アリスは醒めない夢をみる。





「はぁ」



初めこそ、この壮大な世界に興奮したし、感動もした。
だが、いざ前へ進むとなると、あまりにも広すぎる世界にため息が出てしまう。

もう何時間歩いたのかわからない。

白ウサギに呼びかけても返事はないし、何よりも永遠と景色が変わらないので、自分がどこまで進んでいるのかもわからない。
扉ももうとっくに見えなくなってしまっている。

流石に疲れた。
帰りたい。

ふと帰ることを考えたのだが、そういえば帰り方が全くわからないことに気がついた。
何も考えずにここまで来てしまったが、帰りはどうしたらいいのだろう。

確か絵本の不思議の国のアリスでは、何やかんやで夢オチでした、目が覚めたらお姉ちゃんの膝の上でしたって話じゃなかったっけ?
これも夢だとして帰りたくなったら目覚めてしまえばいいのかな?

夢ならばと思い、頬をつまんでぐーっと思いっきり引っ張ってみる。



「痛い」



痛みを感じるということはここが夢ではなく、現実だということなのか。
夢ではないのならますます帰り方がわからない。

白ウサギを追いかけるよりも帰り方を深く考え始めていた時だった。



「あっれー?人形が動いてる」



どこからか可笑しそうに笑う声が聞こえてきたのだ。



「……?誰かいるの?」



どこから声が聞こえたのかわからず辺りを見渡す。

誰かが居ればそれは大いに助かる。
白ウサギの行方やこの不思議な世界からの帰り方など聞きたいことがたくさんある。



「返事をして!!誰かいるの!!?」



なかなか辺りを見渡しても誰も見当たらないので、今度は大きな声で誰かに呼びかけてみる。
するとドスンッと突然上の方から大きな何かが降ってきた。

いや、何かではない。

降ってきたのは、ピンクと紫の服を着た派手な見た目の美少年だった。

ふわふわのピンクの髪には紫の猫耳。



「アナタもしかしてチェシャ猫?」



私が知っているチェシャ猫とは随分身なりが違うが、色や猫耳、あと何よりそのニヤニヤしている表情が、いかにも私が知っている不思議の国のアリスのチェシャ猫にそっくりだったので本人に聞いてみた。
ちなみに私の中でのチェシャ猫はそもそもこんな綺麗な美少年ではなくて、ただの色の派手な猫だ。



「あれれー?俺のこと知ってんの?喋るお人形さん?」



チェシャ猫が私の言葉を聞き、にんまりと笑う。



「知ってる。あと私は人形じゃない」



そんなチェシャ猫に私は人形ではないことを真剣な表情で伝えた。

先ほど聞こえたチェシャ猫の声も「人形」と、私のことを言っていた。
人形ではないのでしっかり否定しないと。



「うっそだー。こんなに小さいのに人形じゃない訳ないじゃん」

「え、ちょ、うわっ!?」



だがしかし、私の言葉はチェシャ猫にあっさり否定されて、更には親指と人差し指で体を掴まれて、持ち上げられてしまった。



「た、高い高い高いっ!」



親指と人差し指だけで持ち上げられてしまった体は、不安定なうえに、今にも下へと落とされそうで、その高さに恐怖心を覚え、どんどん顔から血の気が引いていく。



「あははっ、面白ーい」



怖がる私の姿を見て愉快そうにチェシャ猫が笑った。
なんて性格の悪い猫なんだ!



「おっ、降ろしてよ!!それかしっかり私のこと持って!!」



宙ぶらりんの足がぶらぶらと揺れる様を見ながら、チェシャ猫に私は必死で訴える。
だが、その姿が余計に滑稽だったのだろう。



「嫌。君は今日から俺の人形だから俺の好きにする」



と、何とも楽しそうに否定された。

その楽しそうな表情は喩えるなら新しいおもちゃを与えられた子どものようだ。

人形じゃないってさっきも言ったのに!!

恨めしくて恨めしくてチェシャ猫を睨みつける。
すると、チェシャ猫の左手に見覚えのあるものが見えた。



「ねぇ、チェシャ猫、そのキノコをちょっと見せて?」



チェシャ猫が持っていたものは、おそらく赤と黄色のキノコのようなものだった。
ちらりとしか見えていないが、あれは多分不思議の国のアリスでアリスが元のサイズに戻る為に食べていたキノコだ。



「これ?えー、どうしよっかなー?」



私がキノコらしきものをよく見ようとすると、チェシャ猫はさっとそれを自分の後ろに隠した。

ほんっと意地悪な猫!



