イチョウ並木の中で二人きりで歩く。
あなたとの素敵な恋はゆっくりと進んでいく。
手を繋いだままでも優しさは伝わり、
きっとこのまま、深まっていきそうだね。
あなたとの出会いは偶然で
彗星同士みたいに遭うはずもない出会い方をした。
思い出も愛情も自然と深まり、
季節はあっという間に巡っていった。
あなたが、ふと、立ち止まり、
「最高だね」って笑顔で言った。
「最高って、なに?」と聞き返したら、
あなたに思いっきり抱きしめられて、
一瞬、息が止まった。
☆
10月。
拓実(たくみ)と横並びで、イチョウ並木の下を歩くことはとても幸せなことだ。
五稜郭公園の前のときわ通の下を歩くのは新鮮な気分だった。本当は手前にある五稜郭タワーに入るつもりだったのに、目の前を通り過ぎて、そのままゆっくり歩いている。
「もっと、こっちこいよ」
「えっ」
少しだけ驚き、拓実の方を向くのとほぼ、同時に腕に暖かさを感じた。そして、私の身体は少し強引に右側に持っていかれた。
拓実と付き合って6か月が過ぎた。こうしていることが幸せに感じた。18歳のときに出会い、そして、私たちは11月でもうすぐ19歳を迎える。
「強引だね」
「近づきたかっただけだよ。梨央(りお)ちゃん」
そう言って、拓実はそっと、微笑んでくれた。その笑顔がかわいくて、少し照れる。左耳に付いている丸いピアスが秋の黄色い光を反射している。
イチョウ並木からの木漏れ日すら、拾えるのは拓実が自体が輝いているからかもしれないって、ふと、バカなことを考えるくらい、そのシルバーのピアスはよく似合っているし、横顔のE字がとても絶妙なバランスで完璧だった。
私と拓実は11月11日生まれだ。
生まれた場所こそ、函館と旭川と違うものの、全く同じタイミングで私と拓実はこの世界に生きることになった。
もちろん、その奇跡を喜びあったし、それは、遠く離れた場所で暮らしているだけで、もしかすると、生まれる前、魂の状態だったときに、何らかの再会するための約束をしたのかもねと、思わず拓実に言ってしまったほどだった。
普通だったら、引かれるかもしれないそのことも、拓実は確かにと、無邪気そうな笑顔で答えてくれたから、よかったとも思った。
ふたりが彼氏、彼女の関係になったときが、私の理想の恋の最高潮だったかもしれない。
こんな、理想的な奇跡が汚れきったこの世界に存在するんだと、感心したし、この恋は理想的な運命で決められていたものなのかもと、思い込んでしまおうと思った。
大学一年生のとき、私と拓実は軽音サークルに入っていた。私は元々、ギターが得意だったし、彼氏作るにはサークルが手っ取り早いって聞いたことがあったから、あまりやる気がないまま、サークルに入った。
拓実は何も楽器ができないのに、軽音に入ったらしい。初めて顔合わせしたときに、できる楽器はタンバリンですと言って、iPhoneでおジャ魔女カーニバルを流しながら、持ってきたタンバリンをそれっぽく叩くと周りからそれなりの爆笑と失笑をかった。
たぶん、失笑のほうが多かったと思う。失笑をかったのはタンバリンの所為ではなく、そこそこ顔が整っているのに、ネタに走ったからだと思う。そういった経緯からか、速攻で痛いイケメン枠になった彼の相手をする人は、ほとんどいなそうだった。
だから、新歓コンパでも拓実のことを相手にする人はいなかったし、なにより、ガチでバンドやりたい人は拓実のことなんて、空気みたいに扱っていた。
早すぎる残酷な世界の中で、拓実は浮いていた。だから、端っこのテーブル、イケてないグループの中に私はわざと座り、拓実と話すことにした。
そしたら、思った以上に話が合って、LINE交換して、1週間後にはデートしに行く仲になった。そのさらに1週間後、拓実から簡単に告白されて、私は拓実と付き合うことになった。だから、その1週間後には、もはやサークルに行く意味がなくなり、私はサークルにいかなくなった。
「俺さ、タンバリンなんか、いらねーよって言われて、バンドクビになったんだけど、どうすればいいかな」
「そのバンド、無能だね」
「だよな。どうしてだろうなー」と拓実は他人事のように上を向きながら、そう言った。いたずらにそんなことを言う拓実のことが好きだ。痛さがたまに吹っ切れすぎて、大噴火しているときがあるけど、実際にアニソンのコピーバンドでタンバリンをやっている拓実は謎にかっこよかった。
ただ、毎度のステージで爆笑と失笑を誘う、拓実の独壇場にガチのアニオタの過半数がイライラしたらしい。
「ねえ」
「なに?」
「なんて言われて、バンド追い出されたんだっけ?」
「えー、だから、『俺たちのアニソンをけなすな!』って追い出されたよ。せっかくAmazonで8千円のタンバリン買ったのにさ。あー、どうしよう」とたぶん、結構再現度が高いトーンで言う拓実を見て、私はそっと、拓実の腕から離れ、立ち止まり、腹を抱えて笑った。
「ちょっと、まって。お腹痛いんだけど」
「このまま腹筋鍛えてろ。痩せるぜ。元々、痩せてるけどな」
「なにそれー。もう」
拓実は張り切って、サークルに入る前にタンバリンを買って、カラオケで2週間、練習したらしい。だから、買って練習した以上、意地でもどこかのバンドに入ろうとして、拓実のゴリ押しで入ったのがイケてないオタクバンドだった。
「あーあ、クリスマス公演、楽しみだったのになくなっちゃうんだ」
「んだな。笑いも取れる優秀なパーカッショニスト、どっかで雇ってくれないかなー」
「そんなことより、クリスマス、一緒に過ごせるね」
「最高だね」
「最高ってなに?」
私はそのまま、立ち止まったまま、上目で拓実のことを見つめた。すると、拓実は何かを企んでいるような表情をした。強い風が吹き、イチョウがざわざわと音を立てて揺れていた。風にあわせて、木漏れ日も揺れていた。きっと、私たちが生まれた日もこんな柔らかい光が降り注いでいたのかもしれない。黄色のモザイクみたいにちらつく、イチョウの葉が非現実な世界を作り出していた。
そのあと、一瞬の間が嘘だったみたいに私はきつく抱きしめられた。
☆
11月。
すっかり、冬手前まで来てしまった。拓実が雪が降る前に行きたい場所があるって言われて、私は言われるがまま、拓実についていくことになった。市電に乗って、終点の函館どつく前まで連れて行かれていた。
「さすがに元町まで来ると、函館っぽいね」
「函館っぽいってなんだよ。海見えたらどこにいても函館っぽいわ」と拓実は半分本気とも冗談ともどちらとも捉えられるような言い方をした。拓実はiPhoneを右手に持ち、マップを確認しながら歩いていた。
市電の函館どつく前を降りて、元町の方に向かって歩いていた。ここは厳密に言うと元町じゃない。函館山の麓に建つ、旧イギリス領事館や旧函館区公会堂とかのレトロな建物や、そこに至る八幡坂とか、ガイドブックに乗っているレトロな函館はほとんど元町にある。元町は函館どつく前の2つ前の電停で降りればちょうどいいんだけど、今日行く場所はちょっと外れていた。
「梨央ちゃんとさ、こうやって歩くと、なんでかわからないけど、落ち着くんだよなー」
「ありがとう。――私もだよ」
