バイト先の『ラーメン麦丸』は、ゴールデンウィーク最終日の昼時ということもあって大盛況だった。
店内には入れ替わり立ち替わりお客さんが入ってくる。さっき店の外を覗いたら、駐車場は満車に近い状態で、店の周りをぐるっと取り囲むようにしてお客さんが列を作っていた。
麦丸は元気が売りの店なので、挨拶もかかせない。「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」を馬鹿でかい声で繰り返すうちに、すっかり喉が渇いてきたけど、水を飲む暇がない。
だんだん疲れてきて、実は早口で「らっさいあっせぃ」「ありあとざいましたー」と言って誤魔化していたりする。あんまり崩した言い方にしすぎると、店長にバレて「しっかり挨拶しろ」と怒られるから注意だ。
ホール担当の俺は、とにかく店の端から端まで駆け回っている。
お客さんが券売機で買った食券を受け取って、座席に案内。でかい声で注文内容を読み上げながら、厨房の決まった場所に食券を置く。料理ができあがったら、テーブル席まで運ぶ。食事がおわったお客さんを見送りつつ、食器の片付けとテーブル拭き。ついでにピッチャーの水がなくなっていたら補充。仕事内容はだいたいこんな感じ。
言うのは簡単だけど、これが意外と大変だ。さばいてもさばいても引かない人の波には嫌でも焦るし、長い待ち時間と空腹でイラついているお客さんからはプレッシャーを感じる。
それでも一年間このバイトを続けていたら、さすがに少しは慣れてきた。
お客さんに、にこっと笑って、明るく挨拶をすれば、意外と笑顔が返ってくる。
最初は無理に大量の食器を運ぼうとして、床に落としたこともあるけれど、今はそれもほとんどない。
目の前の作業をこなしつつ、店の中を見渡して次にやることを考えて、手が回っていないところをフォローできた時の『俺やってます』感は結構気持ちいい。
でもそうやってハイになって仕事をしている時に限って、予想外のトラブルは起きがちだ。
「うみの先輩」
テーブル席にラーメンを運びおわった俺の後ろから、声をかけてくる奴がいた。
このゴールデンウィークから麦丸で働き始めた一つ下の後輩、穂浪大地だ。俺と同じ学校の一年生だけど、中学もちがうから、バイト以外での接点はない。
この連休の間は、シフトが被ると俺が仕事を教える形で、ホールに入ってもらっている。
穂浪はまだ一年生なのに、俺より身長が高くて体格もいい。
店の制服として渡されている黒いTシャツも、LLサイズを着るかその一つ上のサイズにするか微妙なラインだったらしくて、穂浪が入ってきた時に店のみんながざわついていた。Tシャツの背中にプリントされた『麦』の手描き風の白い文字を○で囲ったロゴも、穂浪のTシャツだけはやけに大きく見えるから不思議だ。頭に白いタオルをまくちょっとダサいスタイルも、穂浪がやるとすっと通った鼻筋が綺麗で様になっている。
その穂浪に『うみのじゃなくて、うんのだよ』と名前の読みを訂正できなかったのは、続く言葉が「食券機詰まりました」だったからだ。
「お、ナイス報告」
忙しい時間帯の券売機の故障は一番まずい。注文がストップすると、お客さんの数は増える一方になる。
俺は厨房に飛び込んで、客席からは見えない位置に置いてある手提げ金庫から、鍵を取り出した。
店のルール通り、厨房で調理を担当している店長を含む三人に「出しまーす」と声をかける。
「ちょっと待ってもらえますか。すんません」
急いで店の自動ドアの近くに置いてある券売機の前に駆けつけると、待ちぼうけをくらっているお客さん達に、穂浪が軽く頭を下げていた。
こいつすごいな。言い方はぶっきらぼうだけど、誰も穂浪に指示なんて出していないのに、ちゃんと自分で考えて動いている。
穂浪に謝られた子ども連れのお母さんは、背の高い穂浪から一重の目でじーっと見下ろされてちょっとたじろいでいた。まだ幼稚園児くらいの女の子も、お母さんの足にしがみついて、怯えた素振りを見せている。
「申し訳ありません。お待たせ致しました」
俺はいつもより明るい声を意識して、穂浪の前に割って入った。
「ごめんね、お腹減ったよね。すぐに直すからね」
女の子に笑いかけてから、俺は券売機に鍵を差し込む。こうすると、家のドアと同じ感じに券売機が開くようになっていた。
中で表示されているパネルのエラー番号を見て、俺はほっとした。札切れだ。
とっさに走ってきたけれど、ぶっちゃけ機械のことなんてぜんぜんわからない。でもこれなら前にもやったことがあるから、店長や先輩たちを呼ばなくてもどうにかできる。
「おつり用の千円札がなくなったんだ。穂浪、俺と一緒にこの中から千円札だけ抜き出してくれる?」
俺は売上金がストックされている場所から、がばっと札束を掴んで取り出した。
戸惑っている穂浪のTシャツの袖を摘まんで体をひっぱり、肩をくっつける。札束がお客さんに丸見えなのはよくないから、穂浪のでかい体で隠してもらう作戦だ。
「理由はあとで説明するから、このお札の中から千円札だけ出してほしい」
うちの券売機は、お釣りと売上金のお札の収納場所が別々になっている。
だからお釣り用の千円札のストックが切れた時は、売上金から千円札だけを抜き取って、お釣りの収納場所に入れてあげなきゃいけない。機械なんだからそれくらい自動でやってくれよと思うんだけど、うちの券売機はちょっと古いやつらしかった。
これを今、穂浪に説明して理解してもらう時間はない気がして、俺はとりあえずやってほしいことだけを口にする。
俺が札束の半分を差し出すと、穂浪は「うっす」と呟いてすぐに作業に取り掛かってくれた。穂浪にはちょっと悪いけど、何も聞かずに言うことを聞いてくれるからすごく助かる。しかも仕訳が結構早い。
俺も負けないように、手の動きに集中する。
作業は最後まではせずに、少し進んだところで切り上げた。
ずっとここだけに人を割くわけにはいかないから、とりあえず少しの間持つ量のお札を用意して、あとでタイミングを見てもう一回作業に来る作戦だ。
二人で分けた千円札を、釣り銭の収納スペースに押し込んで、残りのお金も中に戻して、券売機のドアを閉める。
「お待たせいたしました。どうぞご利用ください」
後ろを振り返ってお客さんに微笑みかけると、お母さんが「ゆいちゃんよかったねえ。ラーメン食べられるようになったよ」と女の子をあやしている。
「ゆいちゃん、オレンジジュースが飲みたいの」
女の子はまだお母さんの後ろに隠れていたけれど、小さな声で呟く。女の子がうさぎの顔のポシェットを斜めがけにしていることに気が付いて、俺は思わず二人に話しかけた。
「お子さまセットにはオレンジジュースがついてますよ。うさかわの絵のやつです」
うさかわは最近流行っているキャラクターだ。
お子さまメニューで出している市販の紙パックのオレンジジュースにも、期間限定のうさかわコラボパッケージのものを先週くらいから見かけるようになった。
うさかわの名前を聞くなり、女の子が表情を明るくした。
「ママ、うさかわ! うさかわだって」
「わかったわかった。ゆいちゃんはお子さまセットね」
お母さんの手を握りながら、その場で小さく飛び跳ねる女の子がやっと笑顔を浮かべてくれる。
俺はお母さんに会釈をしてから、穂浪のTシャツの袖を掴んで「戻ろう」と合図をした。
ホールの仕事が完全に止まっているから、すぐに戻らなくちゃまずい。店内を見渡すと案の定、厨房担当の先輩がホールに出て、テーブル席に料理を運んでくれていた。
穂浪もそれに気が付いたのか「はい」と短く返事をして、すぐに空いたテーブルの食器を片付け始める。
あっさり離れていく穂浪の背中を見ながら、俺はでかいため息をつきそうになった。
さっき穂浪に、あとでちゃんと仕事の説明をするって言ったのに、結局そんな時間はとれそうにない。
はっきり言って、穂浪は扱いやすい。どんな時でも俺の言うことを聞いてさっと動いてくれるし、嫌な顔一つしない。
でもその扱いやすさに甘えて、入りたてとは思えないくらいあれこれやらせてしまっている気がする。
お客さんの波が引いたら、ちゃんと謝ろうと決めて、俺は手に持っていた券売機の鍵を戻すために厨房に向かった。
「お先に失礼します」
夜の八時。俺が厨房の洗い場で、食洗機の洗いかごに片っ端から食器を詰め込んでいると、先に今日のシフトがおわった穂浪がみんなに挨拶をしにきた。
穂浪は普段、あんまり喋らないけれど声は意外とよく響く。それでも厨房内はフライヤーでからあげを揚げる音や、あちこちで鳴り響くタイマーの音で、自然と声が聞き取りづらくなる。
「お疲れ様」
穂浪の一番近くに立っていた俺が最初に返事をすると、同じく麺の湯切りをしていた店長、社員で調理補助の阿山さん、穂浪と入れ替わりでやってきた大学生バイトの山下さんの声が後に続いた。
「おつかれーい」
「おつかれさん」
「おっつー」
男三人の声がほとんど同時に重なると、まあまあ店内に響いて圧倒される。
穂浪はそれに気圧された様子もなく、「っす」と小さく呟いて頭をさげると厨房を出て行こうとする。その背中に向かって、俺は「穂浪」と呼び止めた。
振り返った穂浪に、俺は食器でいっぱいになった洗いかごを食洗機に押し込みながら話を続けた。
「今日、ばたばたしててごめんな」
昼間の券売機騒動の後も、店が忙しかったり、お互いの休憩時間がズレたりして、仕事の詳しい説明はできていなかった。
券売機以外にも、どうしてこうするのか理由を説明できないままやらせてしまったことが、たくさんあった気がする。それがなんだったかも思い出せなくなるくらい、時間があっという間に過ぎてしまって、俺は穂浪に謝ることしかできなかった。
「はあ」
これで雑に扱われたとか、冷たくされたと思われていたら悪いなと思って謝ったけれど、穂浪の返事はそれだけだった。
もしかして、もうかなり怒ってる? それともぜんぜん気にしてない?
穂浪の考えがわからずに変な間が生まれた瞬間、蓋を下ろした食洗機が低くうなり始めた。そのままバッシャバッシャと水が噴射される音が響き始める。気まずい。
作業をせずに喋っていると店長に怒られるので、俺は空の洗いかごを体の前に引き寄せて、シンクに溜まった食器を詰め込みながら口を動かした。
「今度またちゃんと詳しいこと教えるな。今日、俺ひとりじゃ厳しかったし、穂浪がいてくれてよかった」
ちょっとオーバーな褒め方は、店長の受け売りだ。
バイトを始めたばかりの頃の俺は、穂浪よりも使えなかった。
食器もよく割ったし、料理を提供するテーブルを間違えたこともあった。
それをひやひやしながら店長に報告しに行くと、店長はいつも嫌な顔一つせずに『ナイス報告!』と言って親指を立てた拳を突き出してきた。
店長からすると、ミスは隠されるよりも、報告してもらった方がありがたいという意味を込めての発言らしい。
『あんま気にすんなよ。海野は十個のことやってくれてるんだから、一つのミスなんてどうってことないって。いてくれるだけで助かるんだから』
そう言って、豪快に笑い飛ばしてくれたことは一度や二度じゃない。
店長はウェーブのかかった黒髪に、鼻下と顎にヒゲを生やした軽そうなおじさんって感じの見た目をしているけど、言ってることには重みがある。
そんな店長を見習って、俺も穂浪に声をかけたつもりだったんだけれど、穂浪は表情を変えずに「はあ」と気のない返事をした。
「べつに気遣ってもらわなくても大丈夫です。ぜんぜん役に立ってなかったんで」
俺は「え?」と間の抜けた声をあげて、洗いかごに食器を詰める手を止めそうになった。
「そんなことないよ。穂波がいてくれたから千円札の仕分けも倍速になってたじゃん」
「いや倍はないです。0.3倍速くらいじゃないですか」
穂浪の自己評価の低さに、俺は「え!?」ともっとでかい声が出た。
当の本人は、淡々と事実だけを口にしていると言った様子で、無表情のままだ。
俺は昼間の不安が的中したことを確信した。仕事の説明は足りていなかったし、褒めはもっと足りていなかった。
そして多分、そのせいで穂浪は自分がちゃんと役に立っていることをちっともわかっていない。
そう気が付いた瞬間、俺はほとんど反射的に、穂浪の今日よかったところを口にしていた。
「そうかな。券売機が止まってた時に、お客さんに謝ってくれてたのも助かったよ」
「はあ。でも俺が謝ってもお客さん『はあ?』って顔してましたよ」
それは今みたいに、そっけないのが原因なんじゃないかな。
でもこれは今指摘することじゃない。
「ほかにもさ、うさかわの女の子のために、子ども椅子が残ってるかもチェックしてくれてたじゃん? すごい気が利くなってびっくりしたんだけど、俺教えたっけ?」
「教えてもらってないですけど。それはべつに。うち妹がいるんで。だから普通にわかるっていうか」
「そうなの? 普通じゃないと思うけどな。妹って小さいの?」
「いやそんなには。今六歳です」
結構ちっちゃいじゃん。ていうか、穂浪って妹がいるんだ。
穂浪が子どもの相手をしている姿って、うまく想像できない。でもこの口ぶりだと、本人にそのつもりがなくても、面倒は見ているんだろうな。
「俺も気になってたんですけど、先輩も下に兄弟いるんですか?」
今日、初めて穂浪から質問をされた。仕事のことは深く聞いてこないのに、最初の質問がそれなんだ。
でも会話のドッジボールが、初めてキャッチボールらしきものに変化したのはちょっとうれしい。
「ううん。俺は上に兄ちゃんだけ」
「へえ」
何やら一人で納得している穂浪に、俺は「なんで?」ときいてみる。
べつに、と返されるかなと思ったけれど、穂浪は意外にも答えてくれた。
「子どもの相手、うまいなって思って。俺、妹の相手ってどうやってしたらいいのか、あんまりわかんないんで」
俺は思わず、五つ年上の兄ちゃんの顔を思い浮かべた。とっさに出てくるのは、小学生くらいの頃の兄ちゃんだ。
兄ちゃんはクラスの中でも身長が低くて、体が細かった。俺は兄ちゃんを見ているといつも心配だった。
食洗機がビーッと鳴って、洗い上がりを知らせてきたので、頭の中から兄ちゃんの姿はすぐに消えてしまう。
「自分がされてうれしいことをしてあげたらいいんじゃない? 俺は店に来る小さい子にはそうしてる」
食洗機の蓋を開けて、洗い上がったかごを、汚れ物が詰まったかごと入れ替えながら俺は言う。
また低くうなりだした食洗機の音に紛れるように、穂浪が「じゃあ、とりあえずキャッチボールですかね」と呟く。
いや、確かに自分がされてうれしいこととは言ったけどさ……。
「おーい、そこ二人。いい加減おしゃべりやめ~」
穂浪に言い返しそうになった時、麺場から店長の声が飛んでくる。軽い口調だったけど、ちょっと声に真剣さが滲んでいる。
やばい、話しすぎた。
俺は反射的に店長のいる方を見て「すみません」と謝った。
「仲良くなるのはいいけど、穂浪もう退勤時間だから。ほれ、解散~」
大きく腕を振って、麺の水切りをしながら店長はしっかりと釘をさしてきた。俺は店長に軽く頭を下げてから、穂浪を振り返る。
「とにかくさ。今日は穂浪がいてくれてよかったよ。また次もよろしく」
これで仕事ができていないと思い込んで、やめられでもしたら困るから、俺はなるべく優しく声をかけた。
さりげなく『次』の話をするのも忘れない。
俺の言いたいことをわかっているのかいないのか、穂浪は「はあ」と頷くと、みんなにもう一度挨拶をしてから厨房を出て行った。
中間考査がおわり、六月に入ってすぐのこと。
美化委員に所属する一年生から三年生までの生徒全員は、放課後に学校周辺の町内の清掃活動に駆り出されていた。
「あっついなー。なあ、もうこれ死ぬだろ俺ら」
ゴミ袋を片手に俺の隣を歩く矢田が、黒縁眼鏡の奥の目を細めた。
