氷王子の心を溶かせ

「ただいまより、令和8年度始業式を始めます」
高校2年生4月。桜舞い散る春の到来だが、入学するわけでも卒業したわけでもないオレたちはただ季節の巡りを感じるだけだ。始業式は去年もやったし、だいたいみんな同じことを言っているから聞く気も失せる。
……とはいえみんな寝すぎだよ。
小さく周りを見渡すともう隠すのをやめたのか明らかに伏せている人ばかり。まあそうだよな、オレだって窓からの日差しの気持ちよさに思わず目を閉じそうだったから。「いい日だなー」なんてしばらく外の桜の木を眺める、なんてことない普通の新学期だった。
「生徒代表挨拶、氷室一澄(ひむろいずみ)くんです」
突然、キーンと耳を塞ぎたくなるような機械音が響く。黒板を爪で引っ掻いた音と同じような不快感。何の音だ?反射的にステージを見ると無表情な男子がマイクを握っていた。なるほど、マイクを入れた音か。
「ねえ見てよ」「うわー朝からイケメン」
「あの人が氷室くん?」「やっぱかっこいいー」
女子たちの視線の先にいるのは、オレでも名前と顔くらいは知っている有名な生徒だ。
「本日より新年度が始まります。2年生としての自覚と責任を持ち、仲間と切磋琢磨しながら更なる高みを——」
一瞬にして空気が変わる。スンとした冷たい声が春の暖かな空気をさらって体育館を冬に変えた。この空間だけ雪が降っている。いやたぶん……幻覚なんだろうけど。
オレは肺に入った冷たい空気が体の熱を奪っていくのを感じ、ステージを見上げた姿勢のまま凍ったみたいに動けなくなった。
イケメン?そんなもんじゃない。顔がどうこうよりもなんというか……オーラがある。美しくて冷たい圧倒的な力だ。
着崩さずキッチリと着た制服にピシッと上まで締めたネクタイ。鋭い目は全てを見透かしているようで恐ろしい。髪は黒く、艶のあるストレートだ。
「なーマイマイ、聞いたか?」
「おおっ。な、なにが?」
後ろに座る同じクラスの藍沢蓮(あいざわれん)がオレの肩を叩いた。
「氷室だよ、氷室。今喋ってるやつ。去年の定期テスト、全部1位だったらしい」
「え?まじで?……たしか体力テストでも校内1位で表彰されてたような……」
「成績優秀で運動神経もバツグン。それでいてあのルックスだろ。なるほど俺らに春が来ないわけだ」
「……ん?おい、俺らってなんだよ、俺"ら"って!」
「なんだよ合ってるだろ?マイマイだって彼女いないじゃーん?」
「クッ……」
言い返す言葉が見つからず、食いしばった歯の隙間から空気が漏れた。急にディスるなよ。
「まあ、いいじゃん。俺らは氷室がいるからモテませーんって言い訳できるし」
「まあ、それはたしかに」
氷室は相変わらず無表情で淡々とスピーチを続けている。無感情で仕事をこなすAIみたいだ。
「でもマイマイだって知ってるだろ?氷室に彼女がいるって噂は聞いたことがない」
不思議だ。オレがもしあのスペックにあの顔面を持っていたら、その全てを駆使してモテまくりの人生を謳歌するだろう。なんでも手に入る、イージーモードな人生を。
「女子と一切話さないし、無愛想で塩対応。だからこう呼ばれてる」
藍沢はちょいちょいと手招きをした。
「香陵高校の氷王子」
「……氷、王子?」
前を向き直るとスピーチを終えたらしい氷室は堂々とお辞儀をしてステージを降りていく。噂には聞いたことがある"氷王子"というのは彼のことだったのか……。
「理数科8組氷室くんの挨拶でした。続いては……」

「ふわぁ……眠かった」
「今日はこれで終わりだし、帰ろうぜー」
藍沢はオレの肩に肘を置いて歩き出した。
「ねえやばい、氷室君だよ」
横を見ると、騒ぎの中心にいたのはやはり氷王子。
「お、やっぱモテんなー」
彼は女子たちを気にする様子もなく歩いていく。その顔には相変わらず笑顔はなく、目には温度が感じられない。