私だって、拓実と一緒にいるとなぜか、落ち着くし、そう言われると本当に両思いなんだって実感ができる。もし、拓実と一緒に同棲したり、そして、このまま結婚したらどうなるんだろうってふと思った。きっと、拓実はこのまま、私のことを優しく扱ってくれるような気がした。
「梨央ちゃん」
「なに?」
「もしさ、つらいことがあったら、全部、俺の所為にしていいよ」
「え、なにそれ」と私は本当によくわからず、戸惑いながらそう返し、右側の拓実を見ると意味有りげに微笑んでいた。
「例えばさ、100体のピカチュウが梨央ちゃんのこと取り囲むとするじゃん」
「うん、そうだね」
なんて返し、拓実だから、特別にそう返してあげたけど、普段、他の友達だったら、ピカチュウとか言った時点で、どんな悩みだよって切るところだ。でも、絶対に拓実なら、なにか考えがあって、こんなこと言ってるんだと思う。
「うわー、どうしよう。ピカチュウに取り囲まれちゃった、うえーんって梨央ちゃんが膝抱えて恐怖で泣いちゃうんだよ」
「かわいいピカチュウに囲まれてるのに?」
「かわいいから、余計、威圧感があるんだよ。みんなおんなじ顔で、みんなおんなじ鳴き声だしさ」
「そうなんだ。それで、それのどこが私のつらいことなの?」
「追い立てられてるんだよ。レポート出せって」
拓実はそう言いながら、両手を前に揃えて出して、手を軽く前後させた。それとあわせて、顎も一緒に、くいくいっと出した。このオーバーリアクションを恥ずかしげもなく、日常会話でしてしまうところが、面白いけど、たまに残念だって言われる要因のひとつだけど、付き合っちゃえば、それすらかっこよく見えちゃうから不思議だ。
「そんなレポート提出しなかったごときで、私、ピカチュウに取り囲まれちゃうの?」
「そう。だから、パニクっちゃうんだよ。梨央ちゃんが。だけど、大丈夫。そこで、俺がタンバリンと虫あみを持って登場する。こうやってパパンって」と言って、拓実は二度、弱く手を打った。
「モンスターボールじゃなくて、虫あみなんだ」と私はそのまま思ったことを口にした。
「あみのほうがいいんじゃね? セブンに売ってないし」
「え、あみも売ってないでしょ」
「売ってるよ」
「どこのセブンさ。それ」
「山のなかにあるセブン」
「夏休み感すごいね。それ」
「だろ。夏休み、俺、親にセブンで虫あみ買ってもらって、絵本の里けんぶちでチョウチョ捕まえたも」
「絵本の里けんぶち?」
「うん、道の駅の公園」と言われて、一連の情報量の多さで、私は思わず、笑ってしまった。しばらく私が笑い終わるまで、拓実は待ってくれているみたいだった。だから、私は一通り笑ったあと、話の続きを聞くことにした。
「ねえ」
「なにさ」
「それで私のつらいことは?」
「あー、そうだった。俺の夏休みの思い出の話じゃねーや。そんなピンチになったら、こうやって助けるよってこと」と拓実はそう言って、左手を私の右手に絡めた。一瞬、電気が走ったみたいにドキッとした。そして、私は密着するように手を繋がれた。
結局、つらいときにはこうして一緒にいてくれるよって、勝手に私の頭の中で拡大解釈した。
私と拓実が歩いているこの場所は、左手に函館どつくがある以外は普通の住宅街だった。もちろん、観光客もまばらで、それどころか、地元の人すらまばらだった。
右手には建物と建物の間から、函館山のとんがりが二つ見えた。そのうちの一つはシルバーのロープーウェイ乗り場と展望台が午後の光を反射していた。
「新しいバンド見つかった?」
「ぜんぜーん。やっぱりタンバリンは流行らないよ」
「元からはやってないよ」
「だよな。タンバリン、メルカリで売ろうかな」
「いいね」
「ダメだよ。俺の大事な相棒なんだから」
「自分で言い出した癖に」と私がそう言うと、拓実はだって、もしかしたら飲み屋で使うかもしかないじゃんと返されたから、そうだねと私は適当に返した。私たちはそんなくだらない話をしながら、横断歩道を渡り、市電の線路を超えて、函館山の麓まで続く坂道に入った。歩道にある案内には幸坂と書かれてた。
10分くらい坂を登った。何度も、まだ着かないのと拓実に催促したら、低い声で、最高としか、返してくれなかった。同じ函館だけど、私の地元からはかなり離れているから、来たことがない場所だった。だから、坂の先に何があるのか、知らなかった。
ようやく、坂の頂点が見えてきた。坂の頂点には神社があり、灰色の鳥居が立っているのが見えた。
「ねえ、あの神社?」
「最高」
「バカになったの?」
「最高」と拓実は言いながら、左側の方を指さした。
左側にはまだ石垣の上に平地があるみたいだけど、石垣の上にある緑色のフェンスしか見えなかった。そのあと、拓実は右側を指さして、最高と言った。
右側にはレンガ造りの旧ロシア領事館がしっかりとした存在感であった。オレンジ色のレンガに白枠の窓枠、そして、青い三角屋根が印象的な建物だった。領事館だった建物の前をゆっくり通りすぎ、黙々とあるき続けた。坂は終盤に差し掛かり、どんどん急になっていた。足取りも自然にゆっくりになっていく。
「もう、足、つかれたよ」
「おんぶしてやるって、言うところだけど、もう着いたよ」
拓実はもう一度、左側を指さした。その先には緑色の芝が広がっていた。
船見公園と書かれた看板の横を通り過ぎ、私と拓実は手を繋いだまま、公園の中に入った。公園は一面、芝が広がっていて、ところどころに低い木が植えられていた。右手側は函館山の斜面が始まっていた。
そして、左手には、記念碑とベンチがあって、それに向かって、レンガの色をしたタイルが一本道になっていた。その先には海が広がっていて、函館のくびれが見えていた。記念碑の右側には、赤いブランコが設置されていた。それ以外の遊具はなくて、ベンチも、ポールも、低い安全柵もすべて赤くて、そのブランコだけが不自然に際立っていた。
あったあった。と拓実は満足そうに言いながら、赤いブランコの方へ歩き始めたから、私はとっさに拓実から手を離して、拓実のあとをゆっくりついていくことにした。
拓実はブランコの前につくと、右手で雑にブランコを揺らした。ブランコはアンバランスにベンチをくねくねさせながら、前後にぎくしゃく揺れた。
「こんなのあったんだ」
「そうだね。ここにブランコあるの不思議だよな。これで海見るんだぞって言われてるみたいだな」
拓実はブランコの揺れが落ち着くのを待ったあと、私を見ずに緑色の柵の先に広がる海と函館の街を見ていた。右手に持っていたiPhoneを上着のポケットに入れたあとも、拓実はずっとその場に立ち続けていた。
だから、私はブランコの横に立ったままの拓実の横を通り過ぎ、緑色の柵の前まで歩いた。
目の前の住宅は高低差で屋根しか見えていなかった。その先は坂をなぞるように住宅のランダムな屋根の色が広がり、そして、街は坂を下りきると、青い海につき当たった。左手には赤と白、交互に塗り分けられたクレーンが何棟も立っていた。そして、クレーンの下に茶色の貨物船が止まっていた。
