気分が優れないことが、体調にも影響したらしい。
どうにも怠さが抜けない私はいよいよ寒気を覚えるようになり、ランチ休憩で念のため熱を計ってはみたものの平熱以下。
昨今は熱のない感染症も流行っているからと、理解のある上司に恵まれて早退をした。万が一にもこれから熱が上がるかもしれないことをふまえ、ドラッグストアで足りないものを購入してからマンションへ帰った。
水曜日の16時過ぎ。
陽菜乃は本業が休みなものの、午後には編集さんとの打ち合わせがあると聞いていたから家にいないことはわかっている。
引きずるように室内へ入り、ふとリビングのローテーブルに目をやると、見慣れないノートが置いてあった。
途端にそわりと落ち着かなくなる。
なぜなら、開きっぱなしになっていたからだ。
【ミタイデショ】
誰かも──ヒトかさえもわからない何かが頭の中で囁く。
陽菜乃との日常は、あれから特に変わりがない。
変わりがないというのは、正体不明の気色悪さも変わっていないということ。
誘われるように手を伸ばすと、背後でパサリと音がした。ハッと振り返ってみても、誰もいない。
当たり前だ、平日の夕方なんてこの部屋には誰もない。そのはずなのだから。
「……日記帳……?」
飛び込んできたのは、日付が並んだページ。
でも。おかしかった。
咄嗟にテレビ横にあるデジタル時計へ目をやると、2025/10/28と間違いなく記されている。
でも。この日記は。
10月29日(水)
Tさんから食事に誘われた。
打ち合わせにって言われたけど、ほんとかな?
好かれるのは単純に気分がいい。
けど彼女と別れてから来いって感じ。
××がいるからって断ったら、Tさんは変な顔してた。
打ち合わせなので必要ですだって。ほんとか?
言い訳乙すぎる。顔に出てるのに。
10月30日(木)
残業で遅くなった××が、小さい花束を買って帰ってきた。
常連さんがくれたんだって。
いつものお礼とか言われたら受け取らないと失礼だよね。
けど虫苦手だし、ドライフラワーならまだしも趣味が悪い。
捨てていい?って言ったら、ちょっと困ったように笑っていいよって言ってくれた。
さすが。
10月31日(金)
Tさん、顔に出すぎ。
いち担当相手の漫画家にデレデレしすぎ。
まあ悪い気はしないけど。
「……なにこれ……」
明日以降のことが書いてあった。
そもそも今日の分だって、この通りに起きているのかさえわからない。だって、まだ1日は終わっていないんだから。
昨日飲んだ牛乳の期限が切れていたことは教えて欲しかったけど、未来が描かれている部分に気を取られてどうでもいい。
期限の部分が掠れて見えなくなっていたのは陽菜乃がわかってやったことなのかも聞きたいけど、それでも。
「…………編集、Tさん……」
陽菜乃から何度か聞いたことのある名前。
見る人が見たら──相談する相手によっては、彼女の浮気願望が詰まった夢日記のようにも見えるだろう。
少し前までの私なら、そう思ったかもしれない。
だけど今は違う。
陽菜乃は現実を描いている。
観察して、描写して、それを漫画に描き写している。
そんなふうに思えてならないのだ。
私は冷や汗が止まらなかった。ページを遡り、過去に何が綴られているかを確認せずにはいられない。
描かれている気がしてならなかった。私のことを。陽菜乃が知るはずのない私のことを──
10月16日(木)
××が外回り中、クライアントのビルから出てきた時に喉が渇いたのに気づいたみたい。
基本貧乏性だからコンビニでペットボトルは買わないのに、「こんな日もある」って自分を許してあげた。
それでも一番安いブラックコーヒーなのが××らしいけど。
いいこと考えた。
仕事帰りにはきっと、××はお土産って言って、コンビニスイーツを買ってくるよ。
背中に冷たい汗が流れる。
一言一句、このままの出来事が確かにあった。
陽菜乃は絶対、知るはずもないのに。
やっぱりという想いと、純粋な恐怖が混ざっていく。
はじまりは、部屋の描写が現実とそのままだったことだった。
身近なものをモデルにするのは無理もないと自分に言い聞かせて、クリエイターらしい豊かな想像力でモデルにした私に肉付けしていって、あの青年主人公が生まれたんだろうと思おうとしていた。
最初に思いついたようにプレッシャーから狂ったとか、何かに取り憑かれたと思った方がまだマシだったかもしれない。
それでも彼女のそばから離れずにいてわかるのは、狂ってなんかいないということ。
ただ……ただ、観察して、描写しているだけ。
そう。ビョウシャ。
震える指先がめくるページがなくなったことを告げ、ふと我にかえる。
そこには、
10月11日(土)
14:32 目線 ズレなし 思考 不一致2秒
10月13日(月)
21:00 追記 反射に反応 認識開始の兆候
不可思議なメモが記されていた。
目線とは、思考とは、認識とは、一体なんのことなのだろう。