癖のある黒髪の下からは、両耳の透明ピアスがちらちらと光を反射して存在を主張している。
生徒指導の先生に何回も怒られているのに、矢田は埋まるのが嫌だからと言ってやめる気配がない。目立たないようにしているだけでも最大限の譲歩だと思っている節があって、完全に開き直っている。
「みんなが死んでも、矢田だけは生き残るだろ」
息が詰まりそうなほどの湿気と、照りつけてくる太陽のせいで、俺は矢田の愚痴に雑に返してしまう。
数日前に梅雨入りが発表されたはずなのに、今年はちっとも雨が降らなくて、すでに夏本番って感じがする。
矢田は「ああ!?」とガラの悪い声を出したものの、俺が手に持った火ばさみをカチカチと鳴らして威嚇すると、それ以上喧嘩をふっかけてくることはなかった。
「なあ、もう近道して帰ればよくね? ここ行ったらすぐじゃん」
「じゃあ行っていいよ。ゴミ袋貸して」
住宅街にある細い路地を、握った拳の親指だけ立てて矢田が示した。俺は矢田の考えに呆れて、立ち止まってから手を差し出した。
ほかの美化委員だって俺たちと同じルートで回ってるんだから、サボってもすぐにバレるし、何も得をしない。
つられて立ち止まった矢田は、急に渋い顔になって声のトーンを落とした。
「お前一人にやれとは言ってないじゃん」
「矢田が来ないなら俺は一人でやるよ」
矢田は唇を真横に引き結んで黙り込んだ。俺が歩き始めると、路地には入らず、隣に並んでついてくる。
口が悪いし、校則を無視してピアスを開けているのに、矢田は変なところで律儀だ。それを証明するみたいに、クラスから一人ずつ選出される美化委員の活動にだって、こうしてちゃんと参加している。
矢田とは一年の時に同じクラスで、最初の席替えで席が隣同士になった。
その時には、まだ矢田の耳にピアスはなかったけれど、ちょっと乱暴な言葉遣いのせいで、俺は矢田にあんまりいい印象を持っていなかった。
そんな俺たちが話すようになったのは、数学の時間がきっかけだった。
ぼーっとしていたタイミングであてられたらしい矢田は、何を問われているのかわからずに黒板をじっと見つめていた。
その時に、数学の担当の先生が、矢田に嫌味を言った。
どんな内容だったかもうあんまり覚えていないけれど、それは矢田の外見を素行の悪さと結びつけたあげく、だからこんな問題も解けないんだと馬鹿にする内容の発言だった。
矢田は目鼻立ちがはっきりとした顔立ちのせいか、制服をきちんと着ていても妙に派手な雰囲気がある。言葉遣いが悪いのも手伝って、先生たちの間では、入学早々から指導対象として認識されている気配をクラス中が感じ取っていた。
俺は自分の教科書をすっと指さして、今どの問題をやっているのか教えてやった。
たしかに矢田のことは苦手だったけれど、少なくともその頃の矢田はきちんとした格好をしていて、見た目で文句をつけられる要素は一つもなかった。
俺の合図に気が付いた矢田は、自分の教科書に視線を落として問題を確認すると、すぐに答えを口にした。
それが意外で、俺は思わず顔を上げて矢田を見た。矢田はまっすぐ教卓を見つめたまま、ちっとも視線を合わせてくれなかった。
でもその後の休み時間に、矢田から俺に話しかけてきた。お礼を言うわけでもなく、ずっと昔から友達だったみたいに、英語の宿題をやったかきかれて、そこから一緒につるむようになった。
結局、今はこうしてピアスを開けているのだから、先生たちの見立ては当たっていたことになる。それでも一年を一緒に過ごしていれば、矢田の格好だけを理由に、関係を切ろうとは思えなかった。
二年生になってクラスは離れたけど、美化委員になったのも示し合わせたようなものだ。
放課後の時間を取られる委員会は当然、人気がない。特に部活組は、委員会活動に時間を取られるのを嫌がる。帰宅部組に押しつける雰囲気が自然とできあがっていて、俺はじゃんけんで負けて美化委員になった。
それが決まった直後、俺は机の下で隠れてスマホを操作して『美化委員』と矢田宛にメッセージを送った。矢田からは何も返事がこなかったけれど、しれっと美化委員になっていることからして、たぶん俺に合わせてくれたのだと思う。本人は絶っ対に口にしないけど。
「あー、ほら。もうみんな帰ってんじゃん。あいつら絶対近道してるって」
時々愚痴をこぼしつつも、あらかじめ決められたルートでのゴミ拾いに最後まで付き合ってくれた矢田は、校門をくぐるなりでかい声で悪態をついた。
校舎の前には、ゴミ袋とトングを持った生徒たちが集まって、それぞれ話し込んだり、ぼーっと立ち尽くしている。見た感じ、ほとんどが三年生だ。すっからかんのゴミ袋を見る限り、矢田の予想は大体当たっているんだろうな。
額を汗がつたってきて、俺は手の甲でそれを拭った。体の中にたまった熱気と不満を吐き出すように息をついてから、声を張り上げる。
「ゴミの分別しましょうか。袋を持って集まってください」
仕切り始めた俺を見て、矢田がわざとらしくため息をつく。
仕方ないじゃん。うちの学校って、こういう面倒なことは二年生がやって、三年生は楽してたらいいみたいな、嫌な校風ができあがってるんだから。
矢田は不満を隠そうとしないわりに、分別用のゴミ袋を黙って広げ始めている。先に戻ってきていたのはほとんどが三年生ばかりで、俺たちのあとからぞろぞろと一、二年生たちが戻ってきた。
「燃えるゴミと、瓶・缶・ペットで分別しようか」
俺はさっきと同じように促す。三年生はのろのろと集まってきて、ゴミ袋をがさっと乱暴に置くだけ置いて、さっさとどこかに行ってしまった。その様子を目にした一年生は唖然とした様子で、三年生の姿を目で追っている。俺たち二年生は、三年生のそういう態度に慣れきっていて、率先してゴミの分別を始めていた。
「一年生たち、分別したゴミ袋がいっぱいになったら縛ってね」
「分別がおわったら男子はゴミ運ぶの手伝って。女子は道具の片付け頼むな~」
幸いにも、俺たちの学年は三年生のああいう態度を「ないな」と言っている奴が多い。「俺たちはああいうのはやらない」という宣言が、ちゃんと形になるのかは来年までわからないけれど、引いてしまっている一年生に自主的に声かけをしてくれている奴は多かった。
俺が分別用のゴミ袋の口を開けて支えていると、そこに缶を捨てていた一年女子の後ろからぬっと影が差した。
ほかの生徒より頭が一つ飛び出している穂浪だった。今日、委員会の顔合わせの時に初めて知ったんだけど、穂浪も美化委員になったらしい。
一年女子はぎょっとして後ろを振り返って「びっくりした」と呟いたものの、穂浪とわかると分別を再開する。それを後ろで待っている穂浪の両手には、中がいっぱいのゴミ袋がぶらさがっていた。
「すっげー集めたじゃん」
俺が声をかけると、穂浪は「はあ」と相づちを打つ。しばらく間を開けてから言葉が続いた。
「俺だけで集めたんじゃなくて。みんなが持てないって言うんで」
「持ってきてあげたんだ?」
「まあ、はい」
「やさしーじゃん」
最初の頃、穂浪に話しかけても、返ってくるのは「はあ」という短い返事ばかりだったけれど、ゴールデンウィークの後からは少しだけ会話が続くようになっていた。まあ今みたいに、すぐにむすっとした顔で黙り込んじゃうことの方が多いんだけど。
「今年の一年はまじめでえらいね」
「俺らがまじめっていうか、普通ですよね」
穂浪は三年生たちが歩いて行った校舎の方を見て黙り込む。
まあ言いたいことはわかる。でもまだ近くにいるかもしれないし、ここで愚痴を言うのはやめた方がいい。
「穂浪くん、二年の先輩と知り合いなの?」
俺がちょっと困っていると、ゴミを分別していた女子が穂浪に話しかけた。もしかしたら、穂浪と同じクラスなのかもしれない。
「うん、まあ」
穂浪はやっぱり愛想のない返事をしている。穂浪って、クラスでもこんな感じなんだ。
せっかく話題を変えるきっかけをくれたのだから、俺も話に乗ることにした。
「バイト先が一緒なんだよな。麦丸ってラーメン屋知ってる?」
「知ってます。うちも家族でよく行きます。え、でもあそこ遠くないですか?」
女子の質問に、俺は苦笑した。
「遠いよー。放課後にバイト入ってる日とか、自転車で爆走してる」
「たぶん四十分くらいかかりますよね。穂浪くんも自転車?」
「俺は走ってるけど」
「走ってるの!?」
大きな声を出した女子に、俺も心の中で頷く。
最初は俺もびっくりしたけど、穂浪はまじで走って麦丸まで来ている。
一回だけ『なんで?』ときいてみたけど、『トレーニングです』としか教えてくれなかった。
その時はあっけにとられてしまったのと、まだ穂浪が麦丸に入ったばかりで、今ほど話をしたことがなかったから、それ以上の追及もできなかった。
「俺、元運動部だから」
「へー。何やってたの?」
会話のメインが二人に移ったタイミングで、俺はいっぱいになりかけていたゴミ袋の口を縛った。
瓶・缶・ペットは特に重いから、早めに次のゴミ袋を出した方が楽だ。
新しいゴミ袋を広げてから、二人に「じゃあ分別よろしく」と声をかけて、いっぱいになったゴミ袋を手にその場を離れようとした。
「うみの先輩」
一年生同士の方が話しやすいだろうと気をつかったつもりだったのに、歩き出した瞬間、穂浪にゴミ袋を奪われた。
ひったくりにでも遭ったのかと思うような勢いに、俺は「うええい……?」と謎の声を出してしまう。
「持って行きます」
真顔で呟く穂波は、どうやら気遣ってくれているらしい。
「じゃあ、ここで分別の続きやってくれない? ゴミ捨ては俺がやるよ」
穂波の親切をやんわりと断ろうとしたせいで、俺はまたしても『うみの』じゃなくて『うんの』だよという訂正の機会を逃してしまった。
ずっと言おう言おうと思っているんだけど、こんな感じでほかに言うことが多すぎて、そこまで手が回っていない。あと単純に、みんなの前で間違いを指摘するのもかわいそうかなと思うと、本当に機会がない。
一向にゴミ袋を譲る気がなさそうな穂波に向かって「それ重いからさ」と付け加える。
穂波は考え込むようにして首を捻った。
「重いなら、なおさら俺の方がよくないですか」
いやなんで?
さっきの一年女子が「あ、たしかに。穂浪くんのがいいね」となぜか穂浪に加勢する。
一応、一年に嫌な仕事を押しつけるのもかわいそうかなと考えての行動だったのに、なんで穂浪を働かせたがってるんだこの子。
俺がちょっと引いていると、その子がはっとした様子で取り繕い始めた。
「穂浪くん、一日十五キロくらい走るランナーズハイみたいなので、任せても大丈夫だと思います!」
「十五キロ!?」
いくらなんでも走りすぎだろ。ていうかこの二人、短時間でめちゃくちゃ打ち解けてるじゃん。でもランナーズハイの使い方、ちょっとちがくない?
俺が呆気にとられているうちに、一年女子は「分別は私が」と新しいゴミ袋を広げ始めている。
穂波はといえば、俺の隣で燃えるゴミを集めていた矢田にも「それも持っていきます」と声をかけていた。
矢田はこういう時に遠慮はしないタイプなので「あんがとね」とあっさりゴミ袋を渡している。
「意外といい奴じゃん」
軽く頭を下げてから、ゴミ捨て場に向かっていく穂波の背中を見つめて矢田が呟く。
「意外ってなんだよ」
「だってお前のことずっとウンノ先輩って間違ってるじゃん。あれなんなの」
「なんか言うタイミングがなくて」
「言えよ。穂波くん? がかわいそうだわ。周りから見たら、先輩の名前間違ってる失礼なやつになってるからな」
その口ぶりからして、矢田も穂波を失礼なやつだと思っていたっぽい。
ただ矢田の場合、俺がしょっちゅういろんな人から名前の読みを間違われていることを知っている。先生の中には、何度訂正しても直らない人もいるので、いちいち言い直さずにそのままにしていた。
それもあって、穂波だけが悪いわけじゃないって気がついたんだろうけど、ほかの人もそう思ってくれるとは限らない。
「そうだな。今度ちゃんと言うよ」
「今度っていつ」
「次のバイトの時とか?」
わざわざ人前で注意することもないよなと、俺なりに考えての結論だったのに、矢田は大袈裟に顔を顰めた。
「もういい。俺が言うわ」
え? と聞き返す間もなく、矢田は早速「穂波くーん」と声を張り上げた。
ほかの生徒からもゴミ袋を回収して、片手に二袋ずつゴミ袋を持った穂波が振り返る。
「あのさあ、こいつウンノね」
突然何を言われたのかわからず、怪訝そうに眉を寄せる穂波に向かって、矢田は続けた。その声は無駄によく通って、あちこちにちらばっていた生徒たちもつられてこっちを見ている。
「名前! こいつ、海野って書いてウンノって読むから」
「まじすか」
少し目を見開いた穂浪を、矢田は鼻で笑った。
「あー、かわいそ」
「言い方! タイミング!」
この状況はどう見ても矢田のせいだろ。穂浪が言葉に詰まるのを見て、俺は思わず声を張り上げた。
「穂浪が間違ってるっていうか、俺がちゃんと言わなかっただけだから」
「そうやってタイミングとか気にしてたら、海野は一生言えないって。てか言わない」
断言されてしまうと、それはないとは言い切れずに、ぐっと言葉に詰まる。その隙をついたように、ずんずんと俺の前まで歩み寄ってきた穂波が深く腰を折った。
その一連の動作を見た瞬間に、俺は「やめろってー」と叫んでいた。
「すんませんでした」
穂浪の謝罪の声は無駄にでかくて、周りにいた奴らがぎょっとしている。
「後輩にパワハラしてるみたいじゃんー」
あちこちから向けられる視線が痛くて、俺は急いで穂波の頭を上げさせにかかった。
「う……んの先輩、お疲れ様です」
バイト先の麦丸の休憩室で顔を合わせるなり、穂波が言葉を詰まらせながら挨拶をしてくる。
矢田が名前の読み間違いを指摘してから、一週間が経った。
うみの先輩って呼んでいた頃の癖が、まだ抜けないんだろうなと予想はつく。それでも小さく頭まで下げられてしまうと、最近の穂波のへりくだるような態度にうんざりしていた俺は「もういいってー」と肩を落とさずにはいられなかった。
「しつこいよー、俺そんなことで怒るような心狭いやつに見えるの?」
「そんなことはないですけど。でも、悪かったなと思って」
「穂波は気にしすぎ。先生なんか、言っても直らない人とかいるんだから。それくらいおおらかにいけって」
「それは先生がだめすぎでしょ」
「かもね」
これから昼休憩の俺と入れ違いに、穂波は休憩がおわったところだった。空の丼と小皿が載ったお盆を、両手で支えている。
俺は頭にまいていた白いタオルを取りながら、話題を切り替えた。
「今日昼なんだった?」
「しょうゆラーメンとからあげです。チャーシューもつけてくれました」
「肉だらけじゃん」
「若いやつは肉好きだろって」
「店長?」
「はい」
いかにも言いそうな発言に、自然と笑いが漏れてしまった。水道で手を洗っていると、穂波は「じゃ、お先です」と小さく頭を下げて休憩室を出て行く。
名前まちがい事件の後から、穂波は前よりももっと喋ってくれるようになった気がする。みんなの前で恥をかかせちゃったのは悪かったけど、話しやすくなったのは素直に嬉しい。
店長が作ってくれているまかないが、そろそろできあがっている頃かな。休憩室を出ようとした時、店長が料理が載ったお盆を片手に持ちながら、部屋に入ってきた。
「おまちどーさん。ほい、まかない誕生日スペシャル」
お盆の上に載った料理を得意げに見せられて、俺は「すげ」と小さく声をあげた。
メニューは穂波から聞いた話と同じだったけれど、そのほかにもメンマ、味玉、キムチ、ワンタン、チャーシューのトッピングがフルで盛られている。からあげが盛られている小鉢のほかにも、おまけと言わんばかりに少量のチャーハンが盛られていた。ぜんぶの料理が湯気をたてているのが、さらに食欲をそそる。
