氷王子の心を溶かせ

話したことない、顔だって知らない。
だけど俺はこの学校で"氷王子"と呼ばれるやつが嫌いだった。




「今から理数科がサッカーやるらしいよ!」

昼休み。誰かの一言で教室が一気に盛り上がると、逆に俺——舞坂広(まいさかひろ)は寝癖のついたままの頭をかきながらため息をついた。

「えーやば!絶対見に行こ!」

「俺らも入れてもらおうぜ!」

あーうるさい。俺の優雅な弁当の時間を邪魔するなよ。

「理数科ってことは……氷王子いるじゃん!」

氷王子、という言葉に眉がピクリと反応する。

「よーし、行こうぜみんな!」

「楽しみだなぁ」

「おーい舞坂、お前行かんの?」

「俺はいい」

当たり前かのように聞くクラスメイトにそう冷たく言い放つと、いつのまにか教室はもぬけの殻だった。

県内私立トップの偏差値を誇る私立香陵(しりつこうりょう)高校理数科。その憧れと賞賛は異常で、もはや宗教かなんかじゃないかと思う。

「……なにが氷王子だよ」

口先から溢れた言葉は空虚な教室に響くことなく落ちた。





「お、舞坂くんじゃないですか。昼の水やり当番は僕たちですよー」

『園芸部部室』と書かれた教室のドアを開けると、飛んできた聞き慣れた声にほっと胸を撫で下ろす。

クラスメイトで園芸部の立花幸希(たちばなこうき)。真面目というより少し不気味な風貌の男だ。

「手伝いに来た。暇だし」

「あれ?さっき理数科がサッカーやるって外で騒いでましたけど行かないんですか?」

「ふん、誰が行くか。みんな揃いも揃って理数科だの氷王子だの媚売りやがって!そんなにえらいのかあいつらは!」

「強気ですねぇ」

不機嫌な俺に、ははは、と立花は宥めるように笑う。

「なに?嫉妬ー?」

立花の後ろからひょこっと顔を出したのは同じくクラスメイトで園芸部の藍沢蓮(あいざわれん)だ。

「は?ちがうし」

「じょーだんじょーだん、でも大丈夫なん?マイマイ先週のクラス会も参加しなかったし」

古ぼけた木の椅子に腰掛け息を吐くと、グラウンドから声援が遠くに聞こえる。

「やっぱ……俺も行った方が良かったのかな、サッカー」独り言のように出た言葉。

もし俺が理数科の奴らのように、何をしてももてはやされるような人生なら、こんな風にいちいち悩まなくて済むんだろうか。
正解がどれかに悩まず、選んだものが正解になる人ならきっと、自分に自信が持てるんだろうな。

「なあ」じょうろに水を入れる藍沢の背中に呼びかける。

「あ?」

「氷王子ってどんなやつ?」

ふと聞いてみたくなった。

「あー、2年理数科のトップの男だよ。体力テストも全校1位だったろ?たしか」

「なにそれ、ツチノコ?ユニコーン?」

そんなやつが存在するのか?

