アリスは醒めない夢をみる。





「…ん」



カーテンから漏れ出る朝日によって、目が覚める。
ゆっくりと瞼を開けた先に広がる天井は見慣れないものだったが、だからといって何か思うわけでもなく。

私はさっさとベッドから出ると、昨日着ていたワンピースに早速袖を通した。

揺れるワンピースから、ふわりと微かに香る柔軟剤の香りが私の鼻をかすめる。
昨日丸一日着ていたはずのワンピースが、どうしてこんなにもいい香りで、まるで洗いたてのような状態なのだろうか。

そんな小さな疑問を持ちながらも、私は昨日も使った洗面台へと向かい、いつものように顔を洗い、髪をとかし、慣れた手つきで身だしなみを整え始めた。



「ふぅ」



洗面台にある大きな鏡に映る私を見て、大きく息を吐く。
鏡に映る私はいつも通りで、昨日あんな悪夢を見た割にはいい顔色をしていた。

白ウサギが悪夢から起こしてくれたこと、その後、また悪夢を見なかったこと、この2つのお陰で、昨日は疲れていたこともあり、ぐっすり眠れたのだろう。
だから顔色もいいのだと思う。

そこまで考えて、私はふと、昨日の白ウサギの言動について、考え始めた。

白ウサギは一体何がしたいのだろうか。
あの口ぶりからして何かを知っているような感じだったが、何故かそれを私には教える気が全くなさそうな感じだった。

勝手に追いかけて来たのは私だが、白ウサギが私をここへ連れて来たようなものなのだから、少しくらい教えてくれたっていいのに。


いくら考えてももちろん答えが出るわけでもなく、身だしなみを整えた私は、とりあえず扉を開けて廊下へ出た。

白ウサギのことも気になるが、今日はハートの女王とクロッケー大会だ。

今日1番のミッションは、まずは狂気のクロッケー大会を中止させることだ。
それから白ウサギのことを探しても決して遅くはないだろう。



「すぅ、すぅ」

「…?ええ?」



朝ごはんも兼ねて、お茶会へと向かっていると、廊下の端っこで朝から眠りこけているヤマネを見つけ、私は目を見開いた。

まさかこんなところで熟睡しているとは。
本当にヤマネはどこででも眠れるらしい。



「ちょっとヤマネ!?何で朝からこんなところで寝ているの!?起きて!」

「ん……アリス?もう少しだけ寝かせて……」



ヤマネの体を軽く揺さぶる私の声に何となく反応するヤマネだが、起きる気はゼロで。

本当によく寝るよね。
こんなところで寝てたら風邪引くし、どうしたら起こせるのかな。

うんうんと考えてはみるものの、なかなかヤマネを起こすいいアイディアが思い浮かばない。
だが、その考えの中で、私はふと、三月ウサギがヤマネを起こす為に出していたヤマネにとっての究極のパワーワードを思い出した。



「チェシャ猫が。チェシャ猫がいるよ」

「ええ!?何だって!!?」



ヤマネの耳元で思い出したパワーワード〝チェシャ猫〟を口にすれば、先ほどの寝姿が嘘かのようにヤマネがその場から飛び上がる。



「どこ!?どこなの!?ねぇ!アリス!アイツはどこ!!?」



そして首を左右上下動かせる限りに動かし、チェシャ猫を見つけようと怯えた様子で必死に探し始めた。



「チェ、チェシャ猫がいるのはこのお屋敷の中であって、今現在ここにはいないから!ごめん!落ち着いて!ヤマネ!」



そんなあまりにもパワーワードが効きすぎているヤマネを見て、流石に可哀想だと思った私は、今ここにチェシャ猫はいないことをヤマネに慌てて伝える。

昨日も見ていたからわかっていたが、いざ怯えている姿を見るとすごく悪いことをした気分になる。
いや、気分ではなく、本当にヤマネには悪いことをしてしまっているのだけれど。



「な、何だ…、よかった…」



私の言葉を聞いたヤマネは緊張から一気に開放された様子で、ヘナヘナと風船から空気が抜けていくみたいに安堵の息を吐いて膝から崩れ落ちた。

よし…とりあえずは落ち着いたみたい。




*****




「目、覚めた?」

「あぁ、うん。覚めたよ。最悪の目覚め方だったけど」



数分して落ち着いて、ついでに目も覚めたらしいヤマネと共にこの広いお屋敷の中を共に移動する。

本人曰く目は覚めているらしいが、それでも私から見れば、目が開いているだけですっごく眠たそうな顔をしていた。
何度もあくびはするし、足取りはとっても重そうだし、いつまた寝始めてしまうのか内心ドキドキだ。

あの先程ヤマネを起こした〝チェシャ猫起床法〟はヤマネにはあまりにも悪すぎるので、もうやりたくない。

私の良心が痛む。



「そう言えば何でアリスは元の世界への帰り方を知りたいの?」



突然、ヤマネが興味があるのかないのか全く感情の読めない無表情で私に問う。



「え?えー、えっと、……ヤマネも1日の終わりには自分の家に帰って休みたいでしょ?それと同じで私も休む時くらいは慣れ親しんでいる場所に居たいんだよ」



ヤマネの突然の問いに、戸惑いながらも、私は思ったことを口にした。
すると、


「ふーん。アリスって変だね」


と、変なものでも見るような目でヤマネに見られてしまった。

え?私、そんな目で見られるようなこと言いましたっけ?