「誕生日スペシャルって、誕生日の日に休んでもくれるんですね」
「あったりまえじゃん。うちはそんなにケチくさくないって」
麦丸では、従業員の誕生日のまかないがちょっとだけ豪華になる。
俺の誕生日は、次の日曜日なんだけど、その日は休みをもらうことになっていたので、今年は誕生日スペシャルははないと思っていた。
「ありがとうございます。すっごい嬉しいです」
「ちなみにチャーハンは穂波からな」
料理を持ってきてくれたことを含め、店長にお礼を言うと、思いがけない言葉をかけられる。お盆を受け取ろうとしていた手の動きが思わず止まってしまった。
「さっき戻ってきた時に『海野先輩の飯、豪華じゃないですか?』って聞かれたんだよ。それで誕生日スペシャルのこと説明してやったら『じゃあ自分からも』って」
うれしいと思うよりも先に、俺は戸惑いの気持ちの方が勝ってしまった。
「えっ、なんですかそれ。穂波ってまだ名前間違ってたこと、気にしてるんですかね?」
店長は「さあね〜」と言いながら、俺に料理を押し付けてくる。
「あとで店からってことにしとくから、気にせず食えよ。穂波にもちゃんと言うし。俺らも名前間違ってるの薄々気が付いてたけど、そのままにしてて悪かったな」
「俺、気にしてないですよ。穂波ってあんまり俺の名前は呼ばないから、店長たちが気付かなくても無理ないです」
俺が穂波に呼び方の訂正ができずにいたのも、あまり呼ばれる機会がないというのが一つの要因だったりする。最近は逆に『ちゃんと覚えました』とアピールするように、ことあるごとに名前を呼ばれている気がするけど。
俺が放置していたせいで、思ったより大ごとになってしまったことが申し訳なくありつつも、せっかくなので料理はありがたく受け取った。
なにしろ俺は、バイトを探すときにまかない付きであることを第一条件にしていた。麦丸で出している料理はどれも好きだし、断る理由がない。
「腹はいくらでも空いてるので、ありがたくいただきます」
いそいそとお盆を受け取ると、店長は弾けるような笑い声をあげた。
「お前のそういう素直なとこって美徳だよな。その調子で立派に育てよ」
育てよもなにも、高二にもなればさすがに身長の伸びは停滞気味だ。
ただ店長が言っているのは、身体面での成長ではないんだろうなというのはわかったので、俺は調子よく返事をした。
その日のバイトは、穂波と同じ夜の九時半おわりだった。店の裏に停めてある自転車置き場で、俺は穂波にチャーハンのお礼を伝えた。
「いや、結局あれは店長が出してくれたんで」
「でも穂波が言ってくれなかったらチャーハンなしだったわけだし? 棚ぼただよな」
穂波は俺の言葉に同意はしなかったけれど、黙って自転車のスタンドを跳ね上げた。やっぱり表情にあまり変化は見られないけれど、機嫌が悪いわけではないことくらいわかるようになってきた。
さすがに暑さが本格化してからは、穂波も麦丸には自転車で来ている。
『バイト前から汗だくになってたら、お客さんからの印象悪いだろうが』という店長の指摘を受けての変化で、穂波は『確かにそっすね』とわりとすんなり受け入れていた。
一応、バイトに影響のない範囲でトレーニングは継続しているらしい。夜でもうっすらと蒸し暑さを感じる時期になってきたこともあって、俺は若干引きながら『死ぬなよ』と言うしかなかった。
穂波とは途中まで帰り道が一緒なこともあって、お互い自転車を引きながら並んで歩き始めた。
今日は誕生日スペシャルを出してもらえたし、バイトでミスもしなかったし、いい日だった。思わず鼻唄を口ずさんでいると、穂波がぼそりとたずねてきた。
「そんなにチャーハンが好きなんですか?」
「いや穂波がくれたのがうれしいじゃん。お前って意外と義理堅いっていうか、かわいいとこあるよな」
美化委員の活動時に率先してゴミを捨てに行ってくれたことを思い出しながら言うと、穂波は居心地悪そうに「はあ」と相槌を打つ。さすがに少し子ども扱いしているように聞こえたかな。
「あと俺、まかないのためにバイトしてるみたいなとこあるじゃん? だから昼が豪華になるとうれしいんだよね」
「いや知らないですけど。そうなんですか?」
「そうだよ。俺ら育ち盛りだし、そこ大事じゃない?」
店長との会話の時は、自分の成長は止まり気味だと思っていたのに、穂波のしっかりとした体つきを見ているとついそんな話を振ってしまう。
「たしかにうちの店って、量は結構ありますよね。麦丸で食わせてもらうようになってから、家で食べる量が減ったって親に喜ばれてます」
「減りはしなくない? まかないプラス今までの飯って感じ」
「家帰ってからそんなに食わないでしょ。前から思ってたんですけど、海野先輩って結構食いますよね。見た目そんな……、あー、いや」
「お前今、俺が小さいとかそういうこと言おうとしたよな」
不自然に言葉を途切れさせたのを聞き逃さずにツッコミを入れると、穂波は途端にしどろもどろになった。
「あー……、その、べつに海野先輩は小さくはないんですよ。でも体のでかさのわりによく食べるなって」
あんまフォローになってないだろそれ。
ていうか穂波と比べたらその辺にいるやつなんて、ほとんどが『小さい』に分類されるんだよ。
でも穂波に悪気がないのはわかっているので、反論は胸の内にとどめることにした。
「俺は麦丸のまかないにジャンキーさみたいなのを求めてるんだよね。お菓子で言うとポテチ食べる楽しみ、みたいな?」
「あー、それはわかるかも。でもポテチ枠の飯にプラスして、今までとおりの夕飯もっていうのはやっぱ多いとは思いますけど」
「うちのごはん、基本超ヘルシーだから大丈夫だと思う。家族がそういう系のやつが好きでさ」
穂波の口調の中に、時々タメ口が混ざるようになっている。それを気やすさのように感じてしまったのか、俺はつい家の話をぽろっと口にしてしまう。
「海野先輩のお兄さんは、そういうメニューばっかりなことに文句とか言わないんですか」
いつだったか、兄ちゃんがいると話したのを穂浪はちゃんと覚えていたらしい。
意外とちゃんと人の話をきいてるんだよな。俺は微笑んでから首を横に振った。
「言わないよ。俺、兄ちゃんとは一緒に住んでないんだ。ていうか俺がじいちゃんとばあちゃんの家に住ませてもらってて、家族と一緒に住んでないみたいな?」
「それって、なんか複雑な感じの事情があったりします?」
「ぜんぜん!」
今までと変わらない声音で、だけどあまりにも正面切って聞かれるものだから、俺は笑ってしまった。
「俺の兄ちゃん、昔から病気してて入院が多かったんだよね。親もそっちに付きっきりで大変だったから、じいちゃんとばあちゃんの家で面倒見てもらってるんだ。今は兄ちゃんの体調もよくなったんだけど、俺はこっちで友達ができちゃったし、こっちに住む感じに落ち着いてるんだよ」
もう小学校低学年の頃からの話だ。だからこっちの方が地元って感じさえしている。
家族が大変なのは、子どもながらにわかっていたから、俺をじいちゃんたちに預けようかという話が出始めた時もショックは受けなかった。なんなら、はっきりとした話が出る前に、自分から親に『俺はさみしくないから大丈夫だよ』と伝えた記憶もある。
俺が中学の時には兄ちゃんの状態はかなりよくなって、年に数回の定期的な検査だけに落ち着いている。
それでもここにいるのは、すっかりできあがってしまった人間関係を手放すのを俺が嫌がったからだ。
親には戻ってくるように言われたけど気が進まなくて、交通の便はこっちの方がいいだのあれこれと理由をつけて、じいちゃんとばあちゃんにも頼み込んで残っている。
今は兄ちゃんの状態がいいと話したあたりで、「よかったですね」と穂浪に言われて俺は頷いた。
「うん。それは本当によかった」
気を遣わせてしまいそうな話をしてしまって悪かったかなと心配していたけれど、穂波はちっとも気にしている素振りがない。よくも悪くも、図太いんだよな。
「たしかにそういう感じだと、ラーメン食べたいだの、餃子食べたいだのは言いづらいですね」
「だろ? そうなるとやっぱ麦丸のバイトって天職だよな」
「でも誕生日くらい好きなもの食べたかったんじゃないですか。頼んだら作ってくれるんじゃないですかね」
「作ってくれるから言いづらいみたいなとこあるよね。あと一応、誕生日は今度の土曜に実家で祝ってもらうことになってるから大丈夫」
「海野先輩って日曜が誕生日じゃないんでしたっけ? 店長が言ってました」
「土曜にお祝いしてもらって、一泊してから日曜に帰ってくんの。日曜はじいちゃんたちが天ぷら食べに連れて行ってくれるんだ」
「油物っすね」
「一応、俺に気遣ってくれてるんだろうね。高級店らしくて緊張する」
穂浪は納得した様子で頷いた。
「だから次の土日休みなんですね」
「そういうこと。逆に穂波は土日ほとんどシフト入ってるよね。テスト期間も出てなかったっけ?」
毎月メッセージアプリで送られてくるシフト表には、穂波の「穂」の土日欄にすべて◯がついている。
穂浪は平日も可能ならなるべく出たいタイプらしく、学校で顔を合わせるよりも、麦丸で顔を合わせる頻度の方が高かった。
ほとんど口癖になっている「まあ、はい」という返事に、俺は質問を続けた。
「もしかして穂波って、頭いい? 俺、平均レベルだから、バイト入ってるとさすがに苦しくて」
うちの学校は、成績が悪いとバイトを続けさせてもらえない。
バイトを始めて最初のテスト期間は、両立くらい簡単にできるだろうと軽い気持ちで考えていたけれど、結果的にかなり苦労させられるはめになった。それ以来、テスト期間中はいつも休ませてもらうようにしている。
ここでまた『まあ、はい』って言われたら、さすがにおもしろいなと内心で笑っていると、穂波は無言だった。
隣で自転車を引いて歩く穂波にちらっと視線をやると、穂波はどこか遠くを見るような目をしている。俺に見られていると気がつくと、無理矢理といった様子で口を開いた。
「ああ、テスト。ああ、まあ。はい」
びっくりするくらいテキトーな返事だった。
これは中間考査の結果がよくなかったんだろうなとさすがに察した。
「俺、元野球部なんで。勉強の方はちょっと」
「運動部でも勉強厳しいところあるって聞くけど」
観念した様子で絞り出された言葉に言い返すと、穂波は「まあ……」と口ごもる。
ついでに言うと、今は野球部じゃないくせに。
これ以上いじめるのもかわいそうなので、俺は一つ思いつきを口にしてみる。
「去年のテストの問題、ぜんぶ取ってあるから送ろうか?」
「いいんすか!?」
夜の住宅街のど真ん中で、穂浪が突然でかい声を張り上げるものだから、俺は慌てて人差し指を口に当てた。
穂波ははっとした様子で「すみません」と小さく頭を下げた。
「いいよ。帰ったら送るから、連絡先教えてくれる?」
ちょうどすぐそこに公園があったので、俺たちは公園の入口に自転車をとめて、街灯の明かりの下で連絡先を交換した。
「まじでたすかります。俺あんまりバイト休みたくないんで」
光に寄ってきた小さな虫が邪魔で、顔の前で手を払っていたけど、穂波の発言が気になってすぐにどうでもよくなった。
「なんで? 穂波もまかない目当て?」
「それも理由の一つではあるんですけど、単純に家にお金入れたくて」
「そっか、えらいね」
俺の周りにも、そういう理由を口にする子は結構いる。
まかないと小遣い目当てでゆるっとバイトをしている俺とはちがって、穂浪の声の響きからはそういう子たちが持っている切実さみたいなのが滲んでいる気がした。
「ぜんぜん受け取ってもらえないんですけどね。子どもがそういうこと気にすんなってめちゃくちゃ怒られて、ほとんど口座に突っ込んだままです」
「あー、それちょっとわかるかも。俺も家に金入れようとしたことあったけど、受け取ってもらえなかった。今は、じいちゃんとばあちゃんの誕生日にプレゼントを奮発してバランスとってるかな」
「それ、いいっすね。俺もそうしようかな」
こういう話題で盛り上がることってあんまりないから、ちょっと変な感じがする。
自分の境遇を、誰にも相談できないと思っているほど、悲観しているわけじゃない。
でも特別なこととしてじゃなく、ありきたりの日常として、お互いの事情を話せるのは新鮮だった。
穂浪といるといつまでも話が止まらなくなりそうだ。少し名残惜しかったけど、俺は「帰ろうか」と切り出した。
さすがに後輩を遅くまで付き合わせて何かあったらまずい。
俺はスマホの画面をタップして、表示させた時刻を穂浪に見せてやった。
「十時までに帰らないと補導される」
「まじすか。それは困ります」
表情が引き締める穂浪に、俺は笑いかけた。
「だよな。バイト辞めなきゃいけなくなったら困る」
俺たちはそれ以上話はせず、自転車に跨がってペダルを漕ぎ出した。
「無理無理、無理!」
眼前にみるみる迫ってくる白球を見ていたら、完全に怖じ気づいてしまって、俺は声をあげて横に飛び退いた。
体のすぐ横をかすめたボールが、芝の上に落ちて、勢いよく遠くに転がっていく。
ボールを投げた張本人である穂浪がすぐさま駆け出して、完全に固まっている俺を、通り過ぎざまに呆れた目で見た。
「動かずに構えてたら絶対捕れましたよ」
「俺初心者! もうちょっとゆっくり投げてくれる!?」
「投げてますけど」
日曜日、さんさんと照りつける太陽の下。青い空と、緑の芝のコントラストが綺麗な河川敷で、俺たちはキャッチボールをしていた。
初心者の俺は、穂浪が持ってきたマスクをつけて完全防備で挑んでいたのに、この有様だった。
いくら穂浪が手加減してくれているといっても、経験者のゴリゴリに決まったフォームが合わさると、迫力がぜんぜんちがう。小学生の頃に、友達とへろへろの球を投げ合った経験しかない俺が穂浪の相手をするのは無理があった。
少し離れた場所で、飼い主につれられて土手を散歩していた黒い犬が、俺たちの方をじーっと見つめて動かなくなる。
ぜんぜん続かない俺たちのキャッチボールを、手持ち無沙汰になった飼い主までもが見ている気がする。
ボールを拾った穂浪が戻ってくるのを見ながら、俺はマスクを外しかけていた。
「ごめん、もうギブしていい? ほかの運動しない?」
「ランニングとかですか? 十五キロ走れるんですか、海野先輩」
「五キロならなんとか……」
「すんませんって。もっと緩く投げるんで、もうちょっとやりません?」
「ほんとかよ~」
苦笑する穂浪というちょっとレアなものが見られたので、俺はマスクに続いて外しかけていたグローブをついはめ直してしまう。
さすがに周りの目が気になってきて、今度はマスクをつけるのはやめておいた。
穂浪から、日曜日に時間があるかときかれたのは、バイト終わりに連絡先を交換した日の翌日だった。
ファイリングしておいた去年のテスト問題を見つけ出し、写真を撮って送ってやると、お礼の言葉とともに『日曜は何時くらいにこっちに帰ってきますか』と返事がきた。
少し考えてから、俺は『十時か十一時くらい?』と返事を送った。
『結構早いんですね』
そう思っているのは、たぶん穂浪だけじゃない。うちの親もだ。そして多分、じいちゃんとばあちゃんも。
あらかじめ帰りの時間を告げた時、親からは昼くらい食べていけばいいのにと言われていた。
夕方にじいちゃんたちに天ぷらの店に連れて行ってもらえることになったのも、てっきり夕方に帰ってくると思っていた俺が午前に帰ってくると聞いて、気を遣ったにちがいない。
もし穂浪がここで用事に誘ってくれるのなら、予定があるという言い訳をみんなに用意できる。
『なんか用?』
返事を送ると、案の定、穂浪は俺の期待に応えてくれた。
『時間があったらでいいんで、キャッチボールに付き合ってもらえません?』
なんでキャッチボール?