視線をもどして、そして右側を見ると、函館のU字を横にしたくびれの先に、白い五稜郭タワーが見えていた。先月、イチョウ並木を見たあと、私と拓実はあの白い塔に登って、こっちがわを見ていたはずだ。
だけど、船見公園のことなんてこれっぽっちも印象に残っていなかった。というか、見ていたかどうかすら怪しい。
見慣れたようで、新鮮味がある街を見下ろすのに満足して、私はゆっくりと、ブランコの方へ戻った。
「きれいだな」
「うん。けっこう新鮮かも」
「それはよかった。なあ、座ろうぜ」と言われたから、私はうんと小さく頷いて、そして、穏やかに微笑みを返してあげた。ここに連れてきてくれた軽いお礼を込みで。
赤いポールに赤い縄でぶら下がっている赤いプラスチックのシートに腰掛けると、一瞬、身体がふわっとした。その感覚を共有したくて、右側を見ると、拓実はしっかりと、微笑み返してくれた。シートは秋の弱い日差しの中だったはずなのに、しっかりと、温められていた。
「なあ」
「なに? 拓実」
「ブランコ似合うね」
「なにそれ」
「かわいいってこと」
「変なの」
「いいんだよ。かわいければなんでも」と拓実は言いながら、ゆっくりとブランコを漕ぎ始めた。だから、私も、軽く左足で地面を蹴り、両足で何度か漕いだあと、惰性にまかせてゆっくり揺られることにした。
「人生なんて、きっとあっという間だろうな」
「そうだね。私たち、あと1年もしたら20歳だよ」
「まだ、19にもなってないけどな」
「あと、3日で19になるんだから、変わらないよ」
「今は18歳の終わりを楽しもうぜ」
そうだねと私がそう返すと、ゆったりした間が流れ始めた。相変わらず公園は私と拓実だけの世界で、遠くで流れる雲で下に広がる街に光と影がゆっくり変わっていた。
「ねえ。20歳だって、きっとあっという間だよ」
「そうだな。こうやって大人になっていくんだよ」
「なんかそれ、嫌だなー」
そう言い終わると、拓実はマジでそれなと、本当に共感してくれていそうなトーンでそう答えてくれた。
「もうすでにさ、俺たちって、小さい頃、思い描いてた夢とは遠くなるじゃん」
「そうだね。――小さい頃、何になりたかったの?」
「仮面ライダー」
「それは遠いね」
「だろ? だから、なにか忘れかけたら、なにか原点に戻るきっかけって必要だと思うんだ」
「原点?」
「そう。もし、原点を思い出せば、なにかがあって、ふと、ズレてしまったとき、思い出すだろ」
「――そうかもね」
「だから、今の気持ち忘れたときはさ、ここに来てリセットする場所にしようぜ」
拓実はそう言い終わると、よっと言いながら、勢いよく、ブランコを降りた。そして、そのまま前のほうに歩きながら、右ポケットから、iPhoneを取り出した。
だから、写真を撮るのかと思ったけど、しばらく拓実は右手にiPhoneを握ったまま、その場で立っていたから、私もブランコを降りて、拓実の隣まで行った。
「いつかは、消えるじゃん。思い出も何もかも」
ちょうど、強い風が吹いた。近くにある木々がカサカサと、音を立て始めた。
「思い出が消えたらどうするの?」
「うーんとね、俺は忘れないようにこうやるんだよ」と拓実は言いながら、急に私の方にiPhoneを向けてきた。
「ちょっと、急に撮らないでよ」
私は風で乱れた前髪を右手でとっさに整えながら、そう言うと、拓実はゲラゲラ笑い始めた。
「実は後ろ姿、撮ってましたー。このまま、自撮りに移りまーす」
「え、アウトカメラで撮ってるのにどうやるの?」
「こうやって、こうやりまーす」と全く、指針や具体性がない雑な説明をしながら、拓実は右腕を前に伸ばして、右手の手首を身体の内側の方へひねった。
そのあとすぐに、左肩が包まれる感覚がして、私の身体は拓実の方へ一気に引き寄せられた。左肩をちらっと見ると、拓実の大きい左手が私の肩をしっかりと掴んでいた。
「ほら、首もよせてよ。映らないよ」
「寄せる?」
「俺の肩に顔、寄せるんだよ」
「はずかしいよ」と言っている途中で、熱が左肩から首筋を通り、そして、側頭部に達した。そして、私の頭は思いっきり、拓実の右肩に乗せられた。
「もう。強引なんだから」
「いいじゃん。最高だろ」
そのまま私は拓実に頭をわしゃわしゃされた。髪が擦れる音がしっかり聞こえるくらい、しっかりと、力強く撫でられている。拓実が私の頭を撫でるたびにiPhoneの背面が太陽の光を反射して白くキラキラした。
「強いよ」
「それだけ、愛されている証拠だよ」
恥ずかし気もなさそうに、そんな気取ったセリフを拓実は簡単に言ってのけた。だけど、全然、悪い気はしない。むしろ、そういうこと言ったほうが、普段、タンバリンを叩く拓実より、ずっと絵になっていると思う。あとで、動画を見たら、きっとそう感じると思う。
こんなこと、私なんかに言ってくれる拓実はやっぱり、どうかしていると思うけど、こんなことを簡単にやってしまうところが、すごく好きだ。
どうせ、誰もいないし、このままずっと、撫でられ続けて、夜になって、そのまま眠ってもいいやって、強くそう思った。
だけど、拓実は撫でるのをやめてしまった。そして、伸ばしたままの右手を上げて、iPhoneが私と拓実を見下ろすような角度にした。
「よし、合言葉、いくよ?」と言われたから、私はうん、と小さく返事をした。
☆
『最高』
楽しそうに二人しっかりと、タイミング揃っている。
5年前に撮ったその動画を観ていると気がついたら、頬に涙が伝っていた。
私はゆっくり、右手で頬に残った涙を拭った。
同棲し始めて2年。大学卒業して、二人とも就職できたから、それに合わせて、同棲することにした。
今日も拓実の帰りは遅い。二人がけのグレーのソファーに寝転りながら、拓実の帰りを待っている。
24歳、社会人二年目。私は事務職についたから、楽なのかもしれない。この間、拓実に楽でいいよなって言われて、腹が立ったけど、言い返せなかった。
拓実は人材派遣会社の営業をしている。だから、付き合いで飲みに行くことが多いことはわかる。多いと、週に2回も飲み会に行くし、週末にかかると朝帰りすることもざらにあった。
別に楽しんで飲むならいいけど、拓実はそうじゃないらしい。
そして、今日は金曜日。
大体において、すごい泥酔した状態で帰ってくる。LINEでは日付またぐ前には帰るっていうのはいつものことだけど、あまりその約束は守られたことがない。
先々週の週末。
拓実は盛大にやらかした。隣の家と、自分の家のドアを間違えて、こっぴどく怒られたばかりだった。私はその日もたまたま起きてて、外での騒がしい異変に気づき、玄関を出たら、そんな状態だった。次の日、お菓子を持って、謝りに行ったけど、あまり許してもらえてなさそうだったから、次、やらかしたら終わりかもしれない――。
憂鬱で胃がキリキリする。
あのとき、拓実は、もう、こんなことしないと、本気で反省していたけど、すでに時計は1時を回っていて、嫌な予感しかない。
インターフォンが鳴った。私はふうとため息をついて、玄関まで向かった。
「ただいまー」
拓実はこんな夜中なのに元気な声で私に挨拶してくれた。玄関のドアを開けっ放しでそんな大きな声、出さないでよ――。
「――おかえり」
呆れている所為で声が小さくなる。