「へ、変かな…?帰りたいものじゃない?」

「別に。僕は寝られればどこでもいいから」

「……ヤマネの基準の甘さでしょ」



ヤマネの相変わらずのお眠り第一思考に呆れて笑ってしまう。

ヤマネの寝られる場所なんてこの世界全てといっても過言ではない。

だって、廊下の端っこで爆睡する子ですよ?



「僕が良ければそれでいいんだよ。アリスは今ここに居たくはないの?だから帰り方を知りたいの?」

「違う!それは断じて違う!ここはとっても楽しくて、できればずっと遊んでいたい所だよ!」



まるで絵本の不思議の国のアリスのアリスのように、様々な事件に巻き込まれながらもどんどん物語は進んでいく。

そんな体験他ではできない。
ここだけの特別だ。



「私は〝アリス〟じゃないけれど、ここでなら本物の〝アリス〟になっていつかハッピーエンドを迎えられる気がするんだよね」



そうそれはまさに絵本の中の世界のように。



「ふーん。じゃあ、やっぱりアリスは変だよ。どうしてそんなにもここが好きなのに、帰り方を知りたいの?僕なら好きな夢を見た時は、例えそれが僕の世界じゃないのだとしても覚めたくない、帰りたくないって思うよ」

「これは夢じゃなくて現実だからね……」

「じゃあ、アリスはアリスを待つ誰かの為に帰りたいとか?」



ヤマネが尽きない疑問を不思議そうに私にぶつけ続ける。
その姿はまるで昨日の私自身を見ているようだ。



「私を待っている誰か?」



それは一体誰だろう。
ヤマネの疑問に答えようと必死で頭を回転させる。

でも…。

誰も……、それどころか何も頭に思い浮かばない。

私は榊原アリス、ごくごく普通の女子高生だ。
家族だっているし、学校の友達だっている。

なのに何故か家族の顔も友達の顔も思い出せない。

私はこの間まで一体家族や友達とどんな生活を送っていたっけ?



「気持ちが悪い」「何でそんな色なの?」「普通じゃない」「化け物」「近寄るな」「こっち見んな」「お前なんて生まれて来なければよかったのに」



考えても何も浮かばないと思えば、昨日の悪夢が鮮明に脳裏に浮かんでしまう。

あぁ、何で今、昨日の悪夢を思い出してしまったのだろうか。



「っ!?アリス!?」



何も思い浮かばないどころか、嫌な悪夢を思い出してしまった私をギョッとした様子でヤマネが突然見つめる。

…な、何?



「ど、どうし…っ」



疑問を口にしかけたところで、私はヤマネの表情の意味をすぐに察し、言葉を詰まらせた。

声に出すまで気づかなかったが、私の声はひどい鼻声で、頬にもぼろぼろと涙が伝っている。
そう、私は今、ヤマネがびっくりするほどぼろぼろと泣いていたのだ。



「な、泣かないで、アリス」



涙が何故か止まらない私の頬をペロッと心配そうにヤマネが舐める。

ん?舐める?



「ヤ、ヤマネっ!?へ!?」



突然のヤマネの行動に、私は驚きと恥ずかしさで頬を赤く染め、叫んだ。

泣いているどころではない。



「なっ、何で?」

「え?何でって……泣いていたから?」



口をパクパクしている私の頬をもう一度不思議そうにヤマネがペロリと舐める。
そして私の涙が引っ込んでいる様子を見て、「うん、もう大丈夫だね」と安心したように微笑んだ。

別の意味で大丈夫じゃないことを伝えたいのだが、どうすればいいのだろうか。



「アリスが何を考えているのか分からないけど、僕はアリスが好きなことを好きなだけすればいいと思う。アリスがここを好きだと思うならここを帰る場所にすればいいと思うし」



ヤマネが今度は質問攻めではなく、自分の意見を私に伝える。
その言葉は、今のどんな私でも肯定するような優しい言葉で。



「ありがとう、ヤマネ」



優しいヤマネの言葉に心を暖かくしながらも私は笑顔でお礼を口にした。

楽しいことも大切だけど、その楽しいことと同じくらいに知りたいことが私にはたくさんある。
つい先程まではこの世界への疑問しかなかったはずなのに、今では私自身でさえも疑問の塊だった。


ーーー全ての答えはきっと白ウサギが知っているはず。


何の根拠もない考えだったが、何故かこれが当然の答えのように感じずにはいられない。
狂気のクロッケー大会を阻止したあとは必ず白ウサギ捕獲大作戦決行だ。

ヤマネと共に廊下を歩きながら私は本日の予定を黙々と頭の中で立てるのであった。