「ああでも、性格は悪いらしいぜ。絶対に笑わないし、基本的に無愛想で塩対応だって。ただスペックが異次元に高いから人気者だけどな」

「ふーん」

「……ってことで!俺もグラウンド行ってくるわ!」

「はあ!?」

「俺も氷王子と仲良くなりたい!」

目をキラキラさせながら藍沢はロケットの如く部室を飛び出していった。

こいつも騙されてやがるのか。

「……立花は行かないの?」

「僕も行きたいんですけどねぇ、今日はローファーで来ちゃったんですよ」

「あそう」俺は立ち上がって立花の水やりを手伝うことにした。





「そうだ。次の花植え、メインは夏の花……ひまわりにしようと思うんだけど、どう?」

5時間目の予鈴が鳴り、俺と立花は『季節の花図鑑』を見ながら教室へと戻る。

「いいじゃないですか!夏の花壇コンクール、今年こそ金賞取りましょう!」

夏の花のページを開き悩んでいると、途中から立花の目線を感じて足を止めた。

「え、なに?」

「舞坂くんはそれでいいと思いますよ。みんなに流されない、花にしか興味ない舞坂くんで」

笑いながら言う立花は「僕はトイレに行ってから行くので、先戻っててください」と反対方向へと去っていく。

廊下はサッカー観戦から戻ってきた人たちが興奮冷めやらぬ様子で忙しく教室へ戻って来ているところだった。

「お、帰ってくるってよ!」

きっと奥から氷王子が歩いてくるのだろう、目を輝かせる女子たちによる花道ができる。大名行列かよ。

俺は氷王子の顔も名前も知らない。
別に知る必要もないから、俺は彼を一目見ようとごった返す廊下をすり抜け、教室へ入った。





翌日。

「……ったく、ここはゴミ捨て場じゃないっつうの」

園芸部の部室は半分倉庫と化しており、先生やら生徒会やらが使わなくなった荷物を置いていく。何に使ったのかよく分からないポールに捨てても良さそうな書類の束、木の板やプラスチックのカゴなどなど……

そこに新たに大きい段ボールがひとつ。

まあこれはゴミじゃなくて今日の授業で使うものらしいけど。

これを職員室へ持ってこいと命令され、俺は朝の水やりと軽い草むしりを終えた後、カバンと段ボールを抱えて職員室を目指す。

いったい何が入ってるんだ。
鈍い重さが両腕にのしかかり、イラつきながら階段を降りていると、朝礼5分前のチャイムが響き渡った。

「やばっ、ギリギリだ」

ドタンっ!

「うわぁっ!!」

嫌な予感が全身を駆け巡った。
視界が悪く、勢いよく階段を踏み外した俺はバランスを崩して全身に衝撃波を受けた。「うっ」と誰かの低くうめく声が耳にかかる。

「痛っ……す、すいません!大丈……」

目を開けると同時にサーっと血の気が引いた。
俺はぶつかったと思われる男子の脚の間で前傾姿勢になり、両手を床についている。

ありえないほど整った顔がもう、すぐ近く。

こちらを睨みつける鋭い目、真っ黒な髪。冷ややかな表情。明らかに不快感丸出しだ。

「ほ、ほんとにすいません!あの、頭大丈夫ですか?」

「……は?」

「ん?あ、いや、違くて。頭大丈夫ですかっていうのはバカにしてるとかいう、そういう意味じゃなくて、け、怪我とかしなかったっていう意味で、えっと……」

なにをしてるんだ俺は。
男を押し倒し、頼まれた荷物をひっくり返し、もう訳がわからない。見渡すと持っていた荷物やカバンの中身やらが散乱していて完全にやらかしたことを悟る。

「……すいません」

俺の謝罪に無言の男。
彼とバッチリ目が合った俺は不可抗力を疑うほど不思議と顔を逸らすことができなかった。

なんだこれ……まるで氷柱に刺されたみたいだ。
ひんやり痛くて、でも神秘的な美しさに抗えず留まる。

「……邪魔なんだけど」

「え?」

朝の暖かな空気をさらう、スンとした冷たい声で我に返った俺は、その嫌悪を詰め込んだ声音に耳を疑った。

「はやく退いてくんね」

彼は舌打ちをして俺を押し退け、睨みを効かせたまま足元に落ちているカバンを俺にぐいっと押し付けた。

なに、こいつ……怖。てか、感じ悪。





「……なんだ、今の」

しばらく放心状態だった俺の前から男はいつの間にか消えていた。

呼吸を忘れていたみたいで乱れる息を整えると、だんだんと怒りが湧き上がってくる。
ぶつかった俺が悪いのは分かるけど、わざとじゃないんだし、もう少し人と接する態度ってもんを……

「ん?」

散らばった荷物の中に転がっている名札を拾い上げる。俺のは付いているからあいつのだろう。

『2年8組理数科 氷室一澄(ひむろいずみ)