「元気ねぇじゃん」
「早く、ドア閉めて」
「うるさいなぁ」
わかりやすく舌打ちをして、拓実はドアを乱雑に締めた。私は拓実と壁の間の隙間に右手を突っ込み、鍵をした。この人は酔うと知能がチンパン並になる。もう、うんざりして、こうなると拓実はまったく愛せない。
「ねえ、楽しかった?」
「は? 楽しいわけないじゃん」
「――だよね」
会社の飲み会なんてそんなものでしょと、シラフのときに拓実がいつものおどけた調子で言ってたいのを思い出した。酒が抜けると、決まって拓実は最近、私に謝るようになった。謝るなら、最初からそんなに飲まなきゃいいのに――。
「あー、マジで最悪だった。きっしょいことばっかり言ってくるし、俺のこと、いじれば面白いと思っていじりやがるし、若いってそんだわ」
そう言って、拓実は乱雑にネクタイをほどき、ソファの上に投げ捨てた。酒癖が悪い以外は完璧に近いくらいの彼だから、私は自分の不快感を押し殺す。なんで、私がこんなことに付き合わなくちゃいけないんだろうって、思うけど、唯一の欠点くらい包容できないでどうするって、毎回想っている。だけど、こんな拓実の姿、見たくない。拓実からスーツのジャケットを受け取り、ジャケットを一旦、ソファの背もたれにそっと置いた。そして、拓実が脱ぎ捨てぐしゃぐしゃとしたズボンを床から取った。そのまま、ハンガーラックまで行き、ハンガーを取り、ズボンをかけ、ジャケットをかけて、ハンガーラックに戻した。
拓実は青いストライプが入ったワイシャツにパンツ姿で、ソファに寝転がっていた。
「ねえ」
「なんだよ」
「そこで寝たら風邪引くよ。疲れも取れないし」
「は? いいんだよ。俺の勝手だろ。うるせぇよ」
「――ごめん」
そのあと、拓実は聞き取れない声でブツブツとよくわからない悪態を連呼していた。ブツブツ、バカばかり連呼する彼の姿には、まったく説得力がない。酒に飲まれるヤツのほうがよっぽどバカに見える。
「――今日も無事帰ってきてよかった」
私は独り言のつもりで、思わずそう言ってしまった。だって、本当に安心したから――。
「は? 俺のこと、なんだと思ってるんだよ」
「えっ」
「だーかーらー、俺のことなんだと思ってるんだよ」と急に何かのスイッチが入ったように拓実は起き上がり、低い声でそう言った。
「は? 心配するのがダメなの?」
「俺が心配する対象ってことかよ。ペットかよ。俺は」
「ペットも家族でしょ。心配くらいするでしょ。いつもこんな調子なんだから」
「は? うるせぇよ。お前も、俺のこと無能扱いするんだな」
「してないでしょ。私はただ――」
「知らねぇよ!」
拓実は急に怒鳴り始めた。同棲してから、これで12回目だ。
「12回目だよ」
「は?」
「私に怒鳴ったの12回目」
酒癖の悪いやつを矯正するドッグスクールみたいなところに預けてしまいたいと思った。こんな男、噛み癖がついた犬と変わらない。
「知らねぇよ」
「知らなくなんかないでしょ。何回、同じこと繰り返すの」
「仕方ないだろ。酒飲むのも仕事のうちなんだから」
「それなら、セーブしてよ。こんなになるまで飲まないでよ」
「知らねぇよ。俺も好きでこんだけ飲んでるわけじゃねーんだよ」
「酒、飲み始めの大学生じゃないんだから、セーブできるでしょ」
「そういうわけにいかないんだよ。相手のピッチに合わせるは当たり前なんだよ。てか、そもそも、梨央は見てる世界が狭いんだよ」
「は? どういうこと」
「楽な仕事して、いいなって思っただけだよ」
私だってそれなりに頑張ってるつもりなのに、なんで、こんなこと言われなきゃいけないんだろう――。
「――拓実だって大した仕事してないじゃん」
私がそう言うと、さっきまで言い争っていたのが嘘みたいに一瞬で静かになった。
「――最低だな」
「……最低ってなに」
心臓が止まりそうなくらい、言葉の棘が痛くて、息を細くゆっくり吐いた。だけど、胸の奥から痛みがじわりと大きなっていくのを感じた。
「お前なんて、最低だよ。俺がどれだけしんどい思いして仕事してると思ってるんだよ」
「――じゃあ、やめればいいじゃん。私だって、つらいよ。今」
「は? どういうこと」
「――拓実といるの、もう、つらいよ」
「うるせぇな。俺のこと理解してない癖に、ゴタゴタ言いやがって。酒ぐらいいいじゃん。毎日平日は楽しくないんだからさ」
「そういうことじゃないよ」
静かに低い声でそう言うと、拓実と目があった。拓実はいつもの優しい目とは、程遠い目をしていた。きっと、私が今言ったことなんて、拓実には伝わっていない。もう、こんなこと、酒で失敗して、悲しませないから。ってこないだ約束したばっかりのことなんて、拓実はきっと、今は思い出せもしないんだ――。
「あのときみたいに楽しく過ごしたいよ! 私だって」
「うるせぇよ。キンとした出すなよ。頭に響くわ」
そう拓実は言い捨てて、話なんてまだ、なにも終わってないのに、寝室のほうに歩き出した。もう一度、息を吐くと右目から涙が溢れてしまった。
☆
11月11日。
遠くから汽笛が聞こえた。きっと、フェリーが出港したのかもしれない。
緑のフェンス越しに函館が見えている。湾の奥に止まっていたフェリーがゆっくり動き始めているのが見えた。街全体が曇っていて、今にも雪が降りそうなくらい、雲が低い。
街を見渡すのに満足して、私は反対側を向き、赤いブランコへ向かい、ブランコに座った。座った瞬間から、冷たさが一気に身体に広がった。思わず身震いして、息を吐くと、息は白かった。
25歳になって、私の恋は上手くいかない。
もっと理想的な恋を描いたところで私が描いた理想になりそうな、気配すらない。
いまだに拓実のことは嫌いになれなかった。だけど、あのときはもう限界だったから、好きだけど別れてしまった。あれから1年が経っても、拓実のことが忘れられない。
拓実は前の仕事をやめて、旭川に帰ったらしい。というか、別れて、同棲をやめて2ヶ月後に拓実はわざわざ、私にLINEしてくれた。だけど、私はそのメッセージが既読にならないように機内モードにして、拓実からの長文メッセージを見たあと、結局、既読をつけないままにした。
だから、私がメッセージを未読スルーするのわかってるはずなのに、今日、メッセージを送ってきたのは、ずるいよ。
ブランコを弱く揺らしても、隣のブランコには誰も座らなかった。隣を見ても、当たり前だけど拓実は居なかった。
『だから、今の気持ち忘れたときはさ、ここに来てリセットする場所にしようぜ』って昔、拓実が言ったくせに。結局、お互いに気持ちなんて、あのときの原点に戻すことなんてできなかったね。
私はため息を吐いたあと、コートのポケットから、iPhoneを取り出し、LINEを起動した。拓実とのトークを開いたとき、液晶に白い結晶が付いて、一瞬で水になった。思わず上を見ると、一気に雪が降り始めていた。
視線をiPhoneに戻し、今日、送られてきたメッセージに既読がついたのを確認した。
結婚するんだね。おめでとう。
私が好きだった彼。
そう、打ち込んだあと、デリートを長押し、すべてを消し『おめでとう』と打ったあと、拓実をブロックした。
