それはまさに、青天の霹靂といえた。
クライアントとの打ち合わせを終えた午後二時すぎ。ランチには遅いがお腹が減っている状態で駅前をふらつき、スマホの電池が二十%以下であることを思い出してコンセントのあるカフェに辿り着いた。
無事にランチセットをオーダーし、コーヒー以外の品物はあとからお届けしますということで、外通り側の窓へ向いたカウンターに腰をおろす。そしてコンセントを差しこみスマホの充電をはじめたまさにその時、画面にLINEの通知が浮いた。恋人の陽菜乃からだった。
『受賞』
「…………え?」
じゅしょう? なんの? と首を傾げつつトークを開くと、
『M社の漫画新人賞 すご どうしよ やば』
「……あ、あれか」
漫画と聞いて、数ヶ月もの間彼女が仕事のあと必死で向き合っていた原稿を思い出す。
私にはよくわからないが、これまでにも何度か「イベント」のため漫画を描いていたことがあったから、あの時もその一環だと思っていた。新人賞に投稿していたのか。
『ここ』
既読がついたことに気づいたらしい陽菜乃から、リンクが送られてくる。
今は私も仕事の時間だと知っているからあえて通話はしてこないのだろう。それでも祝いの言葉ひとつかけないのも恋人として──というより人間としてどうかと思い、ひとまず先に伝えるべきことを打ち込む。
『すごいじゃん、おめでとう。今やっと昼休憩』
返信を待たず、彼女が貼ったリンクに飛んだ。
間違いなく、漫画を描く時に使用している陽菜乃の名が新人賞の冠を得ていた。
「17番の札のお客様、お待たせいたしました」
「──あっ、はい。ありがとうございます」
いつの間にか隣に立っていた店員に微笑みかけられ、番号札と引き換えにサラダとセットパスタを受け取る。
『ありがとう ねえやばいよね 掲載決定だよ 賞金もあるよ デビューできるって』
喜びと混乱の中にいる陽菜乃の顔がありありと浮かぶ文面を見つめ、ふっと笑みを漏らす。
彼女が幸せならそれでいい。彼女が気を抜いて笑える場所でありたいと思い同棲を申し込んだのは他でもない私だった。
『本当におめでとう。帰ったらゆっくり聞くよ』
とりあえず今できる心から伝えたいことを打ち込んで、送信する。
陽菜乃の夢だったのかまでは知らない。ただ、好きで描いていることだけは知っていた。
好きなことで結果が出たのだから喜んで当然だ。そして私もまた、幸せだと思う。思っている。思った。
……どうしてだろう。
私の中の何かが「もう戻ってこない」と言っている。
『ちょっと読んでみて』
そう言って陽菜乃がタブレットを差し出してきたのは、半年以上前のこと。
『え。漫画の良し悪しとか全然わからんけど』
『いいの。客観的な感想が欲しいだけだから』
『感想とか言えるかな……』
『面白い、つまらない、リアル、フィクションぽさすごい、なんでもいいから』
半ば強引に押し付けられ、渋々握っていたコントローラーから手を離してタブレットを受け取る。
表紙と思われる一番最初のページには、
『……『描いてください。』……』
『あ、まだ仮タイトルだから。苦手なんだよね、タイトル決め』
そわそわしている彼女を軽く手招きすると、遠慮することなく隣に座ってくる。だが、読み進める私の表情を見るのは照れくさいらしく、私の肩に頭をもたれた彼女はそのまま目を瞑った。
タブレットの中の漫画に、ゆっくり目を通していく。
主人公は青年。平々凡々な日々を送っていたはずが、恋人である女性が自宅へ訪れるたび、何かがおかしくなっていく。それは恋人にも伝染していき、少しずつ日常が壊れていく。
はじまりは洗面所の鏡だ。甘い夜を過ごした翌朝、未だ気だるさを残す恋人をベッドに残した主人公は歯磨きのためそこに立つ──
『……あれ?』
『ん? なに? なんか変なとこあった?』
『あ、いや……』
変なところは特にない。絵もきれいだし、私のようにあまり漫画を読まなくなった大人にも読みやすい。
だが、なんだろうこの感覚は。
……そうだ。間取りだ。間取りが今、私と彼女が同棲しているマンションの部屋とよく似ている。
まぁ一般的な2LDKだし、多少参考にしても無理はない。小説家や漫画家など、なにかを産み出すクリエイターたちにはきっとそれぞれモデルがあるのが当然なんだろう。
だが、なんだろう。陽菜乃の漫画を読んでいる間ずっと、私は「これを知っている」と感じ続けていた。
読み終わる頃には、日常ホラーへ巻き込まれていく青年主人公と自分を重ねずにはいられなくなっていた。
*
そして陽菜乃は、静かになっていった。
