彼が俺を連れてきたのは、空き教室だった。
 俺が住む地域では子どもが減り、生徒数が格段に減ったため、使われなくなった教室が増えていった。その中の一つだ。中は乱雑に物が置いてあり、机は不規則に並べられている。しばらく掃除されていないからか、少し埃っぽく、春の陽気な光が籠っていた。
 人気が少ない分、この教室から物寂しさを感じる。ここで俺と同じ歳くらいの人たちが、高校生活を送っていた様子など、微塵も感じさせないくらい。
 教室のドアを勢いよく開け、彼が足を止めた。息が上がっていて、何度も呼吸を繰り返していたが、俺の手を掴んでいたことを思い出し、慌てたように手を離した。
 彼の体格からは想像できないくらい力は大きかった。手を離された後でも彼の手の感覚が残っているほどだ。

「ごめんなさい、無理やり連れて来ちゃって…」

 彼は社会人顔負けの角度で頭を下げた。彼の表情は昨日と打って変わって、申し訳なさそうに、弱々しげに眉を下げていた。今にも泣きだしそうに見える。そんな彼の姿がイタズラして怒られた小犬の姿と重なった。
 昨日のあの自信は一体なんだったんだ。
 徐々に笑いが込み上げてくる。

「無理やり連れてくる気はなかったんですけど…なんか、その…」
「プッ、アハハハッ」

 思わず吹き出してしまった。
 彼の顔には"?"が書かれた。キョトンとした顔でこちらの様子を見ている。

「なんで笑うんですか!?」

 昨日の彼の顔が頭に浮かぶ。

「だ、だって!告白してきたとき、あんな自信に満ち溢れた顔してたのに!」
「…」
 
 昨日の彼からは想像できない。
 ひと通り笑っていると、彼からの言葉がないことに気づいた。笑いすぎたかもしれない。傷つけちゃったかも。心がざわつく。
 うるんだ目を擦って恐る恐る目を開くと、そこには耳まで真っ赤な彼の姿があった。そこからは熟したりんごを連想させる。
 その表情をみて、「ふふっ」と笑みが溢れた。
 さっきから表情がコロコロ変わって見てて面白い子だ。
 気を取り直して、気になることを尋ねる。

「なんでこんなところに俺を?」

 俺が話題を変えると彼の顔はいつも通りの明るさを取り戻し、

「先輩と2人きりになるためです!」

とはっきりと告げた。
 あまりのまっすぐさに声が漏れる。ここまではっきり言われちゃうと、むず痒さを感じる。少し自分の体温が上がった気がした。
 彼のために話題を変えたはずなのに、次は俺がりんごになりそうだ。
 確かにここなら誰もこなさそうだが、なぜ入学したての彼がこんな穴場スポットを知っていたのだろう。
 色々考えているうちにツバサに無断でドタキャンしたことを思い出し、慌ててスマホを取り出した。
 「ごめん、今日は別の人と食べるね。詳しいことは後で話す」とLINEを入れる。すぐに既読がつき、猫が親指を立てたスタンプが送られた。
 相変わらずの返信の早さだ。スマホゲームでもしてたのだろう。とにかく、気にしていなくてよかった。
 ホッと息をついたあと彼に目を向けた。
 絶対聞かなきゃ。心の蟠りをとるために。
 そう意思を固めたとき、キュルーっと小さくお腹の鳴る音が響いた。
 
「あ、えっと、お、お腹…空いてて」

 耳まで真っ赤な彼を見て力の入った体がほぐれていった。

「とりあえず、お昼ご飯食べようか」

           ☆♡☆

 そこらへんにあった2つの机をくっつけ、向かい合うような形で椅子に腰掛ける。
 さっき売店で買ったカレーパンに齧りつき、牛乳で流し込む。スパイシーなカレーに牛乳のまろやかさで調和されるこの感覚が好きで、母さんがお弁当を用意できなかった日はこの組み合わせが俺の定番だ。
 それに対して彼は俺が小学生の頃に見ていたキャラクターの弁当箱に、卵焼き、唐揚げ、ミートボールなど、お弁当を代表する具材たちで埋め尽くされていた。
 そのお弁当を広げるなり、彼はりすのように口の中をパンパンに膨らませ、美味しそうに食べ始めた。
 やはり彼は高校生に見えない可愛らしさがある。