この人は笑うんだろうか?まさか誰かに感情を吸い取られていたり……いやいや、さすがにそれは失礼。
でも本当に彼の笑う姿は想像ができな……
「あっ」
彼と一瞬目が合う。溶けることのない氷の表情、大きな鋭い針で刺されたような圧があった。
「ん?どうしたマイマイ」
「いや、なんでもない」

——きっと一生関わることはない。
別にそれが悲しいと思わないくらい、当たり前に住む世界が違う人。二人の距離は離れもせず縮まりもしない、いや、そもそも距離なんて概念すらここには存在してないだろう。それほどにオレたちはなにも始まらないはずだった。
外に出るとふわりと優しい風が頬をなでる。桜の花びらが目の前を舞っていた。


新学期から2ヶ月が経った。
「よう、少年」
朝教室へ向かう廊下で藍沢に体当たりをくらう。
「いてっ、藍沢か……おはよ」
「来んの早くね?」
「今日の水やり当番オレと立花だから」
「ふーん、オレは日直……立花は?」
「遅刻だろ、どうせ」
オレたちが所属する園芸部は学校中の花壇の運営を任されている。水やり当番の日は早い、眠い。
「藍沢?どうしたの?」
「さすがにこの様子にも慣れたな」
横を見るとまだ朝7時だというのに目の前の教室だけは人がたくさんいて、もれなくみんなテキストにシャーペンを走らせている。教室プレートには『2年8組理数科』の文字。
「オレたちの教室はまだ誰もいないのに……」
「なんで俺らの教室理数科の隣なんだよ」
「7組だからね……」
「まったく息が詰まるわー」
ここ香陵高校は1組から7組が普通科、8組のみ理数科だ。普通科の偏差値はド平均だが理数科は県内私立高校ではトップの偏差値を誇る。そう考えると当然といえば当然だけど……
「おい、普通科。喋るなら自分たちの教室で喋ってくれ」
突然ドンと扉が開かれ理数科の生徒が顔を出す。
「あ?オレたちの名前は普通科じゃ、」
「い、いいから藍沢。早く行こ」
「すいません」と頭を下げ、藍沢を連れて逃げるように教室へ入る。怖すぎるよ、理数科くん。
どの学年も普通科と理数科は仲が悪い。理数科は普通科をバカにしている節があるし、普通科は理数科をガリ勉だのと非難する。
でもオレは理数科と揉めるなんて嫌だ。なんでかって?勝ち目なんかないからだ。
「感じ悪。なんだあれ」
「ハハっ、まあ喋ってたオレたちも悪いし……じゃ、じゃあオレ部室行ってくるから」
手を振り廊下に出ると、進級してすぐにやった定期テストの結果が張り出されていた。
「最高得点、350点満点中342点……氷室一澄」
始業式で代表として挨拶をしていた氷室くんは相変わらず天才らしい。彼の姿はなかなか目にすることはないけど、とりあえず天才が健在でよかった。

校舎1階の隅がオレの所属する園芸部の部室だ。扉が重くて動かしづらい。力を入れるとガラス窓がギギギと嫌な音を立てながら動いた。
「おはようございます、先輩」
「あれ?柚野(ゆずの)?今日の当番はオレと立花だけど」
「手伝いに来ました」
「ありがとな」
「いえいえ」と柚野のボブ髪が揺れる。
「おはよーっす、先輩!」
机の隙間からもひょこっともうひとり顔を出すのが見えた。
篠原(しのはら)か。おはようー」
1つ上は0人、オレたちの代は3人と部員が少なくて存続が怪しまれていた園芸部だったが、柚野と篠原が入ってくれたおかげで廃部危機を脱した。オレに藍沢、立花、柚野、篠原。これで園芸部メンバー全員だ。
「先輩ー、次の花何植えます?」
水やりが終わりしばらくダラダラしていると篠原が間延びした声で聞く。彼はさわやかで運動部にいそうな見た目だが、真面目でかわいい後輩だ。口調やセットした髪の跳ね方に若干の陽キャ味は感じられるけど。
「んー、どうしようかな……」
「部長に聞いたら舞坂先輩に聞けって言われますし、立花先輩はなんでもいいって言いますし、もうマイマイ先輩が決めちゃっていいんじゃないっすか?」
藍沢……あいつ部長のくせに!
