ギィィィィッと、重みのある低音と共にゆっくりと扉が開かれる。
「うわぁ…」
扉の向こうに広がっていた世界は、絵本そのものの裁判会場で、思わずこんな時だが、感嘆の声が漏れてしまった。
赤と白と黒のみで統一されたおかしな空間。
罪人席には、帽子屋、チェシャ猫、ヤマネの姿があり、裁判長席には大きな座り心地の良さそうな椅子に腰掛けた女王様の姿がある。
「…連れて来たぞ」
「…」
私たちがいるのは、そのちょうど中間あたりで、三月ウサギは裁判会場に入るなり、最悪の機嫌で女王様に声をかけた。
だが、女王様は微笑むだけで返事を一切しない。無視だ。
さらに目も笑っていない。
「アリスよく来たわね、こちらへいらっしゃい」
相変わらず目の笑っていない女王様が、私にそう優しく声をかけ、手招きをする。
「…っ」
なんて恐ろしい笑顔なのだろう。
あまりにも美しく、そして他者の心を恐怖心で支配する女王様の笑みを見て、私は思わずその場で硬直してしまった。
「あら?どうしたのかしら?早くいらっしゃい、私の可愛いアリス」
そんな私を見てクスクスと少女のように女王様が笑う。
いつまでもこうしている訳にはいかない。私の目的は帽子屋たちを助けることなのだから。
私は意を決して、女王様の元へ一歩、また一歩と歩みを進めた。
そして、やっとの思いで女王様の元へ辿りつくと、女王様はそんな私を見て満足げに微笑んだ。
「アナタを待っていたのよ、アリス」
「…」
私はそんな女王様を恐れることなく、まっすぐ見つめた。
恐ろしく、何よりも美しい、この女王様から、何度も言うが、私は帽子屋たちを助けなければならないのだ。
今は怯んでいる場合ではないのだ、と自分を鼓舞する。
「挑発的な眼差し、嫌いじゃないわ」
何も言わず、ただ女王様を見つめ続けるだけの私に愉快そうに女王様はその瞳を細める。
「さて、それでは裁判を始めましょうか」
それから女王様は私から名残惜しそうに視線を逸らすと、裁判会場全体に目を向け、会場にそのよく通る声を響かせた。
ーーーーついに裁判が始まるのだ。
まず最初に口を開いたのは、女王様と帽子屋たちの間に立っていた、身なりの整った中年男性だった。
「帽子屋、チェシャ猫、眠りネズミ、三月ウサギ。彼らの罪状は反逆罪でございます。先日のクロッケー大会の時、彼らはあろうことか我らが崇拝すべき絶対の存在であられる女王様に盾付き、クロッケー大会をめちゃくちゃにしました。女王様、罪深き彼らに判決を」
中年男性は手元にある紙の内容をさらさらと事務的に読み上げて女王様を見つめる。
いやいやいや。
「ちょっと待ったー!」
そもそも有罪か無罪かを決める前に、有罪と決めつけている時点でおかしい。
異議を唱えたのはもちろん私だ。
そもそも有罪か無罪かを決める前に、有罪と決めつけている時点でおかしい。
とりあえず私が帽子屋たちの弁護人として帽子屋たちを弁護しなくては。
「こんな裁判おかしいわ!あんな狂気のクロッケー大会を止めて何が悪いの!?命を粗末にしているあの大会の方がよっぽど悪いと思うけど!」
「こ、小娘!貴様は何を言っているのかわかっているのか!そもそもお前に発言を許した覚えはないぞ!」
「うるさい!許されなくったって発言くらい勝手にするわよ!こっちにもこっちの言い分があるのよ!」
私の言い分に顔を真っ赤にして中年男性が反論する。だが、私もまた怯むことなく、中年男性に言い返した。
「アリス、アナタは本当に可愛らしいわね。先程は子ウサギのように怯えていたのに、今では子犬のようにキャンキャンと勇敢に鳴く。あぁ、観ていて飽きないわ。なんて愛らしいこと」