あなたとの素敵な恋はゆっくりと進んでいく。
手を繋いだままでも優しさは伝わり、
きっとこのまま、深まっていきそうだね。
あなたとの出会いは偶然で
彗星同士みたいに遭うはずもない出会い方をした。
思い出も愛情も自然と深まり、
季節はあっという間に巡っていった。
あなたが、ふと、立ち止まり、
「最高だね」って笑顔で言った。
「最高って、なに?」と聞き返したら、
あなたに思いっきり抱きしめられて、
一瞬、息が止まった。
☆
10月。
拓実(たくみ)と横並びで、イチョウ並木の下を歩くことはとても幸せなことだ。
五稜郭公園の前のときわ通の下を歩くのは新鮮な気分だった。本当は手前にある五稜郭タワーに入るつもりだったのに、目の前を通り過ぎて、そのままゆっくり歩いている。
「もっと、こっちこいよ」
「えっ」
少しだけ驚き、拓実の方を向くのとほぼ、同時に腕に暖かさを感じた。そして、私の身体は少し強引に右側に持っていかれた。
拓実と付き合って6か月が過ぎた。こうしていることが幸せに感じた。18歳のときに出会い、そして、私たちは11月でもうすぐ19歳を迎える。
「強引だね」
「近づきたかっただけだよ。梨央(りお)ちゃん」
そう言って、拓実はそっと、微笑んでくれた。その笑顔がかわいくて、少し照れる。左耳に付いている丸いピアスが秋の黄色い光を反射している。
イチョウ並木からの木漏れ日すら、拾えるのは拓実が自体が輝いているからかもしれないって、ふと、バカなことを考えるくらい、そのシルバーのピアスはよく似合っているし、横顔のE字がとても絶妙なバランスで完璧だった。
私と拓実は11月11日生まれだ。
生まれた場所こそ、函館と旭川と違うものの、全く同じタイミングで私と拓実はこの世界に生きることになった。
もちろん、その奇跡を喜びあったし、それは、遠く離れた場所で暮らしているだけで、もしかすると、生まれる前、魂の状態だったときに、何らかの再会するための約束をしたのかもねと、思わず拓実に言ってしまったほどだった。
普通だったら、引かれるかもしれないそのことも、拓実は確かにと、無邪気そうな笑顔で答えてくれたから、よかったとも思った。
ふたりが彼氏、彼女の関係になったときが、私の理想の恋の最高潮だったかもしれない。
こんな、理想的な奇跡が汚れきったこの世界に存在するんだと、感心したし、この恋は理想的な運命で決められていたものなのかもと、思い込んでしまおうと思った。
大学一年生のとき、私と拓実は軽音サークルに入っていた。私は元々、ギターが得意だったし、彼氏作るにはサークルが手っ取り早いって聞いたことがあったから、あまりやる気がないまま、サークルに入った。
拓実は何も楽器ができないのに、軽音に入ったらしい。初めて顔合わせしたときに、できる楽器はタンバリンですと言って、iPhoneでおジャ魔女カーニバルを流しながら、持ってきたタンバリンをそれっぽく叩くと周りからそれなりの爆笑と失笑をかった。
たぶん、失笑のほうが多かったと思う。失笑をかったのはタンバリンの所為ではなく、そこそこ顔が整っているのに、ネタに走ったからだと思う。そういった経緯からか、速攻で痛いイケメン枠になった彼の相手をする人は、ほとんどいなそうだった。
だから、新歓コンパでも拓実のことを相手にする人はいなかったし、なにより、ガチでバンドやりたい人は拓実のことなんて、空気みたいに扱っていた。
早すぎる残酷な世界の中で、拓実は浮いていた。だから、端っこのテーブル、イケてないグループの中に私はわざと座り、拓実と話すことにした。
そしたら、思った以上に話が合って、LINE交換して、1週間後にはデートしに行く仲になった。そのさらに1週間後、拓実から簡単に告白されて、私は拓実と付き合うことになった。だから、その1週間後には、もはやサークルに行く意味がなくなり、私はサークルにいかなくなった。
「俺さ、タンバリンなんか、いらねーよって言われて、バンドクビになったんだけど、どうすればいいかな」
「そのバンド、無能だね」
「だよな。どうしてだろうなー」と拓実は他人事のように上を向きながら、そう言った。いたずらにそんなことを言う拓実のことが好きだ。痛さがたまに吹っ切れすぎて、大噴火しているときがあるけど、実際にアニソンのコピーバンドでタンバリンをやっている拓実は謎にかっこよかった。
ただ、毎度のステージで爆笑と失笑を誘う、拓実の独壇場にガチのアニオタの過半数がイライラしたらしい。
「ねえ」
「なに?」
「なんて言われて、バンド追い出されたんだっけ?」
「えー、だから、『俺たちのアニソンをけなすな!』って追い出されたよ。せっかくAmazonで8千円のタンバリン買ったのにさ。あー、どうしよう」とたぶん、結構再現度が高いトーンで言う拓実を見て、私はそっと、拓実の腕から離れ、立ち止まり、腹を抱えて笑った。
「ちょっと、まって。お腹痛いんだけど」
「このまま腹筋鍛えてろ。痩せるぜ。元々、痩せてるけどな」
「なにそれー。もう」
拓実は張り切って、サークルに入る前にタンバリンを買って、カラオケで2週間、練習したらしい。だから、買って練習した以上、意地でもどこかのバンドに入ろうとして、拓実のゴリ押しで入ったのがイケてないオタクバンドだった。
「あーあ、クリスマス公演、楽しみだったのになくなっちゃうんだ」
「んだな。笑いも取れる優秀なパーカッショニスト、どっかで雇ってくれないかなー」
「そんなことより、クリスマス、一緒に過ごせるね」
「最高だね」
「最高ってなに?」
私はそのまま、立ち止まったまま、上目で拓実のことを見つめた。すると、拓実は何かを企んでいるような表情をした。強い風が吹き、イチョウがざわざわと音を立てて揺れていた。風にあわせて、木漏れ日も揺れていた。きっと、私たちが生まれた日もこんな柔らかい光が降り注いでいたのかもしれない。黄色のモザイクみたいにちらつく、イチョウの葉が非現実な世界を作り出していた。
そのあと、一瞬の間が嘘だったみたいに私はきつく抱きしめられた。
☆
11月。
すっかり、冬手前まで来てしまった。拓実が雪が降る前に行きたい場所があるって言われて、私は言われるがまま、拓実についていくことになった。市電に乗って、終点の函館どつく前まで連れて行かれていた。
「さすがに元町まで来ると、函館っぽいね」
「函館っぽいってなんだよ。海見えたらどこにいても函館っぽいわ」と拓実は半分本気とも冗談ともどちらとも捉えられるような言い方をした。拓実はiPhoneを右手に持ち、マップを確認しながら歩いていた。
市電の函館どつく前を降りて、元町の方に向かって歩いていた。ここは厳密に言うと元町じゃない。函館山の麓に建つ、旧イギリス領事館や旧函館区公会堂とかのレトロな建物や、そこに至る八幡坂とか、ガイドブックに乗っているレトロな函館はほとんど元町にある。元町は函館どつく前の2つ前の電停で降りればちょうどいいんだけど、今日行く場所はちょっと外れていた。
「梨央ちゃんとさ、こうやって歩くと、なんでかわからないけど、落ち着くんだよなー」
「ありがとう。――私もだよ」