形だけはそうきいてみたけど、理由はたいして重要じゃない。穂浪の誘いを受けることは、もう俺の中で決まっていた。
『今度、妹とキャッチボールしてみようかなと思うんですけど』
『力加減がよくわかんないので、練習台になってください』
『いそがしかったら別の日でもいいです』
穂浪は俺の野球レベルが、六歳の妹と同じくらいだと思っているらしい。ちょっと俺を下に見過ぎじゃないか。
でも俺の不純な動機はべつとして、前に妹とどう接したらいいかわからないと言っていた穂浪が、自分から行動を起こそうとしているのは応援してやりたくもあった。
俺はすぐにオッケーの返事を送って、今日は実家で朝ご飯を食べてすぐに家を出てきた。
前から早く帰ると伝えてあったのに、親はもちろん、兄ちゃんまでもが二人きりのタイミングで『もう帰んの?』と声をかけてきた。
『父さんと母さん、あんま言わないけど、もっと涼に帰ってきてほしいって思ってるよ』
真正面から、困ったように笑いかけてきた兄ちゃんは、もう俺より身長が高かった。
同級生の誰よりも小さくて、もしかして俺の方が大きいんじゃないかな、と錯覚した過去があるのがうそみたいだ。
俺は昔、兄ちゃんを見るのが怖かった。病気で皮と骨だけになるほど痩せ細って、棒きれみたいな手足では立つこともできない姿から、いつも少しだけ目を逸らしていた。
『じゃあ、そっちが来てくれたらいいじゃん』
初めて兄ちゃんに八つ当たりじみたことを言えたのは、兄ちゃんにあの頃の面影がちっともなかったからだ。
ちょっとくらいひどいことを言っても、兄ちゃんは傷つかない気がした。
それくらい、今はもうどこにでもいる、ただの大学生にしか見えなかった。
兄ちゃんは口を開いて、何か言いかけた後、すぐにやめた。
『一理ある』とちょっと寂しそうに笑ってから、あっさりと引き下った。
そのやりとりで俺が得られたのは、喉元のあたりに異物がつっかかったような違和感だけだった。言いたいことを言えば、すっきりするだろうと思っていたのに、ちっとも満足できなかった。
実家を出てから電車に乗り、最寄り駅に着いた俺は、そのまま歩いて近くの河川敷に向かった。
土手にある階段を上って、一番てっぺんから下を見下ろすと、ちょうど階段の一番下で、穂浪が持ってきた道具とクーラーボックスを下ろしているところだった。
そのまま穂浪と合流してキャッチボールを始めて、十五分くらいが経つ。
穂浪は今日も午後から麦丸でバイトに入っているので、長くても数時間程度を一緒に過ごすだけになりそうだ。
履いてきたスニーカーは、もういい感じに土に汚れ始めている。少なくともこれで、じいちゃんとばあちゃんだけは友達と約束があるという話が、うそではなかったと思ってくれるはずだ。家族よりも、友達と過ごす時間の方が楽しい時期なんだろうって、納得してくれるはずだ。
「じゃあ、もう一回お願いします」
「ゆっくりだからな!」
俺が頼むと、穂浪が頷いて野球ボールを投げてくる。
いやだから、そのガチめのフォーム怖いんだって。
とっさに身構えたけれど、明らかにさっきまでと比べてボールの速度は落ちていた。
足を踏ん張って、きれいな曲線を描いて落ちてくるボールを待ち構えていると、あっさりとグローブの中にボールが飛び込んでくる。
「いいじゃん。これならとれるよ」
穂浪に笑いかけてから勢いよく投げ返したボールは、見事に地面に直撃し、あらぬ方向に転がっていった。
「どんまいです」
俺が「げ」と呟いた時には、穂浪はもう駆け出してボールを拾いに行ってくれていた。
そこからはまた穂浪が投げ返して、俺が大暴投したのを穂浪が走って取りに行くという応酬が続く。
俺はその場から一歩も動いていないのに、穂浪はあちこち動き回っていてかなり大変そうだ。
「いい運動になりました」
「それ嫌味?」
さすがに息があがってきた穂浪を見て、休憩を提案すると、穂浪はすっきりとした顔で呟いた。
「や、でも本当にいい勉強にもなりました。妹とやるならもうちょい加減した方がいいのかもなとか。あちこち飛ばす可能性も考えた方がいいんだなとか」
「悪かったな」
俺を責めもせずに大真面目に考察されると、さすがに走り回らせたことは謝るしかない。
「なんだかんだで穂浪って、妹のこと好きだよな」
「シスコンじゃないです」
二人でグローブを外しながら、階段の方へと向かっている最中に話しかけると、穂浪は間髪いれずに言い返してきた。
その言葉の切れの良さに、俺は思わず吹き出してしまう。
「シスコンなんて言ってないじゃん。妹のことが好きなんだなって言っただけだろ」
「シスコンじゃないです」
なるほど、シスコンなんだろうな。
妙にむすっとしている穂浪を見ながら、俺は勝手に納得する。
穂浪はすっかり黙り込んでしまったけれど、気まずさは感じないので放っておいた。
穂浪は無言のまま、階段の一番下に置いてあったクーラーボックスに向かった。
しゃがみこんでクーラーボックスを開ける穂浪の横から、俺は両膝に手をついて中を覗き込む。
てっきりスポーツドリンクが入っているのかと思いきや、一番上には白い箱が詰まっている。穂浪が箱を慎重に持ち上げると、その下からは保存容器が出てきた。さらにその保存容器の下からは、半分凍らせたスポーツドリンクが。
穂浪は保存容器を持ち上げると、俺を見上げて遠慮がちに口を開いた。
「海野先輩。実はうちの母さん、からあげの揚げ王で」
「お母さん王様なの?」
穂浪の口から出た意味のわからない単語に思わずつっこんでしまうと、穂浪はうんざりした様子で顔を顰める。
「いや、揚げ王知りません?」
俺はそこでやっと、穂浪が言っているのが『からあげの揚げ王』という、からあげ専門店の名前だと気が付いた。
でかいショッピングモールにしか入っていないうえに、うちではあんまり縁のない店だから、すぐにはわからなかった。
「うちの母さん、揚げ王で働いてるんですけど。今日、先輩に会うって言ったら、せっかくだから持っていけって渡されて」
「スポドリが入ってたわけじゃないんだ」
「スポドリだけにしてはでかいでしょ」
穂浪がクーラーボックスに視線をやるのを見て、それもそうだと思わず笑ってしまった。
店の名前を忘れておいて言うのもなんだけど、『からあげの揚げ王』は前から少し気になっていた。ただ、店が入っているショッピングモールまでは距離があるうえに、持ち帰り専門店だから、友達と行っても立ち寄る機会がなかった。
「これ持ってくるために、チャリにクーラーボックス乗せてきてくれたの? すごいうれしいんだけど」
朝の兄ちゃんとのやりとりから、ずっと心の片隅でわだかまっていたものが途端に消え失せていくのがわかった。
だけど俺のテンションが上がれば上がるほど、穂浪の反応は鈍くなっていく。
「でもこれ、昨日の売れ残りなんで」
「俺、気にしないよ。あ、もしかして売れ残りって、部外者が食べるのはよくない感じ? 俺食べるのやめておこうか」
「いや食べていいんですけど。嫌じゃないですか? あと暑い時期だから、保冷剤で冷えまくってるんですけど」
「一日くらい大丈夫だって。冷えてても平気だし」
穂浪はしばらく黙り込んだ後、「……じゃあ」と保存容器の蓋を開ける。
小さめの容器だったけれど、中にぎっしり詰め込まれたからあげに俺は歓声をあげた。
クーラーボックスの中から、スポドリと袋に入った紙皿と割り箸を出すのを手伝って、二人で階段に座り込んだ。
「俺、言ったんですよ。売れ残りとか恥ずかしいからやめろって。でもうちの親、ぜんぜん話きかなくて」
「俺にとっては穂浪の親がそういうタイプでラッキーだけどな。おかげで揚げ王のからあげにありつけたし」
口に運んだからあげは確かに冷え切っていて、食感も落ちていたけど最高にうまい。
にんにくが利いていて、やみつきになる味だ。これだけ外が暑いと、冷たいからあげもなかなかいける。
穂浪はため息交じりに「昔っからこんな感じなんです」と続けた。
「俺、中間考査の成績かなり悪くて。そしたら親が、野球やめたのになんでそんなことになってんのってすごい怒ってて。この前、海野先輩にテストの問題を送ってもらったじゃないですか。もうあんまりにもうるさいから、とりあえずそれ見せて、これがあるから次は大丈夫って誤魔化したんですけど」
いやそれって本当に大丈夫なのかな。だめだったら次はもっと大変なことになりそう。
心配だったけど、めずらしくよく喋る穂浪の話を止めたくなくて、俺はからあげを頬張りながら頷いておく。
「そしたら今度はすごくいい人がいるんだなとか、なんて先輩だとか、詮索がすごくって」
「詮索って。穂浪のことが心配なんじゃない?」
穂浪も親に対して、嫌悪というほどの感情はないのか「まあ、はい」と頷く。
「それでまあ、世話になってるんだから、からあげ持ってけって言われて、今の状況です」
めちゃくちゃおもしろい家族だ。
会ったこともないのに、情景が目に浮かぶ。
勝手なイメージだけど、穂浪がこれだけ淡々としていると、周りの家族はそれくらい騒がしい方がちょうどいいんじゃないかな。
穂浪の家族の厚かましさが、少しだけ羨ましい。羨ましいっていうのは、ちょっとちがうかもしれない。
うちはみんなが互いに気を遣い合っていて、相手に深く踏み込めない。だからうちの親が、穂浪の親みたいな感じだったら、俺の家はどんな風だったのかなってちょっと想像してしまった。
からあげがなくなったタイミングで、穂浪がクーラーボックスから白い箱を取り出した。
何か入っているなとは思っていたけれど、その箱の存在はすっかり忘れていた。
「海野先輩。ケーキもあるんですけど、食べますか」
思いがけない言葉に、俺はぽかんと口を開いた後、「穂浪!」と思わず声を張り上げ、自分を指さした。心臓のあたりが、じわっと熱くなるのがわかる。
「俺ね、今日が誕生日なんだよ」
「知ってますけど」
「やっぱり!? 無表情でサプライズすんなよ、泣けるじゃん。買ってきてくれたの?」
「まあ、はい。そこのケーキ屋で。食べるの好きなのは知ってますけど、そこまで喜ばれるとは思ってませんでした」
穂浪は俺の顔をじっと見つめた後、「泣きます?」とたずねてきた。
「泣くかも」
「うそっすね」
ふと表情を緩めた穂浪がものめずらしく、俺はじっと見入ってしまう。今日は穂浪のいろんな顔が見られる日だな。
「見過ぎでしょ」
たぶん、俺がケーキの箱ばっかり見ていると思っているにちがいない。穂浪は呟きながら、手早くケーキの箱を開ける。
穂浪を見てるんだよと言うか迷って、結局何も言わなかった。
中から出てきたのは、いちごが載ったシンプルなショートケーキだ。
俺たちはケーキに巻かれたフィルムを摘まんで、「落ちたらやばい」と騒ぎながら、慎重に紙皿に移し替えた。
「どうぞ」
穂浪から渡された紙皿を、俺は両手で受け取って「ありがと」と呟いた。
ケーキ屋さんがつけてくれたプラスチックのスプーンが入った袋を開けている最中、穂浪が不意に切り出した。
「あの先輩。俺、中学まで野球やってたんですけど」
「この前、バイトの後にも言ってたね」
ケーキ皿を片手に、手を止めてしまった俺の横で、穂浪はまっすぐ前に視線を向けていた。
ずいぶん離れた場所で、川の水面が太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
穂浪は「はい」と相槌を打ってから続けた。
「わりとまじめにやってて、寝ても覚めても野球野球野球って感じでした。家族も結構協力的だったんです。妹も……、栞里も家に一人にできないから、試合がある時は応援に来てくれてて。でも嫌な顔一つしなかった」
「うん」
「でもうち、あんま金ないんです。そういうこと、親から直接言われたことはないんですけど、見てたらなんとなくわかるじゃないですか。で、うちで一番金かかってんのは、俺の野球かもなって思うようになって」
穂浪の言うことは、俺にも覚えがあった。
俺の場合は、家族に重い病気の兄ちゃんがいたり、じいちゃんとばあちゃんの家で暮らしていたりすることが、周りとちがうとなんとなくわかってしまうことだった。
穂浪がお金の面で家の負担だったというのなら、じいちゃんとばあちゃんの人生の負担は俺かもしれない。
「野球は続けていいって言われてたんですけど、ほかの先輩から高校に入ると、親ももっと大変になるって聞いてやめました。今までも大会の送迎とか、合宿の付き添いとか、さんざんやってもらってましたし、プロになる実力がないのもわかってたんです。何にもなれないなら、そこに家族全員の時間を費やす必要ないなって」
「そっか」
「はい。でも俺が野球やめたことで、家の中がスムーズに動いているのがすっげえわかるんですよね。弁当に入ってるウインナーがちょっといいのに変わってたりとか、父さんはやめてたタバコをまた始めたり、母さんは顔色よくなっているし、あと栞里がなんかの拍子に親に言ったんです。『お兄ちゃんが野球やめたから、今度はしおちゃんの番ね』って」
「どういうこと?」
「土日を俺の野球の応援に使ってた分、今度は自分に構えって意味で」
穂浪はふっと息を漏らした。苦笑する雰囲気があったけど、それはけっして嫌な類のものじゃなかった。
「なんかそれはそれでムカつくんですよね。俺は俺なりに一生懸命やってたこと、本当は家族全員が迷惑だったんだろうなって」
晴れやかな声とは正反対の内容が、穂浪の口から語られる。
俺はなんて声をかけていいかわからずに、穂浪を見守っていた。
「それで高校に入ったら、バイトを探し始めました。やることなかったし、じゃあもうバイト代もぜんぶ家に入れて、今までの迷惑料としてちょっとでも払ってやろうって捻くれてました。でもいざ渡そうとしたら断られるし、迷惑料ってなんだってブチギレられて大げんかです」
それはたぶん、怒られる。
でも俺は、そう言いたくなる穂浪の気持ちもわかる気がした。
「金も受け取ってもらえないなら、バイトも辞めようかなって考えるようになりました。でもそういう時にかぎって、海野先輩がいちいち俺のこと褒めるんですよね」
「え? 俺?」
突然出てきた自分の名前に、思わずフォークを握りしめる手が強くなる。
穂浪はそっけない仕草で頷いた。
「穂浪がいてくれてよかったとか、次もよろしくとか。お世辞なのはわかってます。店の人、全員そういう感じのことさらっと言うし。でも初めて海野先輩に言われた時、無性に効きました。それで俺、この場所でもうちょっとやっていこうかなと思って、ここにいます」
俺は開きかけた唇が震えて、何も言えなくなった。
遠い記憶の片隅で、『涼くん』と俺の名前を呼ぶ女の人の声が蘇ってくる。
病院の一室で、俺はテーブルの上に広げられたパンフレットを見せられていた。
両隣には父さんと母さんが座っていて、正面にいる女の人が、ひらがなで書かれたパンフレットの文字を指で追いながら、丁寧に言い聞かせてくる。
『涼くん、あのね。これからお兄ちゃんが入院するので、お母さんとお父さんが涼くんのそばにいられる時間が減ってしまうかもしれません。でもね、それは涼くんのことを忘れてるわけじゃないんだよ。絶っっ対に忘れたりはしないからね。涼くんのこともとっても大事なんだよ』
もう顔も覚えていない女の人が、俺にそう言った。
隣では母さんがすすり泣いていて、肩には父さんの手が回されていた。
その手の熱さにも、噛みしめるように言われるひとつひとつの言葉にも、うそは感じられなくて、俺は不安を覚えなかった。
俺は掠れそうになる声を無理矢理絞り出して、「そう」と息をついた。
「俺そんなこと言った?」
「言いました」
本当は言っていたのは、覚えている。
でも店長の受け売りで言ったわけじゃないことは忘れていた。
それにちょっと動揺して、俺は適当に誤魔化そうとしてしまった。それに穂浪は嫌な顔一つしなかった。
「多分そうだろうなって思ってました。でもこれは、俺が勝手に自分の中で大事にしてることだから、べつにいいんです。なんていうか今日のは、俺なりのお礼です。先輩のおかげで、あれ以上腐らずにすんだので」
「覚えてないけど、うれしいよ」
そっけない物言いが、妙に心に響いて、俺はなんとか声を絞り出した。
一度、覚えていないとうそをついてしまった手前、知らんぷりを続けてしまったけれど、そのあとはなるべく素直な気持ちを口にする。
「俺も俺だけが大事にしてることってあるから。たぶん今日も、そういう日になるんだと思う」
俺も穂浪と同じはずだった。
あの日の思い出があったから、俺は腐らずにすんだはずだった。
