アリスは醒めない夢をみる。





瞼をゆっくりと開ける。
まず私の視界に入ったのは、見慣れない天井だった。
それから下に感じるのはふわふわのマットレス。
それだけで私は知らない部屋のベッドの上で寝ていたことを察した。

全部思い出した。
私は榊原アリス。この夢のような物語は全て私が望んだことだった。生きることを諦め、自殺した私が。

…私は死んだのか。



「アリス」



目を覚ました私に誰かが優しく声をかけてきた。
この声は…



「白ウサギ」



体を起こして私に声をかけてきた声の主の名前を呼ぶ。

ずっと私は白ウサギを探していた。会いたかった。ここへ迷い込む前からずっと。その白ウサギが今、私の目の前にいる。



「…っ」



気がつくと涙が溢れていた。
真実を知ったことによって、白ウサギへの印象が随分変わった。

私の願いを叶える為に、白ウサギはどれほど頑張ってくれたのだろう。

頑張って頑張ってやっと私に会えた時、私が死にかけていたなんて。
だから白ウサギはたまに泣きそうな、悲しそうな顔をしていたのだ。



「泣かないで、アリス。笑って」



泣き始めた私に対して、白ウサギは泣きじゃくる子どもをあやすように、優しくそう言って笑った。
白ウサギの細く長い指が、私の涙を丁寧に拭う。



「し、白ウサギ、ごめんね」

「どうして謝るの」

「だって、私は白ウサギが頑張っていたのに死のうとした…」

「だから何?」



止まらない涙を拭いながらも、謝る私に白ウサギが今度はおかしそうに笑う。



「あんな形でしかアリスは救われなかった。ただそれだけだよ。肉体が死んでしまっても、魂さえ生きていれば魔法でどうにでもなるし。僕の方こそ遅くなってごめんね」



そして最後はまたあの悲しそうな笑顔を浮かべて、私をまっすぐ見つめた。



「ねぇ、白ウサギ」



私の涙も落ち着いてきたところで、白ウサギの名前を再び呼ぶ。



「何?」

「ここはアナタが魔法で私の為に作り出した世界なんだよね?」

「そうだよ」

「世界が同じ1日を繰り返すのも、同じことしかできない登場人物たちも全て?」

「そう」 



私の質問に白ウサギがにこやかに淡々と答えていく。



「アリスの望みは〝不思議の国のアリスのように冒険したい〟でしょ?だから毎日この世界はアリスの為に〝不思議の国のアリス〟の物語として動いているんだよ」

「その登場人物たちには、私や白ウサギみたいに意思はあるの?」

「もちろん。彼らは知らず知らずのうちに同じことを繰り返しているだけ。ごく一部、アリスと関わることになるやつは流石に知性がいくらかいると思ってそういった制限を緩めているけど」



つまり、帽子屋たちや女王様の行動が自由だったのは、私と共に冒険させたり、時には対立させたりする為、だったのか。
だから関係ないものは、逆に物語を滞りなく進ませる為に自由を排除した。



「この世界の人たちはちゃんと生きているのね」

「そうだね」



大体理解した私に白ウサギがただ頷く。



「さて、ここで選択の時なんだけど」



話を整理し終えて、一息ついていると白ウサギが優しくそう言った。

選択?



「アリスはそれでもあっちに帰りたいと思えるの?」



白ウサギの大きな瞳に私が映る。
そこへ映る私はどんな表情をしているのだろう。

初めはこの世界へ来た時、帰ることが1番の目的だった。だけど今はどうだろう。
本当はあの世界から逃げる為に、私自らこちらに来ることを選んだのだ。



「私はもうあっちでは死んでいるの?」



一度、この世界から目覚めた時、私もベッドも血だらけだった。死のうとしたのだ。そうなっていて当たり前だ。そもそも目覚めたと表現したが、あれが現実だったのか、夢だったのかも定かではない。

だが、私は自分で死のうとした行動はしっかりと覚えていた。



「死んでいるよ」



白ウサギが表情ひとつ変えずそう言い切る。



「アリス、君はもうあちらでは死んだ。君の肉体はもうこの世のどこにもない。魂だけの存在なんだよ」



それでは私に選択肢なんてないではないか。
あちらではそもそも私は生きていないのだ。

魂だけでもあちらに帰ることはできるが、そこまでして、私はあんな世界に帰りたいのか。


ゆっくりと瞼を閉じて、あちらとこちらについて考える。

帰りたかったのは全てを忘れて自分が普通の幸せな女子高生だと思っていた私。
ここへ来ることを望んだのは全てに絶望して生きることを諦めた私。


答えなんてもう出ている。



「…私はここに残りたい」

「…っ!アリス!」



どうしたいか、答えを口にすると、白ウサギは嬉しそうに私に飛びついた。
うわ!と変な声を出しながらも、急に私に飛びついてきた白ウサギを私は何とか支える。



「アリス。僕のアリス。ずっとここへいよう。ずっと一緒だよ。もう離れないからね」

「もちろんだよ、白ウサギ」



白ウサギが本当に本当に嬉しそうな声で、私を離さないと言わんばかり強く抱きしめる。私もそれに応えるように強く、強く、もう二度と白ウサギを離さないように抱きしめ返した。

これでハッピーエンド。

…だけど脳裏に何か、輪郭のない、不確実なものがよぎる。
それが何なのか私にはわからない。
だけど声だけがはっきりと聞こえるのだ。



『アリス!どうして!?どうしてなの!?』

『あの世界は君を壊したじゃないか』

『僕は君を救いたい一心で血の滲むような努力をしてきたんだよ』

『許さない、許さないよ』




『だから、もう一度だよ、アリス』




それは全部白ウサギの光を失った絶望に満ちた声だった。