私だって、拓実と一緒にいるとなぜか、落ち着くし、そう言われると本当に両思いなんだって実感ができる。もし、拓実と一緒に同棲したり、そして、このまま結婚したらどうなるんだろうってふと思った。きっと、拓実はこのまま、私のことを優しく扱ってくれるような気がした。
「梨央ちゃん」
「なに?」
「もしさ、つらいことがあったら、全部、俺の所為にしていいよ」
「え、なにそれ」と私は本当によくわからず、戸惑いながらそう返し、右側の拓実を見ると意味有りげに微笑んでいた。
「例えばさ、100体のピカチュウが梨央ちゃんのこと取り囲むとするじゃん」
「うん、そうだね」
なんて返し、拓実だから、特別にそう返してあげたけど、普段、他の友達だったら、ピカチュウとか言った時点で、どんな悩みだよって切るところだ。でも、絶対に拓実なら、なにか考えがあって、こんなこと言ってるんだと思う。
「うわー、どうしよう。ピカチュウに取り囲まれちゃった、うえーんって梨央ちゃんが膝抱えて恐怖で泣いちゃうんだよ」
「かわいいピカチュウに囲まれてるのに?」
「かわいいから、余計、威圧感があるんだよ。みんなおんなじ顔で、みんなおんなじ鳴き声だしさ」
「そうなんだ。それで、それのどこが私のつらいことなの?」
「追い立てられてるんだよ。レポート出せって」
拓実はそう言いながら、両手を前に揃えて出して、手を軽く前後させた。それとあわせて、顎も一緒に、くいくいっと出した。このオーバーリアクションを恥ずかしげもなく、日常会話でしてしまうところが、面白いけど、たまに残念だって言われる要因のひとつだけど、付き合っちゃえば、それすらかっこよく見えちゃうから不思議だ。
「そんなレポート提出しなかったごときで、私、ピカチュウに取り囲まれちゃうの?」
「そう。だから、パニクっちゃうんだよ。梨央ちゃんが。だけど、大丈夫。そこで、俺がタンバリンと虫あみを持って登場する。こうやってパパンって」と言って、拓実は二度、弱く手を打った。
「モンスターボールじゃなくて、虫あみなんだ」と私はそのまま思ったことを口にした。
「あみのほうがいいんじゃね? セブンに売ってないし」
「え、あみも売ってないでしょ」
「売ってるよ」
「どこのセブンさ。それ」
「山のなかにあるセブン」
「夏休み感すごいね。それ」
「だろ。夏休み、俺、親にセブンで虫あみ買ってもらって、絵本の里けんぶちでチョウチョ捕まえたも」
「絵本の里けんぶち?」
「うん、道の駅の公園」と言われて、一連の情報量の多さで、私は思わず、笑ってしまった。しばらく私が笑い終わるまで、拓実は待ってくれているみたいだった。だから、私は一通り笑ったあと、話の続きを聞くことにした。
「ねえ」
「なにさ」
「それで私のつらいことは?」
「あー、そうだった。俺の夏休みの思い出の話じゃねーや。そんなピンチになったら、こうやって助けるよってこと」と拓実はそう言って、左手を私の右手に絡めた。一瞬、電気が走ったみたいにドキッとした。そして、私は密着するように手を繋がれた。
結局、つらいときにはこうして一緒にいてくれるよって、勝手に私の頭の中で拡大解釈した。
私と拓実が歩いているこの場所は、左手に函館どつくがある以外は普通の住宅街だった。もちろん、観光客もまばらで、それどころか、地元の人すらまばらだった。
右手には建物と建物の間から、函館山のとんがりが二つ見えた。そのうちの一つはシルバーのロープーウェイ乗り場と展望台が午後の光を反射していた。
「新しいバンド見つかった?」
「ぜんぜーん。やっぱりタンバリンは流行らないよ」
「元からはやってないよ」
「だよな。タンバリン、メルカリで売ろうかな」
「いいね」
「ダメだよ。俺の大事な相棒なんだから」
「自分で言い出した癖に」と私がそう言うと、拓実はだって、もしかしたら飲み屋で使うかもしかないじゃんと返されたから、そうだねと私は適当に返した。私たちはそんなくだらない話をしながら、横断歩道を渡り、市電の線路を超えて、函館山の麓まで続く坂道に入った。歩道にある案内には幸坂と書かれてた。
10分くらい坂を登った。何度も、まだ着かないのと拓実に催促したら、低い声で、最高としか、返してくれなかった。同じ函館だけど、私の地元からはかなり離れているから、来たことがない場所だった。だから、坂の先に何があるのか、知らなかった。
ようやく、坂の頂点が見えてきた。坂の頂点には神社があり、灰色の鳥居が立っているのが見えた。
「ねえ、あの神社?」
「最高」
「バカになったの?」
「最高」と拓実は言いながら、左側の方を指さした。
左側にはまだ石垣の上に平地があるみたいだけど、石垣の上にある緑色のフェンスしか見えなかった。そのあと、拓実は右側を指さして、最高と言った。
右側にはレンガ造りの旧ロシア領事館がしっかりとした存在感であった。オレンジ色のレンガに白枠の窓枠、そして、青い三角屋根が印象的な建物だった。領事館だった建物の前をゆっくり通りすぎ、黙々とあるき続けた。坂は終盤に差し掛かり、どんどん急になっていた。足取りも自然にゆっくりになっていく。
「もう、足、つかれたよ」
「おんぶしてやるって、言うところだけど、もう着いたよ」
拓実はもう一度、左側を指さした。その先には緑色の芝が広がっていた。
船見公園と書かれた看板の横を通り過ぎ、私と拓実は手を繋いだまま、公園の中に入った。公園は一面、芝が広がっていて、ところどころに低い木が植えられていた。右手側は函館山の斜面が始まっていた。
そして、左手には、記念碑とベンチがあって、それに向かって、レンガの色をしたタイルが一本道になっていた。その先には海が広がっていて、函館のくびれが見えていた。記念碑の右側には、赤いブランコが設置されていた。それ以外の遊具はなくて、ベンチも、ポールも、低い安全柵もすべて赤くて、そのブランコだけが不自然に際立っていた。
あったあった。と拓実は満足そうに言いながら、赤いブランコの方へ歩き始めたから、私はとっさに拓実から手を離して、拓実のあとをゆっくりついていくことにした。
拓実はブランコの前につくと、右手で雑にブランコを揺らした。ブランコはアンバランスにベンチをくねくねさせながら、前後にぎくしゃく揺れた。
「こんなのあったんだ」
「そうだね。ここにブランコあるの不思議だよな。これで海見るんだぞって言われてるみたいだな」
拓実はブランコの揺れが落ち着くのを待ったあと、私を見ずに緑色の柵の先に広がる海と函館の街を見ていた。右手に持っていたiPhoneを上着のポケットに入れたあとも、拓実はずっとその場に立ち続けていた。
だから、私はブランコの横に立ったままの拓実の横を通り過ぎ、緑色の柵の前まで歩いた。
目の前の住宅は高低差で屋根しか見えていなかった。その先は坂をなぞるように住宅のランダムな屋根の色が広がり、そして、街は坂を下りきると、青い海につき当たった。左手には赤と白、交互に塗り分けられたクレーンが何棟も立っていた。そして、クレーンの下に茶色の貨物船が止まっていた。
視線をもどして、そして右側を見ると、函館のU字を横にしたくびれの先に、白い五稜郭タワーが見えていた。先月、イチョウ並木を見たあと、私と拓実はあの白い塔に登って、こっちがわを見ていたはずだ。