だから、兄ちゃんに付きっきりの両親を見て、自分からじいちゃんとばあちゃんの家に行っても平気だと言ったはずだった。
なのに、今年の誕生日にふと思ってしまった。
次の日、学校や仕事があるからという理由で、俺の誕生日のお祝いは土曜日に前倒しにされてしまうんだなとか。
兄ちゃんの入院にはいくらでも付き添っていたくせに、俺に家に帰ってこいと言うばかりで、あっちが来てくれることはないんだなとか。今まではちっとも思わなかった些細なことが目についてしまった。
「ならないですよ」
俺が慎重に選んだ言葉を、穂浪は小さく笑った。
思いがけない冷たい反応にびっくりしていると、穂浪は言い切った。
「俺は今日を忘れないんで、海野先輩だけの特別な日にはならないです」
思わず肩に入っていた力が抜けて、俺も笑ってしまった。
穂浪の飾り気のない言い方が、かえって本当のことを言ってくれているのだと信じさせてくれる。
「海野先輩、誕生日おめでとうございます」
穂浪がじっと俺を見つめて「話が長くなりましたけど、どうぞ」とケーキを食べるように促された。
やわらかい生クリームとスポンジにフォークを埋める瞬間、俺はどうしようもないほど優しい気持ちになれた。
うっかり泣いてしまって、ケーキが塩味になっていたらどうしようとか思ったけれど、口に運んだケーキは普通に甘い。
少しぬるくなってるなと考える余裕さえある。俺はもう簡単に泣く年じゃなかった。でも泣けないことが嫌じゃなかった。
泣いているよりも、穂浪がしてくれたことを喜んでいられる自分の方が好きだ。
「今までに食べたケーキで一番うまい」
本気でそう言ったのに、穂浪は涼しい顔のままで、俺が無駄に誇張してるみたいになる。
気にせずに、次々とケーキを口に放り込んでいると、穂浪もやっと手を動かし始めた。
「うまい?」
「はい」
俺が買ってきたケーキじゃないのにたずねると、穂浪は律儀に答えてくれる。
穂浪は一口が大きいせいで、三分の一くらいが一気に消えてしまっていた。
「俺、お客さんが喜びそうなことはわからないけど、海野先輩が喜んでくれそうなことならわかります」
いちごを一旦、紙皿の端によけながら、穂浪はしれっと言う。いちごは最後派なのかな。
俺は最後まで置いておこうとして、結局途中で食べたくなるタイプだ。そっとフォークでいちごをすくいながら、穂浪の言葉の続きを待つ。
「案外、普通なことで喜んでくれますよね」
確信を持った言い方に、口の中に含んだいちごの甘酸っぱさが急に効いてきた。
思わずきゅっと唇を引き結びそうになったけれど、すぐに「そうだよ」と言い切る。
でもそれを言えるのは、穂浪だけなんだよ。
店内には入れ替わり立ち替わりお客さんが入ってくる。さっき店の外を覗いたら、駐車場は満車に近い状態で、店の周りをぐるっと取り囲むようにしてお客さんが列を作っていた。
麦丸は元気が売りの店なので、挨拶もかかせない。「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」を馬鹿でかい声で繰り返すうちに、すっかり喉が渇いてきたけど、水を飲む暇がない。
だんだん疲れてきて、実は早口で「らっさいあっせぃ」「ありあとざいましたー」と言って誤魔化していたりする。あんまり崩した言い方にしすぎると、店長にバレて「しっかり挨拶しろ」と怒られるから注意だ。
ホール担当の俺は、とにかく店の端から端まで駆け回っている。
お客さんが券売機で買った食券を受け取って、座席に案内。でかい声で注文内容を読み上げながら、厨房の決まった場所に食券を置く。料理ができあがったら、テーブル席まで運ぶ。食事がおわったお客さんを見送りつつ、食器の片付けとテーブル拭き。ついでにピッチャーの水がなくなっていたら補充。仕事内容はだいたいこんな感じ。
言うのは簡単だけど、これが意外と大変だ。さばいてもさばいても引かない人の波には嫌でも焦るし、長い待ち時間と空腹でイラついているお客さんからはプレッシャーを感じる。
それでも一年間このバイトを続けていたら、さすがに少しは慣れてきた。
お客さんに、にこっと笑って、明るく挨拶をすれば、意外と笑顔が返ってくる。
最初は無理に大量の食器を運ぼうとして、床に落としたこともあるけれど、今はそれもほとんどない。
目の前の作業をこなしつつ、店の中を見渡して次にやることを考えて、手が回っていないところをフォローできた時の『俺やってます』感は結構気持ちいい。
でもそうやってハイになって仕事をしている時に限って、予想外のトラブルは起きがちだ。
「うみの先輩」
テーブル席にラーメンを運びおわった俺の後ろから、声をかけてくる奴がいた。
このゴールデンウィークから麦丸で働き始めた一つ下の後輩、穂浪大地だ。俺と同じ学校の一年生だけど、中学もちがうから、バイト以外での接点はない。
この連休の間は、シフトが被ると俺が仕事を教える形で、ホールに入ってもらっている。
穂浪はまだ一年生なのに、俺より身長が高くて体格もいい。
店の制服として渡されている黒いTシャツも、LLサイズを着るかその一つ上のサイズにするか微妙なラインだったらしくて、穂浪が入ってきた時に店のみんながざわついていた。Tシャツの背中にプリントされた『麦』の手描き風の白い文字を○で囲ったロゴも、穂浪のTシャツだけはやけに大きく見えるから不思議だ。頭に白いタオルをまくちょっとダサいスタイルも、穂浪がやるとすっと通った鼻筋が綺麗で様になっている。
その穂浪に『うみのじゃなくて、うんのだよ』と名前の読みを訂正できなかったのは、続く言葉が「食券機詰まりました」だったからだ。
「お、ナイス報告」
忙しい時間帯の券売機の故障は一番まずい。注文がストップすると、お客さんの数は増える一方になる。
俺は厨房に飛び込んで、客席からは見えない位置に置いてある手提げ金庫から、鍵を取り出した。
店のルール通り、厨房で調理を担当している店長を含む三人に「出しまーす」と声をかける。
「ちょっと待ってもらえますか。すんません」
急いで店の自動ドアの近くに置いてある券売機の前に駆けつけると、待ちぼうけをくらっているお客さん達に、穂浪が軽く頭を下げていた。
こいつすごいな。言い方はぶっきらぼうだけど、誰も穂浪に指示なんて出していないのに、ちゃんと自分で考えて動いている。
穂浪に謝られた子ども連れのお母さんは、背の高い穂浪から一重の目でじーっと見下ろされてちょっとたじろいでいた。まだ幼稚園児くらいの女の子も、お母さんの足にしがみついて、怯えた素振りを見せている。
「申し訳ありません。お待たせ致しました」
俺はいつもより明るい声を意識して、穂浪の前に割って入った。
「ごめんね、お腹減ったよね。すぐに直すからね」
女の子に笑いかけてから、俺は券売機に鍵を差し込む。こうすると、家のドアと同じ感じに券売機が開くようになっていた。
中で表示されているパネルのエラー番号を見て、俺はほっとした。札切れだ。
とっさに走ってきたけれど、ぶっちゃけ機械のことなんてぜんぜんわからない。でもこれなら前にもやったことがあるから、店長や先輩たちを呼ばなくてもどうにかできる。
「おつり用の千円札がなくなったんだ。穂浪、俺と一緒にこの中から千円札だけ抜き出してくれる?」
俺は売上金がストックされている場所から、がばっと札束を掴んで取り出した。
戸惑っている穂浪のTシャツの袖を摘まんで体をひっぱり、肩をくっつける。札束がお客さんに丸見えなのはよくないから、穂浪のでかい体で隠してもらう作戦だ。
「理由はあとで説明するから、このお札の中から千円札だけ出してほしい」
うちの券売機は、お釣りと売上金のお札の収納場所が別々になっている。
だからお釣り用の千円札のストックが切れた時は、売上金から千円札だけを抜き取って、お釣りの収納場所に入れてあげなきゃいけない。機械なんだからそれくらい自動でやってくれよと思うんだけど、うちの券売機はちょっと古いやつらしかった。
これを今、穂浪に説明して理解してもらう時間はない気がして、俺はとりあえずやってほしいことだけを口にする。
俺が札束の半分を差し出すと、穂浪は「うっす」と呟いてすぐに作業に取り掛かってくれた。穂浪にはちょっと悪いけど、何も聞かずに言うことを聞いてくれるからすごく助かる。しかも仕訳が結構早い。
俺も負けないように、手の動きに集中する。
作業は最後まではせずに、少し進んだところで切り上げた。
ずっとここだけに人を割くわけにはいかないから、とりあえず少しの間持つ量のお札を用意して、あとでタイミングを見てもう一回作業に来る作戦だ。
二人で分けた千円札を、釣り銭の収納スペースに押し込んで、残りのお金も中に戻して、券売機のドアを閉める。
「お待たせいたしました。どうぞご利用ください」
後ろを振り返ってお客さんに微笑みかけると、お母さんが「ゆいちゃんよかったねえ。ラーメン食べられるようになったよ」と女の子をあやしている。
「ゆいちゃん、オレンジジュースが飲みたいの」
女の子はまだお母さんの後ろに隠れていたけれど、小さな声で呟く。女の子がうさぎの顔のポシェットを斜めがけにしていることに気が付いて、俺は思わず二人に話しかけた。
「お子さまセットにはオレンジジュースがついてますよ。うさかわの絵のやつです」
うさかわは最近流行っているキャラクターだ。
お子さまメニューで出している市販の紙パックのオレンジジュースにも、期間限定のうさかわコラボパッケージのものを先週くらいから見かけるようになった。
うさかわの名前を聞くなり、女の子が表情を明るくした。
「ママ、うさかわ! うさかわだって」
「わかったわかった。ゆいちゃんはお子さまセットね」
お母さんの手を握りながら、その場で小さく飛び跳ねる女の子がやっと笑顔を浮かべてくれる。
俺はお母さんに会釈をしてから、穂浪のTシャツの袖を掴んで「戻ろう」と合図をした。
ホールの仕事が完全に止まっているから、すぐに戻らなくちゃまずい。店内を見渡すと案の定、厨房担当の先輩がホールに出て、テーブル席に料理を運んでくれていた。
穂浪もそれに気が付いたのか「はい」と短く返事をして、すぐに空いたテーブルの食器を片付け始める。
あっさり離れていく穂浪の背中を見ながら、俺はでかいため息をつきそうになった。
さっき穂浪に、あとでちゃんと仕事の説明をするって言ったのに、結局そんな時間はとれそうにない。
はっきり言って、穂浪は扱いやすい。どんな時でも俺の言うことを聞いてさっと動いてくれるし、嫌な顔一つしない。
でもその扱いやすさに甘えて、入りたてとは思えないくらいあれこれやらせてしまっている気がする。
お客さんの波が引いたら、ちゃんと謝ろうと決めて、俺は手に持っていた券売機の鍵を戻すために厨房に向かった。
「お先に失礼します」
夜の八時。俺が厨房の洗い場で、食洗機の洗いかごに片っ端から食器を詰め込んでいると、先に今日のシフトがおわった穂浪がみんなに挨拶をしにきた。
穂浪は普段、あんまり喋らないけれど声は意外とよく響く。それでも厨房内はフライヤーでからあげを揚げる音や、あちこちで鳴り響くタイマーの音で、自然と声が聞き取りづらくなる。
「お疲れ様」
穂浪の一番近くに立っていた俺が最初に返事をすると、同じく麺の湯切りをしていた店長、社員で調理補助の阿山さん、穂浪と入れ替わりでやってきた大学生バイトの山下さんの声が後に続いた。
「おつかれーい」
「おつかれさん」
「おっつー」
男三人の声がほとんど同時に重なると、まあまあ店内に響いて圧倒される。
穂浪はそれに気圧された様子もなく、「っす」と小さく呟いて頭をさげると厨房を出て行こうとする。その背中に向かって、俺は「穂浪」と呼び止めた。
振り返った穂浪に、俺は食器でいっぱいになった洗いかごを食洗機に押し込みながら話を続けた。
「今日、ばたばたしててごめんな」
昼間の券売機騒動の後も、店が忙しかったり、お互いの休憩時間がズレたりして、仕事の詳しい説明はできていなかった。
券売機以外にも、どうしてこうするのか理由を説明できないままやらせてしまったことが、たくさんあった気がする。それがなんだったかも思い出せなくなるくらい、時間があっという間に過ぎてしまって、俺は穂浪に謝ることしかできなかった。
「はあ」
これで雑に扱われたとか、冷たくされたと思われていたら悪いなと思って謝ったけれど、穂浪の返事はそれだけだった。
もしかして、もうかなり怒ってる? それともぜんぜん気にしてない?
穂浪の考えがわからずに変な間が生まれた瞬間、蓋を下ろした食洗機が低くうなり始めた。そのままバッシャバッシャと水が噴射される音が響き始める。気まずい。
作業をせずに喋っていると店長に怒られるので、俺は空の洗いかごを体の前に引き寄せて、シンクに溜まった食器を詰め込みながら口を動かした。
「今度またちゃんと詳しいこと教えるな。今日、俺ひとりじゃ厳しかったし、穂浪がいてくれてよかった」
ちょっとオーバーな褒め方は、店長の受け売りだ。
バイトを始めたばかりの頃の俺は、穂浪よりも使えなかった。
食器もよく割ったし、料理を提供するテーブルを間違えたこともあった。
それをひやひやしながら店長に報告しに行くと、店長はいつも嫌な顔一つせずに『ナイス報告!』と言って親指を立てた拳を突き出してきた。
店長からすると、ミスは隠されるよりも、報告してもらった方がありがたいという意味を込めての発言らしい。
『あんま気にすんなよ。海野は十個のことやってくれてるんだから、一つのミスなんてどうってことないって。いてくれるだけで助かるんだから』
そう言って、豪快に笑い飛ばしてくれたことは一度や二度じゃない。
店長はウェーブのかかった黒髪に、鼻下と顎にヒゲを生やした軽そうなおじさんって感じの見た目をしているけど、言ってることには重みがある。
そんな店長を見習って、俺も穂浪に声をかけたつもりだったんだけれど、穂浪は表情を変えずに「はあ」と気のない返事をした。
「べつに気遣ってもらわなくても大丈夫です。ぜんぜん役に立ってなかったんで」
俺は「え?」と間の抜けた声をあげて、洗いかごに食器を詰める手を止めそうになった。
「そんなことないよ。穂波がいてくれたから千円札の仕分けも倍速になってたじゃん」
「いや倍はないです。0.3倍速くらいじゃないですか」
穂浪の自己評価の低さに、俺は「え!?」ともっとでかい声が出た。
当の本人は、淡々と事実だけを口にしていると言った様子で、無表情のままだ。
俺は昼間の不安が的中したことを確信した。仕事の説明は足りていなかったし、褒めはもっと足りていなかった。
そして多分、そのせいで穂浪は自分がちゃんと役に立っていることをちっともわかっていない。
そう気が付いた瞬間、俺はほとんど反射的に、穂浪の今日よかったところを口にしていた。
「そうかな。券売機が止まってた時に、お客さんに謝ってくれてたのも助かったよ」
「はあ。でも俺が謝ってもお客さん『はあ?』って顔してましたよ」
それは今みたいに、そっけないのが原因なんじゃないかな。
でもこれは今指摘することじゃない。
「ほかにもさ、うさかわの女の子のために、子ども椅子が残ってるかもチェックしてくれてたじゃん? すごい気が利くなってびっくりしたんだけど、俺教えたっけ?」
「教えてもらってないですけど。それはべつに。うち妹がいるんで。だから普通にわかるっていうか」
「そうなの? 普通じゃないと思うけどな。妹って小さいの?」
「いやそんなには。今六歳です」
結構ちっちゃいじゃん。ていうか、穂浪って妹がいるんだ。
穂浪が子どもの相手をしている姿って、うまく想像できない。でもこの口ぶりだと、本人にそのつもりがなくても、面倒は見ているんだろうな。
「俺も気になってたんですけど、先輩も下に兄弟いるんですか?」
今日、初めて穂浪から質問をされた。仕事のことは深く聞いてこないのに、最初の質問がそれなんだ。
でも会話のドッジボールが、初めてキャッチボールらしきものに変化したのはちょっとうれしい。
「ううん。俺は上に兄ちゃんだけ」
「へえ」
何やら一人で納得している穂浪に、俺は「なんで?」ときいてみる。
べつに、と返されるかなと思ったけれど、穂浪は意外にも答えてくれた。
「子どもの相手、うまいなって思って。俺、妹の相手ってどうやってしたらいいのか、あんまりわかんないんで」
俺は思わず、五つ年上の兄ちゃんの顔を思い浮かべた。とっさに出てくるのは、小学生くらいの頃の兄ちゃんだ。
兄ちゃんはクラスの中でも身長が低くて、体が細かった。俺は兄ちゃんを見ているといつも心配だった。
食洗機がビーッと鳴って、洗い上がりを知らせてきたので、頭の中から兄ちゃんの姿はすぐに消えてしまう。
