その夜。
 また「先に休む」と私のベッドへもぐりこみに言った陽菜乃が確かに眠っているのを確認した私は、リビングのローテーブルに残された彼女のタブレットを前にしていた。
 何をしていても見られている感覚。
 もしかしたら、同じ感覚に襲われていたかもしれないT氏。
 モデルというには観察されすぎている私と、なぜか未来の行動まで書き込まれていたT氏。
 共通項は陽菜乃。そして、漫画だ。
 頭のどこかでは強引すぎる結論だと思いながらも、あまりに突然のT氏の死により、私はなんとなく感じ続けていた恐怖心に焦りがプラスされた。藁にもすがるというものかもしれない。
 個室で原稿を手に取った時よりも罪悪感を抱くことなく、陽菜乃のタブレットを開いた。
 パスコードは知っている。
 こんなふうになる前に、「何かあった時、関係者に連絡をしやすいように」と彼女が直接教えてくれていたから。
 立ち上がったデスクトップ画面には、私とのツーショット写真。某テーマパークへ旅行した時に撮ったものだ。
 ぱっと華やいだ、花が咲いたような陽菜乃の笑顔に懐かしさを覚えながらも、綺麗に羅列されたフォルダ名を確認していく。
 前述した「何かあった時」用の『関係者連絡先』フォルダが目に入り、懐かしさが過ぎり──見つけた。

【T】

 T氏の苗字が冠されたフォルダ。
 震える指先でタップすると、中には下書き状態の未発表漫画があった。
 ファイル名は『vision_03_1028』。
 未だ震えが止まらない手を一度ぎゅうっと握り、改めて伸ばした人差し指でさらにタップする。
 それは細かな描き込みはされていない、短いラフだった。


1ページ目。
高層マンションの非常階段に立つ男。
彼はスマホを耳に当てながら、足元を見つめている。

2ページ目。
男の背後に誰かの影。
顔は描かれていない。長い……長い髪の、影だけ。

3ページ目。
男の独白(モノローグ)
「彼女の作品は、見つけるべきじゃなかった」
「〈あれ〉に気づいた瞬間から、俺は……」

4ページ目。
突き飛ばされる男の背中。
彼の手からスマホが離れ、空中に浮いている。
突き飛ばされた彼の表情はわからない。

5ページ目。
地面に落ちたスマホの画面。
メッセージアプリの、未送信の文字。
『これは〈本物の記録〉だ。誰かに、あの人に伝えなければ』

6ページ目。
全体的にぐるぐると丸が描かれているだけで、内容が掴めない。
ただ、ページの下に小さく鉛筆で【描写完了】と書かれている。


「……なに……これ……」
 被害者と呼べる男の背格好は分かりづらく、表情どころか髪型すらぼんやりとしている。
 わかることといえば、短髪であることだけ。
 でも、これは。このタイミングの、これは。
 まるでT氏が『転落死する流れ』を描いたみたいじゃないか。
 担当編集者の不幸な死を漫画に昇華したといえば聞こえはいいけど、でも、違う。
 私は気づいてしまっていた。
 ファイル名のラスト、おそらく保存された日付。
 それが、T氏が亡くなったとされた日になっている。
 陽菜乃が訃報を知ったのは、29日の朝のはずだ。28日は、だって……
 ──だめだ。悪い方に考えてしまう。
 陽菜乃にT氏をどうにかできる時間ではなかったはずなのに、こんなにも事細かに描いているというのは一体どういうことなのか。
 それともまるで、彼女が彼の死を予想してラフを描いたというのか。
 仕事相手の死を作品の中で確定されるなんて、その当人が確実に見るはずのことを陽菜乃がしたというのか。
「……陽菜乃……」
 誰にともなく救いを求めるように落ちた私の声が、誰もいないリビングに吸い込まれていっ──
「なに?」
 ──かなかった。
 背後から聞こえた無の声に、私の身体は一瞬で固まる。
 見られた。
 見たのを、見られた。
 うしろに立つはずの陽菜乃は動かない。
 私も動けない。
 すう、と静かに息を吸う音がして、次にくすりと笑う声が聞こえた。
「visionの3話、見たでしょ」
 ……無。やっぱり無だ。
 なんの感情も読み取れない、陽菜乃の声なのにそうとも思えないその声。
 いや、その前に『vision』とは?
 新人賞を獲って連載が決まったタイトルと違う。初めて聞いた。
「まだ未発表の作品タイトル」
 浮かんだ疑問に声が答える。
 すべてを見透かされている実感がまた大きく膨らみ、背中に冷たい汗が流れていく。
 ひたり。ひたり。
 裸足の足音が、すぐそばまで近づいてきた。
 冷え性だから少しでもあたためたいと笑いながら、毎晩靴下を履いていた陽菜乃を思い出す。
「【記録】はたくさんあった方がストックできるから」
「……何を……したの」
「何も」
 左耳に息がかかった。
 生温かくて気持ち悪い。陽菜乃(大切な恋人)への言葉じゃない。だけど、怖い。気持ち悪い。
 陽菜乃の方に顔を動かすことができない。
 本当に彼女なのかが、わからない。
 凍りつく私のそばで、陽菜乃の姿かたちをした『何か』は続ける。
「ただ【記録】してただけ。なのに、違うと言い張った」
「……ちがう……?」
「【観察】して【記録】する。そして【描く】ことで存在させる。アレはそれを拒否した」
 確信を伝えられている気がするけど、わからない。
 何を言っているのか全然わからない。
「アレは【描写】されることに耐えられないと言った。つまり存在を否定した」
「……さっきから言ってるあれ、っていうのは、Tさんのこと……?」
 やっとのことで問いを重ねる。
 自分のものとは思えないほど重くなった身体を無理やり動かして、私はようやく陽菜乃(それ)を見た。
 うっすらと微笑みを浮かべた陽菜乃(それ)は、私の知る陽菜乃と同じように唇の両端をくっと上げて、頷いた。
「そう。だからアレは、自分の存在を壊した」
 未来の日付が記された日記を思い出す。
 つまり、あれも陽菜乃(これ)がT氏を【観察】して【記録】した上で、【書いた(描いた)】ということ?
 描いたことが現実になる特殊能力──そんな漫画のようなことが一瞬頭をよぎったけど、今回のコレはそんな夢のあるものじゃない。
 観察され、記録されていることに気づいた時点で『自分ではない自分』が存在してしまうということだ。
 そんなこと、あってはならない。