「見せてくれたら面白いものを見せてあげる!」



だが、チェシャ猫の性格はここまでのやり取りで何となくわかっていた。
意地悪だけど好奇心旺盛で楽しいことがきっと好きなタイプだ。
でなければ、小さな私を見つけて捕まえて、こんなことなんてしないだろう。



「面白いことー?それって君をこうやってからかうことよりも面白いことなの?」

「え、ってぎゃあああ!!!!?」



私の言葉を聞いて何故かチェシャ猫は私の体を左右にぶんぶん降り始める。

落ちる!落ちる!落ちる!



「たっ、楽しい!たっ楽しいことだから!ほっ保証するぅぅぅぅ!!」



ぶんぶん振り回されながらも必死で言葉を発し、チェシャ猫を説得する。
するとチェシャ猫は少し考えて、



「ふーん。これより面白くなかったらもっと酷いこと……いやいや楽しいことしてあげるから」



と、それはそれは私にとっては怖い笑みを浮かべた。

……恐ろしい。

最悪チェシャ猫がお気に召さなかったら、何としてでもチェシャ猫からは逃げなくては。

恐ろしさを感じながらも、ゴクリと生唾を飲んで、無言で何度もコクコクとチェシャ猫に向かって私はうなずいてみせる。
そんな私を見たチェシャ猫は自分の後ろから楽しそうにキノコを私に見せた。

それは間違いなく絵本で見たことのある気がするあのキノコで。

やったー!これで多分元のサイズに戻れる!



「で、これの何が面白いのさ」

「面白いのはこれからなの!そのキノコ私に一口ちょうだい!」

「……?わかった」



何が面白いのか訳が分からない様子のチェシャ猫が、私に言われるままキノコを小さくちぎって私に手渡す。

これで元のサイズに戻れるはずだ。

私はチェシャ猫から受け取ったキノコを口の中に入れた。
するとシューッと、小さくなった時と同様に謎の音を立てながら、私の体はどんどん大きくなり始めた。



「え?ええ?」



驚くチェシャ猫を他所に、手のひらサイズから元のサイズへどんどんどんどん私の体は大きくなっていく。

そして元の大きさに戻った私を持ちきれなくなってしまったチェシャ猫は、驚きのあまりバランスを崩し、倒れ、その上に馬乗りになるように私は乗っていた。


「元に戻った!」



そんな馬乗り状態よりも、元に戻ったことに感動し、嬉しさのあまり声をあげる。

これで移動が何倍も、いや何千倍も楽!

少し周りを見渡せば、あの小さな扉はたった5メートルくらい先にあった。
やっぱり、小さな体だと全然進めていなかったのだ。



「あはははっ、何これ!超面白い!」



私の下でチェシャ猫が楽しそうに笑う。



「君本当に人形じゃなかったんだね、あぁ予想外過ぎて最高に面白かったよ。ねぇ、名前はなんて言うの?」

「ア、アリス!!アリスよ!!」



チェシャ猫に声をかけられて、改めて気づいたのだが、私は今チェシャ猫の体の上。

流石に恥ずかしくなってきたので、すぐにチェシャ猫の上から降りようとしたのだが、チェシャ猫が腰にサッと腕を回してきたので、そこから身動きが取れなくなってしまった。

な、何で!?



「へぇ、アリスって言うんだ。ねぇねぇもっと面白いもの見せてよ?」



楽しそうに私を見つめてチェシャ猫が笑う。

この状況で美少年に腰を抱き寄せられてドキドキしない女子高生なんているのだろうか。
私はうるさすぎる心臓に心の中で「静かになれ!落ち着け!」と何度も何度も叫び続けた。



