「……あの話って、モデルとかいるの?」
久しぶりに歯磨きのタイミングが同じだった夜、私はさりげなく陽菜乃に聞いてみた。
受賞作が掲載されてどのくらい経っただろう。
聞こう聞こうと思っていたが、私も仕事が繁忙期に入っていたし、彼女との生活リズムが今までになく合わなくなっていた。
平日の陽菜乃は定時まで仕事をしてから原稿作業。時には徹夜していることもあるようで、身体が壊れてしまうのではという心配も募っていた頃だ。声をかければ「大丈夫」と笑顔を見せてくれたが、そこにあの日の──あの「女」の影はなく、ほっとしていた。
それでも私は、彼女といる幸福以上に、正体のわからない何かに怯えていたように思う。
「……陽菜乃?」
鏡を向いて黙ったままの陽菜乃に、私はもう一度声をかける。
彼女は歯ブラシをつっこんで閉じかけたままの口の中で何かもごもご言った、ように見えた。
「ごめん、なんて?」
いつものように聞く。
いつもの陽菜乃なら、歯磨き中に話してもお互い何を言っているのか聞き取りづらいことを知った上で、「もー、ちゃんと聞いてー?」と語尾をあげながら拗ねたように笑うところ。
しかしその時の陽菜乃は違った。
視線の端だけでちらりと私を捉えると、そっと歯ブラシを抜いて言った。
ぴくりとも表情を変えないまま。
「いるよ」
とだけ。
誰? と問い返せる空気ではなかった。
実際、私の口は固まってしまい、動かしたくてもできなくなっていた。
なんて表現したらいいのかわからない。ただ、彼女を怖いと思った。
この間数秒。そして陽菜乃は突然ぱっと笑いかけ、
「あんた」
と付け足す。
そしてまた正面を──鏡をじっと見つめると、水を出して歯ブラシを洗い出す。水を止めてコップで口をゆすぎ、ぷはぁといつもと変わらない息を吐いて私へ振り向いた。
「ってことにしといた。編集さんがさ、読者の人たちが共感しやすい作品づくりには具体的なモデルがいた方がいいって言ってたし」
「……そ、そうなんだ」
陽菜乃は私の返事を待つことなく、洗面所から去っていった。
モデルは「あんた」。
そんな呼び方をされるのは、過去彼女と大げんかした時の1回しかない。
いつもはどんな時だって名前を呼んでくれる。それは私が「おまえ」や「あんた」という呼ばれ方をすることが好きではないことを知ってるからだ。どこか冷たい感じがするから嫌だなと、小さくこぼしたことを彼女は覚えてくれていたから。
彼女の背中を見つめながら、私は心の中で聞く。
……陽菜乃。本当は誰をモデルにしたの?
*
気にしすぎかもしれない。
そう思いながらも、私は日に日に疑心暗鬼へ陥っていた。
彼女が私をモデルにしたというなら納得がいくことも、それを『超える』ことが増えてきたからだ。
例えば朝、一緒に食事をしている時、久しぶりに陽菜乃が元気そうに笑っていた。
当然嬉しくなって、会話を弾ませる中で何気なく私が「なんかすごく嬉しい」と口にすると、
「だって、昨日とおんなじこと言うんだもん」
と陽菜乃が言う。前日は無表情の彼女を相手に、私は今日の帰りは何時だとか、夕飯は買ってくるから気にしなくていいよだとか、そういったことを一方的に話しかけていただけなのに。
また、こんなこともあった。
夢見が悪く、いつもより早く起きてしまった私が顔を洗って早朝散歩をこなし、朝食を作っている途中で陽菜乃が起きてきた。
「おはよ」
「…………」
「……体調悪い?」
沈んでいるように見えた陽菜乃にそう声をかけると、彼女は両腕で自らを抱きすくめるようにして、言った。
「夢見が悪くて……。みんな死んじゃうの」
「え」
「あたしも家族も友達も仕事の人もみんな。……もちろん、あんたも」
「……え?」
全く同じ夢を見ていた。
もちろん偶然ということだってある。さすがに最初から疑ったりしない。
だけど、それでも、ここ最近の陽菜乃の様子に違和感しかなくなっていた私にとっては、やはり正体不明の不気味さを感じずにはいられなくなっていた。
また、こんなこともあった。
残業で遅くなったうえに電車に傘を忘れてしまい、最寄りからマンションまで濡れて帰った夜。
陽菜乃が定時で帰宅していたことはLINEで知っていたから、玄関を開けると浴室からシャワーの音がしていたことに少し驚いて。
本業の会社は変わっていないはずで、そうすると18時半には部屋にいたはずなのに、今……?
いや、漫画の作業が遅くなって入浴が遅くなっただけかもしれない。
そう思い直して、ひとまず先に夜食をいただいた。
『──あ、おかえりぃ』
キッチンで片付けをしていると、さっぱりした様子の陽菜乃が現れて久しぶりに笑顔を見せた。
いつもより口角が上がっている気がして、見慣れた顔が少し歪んだように感じた──のを、疲れているせいだと思い直した。ただいまと返してから残業で遅くなった旨を話し、それから髪もジャケットも濡れている理由を──
『あたしったら電車に傘忘れちゃって最寄りからずぶ濡れでさ。お風呂入ってたんだ』
──話そうとしたのに、陽菜乃がその内容をそっくり話すものだから、私は口を開けたまま固まった。
不思議そうに首を傾げた彼女は、顔いっぱいに「なんでそんな顔するの?」と言っている。
「え、いや……定時で帰ったってLINE……」
「うん」
当たり前でしょ、と言いながら陽菜乃は冷蔵庫へ向かう。
慣れた手つきで炭酸のオレンジジュースを取り出す背中は私の知っている彼女のはずなのに、何かがおかしい。
「……いつ電車乗ったの……?」
自分の声が掠れているのがわかる。
家にいたはずの陽菜乃が、何をどうしてそんな目に遭えるというのか。
ペットボトルを手に振り返った彼女は、心底不思議そうに首を傾げた。
「だからぁ、電車に傘を忘れて最寄りからずぶ濡れになったの。参ったよね」
全く会話になっていない。
静かになってしまったと感じた頃とは別人のように、ケロッと明るく戻ったように見える陽菜乃。
だけど違う。何かがおかしい。
「もうしばらく集中するから寝てていいよ」
何も言えなくなった私を全く気に留める様子もなく、彼女は個室へと戻っていった。
怖いだとか、不気味だとか。
こんなの、恋人に対して抱く感情じゃない。
陽菜乃の様子が変わったのも私への態度も、ただ私に飽きたとか冷めたとか、そういった理由からかもしれない。
だから、私から別れを告げられるような態度をとっているのかもしれないと。
もしくは、青年主人公のモデルが私だというのなら、怪異らしき何かに巻き込まれていく人間の心情を観察したいとか。
──だとしても、健全な関係じゃない。
他でもない自分自身に限界を感じはじめた私は、ルール違反を犯そうとしていた。