「そうだね……ん?なにあれ?」
「ここはゴミ捨て場じゃない!」オレは奥の棚を指差した。園芸部の教室は半分倉庫と化しており、先生やら生徒会やらが使わなくなった荷物を置いていく。何に使ったのかよく分からないポールに捨てても良さそうな書類の束、木の板やプラスチックのカゴなど……
「ああ、このダンボール2年の職員室に持って行ってほしいそうです。今日の授業で使うやつみたいですよ」
「なにこれ?バジルの種……?」
「2年生は夏までバジルを育てるんだとか」
柚野は種の入った袋をしゃかしゃかと振った。
「なるほど……なぜバジル?」
「さあ?育てやすいんすかね。そうそう先輩、バジルにも花言葉があるんです、知ってます?」
篠原はやたらと花言葉に詳しい。前になんでか聞いたら「花言葉ってなんかロマンティックじゃないすか、俺そういうのが好きなんすよ!」と返ってきたことがあったっけ。
「バジルの花言葉?いや、知らないけど……」
教えて、と言う前にチャイムが鳴ってしまった。
「あ、予鈴だ。じゃ、先輩放課後に!」
時計は8時5分を指している。2人は手を振りながら部室を出て行った。
なんて出来すぎた後輩たちなんだ。先輩のサボりを見越して手伝いに来てくれるなんて!
「よし、オレもいくか」
気合を入れてカバンと300人分のバジルの種が入ったダンボールを抱えた。

「重っ……まったく、オレは便利屋じゃないっての」
朝のホームルームまであと数分。ぶつぶつ文句を言いながらオレは駆け足で階段を降りていた。
ドタンっ!
「うわぁっ!!」
嫌な予感。ダンボールで視界が悪く、勢いよく階段を踏み外してしまったようだ。オレはバランスを崩し、前を降りていたらしい男子にドンと全身でぶつかった。
「痛っ……す、すいません!大丈……」
え?え!え!?
気づくとオレはぶつかった男子の脚の間で前傾姿勢になり、両手を床についていた。ありえないほど整った顔が10cm先にある。
この人って……
こちらを睨みつける鋭い目、真っ黒な髪。この冷ややかな表情。名札に刻まれている名前は……『氷室一澄』
や、やってしまった!!!!
「ほ、ほんとにすいません!あ、頭大丈夫ですか?」
「……は?」
「ん?あ、いや、違くて!頭大丈夫ですかっていうのはそういう意味じゃなくて、け、怪我とかしなかったっていう意味で、えっと……」
何言ってるんだオレは!
ひどい惨事だ……あの天才優等生を押し倒し、わけのわからないことを言い、頼まれた荷物をひっくり返す……
辺りを見渡すとバジルの種とダンボール、教科書に授業ノート、筆箱、スマホなどが散乱していた。
無音の空間にしばらく2人の視線が絡み合う。
……なにか喋ってくれよ!睨まれ続けるのこれ?
オレは彼の瞳の中に囚われたみたいに動けなくなる。氷柱に刺されたように痛い。
なにこの状況?どうしたらいいの?
「……邪魔なんだけど」
「え?」
彼は舌打ちをしてぐいっとオレを押し退けた。慌てて立ち上がって踊り場の端に避ける。彼は不愉快そうに足元に落ちているカバンを拾ってオレに押し付け、わざとらしく足音を立てながら階段を降りていった。
「……終わった」
完全に嫌われた!別に好かれようなんて思ってないけどさ!嫌われるつもりはなかったのに!