報告を受けた夜、即席で受賞おめでとうパーティーをした時にはそこまでではなかったし、後日改めてちょっと良いレストランで食事をした時にも──……
いや。あの時にはもう静かになりはじめていた。
受賞や掲載、デビューへのプレッシャーとか、会社の仕事とうまく兼業していくためのバランスだとか、そういった考え事の類が増えてのことではない。無論色々考えていたとは思うが、考え事をしている時の彼女は顔を見ればすぐにわかる。
陽菜乃は、静かになっていったのだ。
思考の沈黙ではなく、もっと本質的な、こちらへ向かう意思が欠落したかのような。
朝起きた時も、互いに仕事へ出る時も、帰った時も、食事中も。何かのタイミングで私が声をかけても「うん」「そうなんだ」で終わってしまう。まるで私を「いないもの」として扱っているようだった。
プレッシャーから心に影が帯びてきたのではと病院をすすめ、素直に従った彼女だったが、何もなかった。
医師と相対する陽菜乃の表情に以前との違いは感じられず、食欲が失われたわけでも、仕事に対する気持ちがなくなったわけでもなかった。本当に、なんら変わらない彼女の姿を見た。
それなのに。
私とふたりの時だけは、静かになっていった。
「あなたに甘えているのかもしれませんね。環境も変わったそうですし、気を張り続けているのは大変なのでしょう。これまで通り、あなたは話しかけ続けてあげてください。あなたの話を聞くのがお好きだそうですので」
医師から言われた言葉に、頭では納得している。私は彼女のそういう存在でありたいと思っている。
だが違う。なにがと問われても説明ができない。
静かさが、違う。
夕飯はタイミングが合わないことがほとんどのため、一緒に食事ができるのは朝だ。
いつものダイニングテーブルに向かい合い、陽菜乃はひと口も喋らないまま箸をすすめるのが最近の日常になっていた。
それでも医師に言われた通り、私は陽菜乃に話しかけ続ける。彼女は少し俯いたまま、静かなままだ。今までは彼女の方がおしゃべりで、笑い声が絶えなかったというのに。
たまに口を開いたと思えば、
「さっきの話使っていい? 漫画に使っていい?」
それだけ。
しかも私が「え?」と聞き返すと、
「ううん、忘れて。聞いてなかったことにして」
陽菜乃は私と視線を合わせないまま声を返す。視線を、目を、合わせてくれない。
陽菜乃は私を見ていない。
そのはずなのに、私はだんだんと「見られている」気持ちが強くなっていった。
いよいよ受賞作が雑誌に掲載された日。
私は仕事帰りにコンビニへ寄ってそれを購入し、急いで帰宅した。その日に限って彼女は残業で遅くなるというLINEは来ていて、私はどこかホッとしながら、すべての支度を終わらせてソファで読んだ。
読んでみてと言われた時よりも綺麗に、より鮮明になった陽菜乃の漫画は、面白かった。
絵にはまだ粗さが残るという受賞時の添削コメントのようなものを思い出したが、私にはよくわからない。
ただ、明らかに主人公の「彼」に付きまとう「恋人」──そして突如登場した「女」の表情に妙なリアルさが生まれていて、これが編集者がつく意味なのかと感心したのも本当だ。
「……けどさ……」
思わずこぼれてしまった自分の声に驚いて私は口を抑える。
間取りだけじゃない。ラグの模様、家具の位置。冷蔵庫の端についたマグネットまでが同じだった。エアコンの形すらよく似ているように見える。
まさかと思って立ち上がり、エアコンの下にダイニングチェアを持ってきてそれに乗る。あらゆる角度からエアコンをスマホで撮って、改めてソファに戻って写真を拡大してみた。
「……同じだ」
エアコンの型番。そんなものまで漫画で描写する必要があるのかはともかく、一体どういうことなんだろう。
リアル感を大事にするために自分が暮らす部屋をモデルに、主人公の部屋を描いたと言われたらまぁそうなんだろうが、それでも言葉を選ばずに言えば、正直気色悪さを覚えた。
ページをめくる。主人公と「恋人」がいる。そしてふたりを見つめる「女」。
女は主人公たちからは見えていない。主人公と恋人は、見えない誰かの視線を常に感じて神経質になっていき、最終的には互いに対して疑心暗鬼になっていく。
そして最後のページ──「恋人」が鏡を見た。
だが写っていたのは自分ではなく、見知らぬ「誰か」──読者からすれば、あの「女」の他なかった。
「面白かった?」
「ひっ!?」
突然声をかけられ、ソファからほぼ飛び上がりながら姿勢を正すと目の前に陽菜乃が立っていた。
……陽菜乃、のはずだった。
笑っている彼女は、まさに今読んだばかりの「女」とよく似た顔をしていた。