「自分がされてうれしいことをしてあげたらいいんじゃない? 俺は店に来る小さい子にはそうしてる」
食洗機の蓋を開けて、洗い上がったかごを、汚れ物が詰まったかごと入れ替えながら俺は言う。
また低くうなりだした食洗機の音に紛れるように、穂浪が「じゃあ、とりあえずキャッチボールですかね」と呟く。
いや、確かに自分がされてうれしいこととは言ったけどさ……。
「おーい、そこ二人。いい加減おしゃべりやめ~」
穂浪に言い返しそうになった時、麺場から店長の声が飛んでくる。軽い口調だったけど、ちょっと声に真剣さが滲んでいる。
やばい、話しすぎた。
俺は反射的に店長のいる方を見て「すみません」と謝った。
「仲良くなるのはいいけど、穂浪もう退勤時間だから。ほれ、解散~」
大きく腕を振って、麺の水切りをしながら店長はしっかりと釘をさしてきた。俺は店長に軽く頭を下げてから、穂浪を振り返る。
「とにかくさ。今日は穂浪がいてくれてよかったよ。また次もよろしく」
これで仕事ができていないと思い込んで、やめられでもしたら困るから、俺はなるべく優しく声をかけた。
さりげなく『次』の話をするのも忘れない。
俺の言いたいことをわかっているのかいないのか、穂浪は「はあ」と頷くと、みんなにもう一度挨拶をしてから厨房を出て行った。
中間考査がおわり、六月に入ってすぐのこと。
美化委員に所属する一年生から三年生までの生徒全員は、放課後に学校周辺の町内の清掃活動に駆り出されていた。
「あっついなー。なあ、もうこれ死ぬだろ俺ら」
ゴミ袋を片手に俺の隣を歩く矢田が、黒縁眼鏡の奥の目を細めた。
癖のある黒髪の下からは、両耳の透明ピアスがちらちらと光を反射して存在を主張している。
生徒指導の先生に何回も怒られているのに、矢田は埋まるのが嫌だからと言ってやめる気配がない。目立たないようにしているだけでも最大限の譲歩だと思っている節があって、完全に開き直っている。
「みんなが死んでも、矢田だけは生き残るだろ」
息が詰まりそうなほどの湿気と、照りつけてくる太陽のせいで、俺は矢田の愚痴に雑に返してしまう。
数日前に梅雨入りが発表されたはずなのに、今年はちっとも雨が降らなくて、すでに夏本番って感じがする。
矢田は「ああ!?」とガラの悪い声を出したものの、俺が手に持った火ばさみをカチカチと鳴らして威嚇すると、それ以上喧嘩をふっかけてくることはなかった。
「なあ、もう近道して帰ればよくね? ここ行ったらすぐじゃん」
「じゃあ行っていいよ。ゴミ袋貸して」
住宅街にある細い路地を、握った拳の親指だけ立てて矢田が示した。俺は矢田の考えに呆れて、立ち止まってから手を差し出した。
ほかの美化委員だって俺たちと同じルートで回ってるんだから、サボってもすぐにバレるし、何も得をしない。
つられて立ち止まった矢田は、急に渋い顔になって声のトーンを落とした。
「お前一人にやれとは言ってないじゃん」
「矢田が来ないなら俺は一人でやるよ」
矢田は唇を真横に引き結んで黙り込んだ。俺が歩き始めると、路地には入らず、隣に並んでついてくる。
口が悪いし、校則を無視してピアスを開けているのに、矢田は変なところで律儀だ。それを証明するみたいに、クラスから一人ずつ選出される美化委員の活動にだって、こうしてちゃんと参加している。
矢田とは一年の時に同じクラスで、最初の席替えで席が隣同士になった。
その時には、まだ矢田の耳にピアスはなかったけれど、ちょっと乱暴な言葉遣いのせいで、俺は矢田にあんまりいい印象を持っていなかった。
そんな俺たちが話すようになったのは、数学の時間がきっかけだった。
ぼーっとしていたタイミングであてられたらしい矢田は、何を問われているのかわからずに黒板をじっと見つめていた。
その時に、数学の担当の先生が、矢田に嫌味を言った。
どんな内容だったかもうあんまり覚えていないけれど、それは矢田の外見を素行の悪さと結びつけたあげく、だからこんな問題も解けないんだと馬鹿にする内容の発言だった。
矢田は目鼻立ちがはっきりとした顔立ちのせいか、制服をきちんと着ていても妙に派手な雰囲気がある。言葉遣いが悪いのも手伝って、先生たちの間では、入学早々から指導対象として認識されている気配をクラス中が感じ取っていた。
俺は自分の教科書をすっと指さして、今どの問題をやっているのか教えてやった。
たしかに矢田のことは苦手だったけれど、少なくともその頃の矢田はきちんとした格好をしていて、見た目で文句をつけられる要素は一つもなかった。
俺の合図に気が付いた矢田は、自分の教科書に視線を落として問題を確認すると、すぐに答えを口にした。
それが意外で、俺は思わず顔を上げて矢田を見た。矢田はまっすぐ教卓を見つめたまま、ちっとも視線を合わせてくれなかった。
でもその後の休み時間に、矢田から俺に話しかけてきた。お礼を言うわけでもなく、ずっと昔から友達だったみたいに、英語の宿題をやったかきかれて、そこから一緒につるむようになった。
結局、今はこうしてピアスを開けているのだから、先生たちの見立ては当たっていたことになる。それでも一年を一緒に過ごしていれば、矢田の格好だけを理由に、関係を切ろうとは思えなかった。
二年生になってクラスは離れたけど、美化委員になったのも示し合わせたようなものだ。
放課後の時間を取られる委員会は当然、人気がない。特に部活組は、委員会活動に時間を取られるのを嫌がる。帰宅部組に押しつける雰囲気が自然とできあがっていて、俺はじゃんけんで負けて美化委員になった。
それが決まった直後、俺は机の下で隠れてスマホを操作して『美化委員』と矢田宛にメッセージを送った。矢田からは何も返事がこなかったけれど、しれっと美化委員になっていることからして、たぶん俺に合わせてくれたのだと思う。本人は絶っ対に口にしないけど。
「あー、ほら。もうみんな帰ってんじゃん。あいつら絶対近道してるって」
時々愚痴をこぼしつつも、あらかじめ決められたルートでのゴミ拾いに最後まで付き合ってくれた矢田は、校門をくぐるなりでかい声で悪態をついた。
校舎の前には、ゴミ袋とトングを持った生徒たちが集まって、それぞれ話し込んだり、ぼーっと立ち尽くしている。見た感じ、ほとんどが三年生だ。すっからかんのゴミ袋を見る限り、矢田の予想は大体当たっているんだろうな。
額を汗がつたってきて、俺は手の甲でそれを拭った。体の中にたまった熱気と不満を吐き出すように息をついてから、声を張り上げる。
「ゴミの分別しましょうか。袋を持って集まってください」
仕切り始めた俺を見て、矢田がわざとらしくため息をつく。
仕方ないじゃん。うちの学校って、こういう面倒なことは二年生がやって、三年生は楽してたらいいみたいな、嫌な校風ができあがってるんだから。
矢田は不満を隠そうとしないわりに、分別用のゴミ袋を黙って広げ始めている。先に戻ってきていたのはほとんどが三年生ばかりで、俺たちのあとからぞろぞろと一、二年生たちが戻ってきた。
「燃えるゴミと、瓶・缶・ペットで分別しようか」
俺はさっきと同じように促す。三年生はのろのろと集まってきて、ゴミ袋をがさっと乱暴に置くだけ置いて、さっさとどこかに行ってしまった。その様子を目にした一年生は唖然とした様子で、三年生の姿を目で追っている。俺たち二年生は、三年生のそういう態度に慣れきっていて、率先してゴミの分別を始めていた。
「一年生たち、分別したゴミ袋がいっぱいになったら縛ってね」
「分別がおわったら男子はゴミ運ぶの手伝って。女子は道具の片付け頼むな~」
幸いにも、俺たちの学年は三年生のああいう態度を「ないな」と言っている奴が多い。「俺たちはああいうのはやらない」という宣言が、ちゃんと形になるのかは来年までわからないけれど、引いてしまっている一年生に自主的に声かけをしてくれている奴は多かった。
俺が分別用のゴミ袋の口を開けて支えていると、そこに缶を捨てていた一年女子の後ろからぬっと影が差した。
ほかの生徒より頭が一つ飛び出している穂浪だった。今日、委員会の顔合わせの時に初めて知ったんだけど、穂浪も美化委員になったらしい。
一年女子はぎょっとして後ろを振り返って「びっくりした」と呟いたものの、穂浪とわかると分別を再開する。それを後ろで待っている穂浪の両手には、中がいっぱいのゴミ袋がぶらさがっていた。
「すっげー集めたじゃん」
俺が声をかけると、穂浪は「はあ」と相づちを打つ。しばらく間を開けてから言葉が続いた。
「俺だけで集めたんじゃなくて。みんなが持てないって言うんで」
「持ってきてあげたんだ?」
「まあ、はい」
「やさしーじゃん」
最初の頃、穂浪に話しかけても、返ってくるのは「はあ」という短い返事ばかりだったけれど、ゴールデンウィークの後からは少しだけ会話が続くようになっていた。まあ今みたいに、すぐにむすっとした顔で黙り込んじゃうことの方が多いんだけど。
「今年の一年はまじめでえらいね」
「俺らがまじめっていうか、普通ですよね」
穂浪は三年生たちが歩いて行った校舎の方を見て黙り込む。
まあ言いたいことはわかる。でもまだ近くにいるかもしれないし、ここで愚痴を言うのはやめた方がいい。
「穂浪くん、二年の先輩と知り合いなの?」
俺がちょっと困っていると、ゴミを分別していた女子が穂浪に話しかけた。もしかしたら、穂浪と同じクラスなのかもしれない。
「うん、まあ」
穂浪はやっぱり愛想のない返事をしている。穂浪って、クラスでもこんな感じなんだ。
せっかく話題を変えるきっかけをくれたのだから、俺も話に乗ることにした。
「バイト先が一緒なんだよな。麦丸ってラーメン屋知ってる?」
「知ってます。うちも家族でよく行きます。え、でもあそこ遠くないですか?」
女子の質問に、俺は苦笑した。
「遠いよー。放課後にバイト入ってる日とか、自転車で爆走してる」
「たぶん四十分くらいかかりますよね。穂浪くんも自転車?」
「俺は走ってるけど」
「走ってるの!?」
大きな声を出した女子に、俺も心の中で頷く。
最初は俺もびっくりしたけど、穂浪はまじで走って麦丸まで来ている。
一回だけ『なんで?』ときいてみたけど、『トレーニングです』としか教えてくれなかった。
その時はあっけにとられてしまったのと、まだ穂浪が麦丸に入ったばかりで、今ほど話をしたことがなかったから、それ以上の追及もできなかった。
「俺、元運動部だから」
「へー。何やってたの?」
会話のメインが二人に移ったタイミングで、俺はいっぱいになりかけていたゴミ袋の口を縛った。
瓶・缶・ペットは特に重いから、早めに次のゴミ袋を出した方が楽だ。
新しいゴミ袋を広げてから、二人に「じゃあ分別よろしく」と声をかけて、いっぱいになったゴミ袋を手にその場を離れようとした。
「うみの先輩」
一年生同士の方が話しやすいだろうと気をつかったつもりだったのに、歩き出した瞬間、穂浪にゴミ袋を奪われた。
ひったくりにでも遭ったのかと思うような勢いに、俺は「うええい……?」と謎の声を出してしまう。
「持って行きます」
真顔で呟く穂波は、どうやら気遣ってくれているらしい。
「じゃあ、ここで分別の続きやってくれない? ゴミ捨ては俺がやるよ」
穂波の親切をやんわりと断ろうとしたせいで、俺はまたしても『うみの』じゃなくて『うんの』だよという訂正の機会を逃してしまった。
ずっと言おう言おうと思っているんだけど、こんな感じでほかに言うことが多すぎて、そこまで手が回っていない。あと単純に、みんなの前で間違いを指摘するのもかわいそうかなと思うと、本当に機会がない。
一向にゴミ袋を譲る気がなさそうな穂波に向かって「それ重いからさ」と付け加える。
穂波は考え込むようにして首を捻った。
「重いなら、なおさら俺の方がよくないですか」
いやなんで?
さっきの一年女子が「あ、たしかに。穂浪くんのがいいね」となぜか穂浪に加勢する。
一応、一年に嫌な仕事を押しつけるのもかわいそうかなと考えての行動だったのに、なんで穂浪を働かせたがってるんだこの子。
俺がちょっと引いていると、その子がはっとした様子で取り繕い始めた。
「穂浪くん、一日十五キロくらい走るランナーズハイみたいなので、任せても大丈夫だと思います!」
「十五キロ!?」
いくらなんでも走りすぎだろ。ていうかこの二人、短時間でめちゃくちゃ打ち解けてるじゃん。でもランナーズハイの使い方、ちょっとちがくない?
俺が呆気にとられているうちに、一年女子は「分別は私が」と新しいゴミ袋を広げ始めている。
穂波はといえば、俺の隣で燃えるゴミを集めていた矢田にも「それも持っていきます」と声をかけていた。
矢田はこういう時に遠慮はしないタイプなので「あんがとね」とあっさりゴミ袋を渡している。
「意外といい奴じゃん」
軽く頭を下げてから、ゴミ捨て場に向かっていく穂波の背中を見つめて矢田が呟く。
「意外ってなんだよ」
「だってお前のことずっとウンノ先輩って間違ってるじゃん。あれなんなの」
「なんか言うタイミングがなくて」
「言えよ。穂波くん? がかわいそうだわ。周りから見たら、先輩の名前間違ってる失礼なやつになってるからな」
その口ぶりからして、矢田も穂波を失礼なやつだと思っていたっぽい。
ただ矢田の場合、俺がしょっちゅういろんな人から名前の読みを間違われていることを知っている。先生の中には、何度訂正しても直らない人もいるので、いちいち言い直さずにそのままにしていた。
それもあって、穂波だけが悪いわけじゃないって気がついたんだろうけど、ほかの人もそう思ってくれるとは限らない。
「そうだな。今度ちゃんと言うよ」
「今度っていつ」
「次のバイトの時とか?」
わざわざ人前で注意することもないよなと、俺なりに考えての結論だったのに、矢田は大袈裟に顔を顰めた。
「もういい。俺が言うわ」
え? と聞き返す間もなく、矢田は早速「穂波くーん」と声を張り上げた。
ほかの生徒からもゴミ袋を回収して、片手に二袋ずつゴミ袋を持った穂波が振り返る。
「あのさあ、こいつウンノね」
突然何を言われたのかわからず、怪訝そうに眉を寄せる穂波に向かって、矢田は続けた。その声は無駄によく通って、あちこちにちらばっていた生徒たちもつられてこっちを見ている。
「名前! こいつ、海野って書いてウンノって読むから」
「まじすか」
少し目を見開いた穂浪を、矢田は鼻で笑った。
「あー、かわいそ」
「言い方! タイミング!」
この状況はどう見ても矢田のせいだろ。穂浪が言葉に詰まるのを見て、俺は思わず声を張り上げた。
「穂浪が間違ってるっていうか、俺がちゃんと言わなかっただけだから」
「そうやってタイミングとか気にしてたら、海野は一生言えないって。てか言わない」
断言されてしまうと、それはないとは言い切れずに、ぐっと言葉に詰まる。その隙をついたように、ずんずんと俺の前まで歩み寄ってきた穂波が深く腰を折った。
その一連の動作を見た瞬間に、俺は「やめろってー」と叫んでいた。
「すんませんでした」
穂浪の謝罪の声は無駄にでかくて、周りにいた奴らがぎょっとしている。
「後輩にパワハラしてるみたいじゃんー」
あちこちから向けられる視線が痛くて、俺は急いで穂波の頭を上げさせにかかった。
「う……んの先輩、お疲れ様です」
バイト先の麦丸の休憩室で顔を合わせるなり、穂波が言葉を詰まらせながら挨拶をしてくる。
矢田が名前の読み間違いを指摘してから、一週間が経った。
うみの先輩って呼んでいた頃の癖が、まだ抜けないんだろうなと予想はつく。それでも小さく頭まで下げられてしまうと、最近の穂波のへりくだるような態度にうんざりしていた俺は「もういいってー」と肩を落とさずにはいられなかった。
「しつこいよー、俺そんなことで怒るような心狭いやつに見えるの?」
「そんなことはないですけど。でも、悪かったなと思って」
「穂波は気にしすぎ。先生なんか、言っても直らない人とかいるんだから。それくらいおおらかにいけって」
「それは先生がだめすぎでしょ」
「かもね」
これから昼休憩の俺と入れ違いに、穂波は休憩がおわったところだった。空の丼と小皿が載ったお盆を、両手で支えている。
俺は頭にまいていた白いタオルを取りながら、話題を切り替えた。
「今日昼なんだった?」
「しょうゆラーメンとからあげです。チャーシューもつけてくれました」
「肉だらけじゃん」
「若いやつは肉好きだろって」
「店長?」
「はい」
いかにも言いそうな発言に、自然と笑いが漏れてしまった。水道で手を洗っていると、穂波は「じゃ、お先です」と小さく頭を下げて休憩室を出て行く。