「昨日のこと、聞いてもいいかな?」

 カレーパンを飲み込んだ後、彼にそう問うた。
 慌てて彼は口の中のものを飲み込む。
 すると口を開き、話してくれた。
 彼の話をまとめると、俺と同じバスケ部に所属していること、俺のことは入部のときに初めて知ったこと、何より彼の言い方からドッキリではないことがわかった。
 表情、話し方から嘘をついているようには見えない。それに彼の言葉の節々から俺への好意がチラついて、照れくさかった。

「昨日は急にすみません…先輩のこと困らせちゃいましたよね…」
「いいよ、全然。よかった…ドッキリなんかじゃなくて」

 荷が降りた気がする。

「もしかして昨日、ずっと考えてくれてました?」
「うん…」

 そりゃそうだ。あまりのことに頭が興奮状態になってまともに寝れやしなかった。
 あくびを一つついて彼を見ると、不自然に俺に背を向けていた。急な態度に頭を傾げる。顔をのぞいてもそっぽを向いてしまった。

「大丈夫?」
「気にしないでください」
「そう?」

 だが疑問は残ったままだ。彼がなんで俺を好きになったのか。
 こんな見た目にばっか期待されてがっかりされる男なんか魅力があるはずない。
 でも聞いても彼は「内緒です」と首を振るだけだ。本人に言えない理由でもあるのだろうか。
 とにかく、自分で言うのも恥ずかしいが彼が本当に俺のことが好きなのはわかった。

「2人きりになりたいって、俺と何がしたいの?」

 こんなところまで無理やり連れてくるだなんて、そりゃたいそうな理由があるに違いない。

「なんだと…思います?」

 ゴクンと唾を飲み込む。まさかそんなわけがない。

「え、一体何を…」
「そりゃ…」

「…」

「先輩と2人きりでご飯食べたいからに決まってるじゃないですか!?」

「…」

 一瞬頭が真っ白になった。

「だ、だよね。そうだよね」

 変な想像をした自分をぶん殴りたい。

「先輩…まさか…違うこと想像しました!?」

 目をまんまるく光らせた彼はさっきの仕返しかのようにケラケラ笑った。

「じゃ、じゃあさ!小森くんはただ単に俺とご飯食べて、話すためだけに誘ったってこと?」
「はい、そうですよ?"絶対諦めない"って言ったじゃないですか!先輩と仲良くなりたいんです!」
「やっぱそっか、小森くん、まだ諦めてなかったんだね」
「そりゃもちろんです!」
「友達としてなら小森くんと仲良くなりたいかなぁ」
「友達…から……てことは!これからランクアップできるってことですか!?」
「ランクアップって笑まぁそうだね。それで小森くんはどんなこと話しt」

「先輩!さっきから気になってましたけど、その小森くんって呼び方やめてください!」
「え」

 急な彼の言葉に思考が止まる。

「なんで?名前呼ばれるの嫌だった?」
「違いますよ…」

 訳がわからない。俺に名前を呼ばれるのがそんな嫌なのだろうか。女の子だけじゃなく、同性の考えもわからないなんて、だから愛想尽かされるだろうな、俺は。

「じゃあ、なんで?」
「そ、それは…」

 妙に口籠っている。言いにくいわけでもあるのだろうか。やっぱり名前を呼ばれるのが嫌だったり?

