陽菜乃の担当編集・Tさんの訃報を聞いたのは、その翌日だった。
「階段から落ちて死んだらしいよ。酔ってるときの足元は気をつけないとなのにね」
 熱が上がらなかったことからおとなしく出勤し、それでも定時に帰宅した19時半。
 珍しくひとりでダイニングに座り、紅茶を飲んでいた陽菜乃がそう言った。
「……え? Tさんって、あの、Tさん?」
「どのTさん」
 半笑いで答える彼女に薄寒さを感じた私は、まさかあの日記を読んだとも言えずにジャケットを脱ぐ。
「だって、ほら、聞いてたじゃん、人生初めての担当さんだー! って……」
 部屋着にかえつつ言葉を選びながら答える私に、陽菜乃は「あぁ」と軽く頷いて応えた。
「次の担当さんはいい人だといいな」
「……いい人って言ってなかったっけ?」
「そうだったっけ」
「そうだよ」
 短い間とはいえ、漫画家と担当編集だ。
 あくまでイメージではあるけど、作品をつくりあげるに当たって濃密な時間を過ごしたはずなのに、こんなにも冷たく「次」の話をする陽菜乃に、私はまた知らない人間を見た気がして怖くなる。
「……お葬式とか……」
「まあ行くよ。でも困ったな、締切もあるのに」
 ──私が知る陽菜乃はもっと人情にあつくて、泣いたり笑ったり忙しい女の子だったはずだ。
 今の彼女の声からは、付き合いのあった人の死に触れたようにはとても感じられない。
 悲しみどころか驚きさえない。
 まるで、天気の話でもするかのように平坦としていた。
 今日──10月29日のTさんは確か、陽菜乃を食事に誘うはずだった。『単純に気分がいい』と書いてあった通り、陽菜乃は人から好かれることを素直に喜ぶ女の子だ。下心は大嫌いだけど、好かれたいとは聞いたことがある。
 本来私の立場からなら咎めるべき感情かもしれないけど、私たちの関係は表にしていないし、彼女を束縛する気もない。
 断ってくれるという自信も少なからずあるし、実際あの日記にも私がいるから断ったと記してあった。
 だけどTさんはあくまで担当編集として、共に過ごす必要があるから誘ったんだろう。
 それを陽菜乃が勘違いして──
 ──いや違う。実際に起きたかどうかを私は知らない。
 あれはあくまで、昨日の時点で陽菜乃が書き終えていたものだ。
 こうなったら面白いな楽しいな、という理由からのお遊びかもしれない。
 頭ではそう考えているのに、『間違いなくあったはず』と思う私はもはや、何かにとりこまれているのかもしれない。
 陽菜乃と同じように。
「だるいし眠いからもう寝るね。お風呂は沸かし直して」
 すぐそばで彼女の声がして我にかえると、目の前に陽菜乃がいた。
 相変わらず表情は無いままだけど、顔の造形は何ひとつ変わらない。彼女のままだ。
「……体調、気をつけてね」
 やっとのことで返すと、陽菜乃は目だけで頷いて私から離れていく。
 離れて行った、はずなのに、その視線をいつまでもいつまでも感じていた。



 T氏の件をもっと知りたい。
 ネットニュースだけでは足りない。
 一体彼に何があったのか。
 その衝動だけで、私は彼のSNSアカウントにたどり着いた。
 出版関係の人間が、自らの立場を公にしたアカウントを持つことは珍しくないと思ってはいたけど、想像以上に簡単に見つかった。
 彼はほぼフルネームで運用していたからだ。
 少し遡っただけでもT氏は頻繁にポストをしており、企画や宣伝以外にも趣味や日常的なことを呟く人だったようだ。
 忙しい編集者はブラック企業レベルに働くというイメージではありつつも、おいおいいつ寝てるんだよと突っ込まざるをえない時間帯のポストが多い。しかも深夜ラーメン巡りをしていたり、どうにも健康には無頓着なイメージを抱いた。
 そんなT氏の最新ポストは、10月28日。まさしく彼が亡くなることになる日になって3時間が経った、午前3時12分。

『やばい』
『ただの妄想かと でもちがう あれは』

 この2つ。
 好きな漫画のアニメ映画観劇後『ガチ熱い。やっばい』という表現を使っていたのを確認したあとに見たものだから、一瞬、単純に何か彼の中でアガる何かを見た感想なのかと思った。
 でも違う。同じ時間に連投された文章を読むと、恐ろしいという意味での「やばい」なのではないだろうか。
 T氏は何かに気づいたか、何かを見たのだ。
 一体なにを?
 当然の疑問と、漠然とした不安が私を包む。
「……ーい」
 連続した2つのポストから想像するに、
『(怖い、)やばい。ただの妄想かと思ってたけど違う。あれは』
「おーい?」
「えっ」
 突然すぐそばから声が聞こえた。
 ほぼ反射的に振り返ると、陽菜乃が私の肩に向かって手を伸ばしているまさにその瞬間だった。
 慌ててスマホを下ろしながらヘタな笑顔で笑いかける。
「あ……ごめん陽菜乃。なに?」
「や、なにかあるわけじゃないけど……真剣な顔してるから──」
 言いながら、陽菜乃は視線を私の手元へ移す。
 その目の冷たさに、私は空恐ろしいものを覚えた。
 声色は私の知っている彼女だ。それなのに、顔が能面のようで感情が見えない。
「……なんか見られちゃまずいもの?」
 ふ、と視線が交わる。
「あぁううん違……ただX見てただけ」
 ただ──見てただけ……?
 正体不明の何かに見られている感覚がずっと抜けない自分と、ポストの中のT氏が重なった。
 もしかしたら、T氏も陽菜乃へ違和感を感じていた……?
 あくまで想像だ。でも、可能性は高い。
 1対1の打ち合わせというのは、ビジネスライク以上の何かを感じることはある。
 私はクリエイターじゃない。だからすべてが想像でしかないけど、漫画や小説などのコンテンツで得てきた印象では、作家と編集者というのは互いの人間性すら曝け出す可能性が高いのではという関係性。
 T氏は陽菜乃と打ち合わせを重ねるうち、彼女の『何か』に触れてしまったのでは?
 今の私と同じように。