裁判会場に入った時、この女王様は明らかに不機嫌だった。
だが、今はどうだろう。この状況を楽しそうに見つめている女王様の機嫌は明らかにいい。
〝不思議の国のアリス〟の女王様はどんなことでもすぐ死刑とし、首をはねていた。
しかし、もしかしたら、今の女王様からなら、死刑宣告を撤回させることができるかもしれない。
「アリス」
「…っ!」
状況を見極め、最善の一手を考えていると、私のすぐ後ろから、私にだけ聞こえるように誰かが私の名前を囁いた。
私はこの声に聞き覚えがあった。
声の主を確認する為に、慌てて後ろを振り向く。
すると、そこには私がこの世界に来てずっと探していた人物が立っていた。
「白ウサギ!」
驚きのあまり思わず、その人物の名前を呼ぶ。
「なんて顔しているの?そんなに僕に会いたかったの?」
「当たり前じゃない!アンタには聞きたいことが山ほどあるのよ!」
ふふ、とおかしそうに笑う白ウサギに、私は怒りをぶつける。
説明させたいことが、数えきれないほどあるのだ。
「白ウサギ?小娘、貴様は一人で何を言っている?気でも狂ったか?」
白ウサギに怒っていると、中年男性が不思議そうに…いや、奇妙なものでも見るかのように私を見てきた。
え?なぜ?
「アリス、そのような顔しているけれど、訳がわからないのはこちらの方よ。アナタは今1人で喋っているのだから」
疑問を口に出すよりも先に、表情に出ていたらしい私に、今度は女王様が不思議そうにそう言う。
1人で喋っている?
「何を言っているの?私は白ウサギと話しているのよ?」
彼らには白ウサギが見えていないのだろうか。
不思議に思いながらも私は彼らにそう主張した。
「アリス、ここにいる全員、僕が見えていないんだよ」
「は?」
「そういう都合のいい魔法を今僕は使っているからね」
私の主張に答えたのは楽しそうに笑う白ウサギで。
あり得ない内容に思わず眉を潜めたが、私は少し考えて納得せざるを得なかった。
何故ならここにいる全員が、私のことを不思議そうに、あるいは奇妙なものを見る目で見ていたからだ。
では、何故みんなから姿を隠すことが白ウサギにとって都合がいいのか。
「物語もいよいよ佳境!どうアリス?楽しんでる?」
考え込む私なんてよそに、白ウサギが愉快そうに笑う。
「楽しい?そりゃあ、もちろん楽しかったよ。夢のような時間だった」
「それはよかった」
素直な感想を言えば、白ウサギは何故か嬉しそうに笑った。だが、私の感想はそれだけではない。
「でもね、これが夢だったらよかったとも思う。これが現実なら余りにも酷すぎるから」
全ては物語の中だから許されたものだ。横暴な女王様だって、この世界の命の価値観が低すぎることだってそう。
現実として目の当たりにした時、これを楽しいとは、私は思えなかった。
「でも君はもっと酷い世界から逃げて来たんだよ?」
先程まで楽しそうだったはずの白ウサギの表情が曇る。
それは一体どういうことなのか。
「さあ、アリス。君が望んだ結末を」
だが、表情が曇ったのはほんの一瞬だけで、白ウサギはまた先ほどと同じように楽しそうな笑みを浮かべていた。
そしてそれと同時に私のワンピースのポケットの中に何かが現れるのを感じた。
「何これ…」
ポケットに違和感を覚え、ポケットに触れてみる。触った感じは柔らかい。
意味がわからず白ウサギに聞こうと白ウサギを見ると、そこにはもう白ウサギの姿はなかった。
どこかへ行ってしまったのか、それともここにいる全員と一緒で見えなくなってしまっただけなのか。
疑問しかない。せっかく白ウサギに会えたというのに、今までの疑問の解決どころか、また新たな疑問を残されるとは。