だけど、船見公園のことなんてこれっぽっちも印象に残っていなかった。というか、見ていたかどうかすら怪しい。
見慣れたようで、新鮮味がある街を見下ろすのに満足して、私はゆっくりと、ブランコの方へ戻った。
「きれいだな」
「うん。けっこう新鮮かも」
「それはよかった。なあ、座ろうぜ」と言われたから、私はうんと小さく頷いて、そして、穏やかに微笑みを返してあげた。ここに連れてきてくれた軽いお礼を込みで。
赤いポールに赤い縄でぶら下がっている赤いプラスチックのシートに腰掛けると、一瞬、身体がふわっとした。その感覚を共有したくて、右側を見ると、拓実はしっかりと、微笑み返してくれた。シートは秋の弱い日差しの中だったはずなのに、しっかりと、温められていた。
「なあ」
「なに? 拓実」
「ブランコ似合うね」
「なにそれ」
「かわいいってこと」
「変なの」
「いいんだよ。かわいければなんでも」と拓実は言いながら、ゆっくりとブランコを漕ぎ始めた。だから、私も、軽く左足で地面を蹴り、両足で何度か漕いだあと、惰性にまかせてゆっくり揺られることにした。
「人生なんて、きっとあっという間だろうな」
「そうだね。私たち、あと1年もしたら20歳だよ」
「まだ、19にもなってないけどな」
「あと、3日で19になるんだから、変わらないよ」
「今は18歳の終わりを楽しもうぜ」
そうだねと私がそう返すと、ゆったりした間が流れ始めた。相変わらず公園は私と拓実だけの世界で、遠くで流れる雲で下に広がる街に光と影がゆっくり変わっていた。
「ねえ。20歳だって、きっとあっという間だよ」
「そうだな。こうやって大人になっていくんだよ」
「なんかそれ、嫌だなー」
そう言い終わると、拓実はマジでそれなと、本当に共感してくれていそうなトーンでそう答えてくれた。
「もうすでにさ、俺たちって、小さい頃、思い描いてた夢とは遠くなるじゃん」
「そうだね。――小さい頃、何になりたかったの?」
「仮面ライダー」
「それは遠いね」
「だろ? だから、なにか忘れかけたら、なにか原点に戻るきっかけって必要だと思うんだ」
「原点?」
「そう。もし、原点を思い出せば、なにかがあって、ふと、ズレてしまったとき、思い出すだろ」
「――そうかもね」
「だから、今の気持ち忘れたときはさ、ここに来てリセットする場所にしようぜ」
拓実はそう言い終わると、よっと言いながら、勢いよく、ブランコを降りた。そして、そのまま前のほうに歩きながら、右ポケットから、iPhoneを取り出した。
だから、写真を撮るのかと思ったけど、しばらく拓実は右手にiPhoneを握ったまま、その場で立っていたから、私もブランコを降りて、拓実の隣まで行った。
「いつかは、消えるじゃん。思い出も何もかも」
ちょうど、強い風が吹いた。近くにある木々がカサカサと、音を立て始めた。
「思い出が消えたらどうするの?」
「うーんとね、俺は忘れないようにこうやるんだよ」と拓実は言いながら、急に私の方にiPhoneを向けてきた。
「ちょっと、急に撮らないでよ」
私は風で乱れた前髪を右手でとっさに整えながら、そう言うと、拓実はゲラゲラ笑い始めた。
「実は後ろ姿、撮ってましたー。このまま、自撮りに移りまーす」
「え、アウトカメラで撮ってるのにどうやるの?」
「こうやって、こうやりまーす」と全く、指針や具体性がない雑な説明をしながら、拓実は右腕を前に伸ばして、右手の手首を身体の内側の方へひねった。
そのあとすぐに、左肩が包まれる感覚がして、私の身体は拓実の方へ一気に引き寄せられた。左肩をちらっと見ると、拓実の大きい左手が私の肩をしっかりと掴んでいた。
「ほら、首もよせてよ。映らないよ」
「寄せる?」
「俺の肩に顔、寄せるんだよ」
「はずかしいよ」と言っている途中で、熱が左肩から首筋を通り、そして、側頭部に達した。そして、私の頭は思いっきり、拓実の右肩に乗せられた。
「もう。強引なんだから」
「いいじゃん。最高だろ」
そのまま私は拓実に頭をわしゃわしゃされた。髪が擦れる音がしっかり聞こえるくらい、しっかりと、力強く撫でられている。拓実が私の頭を撫でるたびにiPhoneの背面が太陽の光を反射して白くキラキラした。
「強いよ」
「それだけ、愛されている証拠だよ」
恥ずかし気もなさそうに、そんな気取ったセリフを拓実は簡単に言ってのけた。だけど、全然、悪い気はしない。むしろ、そういうこと言ったほうが、普段、タンバリンを叩く拓実より、ずっと絵になっていると思う。あとで、動画を見たら、きっとそう感じると思う。
こんなこと、私なんかに言ってくれる拓実はやっぱり、どうかしていると思うけど、こんなことを簡単にやってしまうところが、すごく好きだ。
どうせ、誰もいないし、このままずっと、撫でられ続けて、夜になって、そのまま眠ってもいいやって、強くそう思った。
だけど、拓実は撫でるのをやめてしまった。そして、伸ばしたままの右手を上げて、iPhoneが私と拓実を見下ろすような角度にした。
「よし、合言葉、いくよ?」と言われたから、私はうん、と小さく返事をした。
☆
『最高』
楽しそうに二人しっかりと、タイミング揃っている。
5年前に撮ったその動画を観ていると気がついたら、頬に涙が伝っていた。
私はゆっくり、右手で頬に残った涙を拭った。
同棲し始めて2年。大学卒業して、二人とも就職できたから、それに合わせて、同棲することにした。
今日も拓実の帰りは遅い。二人がけのグレーのソファーに寝転りながら、拓実の帰りを待っている。
24歳、社会人二年目。私は事務職についたから、楽なのかもしれない。この間、拓実に楽でいいよなって言われて、腹が立ったけど、言い返せなかった。
拓実は人材派遣会社の営業をしている。だから、付き合いで飲みに行くことが多いことはわかる。多いと、週に2回も飲み会に行くし、週末にかかると朝帰りすることもざらにあった。
別に楽しんで飲むならいいけど、拓実はそうじゃないらしい。
そして、今日は金曜日。
大体において、すごい泥酔した状態で帰ってくる。LINEでは日付またぐ前には帰るっていうのはいつものことだけど、あまりその約束は守られたことがない。
先々週の週末。
拓実は盛大にやらかした。隣の家と、自分の家のドアを間違えて、こっぴどく怒られたばかりだった。私はその日もたまたま起きてて、外での騒がしい異変に気づき、玄関を出たら、そんな状態だった。次の日、お菓子を持って、謝りに行ったけど、あまり許してもらえてなさそうだったから、次、やらかしたら終わりかもしれない――。
憂鬱で胃がキリキリする。
あのとき、拓実は、もう、こんなことしないと、本気で反省していたけど、すでに時計は1時を回っていて、嫌な予感しかない。
インターフォンが鳴った。私はふうとため息をついて、玄関まで向かった。
「ただいまー」
拓実はこんな夜中なのに元気な声で私に挨拶してくれた。玄関のドアを開けっ放しでそんな大きな声、出さないでよ――。
「――おかえり」
呆れている所為で声が小さくなる。