ため息をつきながら転がっているものを一つずつ拾っていくと、園芸辞典と目が合った。偶然ページはバジルの項目を開いている。
インド原産のシソ科の一年草。バジルの語源はバシレウス、王のハーブと呼ばれ、古代ギリシャでは神に捧げられてきた植物。そのためバジルが元気に育つと良いことが起こる前兆だと信じられてきた。
「花言葉は……好意、神聖……なんという幸運」
いやいや、少女漫画じゃないんだから。
オレが氷室に見合う絶世の美女ならきっと恋が始まっていただろうが現実はそう上手くできていない。オレは邪念を振り払うようにぶんぶん頭を振りながら教室へと走った。


「今日からこの時間はバジルの栽培をします」
6時間目。今まで自己紹介や進路調査をしていた総合の時間は今日から新しいテーマに入る。
「つまんな」「ただの葉っぱじゃん」「どうでもいいから帰りたいんだけど」「だるー」
そうかな?考えたくない進路を無理やり考えされられるよりマシだと思うけど。
中庭には2年生が集まっている。クラスごとそれぞれ決められた場所で育てていくらしい。
「はいまずはペットボトルにここにある土を入れて下さい。それから種をまきます。はい、始め」
この中庭にもいくつか花壇があり、オレたち園芸部が管理している。今咲いているのはチューリップとパンジーで春から育ててきたものだ。こうやってみると本当にきれいに咲いていて、毎日お世話をしてきたからか愛着がある。かわいい、また写真撮ろ。
「おっしゃーマイマイ一緒にやろうぜー」
「部活で園芸やってるのにこの授業でも園芸ですか」
藍沢に……立花。
「おい立花、お前今日水やりサボったろ」
オレが睨むと立花は両手を合わせる。
「あ、ごめんごめん。電車に乗り遅れてしまってねぇ。ジュース奢るから許してくださいよぉ」
立花幸希(たちばなこうき)。彼は独特な話し方をする。くせっ毛でゴワゴワした髪に文学小説を書いているような真面目というより少し不気味な風貌だが意外と優しいやつなのだ。だからオレも怒るにも怒りきれず……
「はぁー、柚野と篠原にも奢れよ」
許してしまった。
「ついでに俺も!」
「藍沢くんは関係ないですよ」
「いいじゃんかー」
それでも飄々とする立花に若干イライラしながらもペットボトルに土を詰めていく。
「てかマイマイ、朝教室戻ったのめっちゃギリギリだったよな」
「あー、部室から戻る途中で事故って……」
「え、大丈夫ですか?」
「まあ怪我とかはしなかったしギリ教室間に合ったから良かったけど、ただ……」
「ただ……?」
「階段で下を降りてた人にぶつかったんだ」
「え?誰?女子?」
藍沢はなぜか目をキラキラしながら聞いてくる。ロマンスなんか始まんないよ?期待外れですまんな。
「そ、それがさ」
朝のことを思い出し、死にたくなる。恥ずかしさと絶対にしてはいけないミスをしてしまった自責の念とでオレの心はぐちゃぐちゃだ。
「ぶつかった人、氷室くんなんだ」
「……ええ!?」
「氷室ってあの氷室?」
「氷王子ですよね?」
オレは無言で頷くしかない。
藍沢と立花はやってしまったなこいつと言わんばかりに口をあんぐりと開けた。やっぱそうですよね。やらかしましたよね、オレ。
オレは深いため息と同時に地面に腰を下ろした。やってしまったことはしょうがない。これから絶対に氷室くんの視界に入らないようさらに細々とダンゴムシのように生きていこう。
「ああ、だからか……ん?危ないっ!!」
立花の叫びになんだと声の方を見た瞬間、細かい砂のようなものが顔全体に降りかかった。目に入って痛い、なんだこれは?
「うっ」
「マイマイ大丈夫か?」
「大丈夫ですか?舞坂くん」
飛んできたのは土か。制服が茶色に染まっている。
「井上たちだよ。さっきからペットボトルで叩いたり、土投げて遊んでる」
藍沢が指さす先にはテニスボールとペットボトルで野球をしている男子たち。
クラスメイトの井上は言っちゃ悪いが不真面目な生徒だ。校則ガン無視の制服スタイルに髪型、オレが絶対に関わりたくないタイプの不良である。
「僕が注意してきましょうか?」
「いや、やめとけ。関わると面倒なことになる」
藍沢はオレについた土を払う。井上たちはオレのことを全く気にすることなく大きな笑い声を上げながらペットボトルを振り回していた。
気にするのはやめよう、時間の無駄だ。そう思って作業に戻ろうとした時、「うぇーい!!」とはやしたてる声が聞こえてきた。
「……っ!?」
見ると、井上は花壇の"中"で尻もちをついていた。遊びに夢中になるあまり、花壇に足を踏み入れたのに気付かずそのまま転んだのだろう。花壇の土はふかふかに手入れしてある。足を取られたんだ。
「おい!なんだよこれ!制服が汚れた!」
井上は不機嫌そうに花を潰す。
「ハハっ、おいお花が可哀想だろ」「負けんな井上!!」「花に謝れ!」「気にすんな行けー」
「ハハハ!ダサすぎ。はい、お前1点負けな」
「もう1回だ小林!やるぞ!」
「うぇーい!!」「やれー井上!」「倒せー!」
誰も花壇を気に留めるようすもなく、再び野球を始める。何事もなかったようにギャーギャーと騒いでるその横でパンジーは横たわっていた。
「許せないっ……」
オレたちが大切に育ててきた花を踏み潰しといてなんで笑ってる?