誰か知らんけど、理数科のやつはやっぱり気に食わない。





「今日からしばらく総合の時間はバジルの栽培をします」

6時間目。この時間は全クラス同じ内容だ。
校庭や中庭など決められた場所でバジル育てる授業で、中庭には6、7、8組が集まっている。

ここ中庭に咲くのはチューリップとパンジー。無論、俺たち園芸部が春から育ててきたもので毎日お世話をしてきたからか愛着がある。

「だいたいの流れはこんな感じです、では各自始めてくださーい」

「おっしゃーマイマイ一緒にやろうぜー」

「おう」

一気に緩んだ空気の中、藍沢と立花は持ち物を抱えてやって来た。ペットボトルで作った簡易的な鉢植えに土を詰めていく。

「マイマイが朝運んだのってバジルの種だったんだな」

「そう、マジで重かった。まだ肩痛いもん」

「だから朝教室入るのギリギリだったんですね」

「あー!」

朝の出来事を思い出して苛立ちがよみがえる。

「なんだよマイマイ、急に大きい声出して」

「段ボール運んでる時、階段でぶつかったやつがいたんだけどさ」

「え、大丈夫でしたか?」

本気で心配そうな立花にピースサインを送ると、藍沢は反対に目を輝かせた。

「ぶつかった?誰に?まさか、女子!?」

「んなわけないだろ、男」

「なんだよつまんねー」

「それで、そいつの態度がやばいのなんの。邪魔だとか言われて睨まれた」

「ははっ。まあでもぶつかったマイマイが100悪いだろー」

「それは分かってるよ!でもさ、なんか嫌な感じだったんだよ!めっちゃ怖かったし。完全にやるやつの目してた」

「まあまあ、怪我が無かったのならよかったじゃないですか。誰も悪くないですよぉ」

俺たちは整えた土に少し窪みをつけ、種をおく。これが1、2週間したら芽を出し、1ヶ月もすれば大きな葉が出てくるのだ。

「で?誰なのその人。知ってる人?」

「知らん。そうだ、名札を拾ったんだった。絶対返してやらねー」

ゴソゴソとポケットを探り、名札を取り出す。
赤の学年カラーは2年生、俺と同じだ。

「こいつ。知ってる?」

「……」

藍沢と立花はその名札を見るなり、目を丸くして押し黙った。

「え?なに?知ってるの?」

「マイマイ……」

「舞坂くん、それって……ん?危ない!!」

立花の叫びになんだと声の方を見た瞬間、顔全体になにかが降りかかる。

「うっ」

「マイマイ大丈夫か?」

飛んできた砂や土が舞い思わず咳き込むと、藍沢が心配そうに駆け寄ってきた。

「井上たちだよ。さっきからペットボトル振り回したり土投げて遊んでる」

藍沢が指さす先にはペットボトルとそのキャップで野球をしている男たち。
クラスメイトの井上は言っちゃ悪いが不真面目な生徒だ。校則ガン無視の制服スタイルに髪型、俺が絶対に関わりたくないタイプの不良である。

「僕が注意してきましょうか?」

「いや、やめとけ。関わると面倒なことになる」

井上率いる不良集団は俺たちのことを全く気にすることなく大きな笑い声を上げながら遊び続けている。

気にするのはやめよう、時間の無駄だ。そう思って作業に戻ろうとした時、「うぇーい!!」とはやしたてる声が聞こえてきた。

「あっ……!」見た瞬間思わず声をあげてしまった。

井上は夢中になるあまり、後ろにあるプランターに気付かず足をぶつけて転んだのだ。
プランターごと横に薙ぎ倒されて、土と植えてあったパンジーが床に叩きつけられていた。

「ちっ、なんだよこれ邪魔だな!」

井上はそう言うなり不機嫌そうにプランターを蹴り飛ばし、ついでといった感じでパンジーを踏み潰す。

「ははっ、おいお花が可哀想だろ」

「やばすぎウケる、花に謝れー」

「ははは!井上ダサすぎ。はい、1点負けな」

「もう1回だ小林!やるぞ!」

誰も花を気に留めるようすもなく、野球は再開されていた。何事もなかったように騒がしくなる中庭の隅、くてんと横たわるパンジーと目が合った。

「……許せない」

俺は「やめとけよ」と止める藍沢の手を振りほどいて井上たち輪へと向かった。

「おい井上」

俺の声に中庭にいた他クラスの人までも一斉にこちらを振り返る。心臓がドクドクいっているのがわかって、汗もじんわり滲み出ていた。

「あ?なんだよ」

身長180cmの大きな図体に向き合うと自然に俺の身体は震えて、思わず拳を握りしめる。

「……花を、潰したろ」

「は?なんて?」

「花を、パンジーを踏み潰したろ?」

「だから?」

だから……?
俺はマグマが頭の最頂部に到達するのを感じた。バカなのかこいつ。

「なんか言うことないのかよ!」

語気を強めて言っても、井上は嘲笑し反省する様子もない。俺は井上からペットボトルを奪い取った。

「おい!ふざけんなよお前!」

井上の怒りのスイッチが入ったのか、目配せを受けた小林とその周りにいた人たちが俺を取り囲み、見事に身動きが取れなくなった。
クラスの端っこにいる陰キャ(俺)が実質クラスを仕切っている不良集団に囲まれている図。

