同棲をはじめたころに決めたルール。
陽菜乃の個室──仕事部屋には、私ひとりで入らないということ。
いくら心を許した恋人とはいえプライバシーを大切にしたい派の私には、この条件はありがたかった。
だけどあの日、陽菜乃が編集との打ち合わせのため午後から出かけていった日曜日の午後、私はそれを破った。
陽菜乃の様子がどこか変わってきたと最初に感じたのは、あの漫画を描き始めた頃から。
明らかに静かになっていき、今では元に戻ったように見える彼女が陽菜乃ではないと思ったのも、あの漫画のせい。
全部が全部、漫画のせいなんだ。
「……ごめんね」
それでも良心が痛まないわけでもない中途半端に良い子ちゃんな自分に辟易しながらも、私は陽菜乃の部屋へ踏み入った。
互いの寝室へ行き来していたのがすでに遠い昔に感じる。
記憶よりも綺麗に整頓された室内。真ん中に置かれた丸いローテーブルの上には何冊かスケッチブックが重ねられ、腰に良い椅子がセットされたデスクには原稿らしき紙が何枚も広がっていた。
タブレットじゃないんだ。
真っ先に思ったのは、それだった。
私の知る陽菜乃は、イベントのためでも新人賞のためでも、タブレットを使って漫画を描いていた。
今時の漫画家事情は全く知らない。もしかしたら、紙で書くことが条件なのかもしれない。
決めつけるには早すぎると頭を降ってから、とりあえずスケッチブックから確認してみることにした。
【描写には 侵入と許可が必要】
乱れた走り書きで、そう書いてあった。
「……侵入……許可……?」
意味はわからない。でも、心にひっかかる。
シンニュウ。キョカ。ビョウシャ。
シンニュウ。キョカ。ビョウシャ。
自然と繰り返しながら、次のページをめくる。
「……私だ」
寝起きでボサボサだったり、仕事用にまとめている髪。
ソファに投げ出す脚から、そこでうたた寝している伏せた瞼。
その背後にある家具の細かな書き込みまで、すべて鉛筆で描かれていた。
何かに気づいたように振り返った『私』の目の動きまで、すべて。
「……スケッチっていうより……なんか……」
もう1ページ、もう1ページとめくっていく。止まらない。
描かれている『私』は部屋でダラけていたり、仕事中と思われる服や外回り中の様子まであった。
陽菜乃は仕事中の私を見たことがない。職場は違うし、外回りだからといって落ち合ってランチだってしたことがない。
私が扱う仕事は機密事項が多いから、食事のネタとして話したことだってない。
なのに、どこかから見ていたのかと思うほどには、あまりに……
──【記録】だ。
これは、記録だ。スケッチじゃない。
認識した途端、息苦しくなってくる。必死で酸素を求めて深く吸い、胸元を抑えた。
スケッチブックを閉じ、さわったのがバレないよう気をつけて元に戻した。
久しぶりに一緒に寝たいと陽菜乃が甘えてきたのは、その夜のこと。
恋人同士の触れ合いができる精神状態でもなくて、断るか一瞬迷った。これまでもタイミングによればお互いそういったことはあったし、どこかぎこちない今だからこそ無理矢理にでも触れ合う機会を得た方が良いとも思った。でも、今は無理だ。
結果正直に「添い寝だけなら」と伝え、彼女も快く了承してくれた。
今までも体調次第でそういう夜はたくさん重ねてきたし、これまでと何ら変わらない。
そう思って──思い込んで、残業で遅くなった私は先に眠る彼女の隣にもぐりこんだ。
「…………がう……」
か細い声が聞こえたのは、そう時間が経っていないころ。
陽菜乃へ顔を向けると、薄暗い中でも瞼はしっかり閉じたまま、頭をわずかに左右に揺らしながらうなされていた。
最初はもごもごと口の中で言っているのが、だんだんとハッキリ喋りはじめた。
「……違う……違うの……」
「…………うん…………まだ、これから……」
「……うん、そう……もう少しで、仕上がりの……でもこれから……これからなの……」
私はこれまで他人の寝言を聞いたことがないし、実家の家族にも寝言を言うタイプはいなかったからわからない。