「元気ねぇじゃん」
「早く、ドア閉めて」
「うるさいなぁ」
わかりやすく舌打ちをして、拓実はドアを乱雑に締めた。私は拓実と壁の間の隙間に右手を突っ込み、鍵をした。この人は酔うと知能がチンパン並になる。もう、うんざりして、こうなると拓実はまったく愛せない。
「ねえ、楽しかった?」
「は? 楽しいわけないじゃん」
「――だよね」
会社の飲み会なんてそんなものでしょと、シラフのときに拓実がいつものおどけた調子で言ってたいのを思い出した。酒が抜けると、決まって拓実は最近、私に謝るようになった。謝るなら、最初からそんなに飲まなきゃいいのに――。
「あー、マジで最悪だった。きっしょいことばっかり言ってくるし、俺のこと、いじれば面白いと思っていじりやがるし、若いってそんだわ」
そう言って、拓実は乱雑にネクタイをほどき、ソファの上に投げ捨てた。酒癖が悪い以外は完璧に近いくらいの彼だから、私は自分の不快感を押し殺す。なんで、私がこんなことに付き合わなくちゃいけないんだろうって、思うけど、唯一の欠点くらい包容できないでどうするって、毎回想っている。だけど、こんな拓実の姿、見たくない。拓実からスーツのジャケットを受け取り、ジャケットを一旦、ソファの背もたれにそっと置いた。そして、拓実が脱ぎ捨てぐしゃぐしゃとしたズボンを床から取った。そのまま、ハンガーラックまで行き、ハンガーを取り、ズボンをかけ、ジャケットをかけて、ハンガーラックに戻した。
拓実は青いストライプが入ったワイシャツにパンツ姿で、ソファに寝転がっていた。
「ねえ」
「なんだよ」
「そこで寝たら風邪引くよ。疲れも取れないし」
「は? いいんだよ。俺の勝手だろ。うるせぇよ」
「――ごめん」
そのあと、拓実は聞き取れない声でブツブツとよくわからない悪態を連呼していた。ブツブツ、バカばかり連呼する彼の姿には、まったく説得力がない。酒に飲まれるヤツのほうがよっぽどバカに見える。
「――今日も無事帰ってきてよかった」
私は独り言のつもりで、思わずそう言ってしまった。だって、本当に安心したから――。
「は? 俺のこと、なんだと思ってるんだよ」
「えっ」
「だーかーらー、俺のことなんだと思ってるんだよ」と急に何かのスイッチが入ったように拓実は起き上がり、低い声でそう言った。
「は? 心配するのがダメなの?」
「俺が心配する対象ってことかよ。ペットかよ。俺は」
「ペットも家族でしょ。心配くらいするでしょ。いつもこんな調子なんだから」
「は? うるせぇよ。お前も、俺のこと無能扱いするんだな」
「してないでしょ。私はただ――」
「知らねぇよ!」
拓実は急に怒鳴り始めた。同棲してから、これで12回目だ。
「12回目だよ」
「は?」
「私に怒鳴ったの12回目」
酒癖の悪いやつを矯正するドッグスクールみたいなところに預けてしまいたいと思った。こんな男、噛み癖がついた犬と変わらない。
「知らねぇよ」
「知らなくなんかないでしょ。何回、同じこと繰り返すの」
「仕方ないだろ。酒飲むのも仕事のうちなんだから」
「それなら、セーブしてよ。こんなになるまで飲まないでよ」
「知らねぇよ。俺も好きでこんだけ飲んでるわけじゃねーんだよ」
「酒、飲み始めの大学生じゃないんだから、セーブできるでしょ」
「そういうわけにいかないんだよ。相手のピッチに合わせるは当たり前なんだよ。てか、そもそも、梨央は見てる世界が狭いんだよ」
「は? どういうこと」
「楽な仕事して、いいなって思っただけだよ」
私だってそれなりに頑張ってるつもりなのに、なんで、こんなこと言われなきゃいけないんだろう――。
「――拓実だって大した仕事してないじゃん」
私がそう言うと、さっきまで言い争っていたのが嘘みたいに一瞬で静かになった。
「――最低だな」
「……最低ってなに」
心臓が止まりそうなくらい、言葉の棘が痛くて、息を細くゆっくり吐いた。だけど、胸の奥から痛みがじわりと大きなっていくのを感じた。
「お前なんて、最低だよ。俺がどれだけしんどい思いして仕事してると思ってるんだよ」
「――じゃあ、やめればいいじゃん。私だって、つらいよ。今」
「は? どういうこと」
「――拓実といるの、もう、つらいよ」
「うるせぇな。俺のこと理解してない癖に、ゴタゴタ言いやがって。酒ぐらいいいじゃん。毎日平日は楽しくないんだからさ」
「そういうことじゃないよ」
静かに低い声でそう言うと、拓実と目があった。拓実はいつもの優しい目とは、程遠い目をしていた。きっと、私が今言ったことなんて、拓実には伝わっていない。もう、こんなこと、酒で失敗して、悲しませないから。ってこないだ約束したばっかりのことなんて、拓実はきっと、今は思い出せもしないんだ――。
「あのときみたいに楽しく過ごしたいよ! 私だって」
「うるせぇよ。キンとした出すなよ。頭に響くわ」
そう拓実は言い捨てて、話なんてまだ、なにも終わってないのに、寝室のほうに歩き出した。もう一度、息を吐くと右目から涙が溢れてしまった。
☆
11月11日。
遠くから汽笛が聞こえた。きっと、フェリーが出港したのかもしれない。
緑のフェンス越しに函館が見えている。湾の奥に止まっていたフェリーがゆっくり動き始めているのが見えた。街全体が曇っていて、今にも雪が降りそうなくらい、雲が低い。
街を見渡すのに満足して、私は反対側を向き、赤いブランコへ向かい、ブランコに座った。座った瞬間から、冷たさが一気に身体に広がった。思わず身震いして、息を吐くと、息は白かった。
25歳になって、私の恋は上手くいかない。
もっと理想的な恋を描いたところで私が描いた理想になりそうな、気配すらない。
いまだに拓実のことは嫌いになれなかった。だけど、あのときはもう限界だったから、好きだけど別れてしまった。あれから1年が経っても、拓実のことが忘れられない。
拓実は前の仕事をやめて、旭川に帰ったらしい。というか、別れて、同棲をやめて2ヶ月後に拓実はわざわざ、私にLINEしてくれた。だけど、私はそのメッセージが既読にならないように機内モードにして、拓実からの長文メッセージを見たあと、結局、既読をつけないままにした。
だから、私がメッセージを未読スルーするのわかってるはずなのに、今日、メッセージを送ってきたのは、ずるいよ。
ブランコを弱く揺らしても、隣のブランコには誰も座らなかった。隣を見ても、当たり前だけど拓実は居なかった。
『だから、今の気持ち忘れたときはさ、ここに来てリセットする場所にしようぜ』って昔、拓実が言ったくせに。結局、お互いに気持ちなんて、あのときの原点に戻すことなんてできなかったね。
私はため息を吐いたあと、コートのポケットから、iPhoneを取り出し、LINEを起動した。拓実とのトークを開いたとき、液晶に白い結晶が付いて、一瞬で水になった。思わず上を見ると、一気に雪が降り始めていた。
視線をiPhoneに戻し、今日、送られてきたメッセージに既読がついたのを確認した。
結婚するんだね。おめでとう。
私が好きだった彼。
そう、打ち込んだあと、デリートを長押し、すべてを消し『おめでとう』と打ったあと、拓実をブロックした。