怖くないと言ったら嘘になる。

「なにお前?あー、そっか。お前園芸部だっけ」

「……ああ」

「お前さ、教室でいっつも1人だけ違うことしてるよな。こんな時だけなんなん?協調性ないん?」

「……」

「あーそっか、空気読めないんか!ははっ」

「うるせ、」

心の奥を読まれたみたいで心臓が大きく波打つ。
言ってしまえば、図星だった。

「はみ出し者は嫌われるぞ」

「いいから、花を倒したこと、」

「どーでもいいんだよ花は!ちっ、まじでだるいな」

そうやってしばらくペットボトルの取り合いをしていたが、やはり体や力が大きなやつには勝てない。

まあそうなるよな。
俺は平均の男子高校生より小柄だし、運動ができるわけでもないんだから。

「うっ!」

盛大に尻もちをつき腰に重い衝撃が伝わってくると、これは負けだと認めるしかなかった。

「へっ、ざまあみやがれ」

井上はそう言って元いた場所へ戻っていく。

「ねえ、先生に言った方がいいんじゃない?」

「いややめとけ。目付けられるぞ」

「でもあの人が……」

うん、そうだよな。井上たちが間違っていたとしても誰もあいつらに言えない。下手したら自分が攻撃を受けるかもしれないのだから。

俺は唇を噛み締め、ぐちゃぐちゃになったパンジーを手で集める。

「マイマイ……」

肩に置かれた手は気にするなと言っている。
大丈夫だ。こんなことで打ちのめされてもしょうがない。





バンっ!!

沈黙を切り裂く……何かを蹴飛ばした音?

「え?今度はなに?」

「またケンカ?もうやめてよー」

「ねえちょっと待って、あれって……」

「おい」

そこにいる誰もが息を呑んだ。
初夏の清々しい空気を一瞬で凍てつかせるこの声を俺は最近聞いた気がする。

「なにやってんの」

おそらく蹴ったであろうバケツが俺の足元で止まった。
真っ直ぐに井上のところへ歩いていくのは、

「あ、あいつ……!」

今朝ぶつかったあのムカつく野郎ではないか。

確か名前は……

「ひ、氷室、俺は別に、な、何も……」

さっきまでの威勢はどこへやら彼——氷室の冷たい視線に井上は目を泳がせる。

「その遊びいつ終わんの?ここ俺らの場所なんだけど」

井上たちの後ろには『8組理数科』のプレートが立っていた。

「ヒィッ!!」

井上は後ろを振り返った瞬間情けない声を上げ、慌ただしく去ろうとしたが、すぐに誰かが投げたらしいペットボトルを頭に受けてそのまま転んだ。銃で撃たれたみたいだ。

「うわあ、ごめんごめん。そんなに強く当てるつもりじゃなかったんだけど、へへ」

氷室の後ろから頭をかきながら出てきたのは茶髪のウェーブ髪の男。その後ろにいる生徒たちは……

「待って、理数科だよ全員!」誰かのその一言で井上たち不良集団は青ざめる。周りのギャラリーは場違いにも彼らの登場に沸いていた。

「ひ、氷室……これは、その、わ、悪かった」

「さすがは普通科、バカばっかり。いいからそこの土掃除しとけよ」

「あー、それとその子にも謝ってねー」

「え、」茶髪の男に唐突にゆびを差され固まった俺は、逃げるように退散していく不良集団を目で追うしかできなかった。

こんなにあっさり終わるんだ。
誰もが自分に関係ないと、関係したくないと見て見ぬふりをすることを氷室という男は戦隊モノのヒーローみたいに華麗に解決してみせた。

息が詰まるほどの圧倒的なカリスマ性。絶対服従の王様。
飲み込まれそうなほど強い力だ。

彼の命令を断れるはずもなく、不良たちは散らかした土を掃除し始めた。幼稚園児がいたずらをして先生に怒られた後みたいな空気になぜか俺も気まずい。

「ま、舞坂」

井上が俺を呼ぶ声は弱々しい。
見上げると苦虫を噛み潰したような顔をした井上がぎこちなく頭を下げた。

「その……悪かった」

「え?ああ、うん」

「き、聞いてるの……か?」

せっかく謝ってくれたけど、謝罪なんてもうどうでもいい。俺は井上に目もくれず廊下の影を追っていた。

「あーうんうん、聞いてる。もういいから」

「えっと……」

「ごめん、ちょっと行くわ」

「マイマイ!?」藍沢の声が遠くに聞こえる。

俺は今、なんで走っているんだろう?
なんであいつを追いかけているんだろう?

