「あらあら、ごめんなさい。足を滑らせてしまったわ。これじゃあ文机と床の掃除も追加しなきゃね」
ポタポタと落ちる水滴が床の上で黒い水溜りを作る。今にも怒りたい気持ちを抑えて、笹丘のわざとらしい謝罪と檜葉の嫌らしい低い笑い声を受け流すと「そうですね」と返したのだった。
「ちょうど床の汚れが気になっていたので良かったです……掃除を蔑ろにする誰かさんのせいで、この部屋を出入りする度に足裏が汚れるのが気になっていたので」
「なっ……! 私が悪いと言いたいの!?」
柊詩が護符を書いている拝殿内の部屋は月替わりで各巫女が一人一部屋ずつ掃除を割り当てられている。
今週のこの部屋の掃除当番はこの笹丘だが、きっと「掃除をすると疲れて護符書きや演舞に集中できない」などと言い訳をして、指導を担う老齢の巫女たちから許しを得ていたのだろう。
成績優秀にして眉目秀麗、巫女の世界では名門と呼ばれる名家出身の笹丘は、大神社の巫女や神主たちから一目置かれる存在として優遇されているところがあった。
「誰が悪いとは申しておりません。ただ日々の積み重ねがこういう時に出てくると言いたいだけです」
「なによ、婚約者の陰陽師さえ決まらない売れ残り女がっ! それなら気が済むまで掃除すればいいわ!」
柊詩と怒り心頭に発した笹丘が睨み合っていると、不意に忍び笑いのような低い声が聞こえてくる。
それは出入り口を塞ぐように立っていた笹丘の後ろ、引き戸に寄りかかった長身痩躯の若い男性が発したものだった。
「随分と威勢の良い巫女だな。多勢に無勢の中で噛みついて、これでは巫女というより猪武者という言葉が似合う」
「あっ、あんたは誰よ!? ここは男子禁制の斎庭よ!!」
柊詩たち巫女たちが修行に使っているのは大神社の最奥。神々が暮らす「斎庭」と呼ばれている場所であった。
そこは巫女と一部の神職、そして高位の陰陽師以外は立ち入りを禁じられている。たとえ巫女の婚約者や血縁者であっても、大神社の奥宮への出入りは許されなかった。
「おや。先程まで俺の話をしていたというのに、本人が目の前に現れたら掌返しで知らん顔とは……最近の巫女たちが気位の高いだけの汚れ知らずのご令嬢集団という噂は本当らしい」
黒艶の長い髪を頭の後ろで一つに結んで背中に流した美丈夫が笹丘たちを嘲笑する。
仕立ての良さそうな上質な反物で仕立てられた着物から上流階級の人間であることは間違いないが、鍛えられた身体付きはただの華族や政治家、はたまた遊び人が持ち得ないもの。身体を使うような肉体的な職務に従事していることは間違いない。
「汚れ知らずなのは当然ですわ。私たちは巫女ですもの。後方から陰陽師の皆様をお支えするのが私たちの役目。汚れ仕事なんて使用人が担うものよ」
袖口で口元を隠しながら笑顔を取り繕う笹丘は滑稽でしかないが、青年にはそれさえも計算のうちだったらしい。「そうだろうな」と一笑したのだった。
「今の巫女は見目ばかり気にして本当の汚れなんて知らない。この部屋の穢れも、その穢れに惹かれて低級のあやかしがこの部屋に住み着いてしまったことさえも。その汚れた眼では気付いていないようだからな」
「あっ、あやかしがこの部屋に住み着いているの!?」
神聖なる斎庭に穢れと、穢れに惹かれて集まるあやかしの存在は御法度。あやかし避けの結界は張られているものの、妖力が弱い低級あやかしは簡単に侵入してしまう。
そんな低級あやかしたちが入らないように毎日の掃除も巫女見習いたちの役目の一つだが、最近の巫女たちは国を脅かすような大事件が起きていないからか気が緩んだままであった。
「俺から答えを聞いてどうする? 巫女になるのなら、この場に低級あやかしがいるか判断するくらい朝飯前だろう。そうですよね? 大宮司殿」
青年の背に隠れて気付かなかったが、その後ろから怒りで表情を強張らせた老翁が姿を現す。
この大神社の長である大宮司の怒髪天を衝く様子に、笹丘と檜葉は咄嗟に取り繕うが時すでに遅く、青筋を立てた大宮司は「笹丘! 檜葉!」と声を荒げたのだった。