「名前…ほし…です…」
「ん?ごめんもう一回」

 彼の顔はまた燃えたように真っ赤になっていた。

「だから!」

 彼は躊躇いがちに言った。

「先輩に名前で呼んでほしいんです!!」

 そんなことだったのか。
 俺には彼の考えを理解することが難しいようだ。

「ごめん、まだ会ったばっかだったから…癖で…」
「もー先輩、鈍感すぎます」

 なんだ。名前で呼ぶ、そんな簡単なことか。そんなの楽勝だ。

「…」

 折角のお願い、叶えてあげない理由がない。

「…」

 陽向くん。そう陽向くんと一言言えばいいだけ。それだけのことじゃないか。

「…」

 あれ?
 人を名前で呼ぶことってこんなに緊張するものだったっけ。ツバサなんてすぐに名前で呼ぶ関係になったのに。ツバサと違って彼との出会いが特殊だったからか?
 彼のことを見ると昨日のことが頭によぎって言葉が詰まる。
 ふーっと深く肺に空気を送った。

「ひ、陽向、くん…」

 やばい、やばい、やばい。体が熱い。なんで俺こんなに緊張してるんだ?ただ名前で呼べばいいだけなのに。
 彼を見るたびに昨日のことがどうしても頭によぎる。人に好意を持たれるってこんなに恥ずかしいものだったっけ?今までもあったはずなのに、目の前に本人がいるからか?なんで女子と話すときよりも緊張してんだよ俺。

「は、はい、ありがとう…ございます…」

 変な沈黙が流れた。
 聞こえるのは、箸が弁当箱に当たる音、ストローで飲み物を吸う音、パンの袋の音、小鳥が歌う音。それと、隣にいる彼の小さい呼吸の音。ただそれだけ。
 時間がとても長く感じた。昼休みは1時間しかないはずなのに、もうとっくに過ぎてしまったような気がする。
 この沈黙。きっと俺のせいだよな。でもどうしたら…
 そのとき、お弁当を片付け終わった彼ーー陽向くんが口を開いた。

「あの、先輩…聞きたいことが…あったんですけど」
「う、うん。何?」
「先輩の好きな人って誰なんですか?」
「……へ?」

 すっかり忘れていた。
 そういえばそんな嘘ついたっけ。なんであんな嘘ついたんだ、俺。
 どう答えればいいかわからない。嘘だと伝えて、彼に変に期待させたくないし。誰かの名前をだしてもややこしくなりそうだし。

「秘密…かな?」
「えーなんでですか!」
「だって言ってもわからないでしょ?」
「言ってもらえないとわからないです!誰です?朝先輩と話してた明るい人ですか?」
「え、見てたの!?」
「先輩のクラス知りたかったんで、ついていっちゃいました…えへへ」

 全く尾けられているのに気づかなかった。

「じゃあ…その横にいた人ですか?清楚っぽい…」
「どっちも違うかなぁ…」
「そうですか…うーん…あ、あの人ですか?先輩の隣の席の、真面目そうな」
「渡邉さん?違うよー」
「えーじゃあ誰です?……もしかして!朝一緒に登校してた人ですか!?」

 ん?俺が朝一緒に登校している人って…

「ツバサ!?そんなわけないじゃん!ツバサは俺の大事な友達だよ!」

 びっくりした。急におかしなこと言うもんだから。
 どうしよう。もう好きな人がいることが嘘だったなんて言えない。

「そうですよね…じゃあ先輩の好きなタイプ教えてください」
「え、俺の好きなタイプ?」

 好きなタイプ、か…なんだろう。あまり考えたことなかった。
 今まで好きになった人はどんな人だったっけ。

「…明るくて、自分を持ってて、まっすぐな人かな」

 陽向くんの手が一瞬止まった気がした。
 どこか様子が変わったような。

「あーへーそうなんですね!!」

 陽向くんは弁当箱片手に椅子から立ち上がり、俺の目をじっと見つめた。

「俺決めました!今日から先輩の好きな人調査します!毎日教室行くんで、覚悟しといてください!」

 あまりの迫力に俺はポカンと口を開け、陽向くんを見つめ返した。きっと彼から見たらまぬけな表情だったに違いない。

「明日の昼休みも、ここに集合で!先輩のこと、もっと知りたいです!それじゃあまた!」

 俺の言葉も聞かず、陽向くんは足早に教室を飛び出していった。あまりの勢いに呆気にとらわれていたが、彼を追おうと腰を上げたとき、昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴った。
 嵐のような人だ。突然現れたと思えば、急にいなくなって。

「なんだったんだろう。一体」

 俺は彼に振り回されてばかりだ。