「あの!!」

人気のない廊下でやっと追いついた。大声で呼び止めると彼は心底めんどくさそうに振り返る。

「ん?あれー?さっきの人じゃん」

口を開いたのは氷室の横にいたペットボトルを投げつけたあの茶髪の男。胸元に目を落とすと『2年8組理数科 伊月瑠偉(いづきるい)』とある。友達だろうか。

「おい急に走るなって。待ってくれよ」

藍沢と立花が息を切らして追いつくと、目の前の状況に困惑したのか目が俺と氷室とを往復している。

「その……ありがとう、ございました」

そう一言、それ以外の言葉は出てこなかった。本当はもっと言いたいことがあったのに、言葉を整理する余裕がない。

「……それで?」

しばらくの沈黙の後、彼の声は重かった。

「え?ああ、えっと、それだけ。俺はただ、お礼を言いたくて」

「俺はお前に文句を言いたい」

「……へ?」

思わぬ回答に俺の頭の中は無数のはてなで埋め尽くされる。俺が負けたから?ダサかったから?
考えを巡らせていると氷室はポケットの中から1枚の紙を取り出して俺の目の前に突きつけた。

「遅刻届、5月27日……今日?」

香陵高校の朝礼開始時間は朝8時15分。その時間までに教室に入れなかった生徒は職員室に行き、遅刻届を記入して学年主任の先生に届け出なければならない。

こいつが遅刻?今日?ま、まさか……
朝の出来事がフラッシュバックする。

「お前のせいで遅刻した」

氷室は左足を前に出しズボンの裾を上げる。足首には湿布とテーピングが巻かれていた。
足を捻って保健室に行ったから遅刻したのか……

「え、え?あ、えっと……」

「朝から迷惑すぎるんだよお前。前を見て歩け」

そう悪意丸出しで責められるとこっちも黙っていられない。助けてくれた恩など忘れて口を開く。

「あんただって、」

「それから、」

反論はあっという間に遮られた。

「勝てもしないのに戦うな」

「…………は?」

一瞬でもこいつをかっこいいと思った自分を殴りたい。
こいつはこいつで井上と同じくらいムカつくじゃないか。

「これで俺の内申点が下がったらお前のせいだからな」

氷室はそう吐き捨て去っていく。
いなくなった後も刃物のようにギラめく目が頭から離れない。
自然と身体が震える。なんという恐ろしいやつだ。

「……」

目を見開いたまま動かないでいると、伊月が「おーい」と目の前で手を振った。

「全然気にすることないよ!氷室の成績じゃ1回の遅刻なんかどうってことないからさ!」

「……そ、そう、ですか」

頭がいいんだな。まあ理数科なら当然か。

「じゃ、またね!舞坂くんっ」

伊月はチラッと名札を見てから氷室の後を追っていった。

「ま、マイマイ?大丈夫か?」

「え、あ、うん」

全然大丈夫じゃない。

「まさか氷王子が助けてくれるなんでびっくりですねぇ、まあ態度はちょっと、あれでしたけど」

「ま、まあな……優しいんだかそうじゃないんだか」

……え?

氷、王子?

「藍沢、立花」

「ん?」

「どうしました?」

「もしかしてさっきのって……」

「氷王子って呼ばれてる、氷室一澄くんですよ」

心臓がドンと跳ねる。

「え?うそ、マイマイ知らなかったの!?」

「じゃあ、俺がぶつかって怪我させたのって……」

「天下の氷王子、ですね」





インド原産のシソ科の一年草、バジル。

王のハーブと呼ばれ、古代ギリシャでは神に捧げられてきた植物。そのためバジルが元気に育つと良いことが起こる前兆だと信じられてきたという。

花言葉は……好意、神聖……『なんという幸運』

「おーい、マイマイ?」

「舞坂くん?しっかりしてください!」

「……最悪な、1日」

素敵な花言葉の神話は俺にはまるで関係ないらしい。