オレは「やめとけよ」と止める藍沢の手を振りほどいて井上たち輪へと向かった。
「井上!!」
オレの声に中庭にいた他クラスの人までも一斉にこちらを振り返るのが分かった。注目を浴びるのは苦手だ。でもここでやめるわけにはいかない。
「あ?なんだよ」
身長180cmの大きな図体にオレの体は震えていた。大丈夫、落ち着くんだ。軽い息切れを覚えたが負けるもんか!と拳をギュッと握りなおす。
「……花壇を荒らしたろ」
「は?聞こえねーよ」
「パンジーを踏み潰したろ?」
「だから?」
だから……?オレはマグマが頭の最頂部に到達するのを感じた。バカなのかこいつ。
「なんか言うことないのかよ!」
語気を強めて言ったが、井上はハハッと嘲笑し反省する様子もない。オレは井上からペットボトルを奪い取った。
「おい!ふざけんなよお前!!」
井上の怒りのスイッチが入ったようだ。鬼の形相でこちらへ向かってくる。小林とその周りにいた人たちがオレの周りを取り囲み、身動きが取れなくなった。
これじゃもう逃げれないじゃないか。いや逃げない。いや、でも……
急に恐ろしくなった。クラスの端っこにいるオレが実質クラスを仕切っている不良集団に囲まれている図。オレはペットボトルを絶対に離すまいと胸に抱えた。
「ししゃってくんなよ陰キャが!黙っとけ!」
しばらくペットボトルの取り合いをしていたが、やはり体や力が大きなやつには勝てない。オレは平均の男子高校生より小柄だし、運動ができるわけでもない。
「うわっ!」
オレは奪い取られた反動で盛大に尻もちをついてしまった。
「へっ、ざまあみやがれ」
井上たち集団はギャハハハと笑って戻っていった。
「ねえ、先生に言った方がいいんじゃない?」
「いややめとけ。目付けられるぞ」
「でもあの子が……」
周りにいた人も気まずそうに退散していく。うん、そうだよな。井上たちが間違っていたとしても誰もあいつらに言えない。下手したら自分が攻撃を受けるかもしれないのだから。「ごめん」オレは心の中で謝りながらぐちゃぐちゃになったパンジーを手で集め、靴跡のついた土を平らにならしていた。
「マイマイ……」
肩に置かれた手は気にするなと言っている。うん、大丈夫だ。こんなことで打ちのめされてもしょうがない。
バンっ!!
沈黙を切り裂く……何かを蹴飛ばした音?
「え?今度はなに?」
「またケンカ?もうやめてよー」
「ねえちょっと待って、あれって……」

「おい」
そこにいる誰もが息を呑んだ。初夏の清々しい空気を一瞬で凍てつかせるこの声は……
「何やってんの」
氷室だ。
真っ直ぐに井上がいるところへ歩いていく。
「ひ、氷室……俺は別に、な、何も……」
さっきまでの威勢はどこへやら氷室の冷たい視線に井上は目を泳がせる。氷室が蹴り飛ばしたらしいバケツが井上の足にぶつかって止まった。
「くだらないことばっかしてんなよ。さっさと退け。そこは俺たちの場所だ」
井上たちの後ろには『8組理数科』のプレートが立っていた。
「ヒィッ!!」
井上は後ろを振り返った瞬間情けない声を上げ、慌ただしく去ろうとするが、すぐに誰かが投げたらしいペットボトルを頭に受けてそのまま倒れた。銃で撃たれたみたいだ。ぱこんと乾いた音が中庭に響く。
「うわあ、ごめんごめん。そんなに強く当てるつもりじゃなかったんだけど、へへ」
頭をかきながら氷室の後ろから出てきたのは茶髪のくるくるヘアの男子。その後ろにいる生徒たちは……
「まって、理数科だよ全員」誰かのその一言で井上たち不良集団は青ざめる。周りのギャラリーは場違いにも氷室の登場に沸いていた。
「ひ、氷室……これは、その、わ、悪かった」
「ははっ、さすがは普通科だな。バカばっかり。いいからそこの花壇掃除しとけ。あとそいつにも謝っとけ」
「……は、はい」
氷室に指を指されたが、呆気に取られ動けない。
なに、こんなにはやく解決しちゃうの?誰もが自分に関係ないと、関係したくないと見て見ぬふりをすることをこんなにあっさりと……。戦隊モノのヒーローみたいに華麗に。
氷室の命令を断れるはずもなく不良たちは花壇を掃除し始めた。幼稚園児がいたずらをして先生に怒られた後みたいな空気だ。
「ま、舞坂」
井上のオレを呼ぶ声は弱々しい。ほんとにさっきと同じ人?見上げると苦虫を噛み潰したような顔をした井上がぎこちなく頭を下げた。
「その……悪かった」
「え?ああ、うん」
「き、聞いてるの……か?」
せっかく謝ってくれたがオレは廊下の影を目で追っていた。
「あーうんうん、聞いてる。もう大丈夫だから」
「えっと……」
「ごめん、ちょっと行くわ」
「マイマイ!?」藍沢の声が遠くに聞こえる。

オレは今、なんで走っているんだろう?なんで氷室を追いかけているのだろう?