ポタポタと落ちる水滴が床の上で黒い水溜りを作る。今にも怒りたい気持ちを抑えて、笹丘のわざとらしい謝罪と檜葉の嫌らしい低い笑い声を受け流すと「そうですね」と返したのだった。
「ちょうど床の汚れが気になっていたので良かったです……掃除を蔑ろにする誰かさんのせいで、この部屋を出入りする度に足裏が汚れるのが気になっていたので」
「なっ……! 私が悪いと言いたいの!?」
柊詩が護符を書いている拝殿内の部屋は月替わりで各巫女が一人一部屋ずつ掃除を割り当てられている。
今週のこの部屋の掃除当番はこの笹丘だが、きっと「掃除をすると疲れて護符書きや演舞に集中できない」などと言い訳をして、指導を担う老齢の巫女たちから許しを得ていたのだろう。
成績優秀にして眉目秀麗、巫女の世界では名門と呼ばれる名家出身の笹丘は、大神社の巫女や神主たちから一目置かれる存在として優遇されているところがあった。
「誰が悪いとは申しておりません。ただ日々の積み重ねがこういう時に出てくると言いたいだけです」
「なによ、婚約者の陰陽師さえ決まらない売れ残り女がっ! それなら気が済むまで掃除すればいいわ!」
柊詩と怒り心頭に発した笹丘が睨み合っていると、不意に忍び笑いのような低い声が聞こえてくる。
それは出入り口を塞ぐように立っていた笹丘の後ろ、引き戸に寄りかかった長身痩躯の若い男性が発したものだった。
「随分と威勢の良い巫女だな。多勢に無勢の中で噛みついて、これでは巫女というより猪武者という言葉が似合う」
「あっ、あんたは誰よ!? ここは男子禁制の斎庭よ!!」
柊詩たち巫女たちが修行に使っているのは大神社の最奥。神々が暮らす「斎庭」と呼ばれている場所であった。
そこは巫女と一部の神職、そして高位の陰陽師以外は立ち入りを禁じられている。たとえ巫女の婚約者や血縁者であっても、大神社の奥宮への出入りは許されなかった。
「おや。先程まで俺の話をしていたというのに、本人が目の前に現れたら掌返しで知らん顔とは……最近の巫女たちが気位の高いだけの汚れ知らずのご令嬢集団という噂は本当らしい」
黒艶の長い髪を頭の後ろで一つに結んで背中に流した美丈夫が笹丘たちを嘲笑する。
仕立ての良さそうな上質な反物で仕立てられた着物から上流階級の人間であることは間違いないが、鍛えられた身体付きはただの華族や政治家、はたまた遊び人が持ち得ないもの。身体を使うような肉体的な職務に従事していることは間違いない。
「汚れ知らずなのは当然ですわ。私たちは巫女ですもの。後方から陰陽師の皆様をお支えするのが私たちの役目。汚れ仕事なんて使用人が担うものよ」
袖口で口元を隠しながら笑顔を取り繕う笹丘は滑稽でしかないが、青年にはそれさえも計算のうちだったらしい。「そうだろうな」と一笑したのだった。
「今の巫女は見目ばかり気にして本当の汚れなんて知らない。この部屋の穢れも、その穢れに惹かれて低級のあやかしがこの部屋に住み着いてしまったことさえも。その汚れた眼では気付いていないようだからな」
「あっ、あやかしがこの部屋に住み着いているの!?」
神聖なる斎庭に穢れと、穢れに惹かれて集まるあやかしの存在は御法度。あやかし避けの結界は張られているものの、妖力が弱い低級あやかしは簡単に侵入してしまう。
そんな低級あやかしたちが入らないように毎日の掃除も巫女見習いたちの役目の一つだが、最近の巫女たちは国を脅かすような大事件が起きていないからか気が緩んだままであった。
「俺から答えを聞いてどうする? 巫女になるのなら、この場に低級あやかしがいるか判断するくらい朝飯前だろう。そうですよね? 大宮司殿」
青年の背に隠れて気付かなかったが、その後ろから怒りで表情を強張らせた老翁が姿を現す。
この大神社の長である大宮司の怒髪天を衝く様子に、笹丘と檜葉は咄嗟に取り繕うが時すでに遅く、青筋を立てた大宮司は「笹丘! 檜葉!」と声を荒げたのだった。



