのスイッチが入ったようだ。鬼の形相でこちらへ向かってくる。小林とその周りにいた人たちがオレの周りを取り囲んだ。
これじゃもう逃げれないじゃないか。いや逃げない。いや、でも……
急に恐ろしくなった。クラスの端っこにいるオレが実質クラスを仕切っている不良集団に囲まれている図。オレはペットボトルを絶対に離すまいと胸に抱えた。
「ししゃってくんなよ陰キャが!」「黙っとけ!」
しばらくペットボトルの取り合いをしていたが、やはり体や力が大きなやつには勝てない。オレは平均の男子高校生より小柄だし、運動ができるわけでもない。オレは奪い取られた反動でドンと盛大に尻もちをついて転んだ。
「へっ、ざまあみやがれ」
井上たち集団はギャハハハと笑いながら再び野球をし始めた。悔しくて目の奥から温かいものが上がってくるのを必死に抑える。
一部始終を見ていた人たちも気まずそうに解散していた。うん、そうだよな。井上たちが間違っていたとしても誰もあいつらに言えない。下手したら自分が攻撃を受けるかもしれないのだから。
ごめん、オレは心の中で謝りながらぐちゃぐちゃになったパンジーを手で集め、靴跡のついた土を平らにならした。
藍沢と立花が駆け寄り肩に手を置く。気にするなと言っているような気がした。オレは唇を噛み締めたまま、溢れ出す怒りと悲しみが混じった複雑な感情を抑え込んだ。
バンっ!!!
「え?今度はなに?」「またケンカ?もうやめてよー」
突然の大きな音に咄嗟に振り返る。
「どうしたの?」「ねえちょっと待って、あれって……」
「おい」
そこにいる誰もが息を呑んだ。初夏の清々しい空気を一瞬で凍てつかせるこの声は……
「何やってんの」
氷室だ。
「ひ、氷室……俺は何もし、してない」
さっきまでの威勢はどこへやら氷室の冷たい視線に刺された井上は目を泳がせる。氷室が蹴り飛ばしたらしいバケツが井上の足にぶつかって止まった。
「さっきからくだらないことばっかしてんなよ。さっさと退け。そこは俺たちの場所だ」
井上たちの後ろには『8組理数科』のプレートが立っている。
「ヒィッ!!」
井上は後ろを振り返った瞬間情けない声を上げ、慌ただしく去ろうとするが次の瞬間、誰かが投げたらしいペットボトルを頭に受け、そのまま倒れた。ぱこんと乾いた音が中庭に響く。
「うわあ、ごめんごめん。そんなに強く当てるつもりじゃなかったんだけど、へへ」
頭をかきながら氷室の後ろから出てきたのは茶髪のくるくるヘアの男子。その後ろにたくさんの生徒が横並びになってこちらを見ていた。
「まって、理数科だよ全員」誰かのその一言で井上たち不良集団は青ざめる。周りのギャラリーは場違いにも氷室の登場に沸いていた。氷室は表情ひとつ変えることなく井上に近づく。
「ひ、氷室……これは、その、わ、悪かった」
「さすがは普通科だな、バカばっかり。いいからそこの花壇掃除しとけ。あとそいつにも謝っとけ」
氷室はオレを指差した。
「……は、はい」
氷室の命令を断れるはずもなく不良たちは花壇を掃除し始めた。幼稚園児がいたずらをして先生に怒られた後みたいな空気。
「ま、舞坂」
井上のオレを呼ぶ声は弱々しい。ほんとにさっきとおんなじ人?見上げると苦虫を噛み潰したような顔をした井上がぎこちなく頭を下げた。
「悪かった」
「え?ああ、うん」
せっかく謝ってくれたがオレは違うことを考えていた。
「マイマイ!?」
藍沢が呼ぶ声も遠くに聞こえる。なんでだろう?なんでオレは氷室を追いかけているんだ?ほとんど無意識に走り出していた。
「氷室くん!!」
人気のない廊下でやっと追いつき、呼び止める。氷室は眉間に皺を寄せ、めんどくさそうに振り向いた。
「ん?あれー?さっきの人じゃん」
ペットボトルを投げつけた茶髪の男子。胸元に目を落とすと『伊月瑠偉(いづきるい)』とある。なるほど同じクラスか、氷室くんの友達?
「おい急に走るなって。待ってくれよ」
藍沢と立花が息を切らして追いつく。息を整えながらこの状況はなんだと困惑の表情だ。
「あの……ありがとう」
氷室くんにそう一言、それ以外の言葉は出てこなかった。本当はもっと何か言いたかったけど氷室くんを目の前に何も言えなくなる。氷室くんじゃなくても人と目を合わせると大体こうなるのは陰キャの特性だ。
数秒の沈黙がとても長く感じた。
「……それで?」
「え?ああ、えっと、それだけ。オレはただ、お礼を言いたくて」
「俺はお前に文句を言いたい」
「……へ?」
思わぬ回答にオレの頭の中は無数のはてなで埋め尽くされた。俺が井上に負けたから?ダサかったから?
考えを巡らせていると氷室はポケットの中から一枚の紙を取り出してオレの目の前に突きつけた。
「遅刻届、6月7日……今日?」
香陵高校の登校時間は朝8時15分である。その時間までに教室に入れなかった生徒は職員室に行き、遅刻届を記入して学年主任の先生に届け出なければならない。たとえ一秒でも遅れたらアウトだ。
氷室が遅刻?今日?ま、まさか……
オレは全身から血の気が引いていくのを感じた。朝の出来事がフラッシュバックする。
「お前のせいで遅刻した」
氷室は左足を前に出し裾を上げる。足首には湿布とテーピングが巻かれていた。
足を捻って保健室に行ったから遅刻したのか……
「あっ、あっ、えっ、と……」
なんてことをしてしまったんだオレは!!今すぐにでも自分をぶん殴りたい。この国宝級天才高校生に怪我をさせて、オレはなんてことを!
「これで俺の内申点が下がったらお前のせいだからな」
氷室はそう吐き捨て、教室へ帰っていった。口を開けたまま途方に暮れていると伊月が「おーい」とオレの前で手を振る。
「まあ、気にするなよ。氷室の成績じゃ1回の遅刻なんかどうってことないから」
そんなこと言われても……いやそんなんだろうけど!
「じゃ、またな。舞坂くんっ」
伊月はチラッと名札を見てからオレの肩をポンと叩いて去っていった。
「ま、マイマイ?大丈夫か?」
「え、あ、うん」
全然大丈夫じゃない。
「おかしいと思ったんですよ。今日朝職員室に行ったら氷室くんが遅刻届を書いてたんで」
遅刻常習犯の立花は氷室が遅刻してたの知ってたのか。
「おい立花!なんでそれをはやく言ってくれなかったんだよ」
「え?」
「氷室に怪我させたなんて知られたら確実に殺されるよ……社会的に」
「氷室のファンは多いからな」
「最悪だぁ……」
急に脚の力が抜けて床にぺたりと座り込んだ。
「強く生きろよ、マイマイ」
キーンコーンカーンコーン♪
まるでオレの学校生活の終了を告げるチャイムだ。
——オレたちの出会いは最悪だった。平凡だったオレの学校生活はこの日から徐々に崩れ始める。
【第一話】なんという……幸運!? 完