「私はね白ウサギを追ってここへ来たの。チェシャ猫は白ウサギがどこへ行ったか知ってる?」



何とか平静を保ちながらも、今聞きたいことをチェシャ猫に質問する。



「あとそれから元の世界への帰り方も聞きたいんだけど」



質問したいことは山積みだ。

白ウサギはどこ?元の世界への帰り方は?ここは一体どこなの?地球の裏側なの?ブラジルなの?
頭の中で質問を整理するよりも早く疑問が口から出てしまう。



「うーん、白ウサギの行方は知らないな。それよりも俺は〝元の世界〟って話の方が興味あるね」



チェシャ猫が私の腰を持ったままスッと上半身を起こす。
至近距離で見つめ合う形になり、改めて私は思った。
なんだこの態勢。



「元の世界って言うのは言葉の通り元の世界だよ。私が生きていた世界。ここはブラジルで合ってる?」



かなり長く落ちていたので、ここは日本の裏側、ブラジルなのかもしれない。
そう思ってチェシャ猫を見つめると「ブラジル?」と不思議そうな表情を浮かべていた。

そのリアクションはブラジルを全く知らないリアクションだ。



「チェシャ猫はブラジルを知らないの?」

「知らないね。聞いたことも見たこともないよ。それはどのくらい面白いものなの?」



不思議に思って聞き直せば、チェシャ猫も不思議そうに私を見つめる。
私とチェシャ猫の会話は全くと言っていいほど噛み合っていない。



「ブラジルは面白いものでも何でもないよ。ブラジルは国だから」

「へぇ。で、国って何?」

「へ?」



1つ説明すれば、また1つ新たな疑問が生まれてしまうことに私は驚き、チェシャ猫をまじまじと見つめる。

国って言葉自体知らないの?



「国は……えっとなんて説明すればいいんだろう……あの簡単に言えば1つの地域といいますか、何というか……」



上手く国の意味を説明する言葉が見つからず、どんどん声が小さくなってしまう。

難しい……。



「よく分からないけどアリスは俺の知らないことを知っているみたいだね、面白いなぁ」



困っている私とは裏腹に興味深そうにチェシャ猫が私を見つめて笑う。



「この世界はとっても狭くて退屈だと俺は思っているんだよね。毎日同じで、いつもなーんにも変わらない。今日が終わったらまた今日が始まるだけ。だからいつも〝ここ〟にはいないアリスを見つけた時、俺、すっごいワクワクしたんだよね」



チェシャ猫がおかしそうに意味の分からないことを私に言う。

何も変わらない?今日が終われば今日が始まる?
明日が来るのではなく?
言葉の綾でそう言っているだけなのか?



「全く同じ1日なんてないはずだよ?よく見れば違うんじゃない?小さな私がここにいたように」

「え?おかしなことを言うね、アリス。全く同じ1日なんだよ。アリスが今日ここにいたことがおかしなことなんだよ」

「?いや、確かに私がいたことはおかしなことになるかもだけど、それでも同じなんて…」

「同じだよ?全部ね」



チェシャ猫と私。
互いが互いにおかしなものでも見るような目を向ける。
私たちは根本的に何かが違うらしい。
話が全く噛み合わない。



「アリス、知りたいことがあるなら帽子屋の所へ行けばいいよ」



首を傾げ続ける私にチェシャ猫は見かねたように私にそう提案してきた。



「あそこはお茶会の会場だからね。この世界の情報ならあそこが一番集まりやすいし、帽子屋は何より頭がいい。俺は帽子屋が話す話が好きなんだ」



チェシャ猫がニンマリと私に笑う。



「まだまだ一緒に遊んでいたいけど、アリスのこと気に入ったからアリスのやりたいことに協力するよ」



どうやら私はチェシャ猫に気に入られたらしい。
笑顔こそ先ほどの私で遊んでいる時の背筋が凍るような笑顔だったが、言葉はどう考えても私に協力的な言葉だった。



「ありがとう、チェシャ猫」

「いいよいいよ。きっと帽子屋ならアリスが知りたいこと、教えてくれるだろうし、白ウサギの行方もわかるかもしれないよ?」



お礼を口にする私にチェシャ猫がやっぱりニンマリ笑う。



「よし、そうと決まれば早速お茶会へ行こう」



チェシャ猫はそう言うと、やっと私の腰から手を離した。
なので、私は急いで、チェシャ猫の上から降り、その場に立った。
そしてチェシャ猫も後を追うようにその場から立ち上がると「俺も一緒に行くから。こっちだよ」と言い、私の手を取って歩き出した。