アリスは醒めない夢をみる。




私の名前は榊原アリス。
日本有数の由緒ある一族、榊原家の娘、だった。

家族は姉が2人と兄が2人。それから両親がいて大きなお屋敷には祖父母や使用人、たくさんの人がいた。


あぁ、だけどそうだった。
あそこにはたくさんの人がいたけれど、私の味方なんて誰一人いなかった。
あそこには私の居場所などなかった。

いや、あそこだけではない。世界中どこを探しても、そんな場所はなかった。

何故なら私の髪が生まれつき色を持たず、日本人でありながら真っ白な髪だったから。
血筋や伝統を重んじる榊原家において、私はただただ異質なものでしかなかった。



「お前なんて産まなければよかった。お前は榊原の恥よ」



物心ついた頃からそう実の母親に言われて生きてきた。

榊原の恥と言われ、なるべく表舞台に私が立たないように幼少期からずっと家に閉じ込められて。

幼い私の世界はあの家が全てだった。

そして、その全てである家の中で、私はいつも孤独だった。



「嫌っ!痛いっ!」



グイッと白く長い私の髪を掴まれて、私は悲鳴にも聞き取れる声を上げる。



「うるせぇな」

「気持ち悪いんだよ」

「化け物」



私を囲って歪んだ笑みを浮かべる兄弟たち。
彼らは毎日私を虐めた。



「はっ離して!」



頭皮と髪の境目が引き裂かれそうだ。

だが、どんなに痛くても実際には、なかなか引き剥がされることはなく、髪と一緒に体が上へと持ち上げられていく。



「気持ちが悪い」「何でそんな色なの?」「普通じゃない」「化け物」「近寄るな」「こっち見んな」「お前なんて生まれて来なければよかったのに」



私に悪意を向けるのは決して兄弟たちだけではない。
両親や祖父母、私の家族と呼べる存在は、全員私を見るたびに私に悪意をぶつけてきた。

終わらない言葉の暴力。
心も体も痛くて痛くて。
抵抗しようともがいても、私にはなんの力もない。
幼い私はただただその暴力を無力にも全て受けることしかできなかった。


…だが、しかし。12歳の春。あの春だけは私は1人ではなかった。



「白ウサギ!」



私と同じ真っ白な子ウサギ。私はその子ウサギに大好きだった絵本、〝不思議の国のアリス〟から白ウサギの名前をもらい、〝白ウサギ〟と名付けた。

この子ウサギの白ウサギは、榊原家の敷地内で弱っていた所を、たまたま私が見つけて、誰にも内緒で保護した子だった。
そして私の部屋でこっそり飼っていた。

白ウサギは名前を呼べばいつも私の元へ駆け寄ってくれた。
この悪夢のような日常で、白ウサギこそが、私の生きる唯一の糧だった。



「白ウサギ、大好きだよ」



誰かに毎日悪意をぶつけられる度に、私は白ウサギに好意を伝え、全て優しいもので上書きされるようにした。何度も何度も白ウサギを愛で、たくさんその白く触り心地の良い体を触った。



「ねぇ、どうしたら私もここへ行けるんだろう」



私は大好きな絵本を読みながら、よく白ウサギにそんなことを話していた。
私が行きたい場所はもちろん絵本の世界だ。

絵本の世界は楽しいことばかり。
どんな困難にあったって最後にはハッピーエンド。



「私も幸せになれるのかな」



もしここが絵本の中の世界だったのなら。私はきっと幸せになれるだろう。
だって今まで読んできた絵本は全てそうだったから。

だけどここは残念ながら絵本の世界ではなかった。

幸せになりなかった私の元から、唯一の生きる糧だった白ウサギが、数ヶ月後、姿を消したのだ。


そして私の心は完全に壊れた。


家族や学校の人、あらゆる人が私に悪意を向けた。その悪意は言葉だったり、態度だったり、また直接私の体を傷つけるものであったり、様々なもので。
以前までは耐えられたが、一度心の拠り所を知り、失ってしまった私には、もう耐えがたいものへと変わってしまっていた。