名前まちがい事件の後から、穂波は前よりももっと喋ってくれるようになった気がする。みんなの前で恥をかかせちゃったのは悪かったけど、話しやすくなったのは素直に嬉しい。
店長が作ってくれているまかないが、そろそろできあがっている頃かな。休憩室を出ようとした時、店長が料理が載ったお盆を片手に持ちながら、部屋に入ってきた。
「おまちどーさん。ほい、まかない誕生日スペシャル」
お盆の上に載った料理を得意げに見せられて、俺は「すげ」と小さく声をあげた。
メニューは穂波から聞いた話と同じだったけれど、そのほかにもメンマ、味玉、キムチ、ワンタン、チャーシューのトッピングがフルで盛られている。からあげが盛られている小鉢のほかにも、おまけと言わんばかりに少量のチャーハンが盛られていた。ぜんぶの料理が湯気をたてているのが、さらに食欲をそそる。
「誕生日スペシャルって、誕生日の日に休んでもくれるんですね」
「あったりまえじゃん。うちはそんなにケチくさくないって」
麦丸では、従業員の誕生日のまかないがちょっとだけ豪華になる。
俺の誕生日は、次の日曜日なんだけど、その日は休みをもらうことになっていたので、今年は誕生日スペシャルははないと思っていた。
「ありがとうございます。すっごい嬉しいです」
「ちなみにチャーハンは穂波からな」
料理を持ってきてくれたことを含め、店長にお礼を言うと、思いがけない言葉をかけられる。お盆を受け取ろうとしていた手の動きが思わず止まってしまった。
「さっき戻ってきた時に『海野先輩の飯、豪華じゃないですか?』って聞かれたんだよ。それで誕生日スペシャルのこと説明してやったら『じゃあ自分からも』って」
うれしいと思うよりも先に、俺は戸惑いの気持ちの方が勝ってしまった。
「えっ、なんですかそれ。穂波ってまだ名前間違ってたこと、気にしてるんですかね?」
店長は「さあね〜」と言いながら、俺に料理を押し付けてくる。
「あとで店からってことにしとくから、気にせず食えよ。穂波にもちゃんと言うし。俺らも名前間違ってるの薄々気が付いてたけど、そのままにしてて悪かったな」
「俺、気にしてないですよ。穂波ってあんまり俺の名前は呼ばないから、店長たちが気付かなくても無理ないです」
俺が穂波に呼び方の訂正ができずにいたのも、あまり呼ばれる機会がないというのが一つの要因だったりする。最近は逆に『ちゃんと覚えました』とアピールするように、ことあるごとに名前を呼ばれている気がするけど。
俺が放置していたせいで、思ったより大ごとになってしまったことが申し訳なくありつつも、せっかくなので料理はありがたく受け取った。
なにしろ俺は、バイトを探すときにまかない付きであることを第一条件にしていた。麦丸で出している料理はどれも好きだし、断る理由がない。
「腹はいくらでも空いてるので、ありがたくいただきます」
いそいそとお盆を受け取ると、店長は弾けるような笑い声をあげた。
「お前のそういう素直なとこって美徳だよな。その調子で立派に育てよ」
育てよもなにも、高二にもなればさすがに身長の伸びは停滞気味だ。
ただ店長が言っているのは、身体面での成長ではないんだろうなというのはわかったので、俺は調子よく返事をした。
その日のバイトは、穂波と同じ夜の九時半おわりだった。店の裏に停めてある自転車置き場で、俺は穂波にチャーハンのお礼を伝えた。
「いや、結局あれは店長が出してくれたんで」
「でも穂波が言ってくれなかったらチャーハンなしだったわけだし? 棚ぼただよな」
穂波は俺の言葉に同意はしなかったけれど、黙って自転車のスタンドを跳ね上げた。やっぱり表情にあまり変化は見られないけれど、機嫌が悪いわけではないことくらいわかるようになってきた。
さすがに暑さが本格化してからは、穂波も麦丸には自転車で来ている。
『バイト前から汗だくになってたら、お客さんからの印象悪いだろうが』という店長の指摘を受けての変化で、穂波は『確かにそっすね』とわりとすんなり受け入れていた。
一応、バイトに影響のない範囲でトレーニングは継続しているらしい。夜でもうっすらと蒸し暑さを感じる時期になってきたこともあって、俺は若干引きながら『死ぬなよ』と言うしかなかった。
穂波とは途中まで帰り道が一緒なこともあって、お互い自転車を引きながら並んで歩き始めた。
今日は誕生日スペシャルを出してもらえたし、バイトでミスもしなかったし、いい日だった。思わず鼻唄を口ずさんでいると、穂波がぼそりとたずねてきた。
「そんなにチャーハンが好きなんですか?」
「いや穂波がくれたのがうれしいじゃん。お前って意外と義理堅いっていうか、かわいいとこあるよな」
美化委員の活動時に率先してゴミを捨てに行ってくれたことを思い出しながら言うと、穂波は居心地悪そうに「はあ」と相槌を打つ。さすがに少し子ども扱いしているように聞こえたかな。
「あと俺、まかないのためにバイトしてるみたいなとこあるじゃん? だから昼が豪華になるとうれしいんだよね」
「いや知らないですけど。そうなんですか?」
「そうだよ。俺ら育ち盛りだし、そこ大事じゃない?」
店長との会話の時は、自分の成長は止まり気味だと思っていたのに、穂波のしっかりとした体つきを見ているとついそんな話を振ってしまう。
「たしかにうちの店って、量は結構ありますよね。麦丸で食わせてもらうようになってから、家で食べる量が減ったって親に喜ばれてます」
「減りはしなくない? まかないプラス今までの飯って感じ」
「家帰ってからそんなに食わないでしょ。前から思ってたんですけど、海野先輩って結構食いますよね。見た目そんな……、あー、いや」
「お前今、俺が小さいとかそういうこと言おうとしたよな」
不自然に言葉を途切れさせたのを聞き逃さずにツッコミを入れると、穂波は途端にしどろもどろになった。
「あー……、その、べつに海野先輩は小さくはないんですよ。でも体のでかさのわりによく食べるなって」
あんまフォローになってないだろそれ。
ていうか穂波と比べたらその辺にいるやつなんて、ほとんどが『小さい』に分類されるんだよ。
でも穂波に悪気がないのはわかっているので、反論は胸の内にとどめることにした。
「俺は麦丸のまかないにジャンキーさみたいなのを求めてるんだよね。お菓子で言うとポテチ食べる楽しみ、みたいな?」
「あー、それはわかるかも。でもポテチ枠の飯にプラスして、今までとおりの夕飯もっていうのはやっぱ多いとは思いますけど」
「うちのごはん、基本超ヘルシーだから大丈夫だと思う。家族がそういう系のやつが好きでさ」
穂波の口調の中に、時々タメ口が混ざるようになっている。それを気やすさのように感じてしまったのか、俺はつい家の話をぽろっと口にしてしまう。
「海野先輩のお兄さんは、そういうメニューばっかりなことに文句とか言わないんですか」
いつだったか、兄ちゃんがいると話したのを穂浪はちゃんと覚えていたらしい。
意外とちゃんと人の話をきいてるんだよな。俺は微笑んでから首を横に振った。
「言わないよ。俺、兄ちゃんとは一緒に住んでないんだ。ていうか俺がじいちゃんとばあちゃんの家に住ませてもらってて、家族と一緒に住んでないみたいな?」
「それって、なんか複雑な感じの事情があったりします?」
「ぜんぜん!」
今までと変わらない声音で、だけどあまりにも正面切って聞かれるものだから、俺は笑ってしまった。
「俺の兄ちゃん、昔から病気してて入院が多かったんだよね。親もそっちに付きっきりで大変だったから、じいちゃんとばあちゃんの家で面倒見てもらってるんだ。今は兄ちゃんの体調もよくなったんだけど、俺はこっちで友達ができちゃったし、こっちに住む感じに落ち着いてるんだよ」
もう小学校低学年の頃からの話だ。だからこっちの方が地元って感じさえしている。
家族が大変なのは、子どもながらにわかっていたから、俺をじいちゃんたちに預けようかという話が出始めた時もショックは受けなかった。なんなら、はっきりとした話が出る前に、自分から親に『俺はさみしくないから大丈夫だよ』と伝えた記憶もある。
俺が中学の時には兄ちゃんの状態はかなりよくなって、年に数回の定期的な検査だけに落ち着いている。
それでもここにいるのは、すっかりできあがってしまった人間関係を手放すのを俺が嫌がったからだ。
親には戻ってくるように言われたけど気が進まなくて、交通の便はこっちの方がいいだのあれこれと理由をつけて、じいちゃんとばあちゃんにも頼み込んで残っている。
今は兄ちゃんの状態がいいと話したあたりで、「よかったですね」と穂浪に言われて俺は頷いた。
「うん。それは本当によかった」
気を遣わせてしまいそうな話をしてしまって悪かったかなと心配していたけれど、穂波はちっとも気にしている素振りがない。よくも悪くも、図太いんだよな。
「たしかにそういう感じだと、ラーメン食べたいだの、餃子食べたいだのは言いづらいですね」
「だろ? そうなるとやっぱ麦丸のバイトって天職だよな」
「でも誕生日くらい好きなもの食べたかったんじゃないですか。頼んだら作ってくれるんじゃないですかね」
「作ってくれるから言いづらいみたいなとこあるよね。あと一応、誕生日は今度の土曜に実家で祝ってもらうことになってるから大丈夫」
「海野先輩って日曜が誕生日じゃないんでしたっけ? 店長が言ってました」
「土曜にお祝いしてもらって、一泊してから日曜に帰ってくんの。日曜はじいちゃんたちが天ぷら食べに連れて行ってくれるんだ」
「油物っすね」
「一応、俺に気遣ってくれてるんだろうね。高級店らしくて緊張する」
穂浪は納得した様子で頷いた。
「だから次の土日休みなんですね」
「そういうこと。逆に穂波は土日ほとんどシフト入ってるよね。テスト期間も出てなかったっけ?」
毎月メッセージアプリで送られてくるシフト表には、穂波の「穂」の土日欄にすべて◯がついている。
穂浪は平日も可能ならなるべく出たいタイプらしく、学校で顔を合わせるよりも、麦丸で顔を合わせる頻度の方が高かった。
ほとんど口癖になっている「まあ、はい」という返事に、俺は質問を続けた。
「もしかして穂波って、頭いい? 俺、平均レベルだから、バイト入ってるとさすがに苦しくて」
うちの学校は、成績が悪いとバイトを続けさせてもらえない。
バイトを始めて最初のテスト期間は、両立くらい簡単にできるだろうと軽い気持ちで考えていたけれど、結果的にかなり苦労させられるはめになった。それ以来、テスト期間中はいつも休ませてもらうようにしている。
ここでまた『まあ、はい』って言われたら、さすがにおもしろいなと内心で笑っていると、穂波は無言だった。
隣で自転車を引いて歩く穂波にちらっと視線をやると、穂波はどこか遠くを見るような目をしている。俺に見られていると気がつくと、無理矢理といった様子で口を開いた。
「ああ、テスト。ああ、まあ。はい」
びっくりするくらいテキトーな返事だった。
これは中間考査の結果がよくなかったんだろうなとさすがに察した。
「俺、元野球部なんで。勉強の方はちょっと」
「運動部でも勉強厳しいところあるって聞くけど」
観念した様子で絞り出された言葉に言い返すと、穂波は「まあ……」と口ごもる。
ついでに言うと、今は野球部じゃないくせに。
これ以上いじめるのもかわいそうなので、俺は一つ思いつきを口にしてみる。
「去年のテストの問題、ぜんぶ取ってあるから送ろうか?」
「いいんすか!?」
夜の住宅街のど真ん中で、穂浪が突然でかい声を張り上げるものだから、俺は慌てて人差し指を口に当てた。
穂波ははっとした様子で「すみません」と小さく頭を下げた。
「いいよ。帰ったら送るから、連絡先教えてくれる?」
ちょうどすぐそこに公園があったので、俺たちは公園の入口に自転車をとめて、街灯の明かりの下で連絡先を交換した。
「まじでたすかります。俺あんまりバイト休みたくないんで」
光に寄ってきた小さな虫が邪魔で、顔の前で手を払っていたけど、穂波の発言が気になってすぐにどうでもよくなった。
「なんで? 穂波もまかない目当て?」
「それも理由の一つではあるんですけど、単純に家にお金入れたくて」
「そっか、えらいね」
俺の周りにも、そういう理由を口にする子は結構いる。
まかないと小遣い目当てでゆるっとバイトをしている俺とはちがって、穂浪の声の響きからはそういう子たちが持っている切実さみたいなのが滲んでいる気がした。
「ぜんぜん受け取ってもらえないんですけどね。子どもがそういうこと気にすんなってめちゃくちゃ怒られて、ほとんど口座に突っ込んだままです」
「あー、それちょっとわかるかも。俺も家に金入れようとしたことあったけど、受け取ってもらえなかった。今は、じいちゃんとばあちゃんの誕生日にプレゼントを奮発してバランスとってるかな」
「それ、いいっすね。俺もそうしようかな」
こういう話題で盛り上がることってあんまりないから、ちょっと変な感じがする。
自分の境遇を、誰にも相談できないと思っているほど、悲観しているわけじゃない。
でも特別なこととしてじゃなく、ありきたりの日常として、お互いの事情を話せるのは新鮮だった。
穂浪といるといつまでも話が止まらなくなりそうだ。少し名残惜しかったけど、俺は「帰ろうか」と切り出した。
さすがに後輩を遅くまで付き合わせて何かあったらまずい。
俺はスマホの画面をタップして、表示させた時刻を穂浪に見せてやった。
「十時までに帰らないと補導される」
「まじすか。それは困ります」
表情が引き締める穂浪に、俺は笑いかけた。
「だよな。バイト辞めなきゃいけなくなったら困る」
俺たちはそれ以上話はせず、自転車に跨がってペダルを漕ぎ出した。
「無理無理、無理!」
眼前にみるみる迫ってくる白球を見ていたら、完全に怖じ気づいてしまって、俺は声をあげて横に飛び退いた。
体のすぐ横をかすめたボールが、芝の上に落ちて、勢いよく遠くに転がっていく。
ボールを投げた張本人である穂浪がすぐさま駆け出して、完全に固まっている俺を、通り過ぎざまに呆れた目で見た。
「動かずに構えてたら絶対捕れましたよ」
「俺初心者! もうちょっとゆっくり投げてくれる!?」
「投げてますけど」
日曜日、さんさんと照りつける太陽の下。青い空と、緑の芝のコントラストが綺麗な河川敷で、俺たちはキャッチボールをしていた。
初心者の俺は、穂浪が持ってきたマスクをつけて完全防備で挑んでいたのに、この有様だった。
いくら穂浪が手加減してくれているといっても、経験者のゴリゴリに決まったフォームが合わさると、迫力がぜんぜんちがう。小学生の頃に、友達とへろへろの球を投げ合った経験しかない俺が穂浪の相手をするのは無理があった。
少し離れた場所で、飼い主につれられて土手を散歩していた黒い犬が、俺たちの方をじーっと見つめて動かなくなる。
ぜんぜん続かない俺たちのキャッチボールを、手持ち無沙汰になった飼い主までもが見ている気がする。
ボールを拾った穂浪が戻ってくるのを見ながら、俺はマスクを外しかけていた。
「ごめん、もうギブしていい? ほかの運動しない?」
「ランニングとかですか? 十五キロ走れるんですか、海野先輩」
「五キロならなんとか……」
「すんませんって。もっと緩く投げるんで、もうちょっとやりません?」
「ほんとかよ~」
苦笑する穂浪というちょっとレアなものが見られたので、俺はマスクに続いて外しかけていたグローブをついはめ直してしまう。
さすがに周りの目が気になってきて、今度はマスクをつけるのはやめておいた。
穂浪から、日曜日に時間があるかときかれたのは、バイト終わりに連絡先を交換した日の翌日だった。
ファイリングしておいた去年のテスト問題を見つけ出し、写真を撮って送ってやると、お礼の言葉とともに『日曜は何時くらいにこっちに帰ってきますか』と返事がきた。
少し考えてから、俺は『十時か十一時くらい?』と返事を送った。
『結構早いんですね』
そう思っているのは、たぶん穂浪だけじゃない。うちの親もだ。そして多分、じいちゃんとばあちゃんも。
あらかじめ帰りの時間を告げた時、親からは昼くらい食べていけばいいのにと言われていた。
夕方にじいちゃんたちに天ぷらの店に連れて行ってもらえることになったのも、てっきり夕方に帰ってくると思っていた俺が午前に帰ってくると聞いて、気を遣ったにちがいない。
もし穂浪がここで用事に誘ってくれるのなら、予定があるという言い訳をみんなに用意できる。
『なんか用?』
返事を送ると、案の定、穂浪は俺の期待に応えてくれた。
『時間があったらでいいんで、キャッチボールに付き合ってもらえません?』
なんでキャッチボール?