「氷室くん!!」
人気のない廊下でやっと追いついた。氷室は心底めんどくさそうに振り向く。
「ん?あれー?さっきの人じゃん」
口を開いたのは氷室の横にいたペットボトルを投げつけたあの茶髪の男子。胸元に目を落とすと『伊月瑠偉(いづきるい)』とある。氷室くんの友達?
「おい急に走るなって。待ってくれよ」
藍沢と立花が息を切らして追いつくと、目の前の状況に困惑したのか固まっていた。
「あの……ありがとう」
氷室くんにそう一言、それ以外の言葉は出てこなかった。本当はもっと言いたいことがあったのに氷室くんを目の前に何も言えなくなる。人と目を合わせると大体こうなるのは陰キャの特性だ。
「……それで?」
しばらくの沈黙の後、氷室の声は重かった。
「え?ああ、えっと、それだけ。オレはただ、お礼を言いたくて」
「俺はお前に文句を言いたい」
「……へ?」
思わぬ回答にオレの頭の中は無数のはてなで埋め尽くされた。俺が井上に負けたから?ダサかったから?
考えを巡らせていると氷室はポケットの中から一枚の紙を取り出してオレの目の前に突きつけた。
「遅刻届、6月7日……今日?」
香陵高校の登校時間は朝8時15分である。その時間までに教室に入れなかった生徒は職員室に行き、遅刻届を記入して学年主任の先生に届け出なければならない。たとえ一秒でも遅れたらアウトだ。
氷室が遅刻?今日?ま、まさか……
オレは全身から血の気が引いていくのを感じた。朝の出来事がフラッシュバックする。
「お前のせいで遅刻した」
氷室は左足を前に出し裾を上げる。足首には湿布とテーピングが巻かれていた。
足を捻って保健室に行ったから遅刻したのか……
「あっ、あっ、えっ、と……」
なんてことをしてしまったんだオレは!今すぐにでも自分をぶん殴りたい。この国宝級天才高校生に怪我をさせて、オレはなんてことを!
「これで俺の内申点が下がったらお前のせいだからな」
氷室はそう吐き捨て、去っていく。オレのせいで、氷室くんの成績が……下がる……かもしれない……。
口を開けたまま動かないでいると伊月が「おーい」と目の前で手を振る。
「全然気にすることないよ!氷室の成績じゃ一回の遅刻なんかどうってことないからさ!」
そんなこと言われても……いやそんなんだろうけど!
「じゃ、またね!舞坂くんっ」
伊月はチラッと名札を見てから氷室くんの後を追っていった。
「ま、マイマイ?大丈夫か?」
「え、あ、うん」
全然大丈夫じゃない。
「おかしいと思ったんですよぉ。今日朝職員室に行ったらあの氷室くんが遅刻届を書いてたんで」
遅刻常習犯の立花は氷室が遅刻してたの知ってたのか。
「おい立花!なんでそれをはやく言ってくれなかったんだよー」
「え?」
「氷室に怪我させたなんて知られたら確実に殺されるよ……社会的に」
「氷室のファンは多いからな」
「最悪だぁ……」
急に脚の力が抜けて床にぺたりと座り込んだ。
キーンコーンカーンコーン♪
まるでオレの学校生活の終了を告げるチャイムだ。
「強く生きろよ、マイマイ」

——平凡だったオレの学校生活はこの日から徐々に崩れ始める。