完全に壊れたのは、高校生になったあの春だ。


ーーーーもう死のう。


耐えられなくなった私はそう思った。
そしてできるだけ苦しんで死のうと思った。

世界には生きたくても生きられない人がたくさんいることを私は知っていた。
だからせめて自分で死を選んだ私に罰を与えなければと思ったのだ。

誰もが寝静まった丑三つ時。
私は毒を自ら飲んだ。



「は、あはは」



毒を飲んだ時、まず私を支配した感情は死への恐怖でも、自ら死を選んだことへの罪悪感でもなかった。

喜びだ。ただ私は歓喜していた。
それは今まで感じたことのないほどの喜びだった。


あぁ、やっとだ。私はやっと私から解放されるのだ。


それからすぐ全身を激痛が支配した。口からたくさんの血が何度も何度も吐かれた。
もう私は死ねるんだと確信した。

意識が朦朧としていく。
ふわふわと感覚がなくなって、ぼんやりとする。
あとはゆっくりと意識を手放すだけ。
そう思っていたのに。



「あり、す?」



私を呼ぶ誰かの声が私を現世へと引き留めた。

聞き覚えないその声はとても不安そうで。
一体誰が私なんかの名前を呼んだのだろう。



「アリス!」



今度は切羽詰まった様子で私を呼ぶ誰か。そしてその誰かが私の傍までやってきた。



「し、しろ、うさ、ぎ」



それは12歳の春、私が愛して愛してやまなかった子ウサギだった。
あの頃よりも随分大きくなっているし、ウサギなのに服を着ているし、何故か喋るし、ヘンテコで何もかも違うが、はっきりとあの時の子ウサギだとわかる。


あぁ、神様が最期に会わせてくれたんだ。


きっと幻覚だろう。この白ウサギは本物ではない。神様が慈悲の心で最期に見させてくれた幻だ。
それでも私は嬉しかった。
白ウサギは私の唯一の心の拠り所だったから。
私の幸せな世界そのものだったから。

体はもう動かない。言葉だってもう上手く紡げない。「大好きだよ」と伝えてあの頃のようにたくさんたくさん抱きしめて撫でたい。だけどそれはもう叶わない。

何もできない私だったが、瞳からは大粒の涙が溢れて、頬を伝って落ちた。
私はいつの間にかぼろぼろと泣いていた。

 

「大丈夫だよ、アリス」



白ウサギがそんな私を安心させようと、優しい声音で私にそう告げる。
そして真っ白な光が白ウサギを包んだ。

光が消え、現れたのは、真っ白な髪と大きな赤い瞳が印象的な美少年だった。



「僕、アリスの為に魔法使いになったんだよ」



美少年が笑って私の手を握る。



「アリスの望みを叶えるよ」



それから愛おしげに私を見つめた。

何が起きているのかわからない。瀕死状態だとこんな不思議な幻も見てしまうものなのか。


ーーーあれ、私、瀕死状態…だよね?


その異変に私はすぐに気がついた。
あの意識が遠のくほどの激痛がなく、朦朧としていた意識がはっきりとしているのだ。
まるで何事もなかったかのように。



「な、何で」



さらに言葉もはっきりと発することができた。
もしかすると、私が知らないうちに私は死んでしまい、今は幽霊、だとか?



「延命の魔法をかけたんだよ。アリス」



今のこの理解し難い状況に首を傾げていると、白ウサギが口を開いた。



「魔法は何でもできるからね。だからアリスの望みを叶えにきたんだよ。〝不思議の国のアリス〟の世界に行きたいんでしょ?」



微笑む白ウサギの言葉を聞いて私はハッとした。
夢物語だと成長した私自信でさえも鼻で笑い、すっかり記憶の彼方に片付けられていた幼い私の望み。
私でさえ忘れていた望みを白ウサギは何年も何年も覚えていたのか。



「行きたい。でももう死ぬから無理だよ」



とても魅力的な話だったが、今の状態では無理な話だった。
白ウサギは今のこの状態を「延命」だと言っていた。言葉の通り私は今延命されているだけであり、もう死ぬはずなのだ。
そうなることを私が望んで自ら毒を飲んだから。



「大丈夫。あっちはこっちで意識不明の重体でも十分生きていける世界だから。死んでても同じだよ」

「え」



にっこりと笑う白ウサギの言葉に思わず眉間にシワを寄せる。
意味が全くわからない。



「体はいらない。魂さえあれば世界を行き来することなんて簡単だよ。あっちの世界はこっちの世界でいう夢みたいなものだから」

「…なるほど?」



とりあえず頷いてみたが、白ウサギの説明を私は何となくしか理解できなかった。
あまりにも現実味のない、ファンタジーなお話だったからだ。
たが、その白ウサギの全く現実味のない説明を私はよく理解はできていないが、受け入れることにした。
そういうものだと思うことにした。



「何でも思い通りになる夢を見れると思って?で、アリスはどんな夢を見たい?」



可愛らしく首を傾げて白ウサギが私を見つめる。

何でも思い通りになる夢、か。
もし、夢ならば何がしたいか。



「……私であったことを忘れたい。普通の女子高生として生きていて、〝不思議の国のアリス〟の世界で冒険をしたい」



頭に浮かんだことを私はそのまま深く考えず言葉にする。

すると…



「わかった。その望み叶えるよ」



白ウサギは嬉しそうにそう言って右手を上げた。

先程、白ウサギを包んだ白い光が今度は私の部屋全体に広がる。



「次起きたら冒険が始まるから」



眩しい光の中で何とか目を開くと、白ウサギがこちらをまた愛おしげに見つめていた。



「楽しんでね、アリス」



白ウサギのその言葉を最後に、私はプツンと意識を失った。