形だけはそうきいてみたけど、理由はたいして重要じゃない。穂浪の誘いを受けることは、もう俺の中で決まっていた。
『今度、妹とキャッチボールしてみようかなと思うんですけど』
『力加減がよくわかんないので、練習台になってください』
『いそがしかったら別の日でもいいです』
穂浪は俺の野球レベルが、六歳の妹と同じくらいだと思っているらしい。ちょっと俺を下に見過ぎじゃないか。
でも俺の不純な動機はべつとして、前に妹とどう接したらいいかわからないと言っていた穂浪が、自分から行動を起こそうとしているのは応援してやりたくもあった。
俺はすぐにオッケーの返事を送って、今日は実家で朝ご飯を食べてすぐに家を出てきた。
前から早く帰ると伝えてあったのに、親はもちろん、兄ちゃんまでもが二人きりのタイミングで『もう帰んの?』と声をかけてきた。
『父さんと母さん、あんま言わないけど、もっと涼に帰ってきてほしいって思ってるよ』
真正面から、困ったように笑いかけてきた兄ちゃんは、もう俺より身長が高かった。
同級生の誰よりも小さくて、もしかして俺の方が大きいんじゃないかな、と錯覚した過去があるのがうそみたいだ。
俺は昔、兄ちゃんを見るのが怖かった。病気で皮と骨だけになるほど痩せ細って、棒きれみたいな手足では立つこともできない姿から、いつも少しだけ目を逸らしていた。
『じゃあ、そっちが来てくれたらいいじゃん』
初めて兄ちゃんに八つ当たりじみたことを言えたのは、兄ちゃんにあの頃の面影がちっともなかったからだ。
ちょっとくらいひどいことを言っても、兄ちゃんは傷つかない気がした。
それくらい、今はもうどこにでもいる、ただの大学生にしか見えなかった。
兄ちゃんは口を開いて、何か言いかけた後、すぐにやめた。
『一理ある』とちょっと寂しそうに笑ってから、あっさりと引き下った。
そのやりとりで俺が得られたのは、喉元のあたりに異物がつっかかったような違和感だけだった。言いたいことを言えば、すっきりするだろうと思っていたのに、ちっとも満足できなかった。
実家を出てから電車に乗り、最寄り駅に着いた俺は、そのまま歩いて近くの河川敷に向かった。
土手にある階段を上って、一番てっぺんから下を見下ろすと、ちょうど階段の一番下で、穂浪が持ってきた道具とクーラーボックスを下ろしているところだった。
そのまま穂浪と合流してキャッチボールを始めて、十五分くらいが経つ。
穂浪は今日も午後から麦丸でバイトに入っているので、長くても数時間程度を一緒に過ごすだけになりそうだ。
履いてきたスニーカーは、もういい感じに土に汚れ始めている。少なくともこれで、じいちゃんとばあちゃんだけは友達と約束があるという話が、うそではなかったと思ってくれるはずだ。家族よりも、友達と過ごす時間の方が楽しい時期なんだろうって、納得してくれるはずだ。
「じゃあ、もう一回お願いします」
「ゆっくりだからな!」
俺が頼むと、穂浪が頷いて野球ボールを投げてくる。
いやだから、そのガチめのフォーム怖いんだって。
とっさに身構えたけれど、明らかにさっきまでと比べてボールの速度は落ちていた。
足を踏ん張って、きれいな曲線を描いて落ちてくるボールを待ち構えていると、あっさりとグローブの中にボールが飛び込んでくる。
「いいじゃん。これならとれるよ」
穂浪に笑いかけてから勢いよく投げ返したボールは、見事に地面に直撃し、あらぬ方向に転がっていった。
「どんまいです」
俺が「げ」と呟いた時には、穂浪はもう駆け出してボールを拾いに行ってくれていた。
そこからはまた穂浪が投げ返して、俺が大暴投したのを穂浪が走って取りに行くという応酬が続く。
俺はその場から一歩も動いていないのに、穂浪はあちこち動き回っていてかなり大変そうだ。
「いい運動になりました」
「それ嫌味?」
さすがに息があがってきた穂浪を見て、休憩を提案すると、穂浪はすっきりとした顔で呟いた。
「や、でも本当にいい勉強にもなりました。妹とやるならもうちょい加減した方がいいのかもなとか。あちこち飛ばす可能性も考えた方がいいんだなとか」
「悪かったな」
俺を責めもせずに大真面目に考察されると、さすがに走り回らせたことは謝るしかない。
「なんだかんだで穂浪って、妹のこと好きだよな」
「シスコンじゃないです」
二人でグローブを外しながら、階段の方へと向かっている最中に話しかけると、穂浪は間髪いれずに言い返してきた。
その言葉の切れの良さに、俺は思わず吹き出してしまう。
「シスコンなんて言ってないじゃん。妹のことが好きなんだなって言っただけだろ」
「シスコンじゃないです」
なるほど、シスコンなんだろうな。
妙にむすっとしている穂浪を見ながら、俺は勝手に納得する。
穂浪はすっかり黙り込んでしまったけれど、気まずさは感じないので放っておいた。
穂浪は無言のまま、階段の一番下に置いてあったクーラーボックスに向かった。
しゃがみこんでクーラーボックスを開ける穂浪の横から、俺は両膝に手をついて中を覗き込む。
てっきりスポーツドリンクが入っているのかと思いきや、一番上には白い箱が詰まっている。穂浪が箱を慎重に持ち上げると、その下からは保存容器が出てきた。さらにその保存容器の下からは、半分凍らせたスポーツドリンクが。
穂浪は保存容器を持ち上げると、俺を見上げて遠慮がちに口を開いた。
「海野先輩。実はうちの母さん、からあげの揚げ王で」
「お母さん王様なの?」
穂浪の口から出た意味のわからない単語に思わずつっこんでしまうと、穂浪はうんざりした様子で顔を顰める。
「いや、揚げ王知りません?」
俺はそこでやっと、穂浪が言っているのが『からあげの揚げ王』という、からあげ専門店の名前だと気が付いた。
でかいショッピングモールにしか入っていないうえに、うちではあんまり縁のない店だから、すぐにはわからなかった。
「うちの母さん、揚げ王で働いてるんですけど。今日、先輩に会うって言ったら、せっかくだから持っていけって渡されて」
「スポドリが入ってたわけじゃないんだ」
「スポドリだけにしてはでかいでしょ」
穂浪がクーラーボックスに視線をやるのを見て、それもそうだと思わず笑ってしまった。
店の名前を忘れておいて言うのもなんだけど、『からあげの揚げ王』は前から少し気になっていた。ただ、店が入っているショッピングモールまでは距離があるうえに、持ち帰り専門店だから、友達と行っても立ち寄る機会がなかった。
「これ持ってくるために、チャリにクーラーボックス乗せてきてくれたの? すごいうれしいんだけど」
朝の兄ちゃんとのやりとりから、ずっと心の片隅でわだかまっていたものが途端に消え失せていくのがわかった。
だけど俺のテンションが上がれば上がるほど、穂浪の反応は鈍くなっていく。
「でもこれ、昨日の売れ残りなんで」
「俺、気にしないよ。あ、もしかして売れ残りって、部外者が食べるのはよくない感じ? 俺食べるのやめておこうか」
「いや食べていいんですけど。嫌じゃないですか? あと暑い時期だから、保冷剤で冷えまくってるんですけど」
「一日くらい大丈夫だって。冷えてても平気だし」
穂浪はしばらく黙り込んだ後、「……じゃあ」と保存容器の蓋を開ける。
小さめの容器だったけれど、中にぎっしり詰め込まれたからあげに俺は歓声をあげた。
クーラーボックスの中から、スポドリと袋に入った紙皿と割り箸を出すのを手伝って、二人で階段に座り込んだ。
「俺、言ったんですよ。売れ残りとか恥ずかしいからやめろって。でもうちの親、ぜんぜん話きかなくて」
「俺にとっては穂浪の親がそういうタイプでラッキーだけどな。おかげで揚げ王のからあげにありつけたし」
口に運んだからあげは確かに冷え切っていて、食感も落ちていたけど最高にうまい。
にんにくが利いていて、やみつきになる味だ。これだけ外が暑いと、冷たいからあげもなかなかいける。
穂浪はため息交じりに「昔っからこんな感じなんです」と続けた。
「俺、中間考査の成績かなり悪くて。そしたら親が、野球やめたのになんでそんなことになってんのってすごい怒ってて。この前、海野先輩にテストの問題を送ってもらったじゃないですか。もうあんまりにもうるさいから、とりあえずそれ見せて、これがあるから次は大丈夫って誤魔化したんですけど」
いやそれって本当に大丈夫なのかな。だめだったら次はもっと大変なことになりそう。
心配だったけど、めずらしくよく喋る穂浪の話を止めたくなくて、俺はからあげを頬張りながら頷いておく。
「そしたら今度はすごくいい人がいるんだなとか、なんて先輩だとか、詮索がすごくって」
「詮索って。穂浪のことが心配なんじゃない?」
穂浪も親に対して、嫌悪というほどの感情はないのか「まあ、はい」と頷く。
「それでまあ、世話になってるんだから、からあげ持ってけって言われて、今の状況です」
めちゃくちゃおもしろい家族だ。
会ったこともないのに、情景が目に浮かぶ。
勝手なイメージだけど、穂浪がこれだけ淡々としていると、周りの家族はそれくらい騒がしい方がちょうどいいんじゃないかな。
穂浪の家族の厚かましさが、少しだけ羨ましい。羨ましいっていうのは、ちょっとちがうかもしれない。
うちはみんなが互いに気を遣い合っていて、相手に深く踏み込めない。だからうちの親が、穂浪の親みたいな感じだったら、俺の家はどんな風だったのかなってちょっと想像してしまった。
からあげがなくなったタイミングで、穂浪がクーラーボックスから白い箱を取り出した。
何か入っているなとは思っていたけれど、その箱の存在はすっかり忘れていた。
「海野先輩。ケーキもあるんですけど、食べますか」
思いがけない言葉に、俺はぽかんと口を開いた後、「穂浪!」と思わず声を張り上げ、自分を指さした。心臓のあたりが、じわっと熱くなるのがわかる。
「俺ね、今日が誕生日なんだよ」
「知ってますけど」
「やっぱり!? 無表情でサプライズすんなよ、泣けるじゃん。買ってきてくれたの?」
「まあ、はい。そこのケーキ屋で。食べるの好きなのは知ってますけど、そこまで喜ばれるとは思ってませんでした」
穂浪は俺の顔をじっと見つめた後、「泣きます?」とたずねてきた。
「泣くかも」
「うそっすね」
ふと表情を緩めた穂浪がものめずらしく、俺はじっと見入ってしまう。今日は穂浪のいろんな顔が見られる日だな。
「見過ぎでしょ」
たぶん、俺がケーキの箱ばっかり見ていると思っているにちがいない。穂浪は呟きながら、手早くケーキの箱を開ける。
穂浪を見てるんだよと言うか迷って、結局何も言わなかった。
中から出てきたのは、いちごが載ったシンプルなショートケーキだ。
俺たちはケーキに巻かれたフィルムを摘まんで、「落ちたらやばい」と騒ぎながら、慎重に紙皿に移し替えた。
「どうぞ」
穂浪から渡された紙皿を、俺は両手で受け取って「ありがと」と呟いた。
ケーキ屋さんがつけてくれたプラスチックのスプーンが入った袋を開けている最中、穂浪が不意に切り出した。
「あの先輩。俺、中学まで野球やってたんですけど」
「この前、バイトの後にも言ってたね」
ケーキ皿を片手に、手を止めてしまった俺の横で、穂浪はまっすぐ前に視線を向けていた。
ずいぶん離れた場所で、川の水面が太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
穂浪は「はい」と相槌を打ってから続けた。
「わりとまじめにやってて、寝ても覚めても野球野球野球って感じでした。家族も結構協力的だったんです。妹も……、栞里も家に一人にできないから、試合がある時は応援に来てくれてて。でも嫌な顔一つしなかった」
「うん」
「でもうち、あんま金ないんです。そういうこと、親から直接言われたことはないんですけど、見てたらなんとなくわかるじゃないですか。で、うちで一番金かかってんのは、俺の野球かもなって思うようになって」
穂浪の言うことは、俺にも覚えがあった。
俺の場合は、家族に重い病気の兄ちゃんがいたり、じいちゃんとばあちゃんの家で暮らしていたりすることが、周りとちがうとなんとなくわかってしまうことだった。
穂浪がお金の面で家の負担だったというのなら、じいちゃんとばあちゃんの人生の負担は俺かもしれない。
「野球は続けていいって言われてたんですけど、ほかの先輩から高校に入ると、親ももっと大変になるって聞いてやめました。今までも大会の送迎とか、合宿の付き添いとか、さんざんやってもらってましたし、プロになる実力がないのもわかってたんです。何にもなれないなら、そこに家族全員の時間を費やす必要ないなって」
「そっか」
「はい。でも俺が野球やめたことで、家の中がスムーズに動いているのがすっげえわかるんですよね。弁当に入ってるウインナーがちょっといいのに変わってたりとか、父さんはやめてたタバコをまた始めたり、母さんは顔色よくなっているし、あと栞里がなんかの拍子に親に言ったんです。『お兄ちゃんが野球やめたから、今度はしおちゃんの番ね』って」
「どういうこと?」
「土日を俺の野球の応援に使ってた分、今度は自分に構えって意味で」
穂浪はふっと息を漏らした。苦笑する雰囲気があったけど、それはけっして嫌な類のものじゃなかった。
「なんかそれはそれでムカつくんですよね。俺は俺なりに一生懸命やってたこと、本当は家族全員が迷惑だったんだろうなって」
晴れやかな声とは正反対の内容が、穂浪の口から語られる。
俺はなんて声をかけていいかわからずに、穂浪を見守っていた。
「それで高校に入ったら、バイトを探し始めました。やることなかったし、じゃあもうバイト代もぜんぶ家に入れて、今までの迷惑料としてちょっとでも払ってやろうって捻くれてました。でもいざ渡そうとしたら断られるし、迷惑料ってなんだってブチギレられて大げんかです」
それはたぶん、怒られる。
でも俺は、そう言いたくなる穂浪の気持ちもわかる気がした。
「金も受け取ってもらえないなら、バイトも辞めようかなって考えるようになりました。でもそういう時にかぎって、海野先輩がいちいち俺のこと褒めるんですよね」
「え? 俺?」
突然出てきた自分の名前に、思わずフォークを握りしめる手が強くなる。
穂浪はそっけない仕草で頷いた。
「穂浪がいてくれてよかったとか、次もよろしくとか。お世辞なのはわかってます。店の人、全員そういう感じのことさらっと言うし。でも初めて海野先輩に言われた時、無性に効きました。それで俺、この場所でもうちょっとやっていこうかなと思って、ここにいます」
俺は開きかけた唇が震えて、何も言えなくなった。
遠い記憶の片隅で、『涼くん』と俺の名前を呼ぶ女の人の声が蘇ってくる。
病院の一室で、俺はテーブルの上に広げられたパンフレットを見せられていた。
両隣には父さんと母さんが座っていて、正面にいる女の人が、ひらがなで書かれたパンフレットの文字を指で追いながら、丁寧に言い聞かせてくる。
『涼くん、あのね。これからお兄ちゃんが入院するので、お母さんとお父さんが涼くんのそばにいられる時間が減ってしまうかもしれません。でもね、それは涼くんのことを忘れてるわけじゃないんだよ。絶っっ対に忘れたりはしないからね。涼くんのこともとっても大事なんだよ』
もう顔も覚えていない女の人が、俺にそう言った。
隣では母さんがすすり泣いていて、肩には父さんの手が回されていた。
その手の熱さにも、噛みしめるように言われるひとつひとつの言葉にも、うそは感じられなくて、俺は不安を覚えなかった。
俺は掠れそうになる声を無理矢理絞り出して、「そう」と息をついた。
「俺そんなこと言った?」
「言いました」
本当は言っていたのは、覚えている。
でも店長の受け売りで言ったわけじゃないことは忘れていた。
それにちょっと動揺して、俺は適当に誤魔化そうとしてしまった。それに穂浪は嫌な顔一つしなかった。
「多分そうだろうなって思ってました。でもこれは、俺が勝手に自分の中で大事にしてることだから、べつにいいんです。なんていうか今日のは、俺なりのお礼です。先輩のおかげで、あれ以上腐らずにすんだので」
「覚えてないけど、うれしいよ」
そっけない物言いが、妙に心に響いて、俺はなんとか声を絞り出した。
一度、覚えていないとうそをついてしまった手前、知らんぷりを続けてしまったけれど、そのあとはなるべく素直な気持ちを口にする。
「俺も俺だけが大事にしてることってあるから。たぶん今日も、そういう日になるんだと思う」
俺も穂浪と同じはずだった。
あの日の思い出があったから、俺は腐らずにすんだはずだった。
だから、兄ちゃんに付きっきりの両親を見て、自分からじいちゃんとばあちゃんの家に行っても平気だと言ったはずだった。
なのに、今年の誕生日にふと思ってしまった。
次の日、学校や仕事があるからという理由で、俺の誕生日のお祝いは土曜日に前倒しにされてしまうんだなとか。
兄ちゃんの入院にはいくらでも付き添っていたくせに、俺に家に帰ってこいと言うばかりで、あっちが来てくれることはないんだなとか。今まではちっとも思わなかった些細なことが目についてしまった。
「ならないですよ」
俺が慎重に選んだ言葉を、穂浪は小さく笑った。
思いがけない冷たい反応にびっくりしていると、穂浪は言い切った。
「俺は今日を忘れないんで、海野先輩だけの特別な日にはならないです」
思わず肩に入っていた力が抜けて、俺も笑ってしまった。
穂浪の飾り気のない言い方が、かえって本当のことを言ってくれているのだと信じさせてくれる。
「海野先輩、誕生日おめでとうございます」
穂浪がじっと俺を見つめて「話が長くなりましたけど、どうぞ」とケーキを食べるように促された。
やわらかい生クリームとスポンジにフォークを埋める瞬間、俺はどうしようもないほど優しい気持ちになれた。
うっかり泣いてしまって、ケーキが塩味になっていたらどうしようとか思ったけれど、口に運んだケーキは普通に甘い。
少しぬるくなってるなと考える余裕さえある。俺はもう簡単に泣く年じゃなかった。でも泣けないことが嫌じゃなかった。
泣いているよりも、穂浪がしてくれたことを喜んでいられる自分の方が好きだ。
「今までに食べたケーキで一番うまい」
本気でそう言ったのに、穂浪は涼しい顔のままで、俺が無駄に誇張してるみたいになる。
気にせずに、次々とケーキを口に放り込んでいると、穂浪もやっと手を動かし始めた。
「うまい?」
「はい」
俺が買ってきたケーキじゃないのにたずねると、穂浪は律儀に答えてくれる。
穂浪は一口が大きいせいで、三分の一くらいが一気に消えてしまっていた。
「俺、お客さんが喜びそうなことはわからないけど、海野先輩が喜んでくれそうなことならわかります」
いちごを一旦、紙皿の端によけながら、穂浪はしれっと言う。いちごは最後派なのかな。
俺は最後まで置いておこうとして、結局途中で食べたくなるタイプだ。そっとフォークでいちごをすくいながら、穂浪の言葉の続きを待つ。
「案外、普通なことで喜んでくれますよね」
確信を持った言い方に、口の中に含んだいちごの甘酸っぱさが急に効いてきた。
思わずきゅっと唇を引き結びそうになったけれど、すぐに「そうだよ」と言い切る。
でもそれを言えるのは、穂浪だけなんだよ。
