いつから家具の配置が変わっていたのか、もう思い出せない。
リビングの観葉植物の位置が、昨日と違っている。
本棚の高さが、数センチ低くなっている。
冷蔵庫に貼られている磁石が変わり、ゴミ箱にセットする透明な袋のデザインが今までと違う。
そう思うのに、陽菜乃に言っても「前からだったよ?」と言うだけだった。
担当編集のT氏が死に、彼の死をラフとして描いていた陽菜乃。
ただ【観察】して【記録】をし、それを【描写】しただけだと──彼はそれを拒否したから、自分の存在を「壊した」のだと。
見つけたラフを警察に持ち込んで訴えようと思った。
でも、誰が信じるだろう。
頭がおかしくなったと思われるだけだ。だから私は、諦めた。
そしてあの夜から、陽菜乃はますます静かになっていった。
陽菜乃が連載している漫画はネットでも見ることができる。
アプリに登録すれば、公開1週間は無料で最新話を終えるシステムらしく、悩みながらも読むことにした。
青年主人公の言動と行動すべてに既視感を抱くことがあっても、そこにいるのが私だとわかっても、意識したら終わってしまう。
たとえば、家具の配置が変わったと気づいた数週間後、漫画の中でも変わっている。
私が残業で遅くなる予定がなかったはずなのに突然帰りが遅くなった夜のことも、先週の更新分で青年は恋人に突然の残業に謝りながら手土産を持って帰宅していたから『わかって』いた。
だんだん、私が誰なのかわからなくなっていく。
私はもう『原稿に描かれている自分』として生きているような気がしてきた。
陽菜乃の描く設計図通りに生きなくては、行動しなくては、否定してはいけない。
その顛末は、T氏だ。
なかば強迫観念に陥っていく私とは裏腹に、原稿の中で生きる青年は誰よりも「私らしい」。ほかでもない私がそう思う。
こんなのは異常だ。
存在を「壊した」T氏の気持ちと自分を重ねつつあったある日、また、見つけてしまった。
パスコード:0814
これまでとは違うコードを入力して開いた、ロック付きのUSB。
8月14日。私と彼女が付き合い始めた日付。
そこにあったのは、『VISION_01_最終稿』と名がついたPDFファイルだった。
T氏が描かれていたのは小文字のvisionで、これは全てが大文字。
新作かもしれないと思うより先に、罪悪感を抱くより前に、気がついたら開いていた。
青年主人公ではなく。私がいた。
スマホで誰かと話しながらリビングから出ていく。
通話相手が母親だとわかったのは、いつか陽菜乃に指摘された「お母さんと話してる時、いつも眉をしかめるね」というクセ。
すべてが正確に【描写】されている。
青年という性別を置き換えられたことにより細かな部分には差異があった今の漫画とは違い、確実に、正確に、『私』だった。
作中の「私」は誰よりも私らしく歩き回り、思考し、行動する。
──怖い。
前もって自分の言動や思考が【描かれている】という事実に、これまでにない恐怖を覚える。
陽菜乃の中での私は原稿にしか存在しないような、そんな感覚。
読み進める指先が震えていることに気づいたその時、ふふっと優しく笑う声がした。
「やっと終われる」
振り返ると、陽菜乃がいた。
正体不明の陽菜乃じゃない。私の知る陽菜乃が、確かにそこにいた。
言葉を失い、思わず彼女へ手を伸ばす。すると陽菜乃は優しく首を振ってそれを避けると、すいと腕をあげてタブレットを示した。
「やっと、終われる」
そしてもう一度繰り返す。
意味がわからず首を傾げても、陽菜乃はつきものが落ちたように静かに笑い、ただ首を振るだけ。
そしてその輪郭が線で鉛筆の縁取られていくように見えたと思ったら──消えてしまった。