またできてしまった疑問に歯痒い気持ちになる。
「それでは帽子屋、チェシャ猫、眠りネズミ、三月ウサギは反逆罪とし、未来永劫死刑とする。今すぐこの者たちの首をはねよ」
白ウサギと話している間にどうやら裁判は進んでいたらしい。
気がつくと、女王様は、先程の上機嫌が嘘だったかのように、冷たい表情で帽子屋たちにそう告げていた。
「待って!だからそれはおかしいと…」
「よくお聞き、アリス。例えアナタであっても、これだけは覆せないわ。ここでは私こそがルール。私というルールに逆らう者は首をはねられる。おわかり?」
急いで反論しようとしたが、それを力強い女王様の言葉に遮られてしまう。
どうしよう。このままでは本当に帽子屋たちの首がはねられてしまう。
目の前の現実にどんどん気持ちが焦っていく。
だが、私はこの物語の行末を知っていた。物語通りに話が進めば、最後には帽子屋たちを絶対に助けられるはずなのだ。
裁判会場にたくさんのトランプ兵がやってきた。そして空いていたスペースに処刑台を手際よく準備し、帽子屋たちを1人1人連れて行く。
まだ?私はまだ大きくなれないの?
〝不思議の国のアリス〟のラストは、アリスが大きくなり、このトランプ兵たちを蹴散らして終わるのだ。
だから私は自分が大きくなる時を今か今かとずっと待っていた。
だが、私の体は一向に大きくなる気配がない。
〝不思議の国のアリス〟の〝アリス〟は最後にどうやって大きくなったのか。肝心な情報が私にはなかった。
私が読んだ絵本にその描写がなかったのか、覚えていないのかわからないが、大事な情報が今私にないことは確かで。
『さあ、アリス。君が望んだ結末を』
ふと、白ウサギの言葉が頭を過ぎる。
…ポケットだ。
それと同時に思い出したのはポケットの違和感。
急いでポケットに手を突っ込んで〝それ〟を掴んだ私は〝それ〟ポケットから引っ張り出した。
手に握られていたのは〝EATME〟と書かれた、袋に入っているケーキで。
昨日これを食べて何が起きたのか忘れる訳がないだろう。
私は迷わず袋からそれを出すと、それを口に入れた。
「…っ!」
すると私の予想通り、私の体はみるみる大きくなっていった。
そしてここにいる誰よりも私は大きくなり、トランプ兵をはじめ、そこにいる者たちは全員、私から見ると本物のトランプのようなサイズになっていた。
ここからの物語を私は知っている。
「アナタたちなんか、ただのトランプじゃない!」
どこかで聞いたことのあるような台詞を私は吐く。
いや、どこかで聞いたことのあるような台詞ではない。これは実際に私の読んだ絵本、〝不思議の国のアリス〟の主人公である〝アリス〟がそう吐いたものだ。
大きくなった私を見てトランプ兵たちは私に鬼気迫る勢いで一斉に飛びかかってきた。
そして私はそれを蹴散らした。
これで、この〝不思議の国のアリス〟の〝アリス〟の冒険はおしまい。
ここで〝アリス〟はお姉さんの膝の上で目を覚まし、夢の中での冒険をお姉さんに楽しそうに話すのだ。
だけど私は目を覚さなかった。ただただ後から後から湧いて出るトランプ兵を蹴散らし続けた。
私にはその姉はいない。私にはこの物語での私の記憶しかない。私はここで生きた私しかもうわからない。
私は誰?家族は?友人は?
家は?元の生きていた世界は?ここは夢?それとも現実?
ーーーねぇ、私はアリスなの?
たくさんの疑問が溢れた。
溢れて溶けてまた溢れて。それの繰り返し。
それからそのたくさんの思考の中で、ようやく意識が遠のき始めた。
私はやっと夢から覚めるのだ。
『全ては君が望んだままに』
最後に聞こえたのはどこか悲しげな白ウサギの声だった。