わからないけど、漠然としたイメージとしては『ひとりごと』みたいなものだと思っていた。
「…………違う……描ける……見てる……」
こんなにも、誰かと対話するものなのだろうか。
まぁ別に変なことじゃない。登場キャラがいる夢を見ていてその相手と話してるだけ。
なんなら、漫画へのプレッシャーから編集担当さんに一生懸命言い訳する悪夢でも見ているかもしれない。
普通。きっと普通。絶対普通のこと。
起こしてあげた方がいいかもしれないと頭のどこかで過ぎりながらも、目の前で『誰か』に答え続ける陽菜乃を前に身体が固まってしまい、私はまた正体不明の気色悪さに包まれていった。
*
「ねえ。昨日、勝手に部屋入った?」
翌朝、テーブルをはさんで朝食を食べようとしていたまさにその時、目が合った瞬間陽菜乃は言った。
「え、いや。なんで?」
内心心臓が跳ね上がりながらも、平静を装って答える。
陽菜乃は私から視線を外さないままサラダにフォークを挿し込むと、刺さったキュウリを口に運びながらふっと目を伏せた。
「……ならいいけど」
それだけ答えると、またいつものように静かになる。
入られたと思った理由。約束は守ってくれないと困るという苦情もない。
私からも、どうしてそんなことを訊くのかとか、部屋に入られたらなんかまずいの? と茶化すとか、今までの私たちの関係性からしたら会話を重ねることはできたはずなのに、淡々とした朝が過ぎていった。
だけど私には──「わかった」という感覚だけが残る。残ってしまった。
陽菜乃はすべて知っている。
私が彼女の部屋に入ったことも、そこで何を見たのかも。
そして目を伏せた時、かすかに上がった彼女の口角。あれは安堵だ。
陽菜乃は私が部屋に入り、アレを見つけることを待っていたのかもしれないと思ってしまった。
──だから、止まらなくなった。
陽菜乃の部屋に入ることを。
数日は何の変化もなかったけど、ついに新しい原稿が置かれていた夜には喜びさえ感じてしまった。
何かがおかしい、こんなの私じゃないと頭の中で私が言う。疑心暗鬼から恋人のスマホを見るなんて可愛らしい話ではない。なにかに取り憑かれたように陽菜乃の原稿が気になって、仕事への集中力が削がれてきている現実に焦りもあった。
すべて言い訳だ。
だから止められなかった。
新しい原稿を前に、自然に手が伸びる。
数ページだけ置かれた紙は手に取りやすいように広がっていて、やはり「待っていた」感がすごい。
肌にまとわりつくナニかを感じながら、私はあえて罠にかかる気持ちでそれを表に返した。
「……わたし、だな……」
描かれていたのは、青年主人公が風呂場から出てきた数コマのシーン。
いつも陽菜乃に「ドライヤー使って」と嗜められる私が、まさに髪から落ちる水滴をフェイスタオル越しにばさばさと乾かしながらダイニングに出てくるところだった。
右利きなのに、タオル越しに髪を拭くのは左手であること。
その時に反対の首を少し掻く癖があること。
タオルの柄。廊下の奥にちらちら見える、ラグのイラストまで。
どう見ても、誰が見ても私だった。
原稿の中の青年はひとりでいるはずなのに、どこか気まずそうな表情をしている。気まずい──いや違う。警戒と、その相手がわかっている故の畏怖と、その感情を抱く罪悪感と。様々な感情がない混ぜになりつつ、自宅で迷子になっているような不安を灯した瞳。
そして彼を見つめるのは、例の「目」だ。
「……あれ……?」
原稿を戻そうとした時、下にスケッチブックが置かれていることに気がついた。
すでに抵抗がなくなって指先でそれをめくると──
【みる かく みる かく かく みる かく かく かく かく かく かく かく かくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかくかく】
ページいっぱいのソレ。そして、
【きまる きめる かく きまる】
「……なんのこと?」
思わずこぼれた疑問に答える人は、誰もいなかった。



